鵠沼地区総合年表
西暦 和暦 記                        事 出   典
  弥生期     鵠沼下藤ヶ谷遺跡、弥生式土器・土師器・須恵器出土 藤沢市史1巻
  弥生期     鵠沼横須賀遺跡(日本精工内)、弥生式土器(完形1943出土)、土師器出土 藤沢市史1巻
  古墳期     鵠沼西宮越遺跡(万福寺付近)、土師器出土 藤沢市史1巻
  古墳期     鵠沼西宮越遺跡(空乗寺付近)、土師器出土 藤沢市史1巻
645 大化 1     東国に国司が派遣される 藤沢市史年表
675 天武 4 10   『日本書紀』に「高倉郡(高座郡)」の名、初出(相模國言、高倉郡女人生三男) 藤沢の歴史
735 天平 7 11   鈴鹿王、叔父=舎人親王の葬事を監護。このころ高座郡土甘郷50戸ほどを賜る 藤沢市史4巻
735 天平 7 ウ11 10 相模国司、相模国封戸租交易帳を作成し中央政府に報告。鵠沼付近を表す土甘(トカミ)郷50戸が見られる 鵠沼1号
808 大同 3     現在の神明宮の位置に延喜式内社石楯尾(イワダテオ)神社創建※位置については別説多し 鵠沼3・34・39号
832 天長 9     石楯尾神社鎮座地に(烏森)皇大(コウダイ)神宮創立。社殿造立 鵠沼3・34・56号
905 延喜 5     現在の鵠沼、辻堂、大鋸、西富が合併され、相模国土甘郷となる。 鵠沼3号
905 延喜 5 8   (烏森)皇大神宮、郷の総社に列せられ、相模国土甘郷総社神明宮と称される 鵠沼3号
914 延喜14     神明宮、総社に列せられる 鵠沼3号
1020 寛仁 4 9   前上総守菅原隆標の一家、相模国唐土が原(湘南砂丘地帯)を越えて帰京[更級日記] 藤沢市史年表
1055 天喜 3     神明宮、社殿を再建造立 鵠沼3・34・56号
1057 天喜 5 11   八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次神明宮に祈願奉幣 列官社
1059 康平 2     菅原孝標女、『更級日記』を著す。父の任国=上総国から上京する途中、唐土が原(湘南砂丘地帯)を通過 WEBsite
1104 長治 1     相模国の住人平景正(鎌倉権五郎)、高座郡の私領を開発、伊勢神宮に寄進を企画→大庭御厨 鵠沼34・56号
1115 永久 3 2 15 松家初代(修験、法印と称す)没 鵠沼1号
1116 永久 4     大庭御厨、国司により正式に認められ、御厨の田畑の検注がなされる 藤沢市史年表
1117 永久 5 10 23 相模国の住人平景正(鎌倉権五郎)、高座郡の私領を開発、伊勢神宮に永代寄進=大庭御厨[吾妻鏡] 鵠沼2・3・56号
1117 永久 5     相模国土甘郷総社神明宮、伊勢神領大庭御厨総鎮守に定められる 鵠沼3号
1118 元永 1     〜1120(元永年間)平景正の子景経、浮浪人を集め荒蕪地を開発、伊勢大神宮内宮に土地を寄進 鵠沼34・61号
1132 長承 1 2 5 大庭御厨司平景継、御厨が相模国司に収公されたことについて大神宮禰宜に訴える 藤沢市史年表
1134 長承 3 ウ12 23 相模守藤原隆盛、太政官の命を受け大庭御厨収公の経緯を述べ、奉免の荘園であることを保証する 藤沢市史年表
1141 保延 7 6   相模の国解文なされる[天養記] 鵠沼2号
1141 永治 1     平景正、大庭御厨の住民が逃散し田畑が荒廃することを訴える 藤沢市史年表
1144 天養 1 9 8 源義朝、大庭御厨に乱入。神人8人死傷、鵠沼郷の魚・大豆・小豆等を奪取[天養記、鵠沼名の初出] 鵠沼15・61・62号
1144 天養 1 10 21 三浦一族1000余騎で再度大庭御厨に乱入・神人6人を殺し、農産物・私財を奪取[天養記] 鵠沼62号
1145 天養 2 1   源義朝、鎌倉より俣野川(境川)を越えて大庭御厨鵠沼郷に不法に侵入[天養記] 鵠沼56号
1180 治承 4 4 10 源頼朝鎌倉に幕府を開いて以来鵠沼は幕府の直轄となる[皇国地誌] 鵠沼15号
1180 治承 4 8 2 大庭景親、宇治より大庭御厨に帰還 藤沢市史4巻
1180 治承 4 9   伊豆に旗上げした頼朝が鎌倉へ討入りの折六本松で大庭三郎景親の軍勢と激戦を交える→六本松供養塚 鵠沼73号
1180 治承 4 10 23 大庭庄司平景義(景能)、大庭御厨の本領を源頼朝より安堵される 鵠沼34号
1180 治承 4 10 26 大庭景親父子、片瀬河原で斬首。処刑者、兄の大庭景義(景能) 藤沢市史4巻
1181 養和 1 7 18 鶴岡八幡宮の御神体の仮殿への引越しに采配を振るため大庭御厨鵠沼神明宮の巫女が呼ばれる[吾妻鏡] WEBsite
1182 寿永 1 1   佐々木高綱、木曽義仲追討の軍陣に加わり上洛の際に砥上原を過ぎる[源平盛衰記] 藤沢市史4巻
1184 寿永 3     那須与一宗高、屋島にて扇の的を射たる弓一張と残の矢を神明宮に奉納、併せて、領地那須野百石を寄進 鵠沼3・34・56号
1185 文治 1 3   那須与一宗高、鵠沼に一社を創建し皇大神宮を勧請、家臣浅間某を看護俸給せしめる[皇国地誌] 鵠沼15号
1185 文治 1 11 17 源頼朝、大庭野で鷹狩り。渋谷重国の館に一泊[吾妻鏡] 鵠沼2号
1185 文治 1     平家物語、平宗盛の東下りのなかに「砥上(トカミ)が原」が見える 鵠沼1号
1186 文治 2 8 ? この頃、西行法師、鎌倉に旅する途中砥上が原を通過、2首を残す[西行物語] WEBsite
1189 文治 5     頼朝、鷹狩りで大庭御廚に来訪、高座郡渋谷重国館に宿泊[吾妻鏡] 藤沢市史年表
1193 建久 4     大庭氏失脚、大庭城一時廃城となる 鵠沼62号
1195 建久 6 8   鵠沼毘沙門堂、修験祐範により開基創建[皇国地誌]※現松本家邸内 鵠沼15号
1198 建久 9   頼朝、八的が原にて、源氏義広、義経、行家以下の人々の怨霊に遭遇[保暦間記] 鵠沼1号
1210 承元 4 4 9 大庭御厨庄司大庭景義(景能)、没 藤沢市史4巻
1211 建暦 1 ?   鴨 長明、飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向し、将軍源実朝と会見する前、砥上が原で固瀬川の潮待ちをする 藤沢市史4巻
1213 建保 1 5   和田合戦で和田一族に与した大庭景兼(景義の子)死去。所領大庭御厨没収 藤沢市史4巻
1213 建保 1     源実朝、『金槐和歌集』。砥上が原で詠んだ「秋風になに匂ふらむ藤袴、主はふりにし宿と知らずや」掲載 WEBsite
1223 貞応 2     『海道記』に「やつまつのやちよのかげに思ひなれてとなみが原に色もかはらじ」とあり 藤沢市史4巻
1231 寛喜 2     鵠沼斎藤家稲荷建立 鵠沼1号
1241 仁治 2 4 3 鎌倉大地震。M7.0。津波由比ヶ浜八幡宮の拝殿を壊す[吾妻鏡] 鵠沼22号
1245 寛元 3     荒木源海(俗名:安藤駿河守隆光)、鵠沼に清光山(鵠沼山)万福寺(浄土真宗)を開基創建[皇国地誌] 鵠沼1・15号
1246 寛元 4     この頃、三河の斎藤一族、鵠沼に來住。神明宮の南方に居を構え、南と称する[現在の藤澤] 鵠沼82号
1257 正嘉 1 8 23 鎌倉大地震。推定M7.0。震源=相模湾。鎌倉の神社仏閣全壊、家屋転倒被害多、山崩れ多[吾妻鏡] 鵠沼22・50号
1279 弘安 2 10 29 冷泉為相の母=阿仏尼、鎌倉へ直訴の旅の最終日に鵠沼付近を通過[十六夜日記] WEBsite
1285 弘安 8 2 22 石上郷、鎌倉の法華堂領となる 藤沢市史年表
1291 正応 4 7 1 鎌倉大雨洪水、人家漂流する[吾妻鏡] 鵠沼22号
1293 永仁 1 4 13 鎌倉大地震、M7.1震源鎌倉。建長寺炎上、寿福寺本殿転倒、大慈寺埋没死者推定23000人位[鎌倉大日記] 鵠沼22・50号
1300 鎌倉期     鵠沼藤原遺跡、土師器・木器・石臼・宋銭出土[藤沢市史1巻] WEBsite
1301 鎌倉期     鵠沼八部遺跡、土師器・石臼出土[藤沢市史1巻] WEBsite
1313 正和 2     神明宮、社殿を再建造立 鵠沼34・39号
1322 元享 2     神明宮、社殿を再建造立 鵠沼3・34・56号
1333 元弘 3 5 18 鎌倉討伐の新田義貞軍、経路の民家に放火しつつ鵠沼付近を通過[太平記] 藤沢市史4巻
1335 建武 2 8 18 足利尊氏の軍勢が「辻堂・片瀬原の合戦」で、北条時行の軍を破って鎌倉に攻め込む[合戦注文記] 鵠沼73号
1411 応永18 10 6 上杉禅秀の乱。上杉(犬懸)持氏・憲基、鵠沼付近を通過して小田原に敗走→敵御方供養塔[鎌倉大草紙] 藤沢市史4巻
1433 永享 1 9 16 関東大地震。M7.1 震源相模湾。鎌倉被害大。寺社損傷、極楽寺塔損傷。余震20日間続く[神明鏡] 鵠沼22・50号
1452 享徳 1     大庭御厨の地頭がこの頃結城氏となり、上杉伊予守がこれを押領[廳宣] 鵠沼34号
1457 長禄 1     扇谷上杉氏が大庭御厨の支配権を握り、その家臣太田道灌が大庭城を修理築城 藤沢市史4巻
1469 応仁 3     (文明1)、この頃、太田道灌による大庭城築城完成か 藤沢市史4巻
1498 明応 7 8 25 巨大地震、推定M8.6。津波により大仏殿破壊、溺死者200余人。「明応地震」富士に噴煙見ゆ 鵠沼50号
1500 明応 9     この頃、『曽我物語』成立か。「砥上原こそ、よき原なれ」と記す WEBsite
1502 文亀 2     万福寺、火災により消失。以後7年間他に転ず 鵠沼寺院考
1508 永正 5     万福寺、再興 わがまちの
1512 永正 9     上杉朝長の大庭城、北条早雲により落城 鵠沼31・34号
1526 大永 6 11   管領上杉憲政と扇谷上杉連合軍が玉縄城・鵠沼砦を攻める WEBsite
1528 享禄 1 5   密厳山遍照院普門寺(真言宗)、藤沢宿感応院の末寺として権少都長良元により創建(唐土ヶ原) 鵠沼1・15・35号
1528 享禄 1     北条氏綱、真宗寺院を弾圧。改宗を拒否した万福寺住職=空円を六本松原で断殺。寺を破却する 有賀密夫遺稿集
1535 天文 4 7   上杉(扇谷)朝興、北条氏綱の虚をついて相模国に侵入し、鵠沼などに放火(9〜10月とも) 藤沢市史年表
1546 天文15     小田原城主北条氏綱、福島伊賀守勝広に大庭付近を与え、大庭城を守らせる 藤沢市史4巻
1551 天文20 7   北条氏綱に平井城を陥された上杉憲政が越後に逃げ延びた際、家臣=関根孫六が帰農、土着→関根家の祖 皇国地誌
1558 永禄 1 9   金堀山空乗寺(浄土真宗高田派)、了受の開山、大橋武部卿龍慶の開基により創建[相模國風土記稿] 鵠沼1号
1559 永禄 2     鵠沼村、岩本太郎左衛門定次(御馬廻役)知行地となる(他を含め187貫167文)[北条氏所領役帳] 藤沢市史年表
1565 永禄 8 9   金堀山空乗寺(浄土真宗高田派)、了受の開山、大橋武部卿龍慶の開基により創建[寺伝](1558説も) 鵠沼15・37号
1574 天正 2     石楯尾神社再建 鵠沼34号
1585 天正13     神明宮、社殿を再建造立 鵠沼3・34・56号
1590 天正18 7 5 「太閤の小田原攻め」の結果後北条氏敗北→遺領は徳川家康支配下に入る[皇国地誌] 藤沢市史4巻
1573 天正期     この頃から片瀬川砥上渡しが石上渡しと呼ばれるようになる[皇国地誌] 史談会報1号
1594 文禄 3     高座川を相武の国界とし、境川と称す 鵠沼62号
1596 慶長 1     藤沢宿初代支配代官=彦坂小刑部元正(代官頭) 藤沢沿革考
1601 慶長 6 3   鵠沼村の幕領の一部220石が譜代旗本(1500石鉄炮頭)布施孫兵衛重次知行地となる。残りは幕領 鵠沼15号
1601 慶長 6     彦坂代官検地。鵠沼村幕領=530石 有賀密夫遺稿集
1601 慶長 6 6   彦坂代官改役、家禄没収→藤沢宿支配代官=深津八九郎 藤沢沿革考
1603 慶長 8     藤沢宿支配代官=米倉助右衛門永時 藤沢沿革考
1604 慶長 9 12 16 相模武蔵大地震。M7.9。海浜溢溺死者多。26日武相二州又震 発酉昼俄闇(慶長地震)[続本朝通鑑] 鵠沼22・50号
1607 慶長12     藤沢宿支配代官=依田肥前守信重 藤沢沿革考
1614 慶長19 10 25 伊豆を震源とする大地震。M7.7 津波被害甚大。伊豆と小田原で被害大。津波による死者発生 WEBsite
1617 元和 3 3 17 大橋重保、将軍=徳川秀忠増上寺に詣でた際に訴状を捧げて言上→召し出されて旗本・右筆となる 鵠沼24・37号
1617 元和 3 3   密厳山遍照院普門寺(真言宗)、元朝阿闍梨が本尊不動明王を勧請し、現在地に再開基 鵠沼35号
1617 元和 3     鵠沼村(300石)・大庭折戸村他の幕領分500石、旗本大橋長左衛門重保知行地となる[市史研] 鵠沼15号
1617 元和 3     この頃、鵠沼村に「組」制度ができる 鵠沼79号
1617 元和 3     藤沢宿支配代官=服部惣左衛門 有賀密夫遺稿集
1618 元和 4     大橋重政、旗本大橋長左衛門重保の長子として誕生。幼名は小三郎 鵠沼24・37号
1631 寛永 8     大橋長左衛門重政(重保の嫡子)、14歳で右筆を拝命 鵠沼37号
1633 寛永10 3 1 伊豆を中心にM=7.0の大地震 理科年表
1633 寛永10     旗本大橋長左衛門重保、病により右筆を辞す→剃髪して龍慶と号す 鵠沼37号
1634 寛永11     大橋重保、稟米300俵を賜り後嗣長左衛門重政に家と鵠沼の采地を譲る[市史研] 鵠沼15・24・37号
1635 寛永12     大橋重保、稟米300俵に替えて牛込郷(東京都新宿区)に采邑30余町を賜る(鵠沼より転居) 鵠沼37号
1641 寛永18     旗本大橋長左衛門重政、挙げられて右筆となる(時に14歳)。家光の覚えがめでたかった 鵠沼37号
1645 正保 2 2 4 大橋重保、死去(宝樹院殿式部卿法印天巌龍各覺居士) 享年64。空乗寺に埋葬 有賀密夫遺稿集
1648 慶安 1 4 22 相模地震。M7。 鵠沼22・50号
1649 慶安 2 8 28 地頭大橋重政、采地(石上付近)のうち9石余を空乗寺に寄進し、将軍家光より御朱印を賜る 鵠沼15・24・37号
1649 慶安 2     藤沢宿支配代官=成瀬五左衛門重治 有賀密夫遺稿集
1654 承応 4 5 石上の地蔵菩薩立像、造立(鵠沼最古の石仏。昔は石上の渡し場近くにあった)[藤沢市史5巻] 鵠沼73号
1655 明暦 1 4 21 布施氏知行地に鵠沼新田完成。用水堀開鑿潰れ地の替地につき、鵠沼村領主、村役人に手形を発行 鵠沼62号
1657 明暦 3 2   西善寺(真宗大谷派)、江戸移転に際し空乗寺に寺地2町7反9畝18歩を移譲[空乗寺文書] 鵠沼37号
1661 寛文 1     浄土宗知恩院派鵠沼善光山天龍院法照寺のもととなる一庵(法心寺)が僧龍保により創建[皇国地誌] 鵠沼1・15号
1661 寛文 1     法照寺本尊=木像十一面観世音菩薩立像/木像円光(法然)・善導両大師坐像、造立 有賀密夫遺稿集
1665 寛文 5 9 23 大橋重政、寺社領御朱印の労により賞を受く 鵠沼24号
1672 寛文12 6 30 鵠沼村地頭大橋流の粗大橋長左衛門重政病により没す寿55、龍性院殿道樹居士と謚して空乗寺に葬る 鵠沼24・37号
1672 寛文12     鵠沼村布施領・大橋領の名主ら、大庭村の引地川に新田引水用の堰を再建[川嶋家文書] 有賀密夫遺稿集
1672 寛文12     鵠沼村の旗本大橋氏知行分が重政死亡により上知、幕領(代官成瀬五左衛門重治)となる[市史研] 鵠沼15号
1673 寛文13 4   鵠沼村・大庭村間の水論。大庭村が奉行所へ返答書を提出(鵠沼新田の用水堰切開に関して) 鵠沼62号
1673 延宝 1     藤沢宿支配代官成瀬五左衛門重治、幕領鵠沼村で検地施行 藤沢市史5巻
1676 延宝 4 2 20 普門寺中興=善龍入滅。(この頃までに中興) 鵠沼35号
1677 延宝 5 9 3 空乗寺開基=釈了受律師、入滅[寺伝] 鵠沼37号
1678 延宝 6 8   成瀬代官検地。鵠沼村=605石。うち幕領=394反?、旗本布施領=220石、寺領=9石[新編相模國風土記稿] 有賀密夫遺稿集
1679 延宝 7     旗本布施孫兵衛鵠沼村600石のうち250石を賜り、残り350石は御料地となり代官支配す(代官は成瀬重治) 鵠沼24号
1679 延宝 7     旗本布施孫兵衛重次、松家へ毘沙門天立像(伝運慶作)を寄付[現在の藤澤] 現在の藤澤
1679 延宝 7     代官=成瀬重治、幕領分を検地。旗本=布施孫兵衛重次、知行地鵠沼村で検地施行[藤沢市史5巻] 鵠沼15号
1683 天和 3 4 5 鵠沼新田(市郎左衛門)開発の後、用水堀の件で円行村(八郎左衛門)と争論起こる わがまちの
1683 天和 3     藤沢宿支配代官=国領半兵衛重次 藤沢市史
1687 貞享 4     藤沢宿支配代官=西山八兵衛昌親 藤沢市史
1689 元禄 2 3   鵠沼神明5-6白旗稲荷境内の庚申塔(文字塔)、造立(現存最古) 鵠沼30・73号
1689 元禄 2     この頃、杉山検校各地に江の島への道標を建てる。鵠沼地区には2基残存 WEBsite
1691 元禄 4     藤沢宿支配代官=古郡文右衛門正府 藤沢沿革考
1694 元禄 7 9   鵠沼村他43か村、藤沢宿の助郷村に確定 藤沢市史年表
1694 元禄 7 9   鵠沼村他4か村、猪鹿による作物の被害大きく難渋の旨を訴える[市史] 鵠沼15号
1694 元禄 7     鵠沼村=585石。うち幕領=356石、旗本布施領=220石、寺領=9石[東海道藤沢町助郷帳] 有賀密夫遺稿集
1694 元禄 7     藤沢宿支配代官=竹村総左衛門嘉躬[藤沢御殿絵図] 藤沢市史年表
1694 元禄 7     鵠沼村=605石。うち幕領=376石、旗本布施領=220石、寺領=9石[東海道藤沢宿役高助郷] 有賀密夫遺稿集
1697 元禄10 10 12 藤沢地域に地震(M=7.2震度6.9) 鵠沼16・22・50号
1697 元禄10 11   鵠沼村等の年貢米が江の島より船積みされ、江戸へ送られる 鵠沼15号
1697 元禄10     藤沢宿支配代官=竹村惣左衛門[鶏肋温故〈1〉] 藤沢市史料集2
1700 元禄13     藤沢宿支配代官=平岡三郎右衛門尚宣[藤沢御殿絵図] 藤沢市史年表
1701 元禄14     藤沢宿支配代官=小長谷勘左衛門正綱※小長谷市右衛門[鶏肋温故〈1〉] 藤沢市史
1702 元禄15 8 18 普門寺35代=法印大僧都受元、入寂。(本鵠沼5-2の巨大五輪塔) 有賀密夫遺稿集
1702 元禄15     鵠沼村=614石6斗3升3合。うち幕領=385.632石、旗本布施領=220石、寺領=9石[相模国郷帳] 藤沢市史5巻
1703 元禄16 5   法照寺、欣誉により中興再建され、善光山天龍院法照寺(浄土宗)と号す[皇国地誌] 藤沢市史年表
1703 元禄16 11 22 武蔵相模・安房・上総に大地震(M8.2震度7.3)震源相模トラフ。津波、犬吠から下田まで発生(元禄地震) 鵠沼16・22・50号
1704 宝永 1 5   僧=欣誉、龍保開基の一庵を中興改造→法照寺と号す[皇国地誌]※1703年説あり 有賀密夫遺稿集
1704 宝永 1 6 30 大橋重政33回忌にあたり、長子重好 弟重尚とはかり、空乗寺の霊前に墓碑を建て、常夜灯一対を献げる 鵠沼24・37号
1704 宝永 1 10   鵠沼村幕府領石高=385.632石[相州鎌倉高座郡村々年貢割付帳] 有賀密夫遺稿集
1704 宝永 1     荒れ地状況、鵠沼村=7.2%、鵠沼見取新田=31.2%[相州鎌倉高座郡村々申御年貢割付帳] 藤沢市史5巻
1704 宝永 1     鵠沼村、上毛=4.5石/中毛=3.2/下毛=なし/下々毛=1.7[取米表] 藤沢市史5巻
1706 宝永 3 1   鵠沼村幕領の一部、間部詮房の「厚木藩」一万石の所領となる[寛政重修諸家譜] WEBsite
1707 宝永 4 11 23 富士山噴火、宝永山出来る、相模・武蔵・駿河各国に降砂被害甚大、藤沢も降砂16日間 鵠沼22・50号
1707 宝永 4 12   間部詮房、伊豆国・播磨国へ国替えとなり、相模国の支配は2年足らずに終わる WEBsite
1710 宝永 7     藤沢宿支配代官=小林又左衛門正府 藤沢沿革考
1713 正徳 3 12 19 鵠沼村新田、引地川より水車で水を汲み上げ、新田を開きたいと羽鳥村名主に通知[入置申一札之事] 鵠沼62号
1714 正徳 4     藤沢宿支配代官=河原清兵衛正真 有賀密夫遺稿集
1716 享保 1     〜36  享保年中  鵠沼村高605石 鵠沼24号
1717 享保 2 4 4 法照寺開山=直為、没(浄蓮社欣誉長圓真為)。これまでに創建[新編相模國風土記稿] ※9月説あり 藤沢市史年表
1718 享保 3 8   万福寺中興、良意没。これまでに中興[新編相模國風土記稿] 藤沢市史年表
1721 享保 6     幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英勝 藤沢市史年表
1722 享保 7     鵠沼他5か浦、江戸材木町新肴場助浦解除を願い、奉行所へ訴訟 藤沢市史年表
1724 享保 9     藤沢宿支配代官=松平金左衛門[我が住む里・鶏肋温故] 有賀密夫遺稿集
1725 享保10     鵠沼村村高=605石[東海道藤沢宿助郷帳] 有賀密夫遺稿集
1727 享保12     幕領藤沢宿代官=日野小左衛門正晴 藤沢市史年表
1728 享保13     幕府鉄炮方=井上左太夫貞高、亨保改革の一環として鵠沼・辻堂海岸に鉄炮場設置[相模國風土記稿] 鵠沼15・62号
1730 享保15 12 10 鵠沼の浜で鉄炮の試射演習[戌年鵠沼浜御鉄炮入用帳] 藤沢市史年表
1732 享保17     鵠沼新田第1期開闢。代官日野小左衛門改め[新編相模國風土記稿] 藤沢市史年表
1732 享保17     藤沢宿支配代官=齋藤喜六郎直房 有賀密夫遺稿集
1733 享保18 6 17 〜7/6、鵠沼村他に逗留し鉄炮の試射演習[御鉄炮御用宿賄帳扣] 藤沢市史2巻
1734 享保19     鵠沼村他に逗留し鉄炮の試射演習[御鉄炮御用宿賄帳扣] 藤沢市史2巻
1734 享保19     引地川洪水で田は例年の 20〜30損耗 鵠沼22号
1735 享保20 7   幕府、鵠沼海岸大筒鉄炮稽古人足差し出しについての触書を通達 藤沢市史年表
1735 享保20 12   鵠沼村、代官分=380石(名主:六左衛門)・布施孫兵衛分(表壱番町)=220石(名主:三左衛門)[相模国改帳] 藤沢市史2巻
1736 享保21     この頃までに万福寺、良意により中興 わがまちの
1736 元文 1     鵠沼村他に逗留し鉄砲の試射演習[御鉄炮御用宿賄帳扣] 藤沢市史2巻
1736 元文 1     旗本布施氏知行地の新規開発分、新田知行となる[新編相模國風土記稿] 有賀密夫遺稿集
1737 元文 2 12 11 〜以後3年間、各村、鉄炮場の宿賄帳を作成[御鉄炮御用宿賄帳扣] 藤沢市史2巻
1738 元文 3     空乗寺16世呑海、浄土真宗から真宗高田派に属す 鵠沼37号
1744 延享 1     〜1747(延享年間)、神明宮、盗難により伝承の古記録等を失う WEBsite
1749 寛延 2     藤沢宿支配代官=戸田忠兵衛正方 有賀密夫遺稿集
1749 寛延 2     藤沢宿支配代官=辻六郎左衛門富安 有賀密夫遺稿集
1751 宝暦 1     藤沢宿支配代官=岩出伊左衛門信之 有賀密夫遺稿集
1753 宝暦 3 8   普門寺の半鐘が作られる。施主は同村の観音・地蔵・光明真言・庚申の各講中 鵠沼15号
1756 宝暦 6     幕領藤沢宿代官=志村多宮師智 藤沢市史年表
1756 宝暦 6     代官=志村多宮、鵠沼村に新田検地施行 藤沢市史年表
1757 宝暦 7     鵠沼新田第2期開闢。代官志村多宮検地[新編相模國風土記稿]※前年説あり 有賀密夫遺稿集
1759 宝暦 9     幕領藤沢宿代官=伊奈半左衛門忠宥 藤沢市史年表
1765 明和 2 6 17 領主布施孫兵衛尉頼路神明宮に参寵し、神願奉幣あり、白絹御戸張に天照皇大神宮と謹書奉納 鵠沼3・34号
1765 明和 2     普門寺の鎌倉扇谷の後藤仏師の作阿弥陀如来立像の体内から出た『大乗妙典奉納帳』作られる 鵠沼35号
1767 明和 4     鵠沼村他3か村、東海道引地川上橋の掛替普請を伊奈備前守へ提出 藤沢市史年表
1768 明和 5     藤沢宿支配代官=池田喜八郎季庸 有賀密夫遺稿集
1769 明和 6 3   鵠沼村において宗門人別帳作成[市史]※市域宗門人別帳の初見 鵠沼15号
1769 明和 6     普門寺の後藤仏師の作阿弥陀如来立像の体内から出た『四国中奉納大乗妙典日本廻国霊場』作られる 鵠沼35号
1769 明和 6     藤沢宿支配代官=久保田十左衛門政邦 有賀密夫遺稿集
1770 明和 7     鵠沼村村高=605石[東海道宿場仕出帳] 有賀密夫遺稿集
1771 明和 8     幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英征(ひでゆき) 藤沢市史年表
1771 明和 8     江川太郎左衛門英征ノ経歴ト支配国郡村名高帳、「高 弐千三百六拾石九斗七升八合 高座郡」と記す WEBsite
1771 明和 8     藤沢宿助郷村々、助郷軽減願を提出 藤沢市史年表
1772 安永 1 6   鵠沼村万福寺と同村普門寺との間に争論発生 藤沢市史年表
1775 安永 4 2   引地川、石川村までの通船許可 藤沢市史年表
1775 安永 4 7   空乗寺寺領(石上)内の渡船場の件につき村内に争論[市史] 鵠沼15・62号
1775 安永 4 9   法照寺本尊=木像阿弥陀如来立像、造立 有賀密夫遺稿集
1776 安永 5 7   羽鳥村三觜家、鵠沼村界引地川に水車設置[万福寺→空乗寺書簡] 有賀密夫遺稿集
1781 天明 1     地曳き網漁場をめぐり片瀬村と鵠沼村が争論を起こす 藤沢市史年表
1782 天明 2 3   片瀬村・江の島、漁業入会の件に関し鵠沼村を奉行所へ訴える 藤沢市史年表
1782 天明 2 7 15 相模武蔵に地震(M7.3震度6.5)。津波・山崩れ発生(天明小田原地震) 鵠沼16・22・50号
1782 天明 2 7 25 片瀬村と鵠沼村地引き網漁場をめぐり争い、評定所の裁許を仰ぐ[市史] 鵠沼15号
1783 天明 3 7   浅間山大噴火、藤沢宿でも飢饉深刻 (天明大飢饉) 鵠沼22号
1783 天明 3     林石材(本鵠沼、創業時は鎌倉郡村岡の鎌倉石採石業)、創業(現在まで続く企業としては鵠沼最古) 藤沢人物ファイル
1786 天明 6 3 24 藤沢宿助郷49か村、助郷役正人馬差出の免除及び前年の上納金返済を代官所へ願書提出 藤沢市史年表
1786 天明 6 7 17 引地川・境川氾濫、大鋸橋流失、本願寺倒壊→浅場家による引地川築堤工事[堀川改修記念碑] 鵠沼22・62号
1786 天明 6 ウ10   鵠沼村他3か村、東海道引地川上橋の掛替普請を請け負う[引地橋組合儀定証文之事] 藤沢市史年表
1786 天明 6 11 11 境川氾濫により、勘定所役人・普請役人が初見聞を実施 藤沢市史年表
1791 寛政 3 11   普門寺の梵鐘鋳造(東都鋳工=西村和泉守藤原時政、発願主:阿遮梨智英→太平洋戦争に供出) 鵠沼寺院考
1791 寛政 3     幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英征、没。享年48。翌年、子=江川太郎左衛門英毅が嗣ぐ[青木美智男] 有賀密夫遺稿集
1791 寛政 3     藤沢宿支配代官=小笠原仁右衛門 有賀密夫遺稿集
1791 寛政 3     藤沢宿支配代官=野田文蔵 有賀密夫遺稿集
1792 寛政 4 1   〜4月、幕領藤沢宿代官=小笠原仁右衛門 藤沢市史料集2
1792 寛政 4 6   幕領藤沢宿代官=大貫次右衛門光豊 藤沢市史年表
1783 寛政 5 3   大老松平越中守定信、上総・伊豆・相模海岸順見の時清浄光寺へ立寄り、鵠沼方面を望み清音亭を命名 鶏肋温故 
1800 寛政12     藤沢宿と鵠沼村との間に村境の松木伐採を巡り争論 藤沢市史年表
1801 寛政13     この頃までに空乗寺再建 わがまちの
1801 享和 1 ウ4 22 伊能忠敬とその一行六人の測量隊、鵠沼村から柳島村までの海岸線を測量 WEBsite
1801 享和 1     幕府、『新編相模國風土記稿』を編纂 有賀密夫遺稿集
1802 享和 2 8   鵠沼村と大庭・稲荷・折戸・羽鳥村との間に鉄炮場御用宿賄い金滞納を巡り論争[為取替証文之事] 藤沢市史年表
1803 享和 3 4   引地橋普請完了 藤沢市史年表
1803 享和 3 5 19 引地川、鵠沼村2か所で破堤・境川水害、藤沢宿被害→浅場家による引地川築堤工事[堀川改修記念碑] 鵠沼22・62号
1806 文化 3 1   鵠沼村(組頭:元右衛門)はじめ御宿組合村々、鉄炮場負担軽減を嘆願 藤沢市史2巻
1806 文化 3     浅場太郎右衛門(堀川)、普門寺住職に相談し相模準四国八十八か所の創設に取りかかる 鵠沼35号
1806 文化 3     鵠沼等5か村と三浦郡の4か村、鉄炮稽古役人宿入用高割納入願を代官所に提出 藤沢市史年表
1808 文化 5 8 15 浅場太郎左衛門、堀川改修記念碑創建(1932年再建。現在は鵠沼海岸4-21-8地先引地川堤上に移動) 鵠沼15・30・62号
1809 文化 6 6 宮ノ前、神明宮に幟を奉納 鵠沼12号
1812 文化 9 11   羽鳥村、「片瀬浦鵠沼藤ヶ谷ニ而次右衛門船渡シ御年貢米津出覚帳」を作成 藤沢市史年表
1817 文化14     文化年間に鵠沼村に2か所(松本文次郎による万福寺・吉成弥四郎による場所不明)の寺子屋開業 寺子屋地図
1821 文政 4 3   普門寺、相模国準四国八十八ケ所霊場を発願。浅場太郎右衛門、普門寺境内に大師石像と大師堂建立 鵠沼35号
1821 文政 4 10   万福寺廿世=良締、梵鐘を再鋳造[市史] 鵠沼15号
1823 文政 6     藤沢宿支配代官=大貫鎌次郎 有賀密夫遺稿集
1823 文政 6 11   藤沢宿支配代官=当分御預所 藤沢市史料集2
1824 文政 7     鵠沼村=665石2斗6升2合。うち幕領=394.262石、旗本布施領=265石、寺領=9石[江川代官支配] 有賀密夫遺稿集
1824 文政 7     藤沢宿支配代官=中村八太夫 有賀密夫遺稿集
1824 文政 7     鵠沼村、村民農隙には魚猟を専とす。船役永銭を納む。[新編相模國風土記稿] 藤沢市史5巻
1827 文政10 3 1 光明真言講、準四国八十八ケ所霊場を設けた浅場太郎右衛門の言葉を彫つた供養塔を普門寺境内に造立 鵠沼35号
1827 文政10 8 30 浅場太郎右衛門、死去(光明院阿室見照居士) 有賀密夫遺稿集
1827 文政10     鵠沼村高=677石 4斗 8升 9合[組合村高書付] 鵠沼24号
1829 文政12 9   松本文次郎による万福寺の寺子屋、廃業 寺子屋地図
1829 文政12     境川水害、藤沢宿被害 鵠沼22号
1829 文政12     万福寺の寺子屋、住職を師匠として再開 寺子屋地図
1830 文政13     藤沢宿の医師=小川泰堂、『我か寿武里(我棲里)』を著す 藤沢市史5巻
1830 天保 1 ウ3   大筒鉄炮方の宿、鵠沼村より羽鳥・大庭の両村に変更 藤沢市史年表
1831 天保 2 4 21 万福寺境内の猪飼蓬泉墓碑、造立“三日月の居住直る簟(たかむしろ)” 藤沢市史1巻
1831 天保 2     幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英龍 藤沢市史年表
1833 天保 4 6 12 普門寺住職=権大僧都上人宥實阿遮梨、入寂。(本鵠沼5-2の笠塔婆型墓碑) 有賀密夫遺稿集
1833 天保 4 8   吉成弥四郎による場所不明の寺子屋廃業 寺子屋地図
1833 天保 4     境川石上の渡し船賃、一人5文 鵠沼62号
1834 天保 5 10   藤沢宿・鵠沼村名主、浅草御廻籾の件で周辺幕領名主へ相談通知を出す 藤沢市史年表
1834 天保 5 12   藤沢宿問屋と定助郷組22か村、人馬賃銭の授受・人馬の割付を巡り争論 藤沢市史年表
1834 天保 5     鵠沼村の村高=700.99325石。戸数=250戸[相模国郷帳] 藤沢市史5巻
1834 天保 5     幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英毅、没。享年65。翌年、子=江川太郎左衛門英龍が嗣ぐ[青木美智男] 有賀密夫遺稿集
1834 天保 5     『鶏肋温故〈1〉』、刊行 藤沢市史料集2
1835 天保 6 3 14 書家・俳人=阿部石年(玄道宝所)、死去。万福寺境内に墓碑、造立 藤沢市史1巻
1835 天保 6 3   鵠沼村の網主困窮のため、無断網譲渡しにつき争論 藤沢市史年表
1835 天保 6 5   鵠沼村の網主無断網譲渡し争論解決 藤沢市史年表
1835 天保 6 12   幕府評定所、鉄砲場内諸村の試作田を未公認のまま開発耕作させた大筒役佐々木卯之助一家を青ヶ島遠島 茅ヶ崎市史四
1836 天保 7 10   代官=江川太郎左衛門英龍、鵠沼村字地蔵袋地先の鉄炮場新田3町4反4畝余を開発[御鉄炮場御新田書上帳] 鵠沼15号
1836 天保 7     関東・東北大飢饉 天保の飢饉 鵠沼22号
1837 天保 8 2   鵠沼村清水地主=惣左衛門・同所証人=八郎右衛門と同村空乗寺との間で、水車の設置を巡り争論 鵠沼62号
1837 天保 8 4   辻堂村農民=九兵衛・世話人=孫七と空乗寺との間で、水車の設置を巡り争論 藤沢市史年表
1839 天保10 6 宿庭・清水、神明宮に幟を奉納 鵠沼12号
1842 天保13     新編相模風土記稿発行。鵠沼村久久比奴末牟良とある 鵠沼12号
1842 天保13     平野道治(新蔵、旅籠ひらのや主人)、『?肋温故』を著す 藤沢市史5巻
1843 天保14 2 4 堀川山上新右衛門、鵠沼海岸7-19-12に地蔵尊立像・高根地蔵堂造立[現在の藤澤] 鵠沼15号
1843 天保14 2 9 江戸から小田原大地震(M=7.5) 鵠沼50号
1843 天保14     鵠沼村の村高=670.62835石[領主制知行高書上帳] 有賀密夫遺稿集
1845 弘化 2 11 28 堀田本眞尼、愛知県幡豆那吉田町の場田清左衛門の長女として誕生。幼名「リツ」 鵠沼44号
1847 弘化 4 9 9 伊東将行、紀州藩士伊東左衛門の男として江戸藩邸で誕生(川越の人という異説あり) 東屋旅館物語
1847 弘化 4 9 12 浅場太郎右衛門、死去(蓮台現阿自覚居士) 有賀密夫遺稿集
1848 嘉永 1 6   上村、神明宮に幟を奉納 鵠沼12号
1850 嘉永 3     片瀬、鵠沼、辻堂村に鉄炮場が増設[市史] 鵠沼15号
1853 嘉永 6     江川太郎左衛門英龍、若年寄本多越中守に従い関東南部の海岸を巡視。鵠沼村より見廻役2名選抜 鵠沼82号
1853 嘉永 6     上記見廻役の一人=齋藤六左衛門、名字帯刀を許される 有賀密夫遺稿集
1854 安政 1 11 4 諸国大地震(M=8.4震度5.4)(安政東海地震) 鵠沼16・22・50号
1855 安政 2 8 13 柏尾川組合惣代役人、鵠沼村等14か村名主へ、柏尾川苅払・浚方出役御見分の通知 藤沢市史年表
1855 安政 2 10 2 江戸安政大地震(M=7.5震度5.9) 藤沢宿も潰家多数。→新田の一部住民、納屋に移住(伝) 鵠沼16・22号
1855 安政 2     幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英龍、没。享年55。子=江川太郎左衛門英敏が嗣ぐ 有賀密夫遺稿集
1855 安政 2     鵠沼村幕領=412.189石、旗本布施領=266.351石[藤沢宿寄場組合村高家数表] 有賀密夫遺稿集
1856 安政 3 8 25 関東地方大暴風雨、田畑に塩害 鵠沼22号
1856 安政 3 9 1 堀田本眞尼、愛知県碧海群旭村中山の貞照院の天然和上について得度(12歳)。真珠庵で修道生活に入る 鵠沼44号
1858 安政 5     鵠沼村、細川越中守(熊本藩)預り地となる[皇国地誌] 鵠沼15・62号
1859 安政 6 2   鵠沼村、幕領(代官所管)に復する[皇国地誌] 鵠沼15号
1859 安政 6     横浜開港、藤沢の村々は外国人遊歩区域内となる WEBsite
1859 安政 6     この頃まで(安政年間)に斎藤六左衛門文吉、鵠沼新場(生魚市場)の取締役を代官から命じられる 鵠沼82号
1860 万延 1 10 6 〜10/8、鉄炮場検見[御検見諸用帳] 藤沢市史2巻
1862 文久 2     河竹黙阿弥作『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』初演。赤星十三郎の科白に「砥上ヶ原に身の錆を」とある WEBsite
1862 文久 2     幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英敏、没。享年24。弟=江川太郎左衛門英武が嗣ぐ 有賀密夫遺稿集
1862 文久 2     『俳諧画像集』、鵠沼連=蕉窓(荒木良空、万福寺23世住職)の僧衣姿の肖像を掲載 藤沢市史5巻
1864 元治 1 6 21 松家34代=松良夫、33代=祐重の長男として誕生 現代の藤澤
1864 元治 1 9 28 鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳] 藤沢市史2巻
1864 元治 1     大暴風のため空乗寺本堂倒壊[現在の藤澤] 鵠沼15号
1865 元治 2 3   藤沢宿周辺の村々、農兵相続仕法講を組織。鵠沼村、名主=2名、組頭百姓代=2名、百姓=2名 藤沢市史5巻
1866 慶応 2     空乗寺倒壊(1864説も) わがまちの
1866 慶応 2     普門寺中興=生田浄耕、本堂再建を発願 鵠沼35号
1867 慶応 3 8 13 鵠沼村普門寺僧1名、高野山に登山 宿坊記録
1868 慶応 4 2 6 松平近説、願って若年寄を免ぜられ、京都へ上り、「大給」に復する旨を京都の弁事御伝達所に届け出る 鵠沼12号
1868 慶応 4 3 官軍東征軍、藤沢宿を通過 藤沢市史5巻
1868 慶応 4 10 10 東幸の明治天皇、藤沢行在所(遊行寺)に止宿 藤沢市史6巻
1868 慶応 4     鵠沼村村高=756石4斗7升7合5勺[旧高旧領調帳] 有賀密夫遺稿集
1868 慶応 4     鵠沼村=733.371石。うち幕領=430.658石、旗本布施領=293.331石、寺領=9.352石[代官/布施/空乗寺] 有賀密夫遺稿集
1868 明治 1 6 29 高座郡諸村、韮山県の管轄下におかれる(県知事:江川太郎左衛門英武)[市史6巻] 鵠沼15号
1868 明治 1 6   鵠沼村、村高=756.4石、うち江川の支配高=453.8石(59.9%)[旧高旧領取調帳] 藤沢市史6巻
1868 明治 1 7   相模国県知事江川太郎左衛門とあり[御用留] 藤沢市史6巻
1868 明治 1 8   高座郡諸村、韮山県の管轄下におかれる(県知事:江川太郎左衛門英武)[皇国地誌](6月説も) 鵠沼15号
1868 明治 1 8   空乗寺領=9石分、上知[皇国地誌] 鵠沼史談会報1号
1868 明治 1 9 21 神奈川府を神奈川県と改称(県知事:井関盛良)。韮山県の管轄下の高座郡諸村、神奈川県管轄下におかれる 鵠沼15号
1868 明治 1 9   征東大総督一品中務御有栖川宮熾仁親王御東下の砌、神明宮の御染筆を賜る 鵠沼3号
1868 明治 1     鉄砲場内諸村の試作田を未公認のまま開発耕作させ、青ヶ島遠島になった大筒役佐々木卯之助、赦免 茅ヶ崎市史四
1869 明治 2 2 5 神奈川府を神奈川県と改称。韮山県の管轄下の高座郡諸村、神奈川県管轄下におかれる[市史6巻] 鵠沼15号
1869 明治 2 3 4 後の東屋初代女将=長谷川ゑい、金沢藩士長谷川信守の三女として東京牛込で誕生 東屋旅館物語
1869 明治 2 6 17 諸藩主版籍奉還[郡史] 鵠沼15号
1869 明治 2 9   鵠沼村、組頭=(山上)八左衛門/百姓代=権左衛門/百姓惣代=10名[三番御用留]、 有賀密夫遺稿集
1869 明治 2 9   鵠沼村、年番名主=小林三左衛門/年寄=齋藤六左衛門・山上八左衛門/組頭=関根庄左衛門[明治5年資料] 有賀密夫遺稿集
1869 明治 2     鵠沼村幕領=453.7745石、旗本布施領=293.331石、寺領=9.352石[藩知事大久保忠長] 有賀密夫遺稿集
1870 明治 3 11   鵠沼村毘沙門堂、堂宇を廃し境内の地および本尊は松祐重が所有[皇国地誌] 鵠沼15号
1870 明治 3     空乗寺、暴風のため再度倒壊 鵠沼37号
1870 明治 3     宿庭、神明宮の幟を再興 有賀密夫遺稿集
1870 明治 3     鵠沼村戸口資料発表[末広・石井・湯山『明治初期の鵠沼村の史料について』(『窓』27号)] 有賀密夫遺稿集
1870 明治 3     鵠沼村、年番名主=六左衛門/年寄=八左衛門・三左衛門/組頭=庄左衛門 有賀密夫遺稿集
1871 明治 4 4 4 戸籍法公布(翌年施行されたため、「壬申戸籍」と呼ばれる) 鵠沼77号
1871 明治 4 6   大橋重政200回忌、空乗寺にて供養。多くの文人が集う 鵠沼37号
1871 明治 4 7 14 廃藩置県→府内藩は府内県となり大給近説は藩知事を免ぜられて東京に移り、子爵として華族に列す 鵠沼12・15号
1871 明治 4 11   小田原県・荻野山中県・韮山県の相模国分を統合し、足柄県を結成。高座郡鵠沼村を含む 有賀密夫遺稿集
1871 明治 4 12   東海道各宿の助郷廃止 藤沢市史年表
1871 明治 4     宮ノ前、神明宮の幟を再興 有賀密夫遺稿集
1872 明治 5 4 9 圧屋・名主・年寄などの称を廃して戸長・副戸長をおく[郡史] 鵠沼15号
1872 明治 5 7 12 鵠沼学舎、鵠沼普門寺脇の寺の物置を校舎に開設。当初は習字だけ。普門寺住職の寺子屋廃業 鵠沼15号
1872 明治 5 7 20 諸道伝馬所廃止人馬相對を以斷立しむ[太政官布告第204號] WEBsite
1872 明治 5 7 27 暴風来襲し、鵠沼沖で難破船4艘、溺死者10人[現在の藤澤]。引地川出水 鵠沼15・22号
1872 明治 5 8 3 学制を布く。下等小学校4年、上等小学校4年[大和史] 鵠沼15号
1872 明治 5     鵠沼海岸4-6地先龍宮橋入口角の精霊供養塔(文字塔)、造立 鵠沼30号
1872 明治 5     大給家、神田淡路町の本邸邸地を開放→賀来神社は別邸のあった本郷駒込千駄木坂下町に遷座 鵠沼12・73号
1873 明治 6 1   徴兵令発布 有賀密夫遺稿集
1873 明治 6 5 1 区・番組制施行、鵠沼村は第17大区・第2小区となる。小字・番地の制定 鵠沼15・74号
1873 明治 6 5 13 大江県令「管内区画」により、鵠沼村は第18区2番組。戸長三觜八郎右衛門、番組扱所を大庭村におく 鵠沼15号
1873 明治 6 5   関根伝左衛門、第2小区の副戸長、齋藤六左衛門、鵠沼村用掛に就任。 藤沢市史年表
1873 明治 6 6 2 鎌倉道片瀬川の渡船を廃止し、架橋することについて神奈川県より大蔵省へ伺い 鵠沼62号
1873 明治 6 7 28 地租改正条例、布告(私的土地所有権を前提にした定額金納地租3%が課せられる) 藤沢市史6巻
1873 明治 6 10   境川、石上渡しの箇所に「山本橋(後に上山本橋)」、初めて架橋[皇国地誌] 史談会報1号
1873 明治 6 12   神明宮、村社に列せられる 鵠沼3・34号
1873 明治 6     鵠沼学舎に上等科新設(下等科4年・上等科4年)される。一般学科を教授。校舎も改築か[皇国地誌] 藤沢市教育史
1874 明治 7 7 6 区番組制を改め大小区制を実施する。鵠沼村は第18大区第2小区。区長、戸長区番組制下と同一人 鵠沼15号
1875 明治 8 6 5 太政官の皇国地誌編輯例則に基づく「皇国地誌村誌相模国高座郡鵠沼村」刊行 鵠沼73号
1876 明治 9 1 1 鵠沼村戸数297、神社7、寺4、学校1、人口総数1922人、平民男974、平民女948[皇国地誌] 鵠沼15号
1876 明治 9 6 8 東海道を1等国道に定める 藤沢市史年表
1876 明治 9     第二次大廃合。足柄県と神奈川県が合併し神奈川県となる 有賀密夫遺稿集
1876 明治 9     すべての土地所有者に地券が渡される(「壬申地券」と呼ばれるが、壬申は1872(明治5)年) 鵠沼74号
1877 明治10 5 22 鵠沼学舎、校舎が新築され、第87番小学鵠沼学校と改称。訓導久木元寿、助教3、生徒133名 鵠沼15号
1878 明治11 5 11 〜13日、密厳山遍照院普門寺、中興=生田浄耕により、現本堂を建立。遷仏式挙行 鵠沼35号
1878 明治11 7 22 郡区町村編成法の公布→大小区政廃止、神奈川県は1区15郡となり、郡に郡長、町村に公選の戸長をおく 鵠沼15号
1878 明治11 11 18 郡区町村編成法により鵠沼村は高座郡に所属 藤沢市史年表
1878 明治11 12   平本家『鵠沼新田繪圖』制作(長さ=176cm 幅=110cm 和紙上に田・畑・山林別に着色) 有賀密夫遺稿集
1878 明治11 12   神奈川県、大小区制廃止→鵠沼村となる 有賀密夫遺稿集
1878 明治11     鵠沼南東部の砂地一帯に最初の綱入れ(測量) 鵠沼海岸開発史
1879 明治12 2 1 鵠沼村の人家は字引地、車田、上村、宮ノ前、宿庭、清水、苅田、原、堀川、納屋、中東、大東、新田、石上の14ケ所 鵠沼15号
1879 明治12 2 1 『皇國地誌』刊行 鵠沼84号
1879 明治12 2   鵠沼村、戸数=302戸、人口=1922人、男974、女948[皇国地誌村誌]※3年前と比べて人口が全く同数 藤沢市史5巻
1879 明治12 2   鵠沼村、田=66町、畑=219町[皇国地誌村誌] 藤沢市史5巻
1879 明治12 2   宮ノ前「首塚碑」、造立。題字は県令=野村靖(現在は一部剥落。判読不能) 鵠沼15・88号
1879 明治12 7 6 医師=ベルツ、海水浴場適地を探索するため横浜から馬車で江の島に来訪[ベルツの日記] 鵠沼海岸開発史
1879 明治12 11   鵠沼村、戸長=関根伝右衛門、筆生=関根庄左衛門[神奈川県郡区職員録] 藤沢市史3巻
1879 明治12 12   関根伝左衛門、首塚を発掘し、二人分の遺骨発見。首塚の碑、鵠沼神明 3-3-17 宮ノ前公民館前に造立 鵠沼15・30・80号
1880 明治13 2 20 強震。藤沢で家屋の破損19。酒類流出1石4斗[現在の藤澤] 現在の藤澤
1880 明治13 11 7 第1回神奈川連合会(議会)開催。鵠沼村議員=齋藤六左衛門 藤沢市史6巻
1880 明治13     鵠沼村、村長(戸長改め)=関根庄左衛門(引地)/助役(筆生改め)=齋藤弥五右衛門(苅田) 有賀密夫遺稿集
1881 明治14 11 7 高座郡各町村連合会開催。鵠沼村議員=斎藤六左衛門[会議日誌] 藤沢市史6巻
1882 明治15 7 神奈川縣下相模國高坐郡鵠沼村縮切圖 / 斎藤権左衛門編輯;菰田顕令縮圖刊行 鵠沼海岸開発史
1882 明治15     参謀本部陸軍部測量局、二万分一迅速圖「藤澤驛」測量(翌年発行) 鵠沼73・85号
1884 明治17 5 7 郡区町村編成法の改正→戸長の公選→官選。鵠沼村は羽鳥、大庭、稲荷、辻堂連合、戸長三觜小三郎任命 鵠沼15号
1884 明治17 8 上村、人形山車(源 頼朝)を新調。技工師林大工 鵠沼12・79号
1884 明治17 9 15 台風(紀伊半島〜東京北部縦断)により県下に暴風雨。被害激甚 鵠沼22号
1884 明治17     神奈川県令=野村靖、ベルツに居住地の選定を依頼。1.鵠沼 2.酒匂 3.小田原の回答を得、小田原に決定 鵠沼海岸開発史
1885 明治18 6 賀来神社垣根の石柱、藤沢大坂町石工広田仲太郎により建造。別荘地開発開始 鵠沼8号
1886 明治19 4 10 小学校令公布尋常4年、高等4年となる[大和史] 鵠沼15号
1886 明治19 7 18 鵠沼海岸で海水浴場開場式開催。提唱者の三留栄三医師、飲酒後泳いで溺死。享年37 鵠沼43・56号
1886 明治19 11   高座・鎌倉漁業組合結成 藤沢市史年表
1886 明治19     伊東将行、埼玉県川越から居を鵠沼に移す 鵠沼73号
1886 明治19     三觜小三郎、川上九兵衛、加藤徳右衛門ら、鵠沼海岸 2-llに藤沢大鋸の旅館「大鈴木」を移築→鵠沼館 鵠沼73号
1887 明治20 7 11 東海道線、横浜−国府津間開通、藤沢停車場開業 鵠沼74・76・82・84号
1887 明治20 8 宮ノ前、人形山車(那須与一)を新調。技工師林大工 鵠沼12号
1887 明治20 8 苅田、人形山車(徳川家康)を新調。技工師加藤徳太郎 鵠沼12号
1887 明治20     伊東将行、三觜直吉と「武相倶楽部」を創設、別荘地開発に着手 鵠沼56・73号
1887 明治20     三觜小三郎・川上九兵衛ら、鵠沼館(コウショウカン)開業。伊東将行、同旅館に職を得る 鵠沼3・82号
1888 明治21 3 16 新橋−国府津間に急行列車運転 藤沢市史6巻
1889 明治22 4 1 市制町村制施行、鵠沼村は連合組織から分れ1村で独立、役場を字中井におく[郡史] 鵠沼15号
1889 明治22 8 1 鵠沼村、村長=関根庄左衛門、助役=松祐重、収入役=山口房次郎[神奈川県市町村職員録] 鵠沼3号
1889 明治22     この頃宮内省、鵠沼海岸を御用邸の侯補地とする 鵠沼73号
1890 明治23 8 清水、人形山車(神武天皇)を新調。技工師林大工 鵠沼12号
1890 明治23 10   鵠沼村の役場費=317円37銭。教育費=217円05銭 教育史研究99
1890 明治23     井上大次郎、鵠沼海岸2丁目に對江館鵠沼(待潮館とも)開業(1889説も) 鵠沼海岸開発史
1890 明治23     この頃、大給子爵(賞勲局長と誤る)が鵠沼の20万余坪の土地を購入[横浜貿易新報1907.3.4] 20世紀の藤沢
1891 明治24 1 1 歌人=竹屋雅子(1866-?)、鵠沼の知人の別荘に遊ぶ[婦女雑誌第1巻第3号 鵠沼村に遊ぶ記] 個性きらめく
1891 明治24 8 原、人形山車(日本武尊)を新調。技工師加藤徳太郎 鵠沼12号
1892 明治25 3 19 鵠沼学校、尋常鵠沼小学校と改称(勅令第215号改正小学校令) 鵠沼15号
1892 明治25 7   農科大学(後に東大)教授=石川千代松博士、鵠沼でホウネンエビ(Branchinella kugenumaensis)を発見 鵠沼77・78号
1892 明治25 8 宿庭、人形山車(源 義経)を新調。技工師林大工 鵠沼12号
1892 明治25 11   皇太子(大正天皇)皇族、鵠沼海岸で学習院の水泳訓練を見学 鵠沼62号
1892 明治25 11   伊東将行、行遊客の誘致策として貸別荘風の東屋建設 鵠沼1・56・62・82号
1892 明治25     吉村鉄之助、鵠沼館の北東に子女の療養のため別荘を建てる 鵠沼海岸開発史
1892 明治25     伊東将行・木下利吉・米三郎、大給子爵所有の約25万坪を別荘地として開発を目論む 鵠沼海岸開発史
1893 明治26     飯尾常吉、中郡須賀から車田町(現鵠沼神明)に居を移す[飯尾常吉翁碩徳碑] 鵠沼30号
1894 明治27 6 20 関東南部を中心強震。震度6。M7。横浜・川崎地区被害あり。安政江戸地震以来の烈震という 鵠沼50号
1894 明治27 8 14 哲学者=大西操山(祝 1864-1900)、鵠沼に遊び、短歌7首を詠む[大西祝・幾子書簡集] 個性きらめく
1894 明治27     御用邸は土方伯爵の推奨により葉山に決定 鵠沼73号
1894 明治27     この年の鵠沼村、漁業戸数=150戸・250人、水産製造戸数=75戸・120人[水産事項特別調査下巻T] 藤沢市史6巻
1894 明治27     この年の鵠沼村漁獲期、イワシ=3〜5月、カツオ=7〜9月[水産事項特別調査下巻T] 藤沢市史6巻
1895 明治28 1 15 東京予防病院長=松島玄景、日清戦争の送還患者転地療養施設として鵠沼館を選定[読売新聞] 湘南の誕生
1895 明治28 5   尋常鵠沼小学校、2教室増築、運動場拡張 藤沢市教育史
1895 明治28 6   鵠沼村石上で盛進社若尾製糸場始業(釜数=200、藤沢地域では最大の工場だった) 鵠沼15号
1895 明治28 8   『風俗画報』第97号に、神奈川県の海水浴場として鵠沼などが紹介される 藤沢市史年表
1895 明治28 9   尋常鵠沼小学校、尋常補習科開設 藤沢市教育史
1895 明治28     石川千代松博士、『動物学雑誌』第7巻にホウネンエビについて英文で記載 鵠沼77号
1896 明治29 2 19 川口村村会、福井直吉らにより出されていた電気鉄道敷設願に対する内容の審査→満場一致で同意 鵠沼83号
1896 明治29 4 21 石上神社を境川沿いの低地から現石上駅南東方に移転(水害に遭いやすかったため) 石上神社記念碑
1896 明治29 7 20 鵠沼海岸沖で三河の千石船が暴風により難破→供養のため龍王社を祀る 百年の歴史
1896 明治29     鵠沼村の役場費279円68銭、教育費498円20銭 藤沢市史年表
1896 明治29     内藤千代子(1893.12. 9-1925. 3.23)の一家、東京下谷から鵠沼の知人の別荘に転居[生ひ立ちの記] 鵠沼78号
1896 明治29     藤沢宿大久保町名主=堀内悠久の次男堀内松麿、『藤沢沿革考』刊行(全6巻、上下2冊) 藤沢市史7巻
1897 明治30 2   松良夫、鵠沼村村長に就任[現在の藤澤] 鵠沼15号
1897 明治30 7 9 画家=長谷川路可(1897-1967 本名杉村龍三、父:杉村清吉・母:長谷川たか)、誕生 百年の歴史
1897 明治30 8 仲東、人形山車(浦島太郎)を新調。世話人関根元次郎、技工師加藤徳太郎、彫刻師後藤軒茂正刻之 鵠沼12号
1897 明治30 9 9 暴風雨。暴風雨とうんかにより収穫2割減 鵠沼22号
1897 明治30 9   万福寺本堂、消失(※1899年説あり 有賀密夫遺稿集
1897 明治30   小説家=広津柳浪(1861-1928)、東屋に滞在。小説『くされ縁』を執筆。水蔭・眉山と親交(片瀬水蔭宅) 鵠沼82号
1897 明治30   井上大次郎、「對江館](待潮館とも)開業か 鵠沼82号
1897 明治30     鵠沼村、戸数=330戸、人口=2,540人、男1,285、女1,255[神奈川県統計書] 藤沢市史3巻
1897 明治30     内藤千代子の一家、鵠沼の知人の別荘から鵠沼本村(鵠沼海岸7-21-10 山口紋蔵宅)の農家の離れに転居 鵠沼78号
1897 明治30     旅館東屋新築。長谷川ゑい、この頃経営に参加か 鵠沼82号
1897 明治30     〜1902頃、大給子爵、木下米三郎に測量・区割りさせて大地図作成 鵠沼73号
1897 明治30     高座郡農会結成 藤沢市史3巻
1898 明治31 7 17 普門寺中興=生田浄耕(俳号:如蕉)、入寂。享年64。(本鵠沼5-2の塔婆型墓碑) 鵠沼35号
1898 明治31 8 原、人形山車上層の化粧幕を新調 調製:藤沢田安 縫製:神田田中嘉七 鵠沼12号
1898 明治31 8 20 『風俗画報』に、壮大な東屋のイラスト掲載。鵠沼は「皆茅屋にして閑雅愛すぺし」 鵠沼73・82号
1898 明治31   小説家=小泉八雲(1850-1904 Lafcadio Hearn)、家族と共に東屋に3週間滞在 鵠沼82号
1898 明治31 12 20 江之島電気鉄道(藤沢−片瀬駅間)、敷設の仮免許が下りる 鵠沼83号
1898 明治31     内藤千代子に妹かめ誕生。父の手で千代子の教育始められる。この後終生学校教育とは無縁 鵠沼78号
1899 明治32 6   医学士=高嶋吉三郎、『海水浴・附録海水浴場略案内』刊行、片瀬・鵠沼海岸を紹介 藤沢市史年表
1899 明治32 7 17 横浜居留の外国人の行動を制限する居留地制度、撤廃 鵠沼海岸開発史
1899 明治32 8 20 『江島・鵠沼・逗子・金沢名所図会』を東洋堂が発行 藤沢市史年表
1899 明治32 9   万福寺本堂、消失(※1897年説あり 鵠沼寺院考
1900 明治33 4   鵠沼村に鵠沼肥料設立 藤沢市史年表
1900 明治33 8 18 小学校令改正により授業料廃止、尋常小学校の義務教育4年となる[大和史] 鵠沼15号
1900 明治33 9   小説家=徳冨蘆花(1868-1927)『思出の記』1901年3月まで国民新聞に連載、10年前の鵠沼を描写 鵠沼62・74号
1900 明治33 10 8 鵠沼村農会、設立(会長=斎藤弥五右衛門、代表者=山上三之助)[藤沢市史6巻] 鵠沼15号
1900 明治33 10 23 〜1901/4/12。小説家=齋藤緑雨(1867-1904)、東屋に滞在。『日記』を残す[日記] 鵠沼75・82・83号
1900 明治33 11 25 江之島電気鉄道株式会社設立総会開催(設立登記は12月4日) 鵠沼83号
1900 明治33     境川「山本橋(現上山本橋)」、県費による架け替え工事完成 川口村郷土誌
1901 明治34 2 10 〜3月、徳冨蘆花(1868-1927)、『おもひ出の記』取材で鵠沼に滞在し、東屋の齋藤緑雨を訪ねる[富士] 鵠沼82号
1901 明治34 4 13 齋藤緑雨、東屋仲居金澤タケ(フミ)を伴い、鵠沼を後に小田原に発つ[日記] 鵠沼82号
1901 明治34 4 20 東京人類学会雑誌第16巻181号、鵠沼村字下藤ヶ谷で新遺跡発見:八木奘三郎の記事掲載 百年の歴史
1901 明治34 6   江之島電気鉄道(藤沢−片瀬駅間)、敷設工事起工 鵠沼83号
1901 明治34 8   画家=河合玉堂(1873-1957)、対江館に来遊。『清風涼波』のスケッチを残す 鵠沼82号
1901 明治34 9   海水浴場で酌婦・貸座敷の取り締まり 藤沢市史年表
1901 明治34     小説家=内藤千代子(1893-1925)の一家、鵠沼本村の農家の離れから現鵠沼松が岡の新居に転居 鵠沼78号
1901 明治34     長谷川欽一、姉=榮を頼って東京から鵠沼村6642に転居(数え2歳) 鵠沼55号
1902 明治35 1 23 江之島電気鉄道、鵠沼村長より軌道用地を無償譲受 江ノ電の100年
1902 明治35 3 4 P三郎、鵠沼中藤ヶ谷7200、藤ヶ谷停留所東側の百両山砂丘一帯の山林2万坪余をP彌一名義で購入 旧土地台帳謄本
1902 明治35 4   尋常鵠沼小学校、尋常補習科を廃して高等科を併設し、尋常高等鵠沼小学校となる 鵠沼15号
1902 明治35 6 小説家=大塚楠緒子(1875-1910)、母と娘と共に鵠沼に滞在[鵠が沼たより:心の花] 個性きらめく
1902 明治35 6   長谷川欽一、父の病没のため数え3歳で家督を継ぐ 鵠沼55号
1902 明治35 7   漁業法に加行。県の管轄で沿岸漁場区面制定、漁業組合の設立を奨励→網元の登録、認可、漁場の制限 鵠沼84号
1902 明治35 8 2 江之島電気鉄道(藤沢−片瀬駅間 3.4km)、敷設工事完了 藤沢市史年表
1902 明治35 9 1 江之島電気鉄道藤沢片瀬間営業運転開始 使用車両=4両(藤が谷付近のカーブで脱線、負傷者が出る) 鵠沼15・56・83号
1902 明治35 9 1 寺田寅彦(帝大3年)、江之島電気鉄道開通を期に江の島・鎌倉小旅行を企画するも事故で徒歩となる 寺田寅彦日記
1902 明治35 12 20 鵠沼浦漁業協同組合設立認可、組合長山上八造(宿庭)、幹事横田原太郎(苅田)組合員10名 鵠沼15・84号
1902 明治35     鵠沼村、戸数=370戸、人口=2,830人、男1,401、女1,429[神奈川県統計書] 藤沢市史3巻
1903 明治36 3 25 帆足可成(本名:信、別号:松岡庵。陸軍軍吏で俳人)、死去 鵠沼30号
1903 明治36 4 6 関根総四郎(清水)、神奈川県漁業許可証(第2623号 地曳網漁業)を得る 鵠沼84号
1903 明治36 8   歌人=川田 順(1882-1966)、鵠沼で避暑[心の花]夏くらす渚のまちのかり家の小庭うづむるあぢさゐの花 個性きらめく
1903 明治36   詩人=長田秀雄(1885-1949)、藤沢の鵠沼に友達と避暑に行き、知人の別荘に滞在[鵠沼の砂丘] 近代文学年表
1903 明治36 9   下鰯の細川家別邸内に慈教庵(本真寺の前身)建立。開山は颯田本眞尼(1845-1928)※11月とも 鵠沼44号
1903 明治36     森鴎外、日露戦争従軍中に鵠沼の海を詠んだ『海』をつくる[うた日記] 藤沢文学年表
1904 明治37 3   帆足可成句碑、鵠沼藤が谷 3-10 賀来神社境内に造立(こがらしの落行くあとや水の月) 鵠沼15・30号
1904 明治37 4   上藤ヶ谷北端の高砂砂丘、旋風による侵食の際に多数の土器が出土 現代の藤澤
1905 明治38 5 10 賀来神社の鳥居を木下米三郎が寄贈 百年の歴史
1905 明治38 6 7 地震(M=7.5震度6.2) 鵠沼16号
1905 明治38 6 11 横浜貿易新報に東屋旅館の紹介記事(鵠沼海岸の旅館は東屋のみになる) 20世紀の藤沢
1905 明治38 6   鵠沼村関根万蔵ほか2名、水車設置願を県知事に提出・認可される 鵠沼62号
1905 明治38     賀来神社、郷社となる 現地調査
1905 明治38     普門寺に日露戦役戦死戦病没者英魂供養碑造立(総高240cm) WEBsite
1906 明治39 2   尋常高等鵠沼小学校に実業補修学校を併設 藤沢市教育史
1906 明治39 4 6 小説家=武者小路実篤(1885-1976)、兄=公共と鵠沼に行き2泊する 個性きらめく
1906 明治39 4 8 轄h苣ク器、鵠沼神明1-3-1で創業。わが国で初めてベアリングテーナー(軸受保持器)の国産化に成功 WEBsite
1906 明治39 7   内藤千代子の父=広蔵、肺結核にて没 鵠沼78号
1906 明治39 7 9 内藤千代子の妹かめ、村の小学校に入学 鵠沼78号
1906 明治39 10 9 大給近孝・伊東将行、賀来神社を神奈川県高座郡鵠沼村下藤が谷の当地に再度遷座し、寄付登記 鵠沼73号
1906 明治39 10 25 長谷川欽一、本籍を東京から鵠沼村6642に移す 東屋旅館物語
1906 明治39 11 19 鵠沼引地10番地に郵便鉄柱箱設置[現在の藤澤] 鵠沼15号
1906 明治39 12 30 長谷川ゑい、戸主=長谷川欽一から分家。本籍は鵠沼村6642と変わらず 東屋旅館物語
1906 明治39     埼玉県吹上出身の医師=福田良平、伊東将行の招聘で東屋近くに鵠沼海浜病院を開く 東屋旅館物語
1906 明治39     鵠沼地区の甘藷収穫高=90万貫、繭生産高=1,528石、牛=12頭、馬=20頭、豚=52頭、家禽=2,400羽[藤沢志稿] 藤沢市史6巻
1907 明治40 1 1 鵠沼郵便局、鵠沼下岡6642(鵠沼海岸2-8-26)に開設(初代局長=浅場金兵衛) 鵠沼62・81号
1907 明治40 1   長谷川たか、戸主=長谷川欽一から分家。本籍を鵠沼村7365に独立 東屋旅館物語
1907 明治40 3 21 尋常小学校の義務教育6年となる[大和史] 鵠沼15号
1907 明治40 4   神明宮、勅令第96号神社に指定 鵠沼3・34号
1907 明治40 9   P彌一、旧制第一高等学校英法科・文科に入学 鵠沼89号
1907 明治40 10 18 武者小路実篤(〜23)、志賀直哉(〜26)と東屋に滞在して『白樺』発刊を相談[志賀日記] 鵠沼82号
1907 明治40     鵠沼村空乗寺、厚木の古寺を譲り受けて建て替え※1909年説も わがまちの
1907 明治40     画家=長谷川路可(1897-1967)の両親、離婚。路可は母=たかが引き取る(本名:長谷川龍三となる) 百年の歴史
1907 明治40     鵠沼村、戸数=355戸、人口=2,696人、男1,318、女1,378[神奈川県統計書] 藤沢市史3巻
1908 明治41 2 5 江之島電氣鉄道、電灯電力供給開始 江ノ電の100年
1908 明治41 4 1 高座郡藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併、藤沢町となる。合併人口15043人。 鵠沼15号
1908 明治41 4 1 鵠沼村立尋常高等鵠沼小学校、藤沢町立尋常高等鵠沼小学校となる 藤沢市教育史
1908 明治41 4 1 藤沢町農会、結成 藤沢市史3巻
1908 明治41 4 8 藤沢町、等級選挙を実施、1・2級議員合計各12名を選出 藤沢市史年表
1908 明治41 5 23 文学結社=硯友社一行(思案、眉山、桂舟、龜石、小波、程山、風谷、柳浪といふ顔觸)、東屋へ旅行会 鵠沼82号
1908 明治41 6 8 藤沢町会議員選挙 藤沢市史年表
1908 明治41 6 14 第1回藤沢町会招集、町会会議細則可決、初代町長に松良夫(鵠沼)選出 鵠沼15号
1908 明治41 8 堀川、人形山車(仁徳天皇)を新調。技工師鎌倉郡腰越津村神戸の宮大工=松井条三郎・彫刻は後藤軒茂正 鵠沼12号
1908 明治41 9 17 鵠沼実業補修学校開校[市史3巻] 鵠沼15号
1908 明治41 11   内藤千代子、『女學世界』8巻15号の懸賞日記文に『田舎住ひの處女日記』応募、3等入選。賞金10円 鵠沼78号
1908 明治41 12   江之島電気鉄道、片瀬大源太に発電所設置 常時325KWを発電。225KWを鉄道に、100KWを家庭用に供給 鵠沼海岸開発史
1909 明治42 3 4 武者小路実篤、東屋に4日間滞在。後に『お目出たき人』に作品化 鵠沼82号
1909 明治42 3 13 尋常高等鵠沼小学校、過失により出火。被害僅少 藤沢市教育史
1909 明治42 3   医師=福田良平、長谷川ゑいの妹=蝶と結婚 東屋旅館物語
1909 明治42 4   尋常高等鵠沼小学校、校舎増築着工(請負:浜野林蔵) 藤沢市教育史
1909 明治42 4   江之島電気鉄道よりの電力供給を受け、鵠沼に電気が通じる 鵠沼79号
1909 明治42 5   尋常高等鵠沼小学校、校舎増築竣工 藤沢市教育史
1909 明治42 7 23 〜31、小説家=里見 ク、友人中村貫之と東屋に滞在。後に『潮風』に鵠沼海岸を描写[鵠沼物語] 東屋旅館物語
1909 明治42   今井達夫(5歳)、父親の療養のため、両親と共に鵠沼「東屋旅館」の貸別荘で過ごす 鵠沼41号
1909 明治42     空乗寺23世=慶心、厚木の中古本堂を移築(現空乗寺本堂)※1907年説も 鵠沼37号
1909 明治42     内藤千代子、『女學世界』9巻15号の懸賞に『嫁に行かぬ人』応募、2等入選。賞金30円 鵠沼78号
1910 明治43 3 7 石榑千亦ら竹柏園「心の花」同人11人、鵠沼相陽館(?)で野遊会[三月七日] 個性きらめく
1910 明治43 4   画家=長谷川路可(1897-1967)、暁星学校中学部に進学(寄宿舎に居住) 画文集
1910 明治43 4   文芸誌『白樺』、創刊(このとき同人13名) 鵠沼5・20号
1910 明治43 6 21 P三郎、横浜市太田町4-75から藤沢町鵠沼7155へ転籍届提出 鵠沼89号
1910 明治43 8 1 『女學世界』に上原綾子(内藤千代子の友人)が『鵠沼海岸半日の清遊』を掲載。對江館の名がある 鵠沼77号
1910 明治43 8 1 〜14、関東・東北台風による豪雨 高座郡農作物被害大 鵠沼22・72号
1910 明治43 8 7 小説家=芥川龍之介(1892-1927)、藤沢鵠沼に行き、親戚の別荘に滞在中の友人を訪ね、滞在する。 近代文学年表
1910 明治43 8 15 鵠沼懇親会地元有志により開催、海水浴場施設の改善・地元住民の親睦を目的、700名余参会 鵠沼62号
1910 明治43 10 30 江之島電気鉄道、藤沢−小町駅間、10.2km全線開通 鵠沼83号
1910 明治43     県立農事試験場蚕業部(後に原蚕種試験場)、鵠沼横須賀(現日本精工敷地)に設立 藤沢市史6巻
1910 明治43   田中安・カネ、對江館を買い取り、「中屋」と名を変えて営業 鵠沼82号
1910 明治43     内藤千代子、『女學世界』10巻2号の懸賞文に『思ひ出多き函根の湖畔』応募、1等入選。賞金50円 鵠沼78号
1910 明治43     旧松山藩主=久松定謨伯爵家、大給子爵の土地数千坪購入 鵠沼海岸開発史
1911 明治44 7   藤沢町会、尋常高等鵠沼小学校増改築に関する実地調査→10教室校舎新築を決す 教育史研究99
1911 明治44 8 24 岸田劉生の『村娘像』のモデル、川戸マツ(旧姓葉山)、誕生 鵠沼78号
1911 明治44 9 1 『青鞜』創刊。森しげ女(森鴎外夫人)、小説『死の家』で鵠沼訪問記を書く WEBsite
1911 明治44 9   P彌一、帝国大学文科大学に転科 鵠沼89号
1911 明治44 9   内藤千代子、初の単行本『スヰートホーム』発行人河岡勝で刊行 鵠沼78号
1911 明治44 10 4 江之島電気鉄道、横浜電気鰍ニ合併。→横浜電気轄]之島電気鉄道部となる 江ノ電百年物語
1911 明治44 11 21 尋常高等鵠沼小学校の分教場設置が話題となる[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1911 明治44 11   〜1912.3、東京帝大生=和辻哲郎(18891-1960)、卒業論文執筆のために中藤ヶ谷のP邸に滞在 鵠沼87・89号
1911 明治44 12 7 藤沢町会で尋常高等鵠沼小学校の改築等を検討 20世紀の藤沢
1911 明治44 12   小説家=谷崎潤一郎(1886-1965)、東屋に滞在して『悪魔』を執筆 鵠沼82号
1911 明治44 12   内藤千代子、単行本『ホネムーン』発行人河岡勝で刊行 鵠沼78号
1912 明治45 6 1 武者小路実篤、のちに妻となる房子と鵠沼に行き、鵠沼館で昼食をとる。11月『世間知らず』として発表 鵠沼82号
1912 明治45 6 27 哲学者=和辻哲郎(1889-1960)、P 照と京都平安神宮で結婚→東京大森に新居を構える 鵠沼87・89号
1912 明治45 7   鵠沼海水浴場準備、伊東将行らが尽力、旅館「あづまや」などを増築 鵠沼62号
1912 明治45 7   大橋良平、『現在の鎌倉』(通友社)で鵠沼海岸別荘地の発展について記述 鵠沼73号
1912 大正 1 8 5 藤沢町会で尋常高等鵠沼小学校新築等のための起債提案 藤沢市史年表
1912 大正 1 10 20 志賀直哉、一家で鵠沼に遊び、後に小品『鵠沼行』として発表[文章世界] 鵠沼82号
1912 大正 1 11 28 三井銀行大阪支店長=菊本直次郎、下藤ヶ谷7393の別荘地3800余坪を伊藤幹一より購入→菊本別荘 鵠沼87号
1912 大正 1   〜1923/9、今井達夫、父親の療養のため、横浜・野毛から鵠沼に転居。鵠沼小学校3年に転入 鵠沼41号
1912 大正 1 12   内藤千代子、単行本『エンゲーヂ』博文館より刊行 鵠沼78号
1912 大正 1     医師=平野友輔、尋常高等鵠沼小学校校医に就任 藤沢市史年表
1913 大正 2 2   神田淡路町大給子爵邸の三七稲荷を東屋主人伊東将行らが鵠沼に移築、賀来神社となる 藤沢市史年表
1913 大正 2 2   尋常高等鵠沼小学校校舎工事を鵠沼加藤徳太郎が請け負い、起工 教育史研究99
1913 大正 2 2   内藤千代子、『―身の革命』を『女學世界』に発表 鵠沼78号
1913 大正 2 6 20 尋常高等鵠沼小学校校舎、現在地に移転 藤沢市史年表
1913 大正 2 8 10 尋常高等鵠沼小学校落成式 藤沢市史年表
1913 大正 2 8 24 鵠沼海岸で遊行上人を大導師に施餓鬼法要を開催[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1913 大正 2 8   東海道線、複線化完成 藤沢市史6巻
1913 大正 2   雑誌記者=中平文子(1888-1966)、慈教庵に潜入ルポを試みる 続個性きらめく
1914 大正 3 1 4 〜1/6、小説家=芥川龍之介(1892-1927)、鵠沼の山本喜誉司(後の妻=文の母の弟)家の別荘に遊ぶ 鵠沼5・83号
1914 大正 3 4 10 横浜貿易新報、『鵠沼の大発展』の記事掲載 鵠沼81・82号
1914 大正 3 4 30 哲学者・小説家=阿部次郎(1883-1959)、単身で鵠沼中藤ヶ谷P邸の離れに住む[全集書簡] 鵠沼89号
1914 大正 3 4   大給子爵家、東屋付近の土地の貸与・分譲を実施、別荘地としての鵠沼の発展をすすめる 藤沢市史年表
1914 大正 3 5 27 阿部次郎、鵠沼中藤ヶ谷P邸の離れから一旦帰京[全集書簡] 近代文学年表
1914 大正 3 6 17 阿部次郎、鵠沼中藤ヶ谷P邸の離れに戻る。以来断続的に滞在を繰り返す[全集書簡] 近代文学年表
1914 大正 3 9 14 台風西日本から関東地方に来襲被害甚大 鵠沼22号
1914 大正 3 10   内藤千代子、単行本『生ひ立ちの記』牧民社より刊行 鵠沼78号
1914 大正 3 11 2 小泉 鉄(マガネ 1886-1954)、鵠沼納屋に移住して『白樺』編集にあたる[白樺] 鵠沼82号
1914 大正 3 12 13 長谷川路可、暁星学校にてハンベルクロード神父より受洗。洗礼名:ルカ(ロカ=画家の守護聖人) 画文集
1914 大正 3 12 30 〜1915/1.12、武者小路実篤、東屋で越年。戯曲『その妹』の執筆を開始[全集書簡] 鵠沼82号
1914 大正 3     有田金八、鵠沼海岸に蕎麦屋名月庵を開く(現在の有田商店の前身) 東屋旅館物語
1915 大正 4 1 12 武者小路実篤、東屋から妻房子、養女喜久子ととも芳藤園に移り、戯曲『その妹』などを執筆[或る男] 鵠沼15・20・82号
1915 大正 4 3   画家=長谷川路可(1897-1967)、暁星学校中学部を卒業 画文集
1915 大正 4 4 18 これ以前に武者小路実篤、旧鵠沼下岡6708(現在の鵠沼松が岡3-8-29〜31)の川元別荘に転居[全集書簡] 鵠沼15・20号
1915 大正 4 6   内藤千代子、単行本『惜春賦』誠文社より刊行。「毒蛇」の掲載『女學世界』15巻8号より始まる 鵠沼78号
1915 大正 4 9 5 武者小路実篤一家、鵠沼から東京千駄ヶ谷へ転居[全集書簡]※1916.2とも 鵠沼20号
1915 大正 4 9   哲学者=和辻哲郎・照夫妻、照の実家の現鵠沼藤が谷のP邸内に移住[和辻哲郎とともに] 鵠沼87・89号
1915 大正 4     旧松山藩主=久松定謨伯爵家、鵠沼海岸に別荘建築 鵠沼海岸開発史
1915 大正 4     小説家=杉原善之介、武者小路実篤を慕って鵠沼に借家(川元別荘?)→後に片瀬に移る 個性きらめく
1916 大正 5 1 29 鵠沼にトラホーム指定治療所の開設決定 藤沢市史年表
1916 大正 5 1   東屋の初代女将=長谷川榮(ゑい)、腸閉塞のため鎌倉の病院で死去。姉=たか、2代目女将となる 鵠沼55・82号
1916 大正 5 2   武者小路実篤、鵠沼川元別荘から小石川区小日向台町に転居※1915.9とも WEBsite
1916 大正 5 3   教育者・哲学者=安倍能成(1883-1966)、鵠沼中藤ヶ谷7200 P邸内に居住[我が生ひ立ち] 鵠沼87号
1916 大正 5 4 1 財団法人私立藤嶺中学校、開校。今井達夫、1期生として入学 鵠沼別冊
1916 大正 5 4 1 P彌一、藤嶺中学校教諭に着任 鵠沼89号
1916 大正 5 4   画家=長谷川路可、東京美術学校日本画科に入学。巣鴨区雑司ヶ谷に従弟の長谷川欽一と住む 画文集
1916 大正 5 6   小説家=中 勘助(1885-1965)、中藤ヶ谷の安倍能成を訪れ、P家離れに1月程滞在[亮ちゃんの思ひ出] 近代文学年表
1916 大正 5 10 6 鵠沼漁場に川口村片瀬の小池治三郎が地引き網を仕掛け、鵠沼漁民が阻止しようと乱闘[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1916 大正 5 11   小泉 鉄(1886-1954)、鵠沼を去る 鵠沼82号
1916 大正 5 12 20 実業家=P三郎、胃癌のため鵠沼中藤ヶ谷7200にて死去。享年57 鵠沼断想
1916 大正 5     画家=椿 貞雄(1896-1957)、鵠沼八軒別荘に居住。岸田劉生と親交を結ぶ※1920年・1923年とも WEBsite
1916 大正 5     画家=硲 伊之助(1895-1977)、鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)に居住 鵠沼83・83・84号
1916 大正 5     高座郡養蚕業組合、結成 藤沢市史3巻
1917 大正 6 1 16 陸軍航空大隊第5期練習将校、3機で耐寒飛行のため所沢から鵠沼汐入の洲に着陸。伊東将行らが歓迎会 鵠沼82号
1917 大正 6 2 22 画家=岸田劉生、鵠沼の佐藤別荘に移住 鵠沼15・26・78・82号
1917 大正 6 3 14 P彌一、阿川つると結婚・入籍 鵠沼89号
1917 大正 6 3   P彌一、清浄光寺(遊行寺)直檀墓地にP家墓所を建てる 墓誌
1917 大正 6 4   藤沢町、別荘地内の道路新設と修築工事完成 鵠沼海岸開発史
1917 大正 6 5 10 鵠沼地内(上山本橋〜石上〜鵠沼停留所〜海岸)の道路開通式P邸内で開催 鵠沼62号
1917 大正 6 5   小説家=久保田万太郎(1889-1963)、祖母とともに東屋に滞在して『末枯』を執筆→10月三田文学に発表 鵠沼82号
1917 大正 6 6 24 画家=岸田劉生(1891-1929)、松本別荘(鵠沼下岡6732-13・現鵠沼松が岡4-7-10)へ移る 鵠沼15・26・76号
1917 大正 6 6   内藤千代子、単行本『冷炎』京橋堂より刊行 鵠沼78号
1917 大正 6 7 15 藤沢町役場主催の鵠沼海岸海水浴場開き開催。余興に芝居興行・打ち上げ花火[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1917 大正 6   画家=中川一政(1893-1991)、岸田劉生宅に1か月ほど滞在[岸田劉生氏の事共] 近代文学年表
1917 大正 6 9 1 東洋学者・歌人=P笑子(ミネソタ大学名誉教授)、鵠沼中藤ヶ谷にて実業家=P彌一の長女として誕生 鵠沼断想
1917 大正 6 9 30 境川、暴風雨による氾濫のためほぼ現在の河道に付け変わる。高波で堀川の田が全滅 鵠沼10・22・62号
1917 大正 6     志賀直哉、『鵠沼行』を著す。(1912年の家族旅行を作品化) 鵠沼43号
1918 大正 7 3   尋常高等鵠沼小学校、運動場2反歩を拡張 藤沢市教育史
1918 大正 7 3   〜9月、谷崎潤一郎、東屋の離れにせい子と滞在。小説『金と銀』『小さな王国』を執筆。里見クと交流 鵠沼15・75・82号
1918 大正 7 3   安倍能成、鵠沼中藤ヶ谷7200から転出 WEBsite
1918 大正 7 4 9 中藤ヶ谷7200-34、P名義の山林、9.414反、山口寅之輔(東京四谷区愛住町44)名義となる 旧土地台帳謄本
1918 大正 7 6 7 和辻哲郎・照夫妻、藤ヶ谷P邸内より東京へ転居。阿部次郎も和辻哲郎宅を去る[和辻哲郎とともに] 鵠沼89号
1918 大正 7 7 1 江ノ島自動車、藤沢―片瀬乗合バスを開業 江の島桟橋物語
1918 大正 7 7   内藤千代子、単行本『春雨』京橋堂より刊行 鵠沼78号
1918 大正 7   高木和男(会員)、鵠沼に移住 鵠沼10号
1918 大正 7   岸田麗子、初めて父=劉生の『麗子五歳の像』のモデルとなる 鵠沼26・76号
1918 大正 7 9   新潮社創業者=佐藤義亮(1878-1951)、胃腸病静養のため鵠沼海岸に転地する 近代文学年表
1918 大正 7 10   俳人=西東三鬼(1900-1962)、母の死により鵠沼松が岡の長兄のもとに引き取られる[全句集年譜] 近代文学年表
1918 大正 7   茅野雅子、長女=晴子の療養でP邸に滞在 鵠沼89号
1918 大正 7 12   海軍軍人・民族学者=松岡静雄(1877-1936)、海軍を依願退職 鵠沼75号
1918 大正 7     この頃、元東大法学部教授シュテルンベルク(独)現鵠沼松が岡4-7松本別荘に移住。「ステルンさん」 鵠沼80号
1918 大正 7     画家=硲伊之助、第5回二科展で『鵠沼の白い橋』『鵠沼風景』など26点を出品し再度二科賞を受賞する 鵠沼83号
1919 大正 8 6 29 P彌太郎、P彌一の長男として誕生 鵠沼89号
1919 大正 8 6   藤沢実科女学校校庭で「汽車会」大会を開催[横浜貿易新報] 鵠沼85号
1919 大正 8 7 1 藤沢―片瀬間の乗合自動車(江之島自動車)、運転開始 藤沢市史年表
1919 大正 8 7 5 横浜貿易新報に「県下の避暑地」として鵠沼紹介記事掲載 20世紀の藤沢
1919 大正 8 10 22 P彌一、川袋2370-1の畑を武藤正五郎より購入。一部に邸宅を建設[鵠沼断想] 鵠沼73号
1919 大正 8 10 27 P彌一、砥上2336-1の山林を田中半七より購入[旧土地台帳謄本] 鵠沼89号
1919 大正 8 10   内藤千代子、単行本『毒蛇』三徳社より刊行 鵠沼78号
1919 大正 8 12 16 鵠沼郵便局、鵠沼海岸6660番地に新築・移転 鵠沼62・81号
1919 大正 8 12   小説家=網野 菊(1900-1978)、卒業論文制作のため、河崎なつ子と冬休みの2週間を鵠沼慈教庵に滞在 鵠沼45号
1919 大正 8     P彌一、川袋2370-1の土地の一部に邸宅を建設[鵠沼断想] 鵠沼73号
1919 大正 8     藤沢江の島線、県道に認定(=片瀬県道) 藤沢市史年表
1920 大正 9 1 1 画家=岸田劉生、数え年30才になったことを期に『鵠沼日記』を1925年7月まで5年7ヵ月にわたり記述 鵠沼26号
1920 大正 9 2   山口寅之輔、現湘南学園海側にあたる旧大給邸跡地を入手[旧土地台帳謄本] 鵠沼89号
1920 大正 9 2 〜3月末、武林無想庵(1880-1962)、東屋九号室に滞在。中平文子・内藤千代子と知り合う[放浪第二信] 鵠沼75・79・82号
1920 大正 9 2   飯尾常吉、死去[飯尾常吉翁碩徳碑] 鵠沼30号
1920 大正 9 3   岸田劉生の許に葉山サダ(『村娘像』のモデル=マツの母親)が手伝いに入る[鵠沼日記] 東屋旅館物語
1920 大正 9 3   「鵠沼海岸の地価高騰」の記事[横浜貿易新報] WEBsite
1920 大正 9 3   歌人=與謝野晶子(1878-1942)、東家に遊ぶ[太陽と薔薇] 鵠沼88号
1920 大正 9 4 1 藤澤停車塲―鎌倉郡川口村江ノ島間の道路、縣道藤澤停車塲江ノ島線に認定[~奈川縣告示第百二十二號] WEBsite
1920 大正 9 4 1 高座郡藤澤町―鎌倉郡鎌倉町間の道路、縣道藤澤鎌倉線に認定[~奈川縣告示第百二十二號] WEBsite
1920 大正 9 4 18 鵠沼青年団創立[市史3巻] 鵠沼15号
1920 大正 9 4   小説家=武林夢想庵、東屋で中平文子と結婚[藤沢の文学] 鵠沼15号
1920 大正 9 4   今井達夫、藤嶺中学を4年で卒業し、慶應義塾大学文学部予科に入学。渋谷区常磐松の祖母宅に下宿 鵠沼別冊
1920 大正 9 5   〜1921.3、雑誌記者・評論家・翻訳家=木蘇 穀(1893. 8.26-?)、鵠沼海岸の中村武羅夫の隣家に転居 近代文学年表
1920 大正 9 5   県立湘南中学校新設地が、鵠沼の旧原蚕種製造所に決定 藤沢市史年表
1920 大正 9 7 29 伊東将行、脳溢血で死去。享年75 鵠沼56号
1920 大正 9 7   鵠沼村字下岡6672(鵠沼海岸1-9)に米国から輸入した日本最古の組立家屋、内藤邸建設 鵠沼73・79号
1920 大正 9 8 1 鵠沼に電話開設[現在の藤澤] 鵠沼15・62号
1920 大正 9 8 9 文部省告示第396号をもって県立湘南中学校設立認可  藤沢市史年表
1920 大正 9 8 14 尋常高等鵠沼小学校同窓会創立(212名) 藤沢市史年表
1920 大正 9 8 20 神奈川県告示第330号をもって県立湘南高校中学校を高座郡藤沢町鵠沼819番地に設立し大正10年開校決定 鵠沼15号
1920 大正 9 9 1 〜1921/1、小説家=島田清次郎(1899-1930)、中屋の離れに滞在。『地上』第3部を推敲→1921/1発刊 鵠沼82号
1920 大正 9 9 10 P彌一、川袋2370-1の邸宅完成。移転 鵠沼89号
1920 大正 9 9 20 矢代幸雄・松夫妻、協議離婚 鵠沼89号
1920 大正 9 10 1 大雨のため浸水で江ノ電不通[鵠沼日記] 百年の歴史
1920 大正 9 10   日本建築学会発行の専門誌『建築卜社会』10月号に内藤邸組立家屋発注から住宅完成までの経緯を記載 鵠沼79号
1920 大正 9 10   『主婦の友』誌、10月号に内藤邸組立家屋を挿絵入りで掲載 鵠沼79号
1920 大正 9   高木和男(会員)、鵠沼海岸の別荘に定住 百年の歴史
1920 大正 9   小説家=吉屋信子(1896-1973)、中屋に滞在。『海の極みまで』を執筆。『片瀬心中』などの想を得る 鵠沼82号
1920 大正 9 12 9 歌人=與謝野鉄幹・晶子夫妻、北原白秋・西村伊作らと東屋に泊まる[太陽と薔薇] 鵠沼82・88号
1920 大正 9 12   県立湘南中学校新築工事開始 藤沢市史年表
1920 大正 9 12   中島正貴、『鵠沼の或る道』を第8回草土社展に出品 出品目録
1920 大正 9 12   経済学者=野呂栄太郎(1900-1934)、東仲通島田いし宅に滞在[鵠沼時代の野呂栄太郎] 個性きらめく
1920 大正 9 12   伊東将行の功績を顕彰する鵠沼海岸別荘地開発記念碑が、鵠沼藤が谷 3-10 賀来神社境内に建設される 鵠沼15・56・76・90
1920 大正 9     画家=椿 貞雄(1896-1957)、鵠沼八軒別荘に居住。岸田劉生と親交を結ぶ(1916年とも) WEBsite
1920 大正 9     有田金八、蕎麦屋名月庵を閉じ、向かいの芦原を開いて精肉店・食堂に事業拡大 鵠沼9号
1920 大正 9     鵠沼地区に電話開通 鵠沼62号
1921 大正10 2   飯尾常吉翁碩徳碑、鵠沼神明 5-6 白旗稲荷境内に造立 鵠沼15・30号
1921 大正10 3 5 医師=平野友輔、県立湘南中学校校医に就任 藤沢市史年表
1921 大正10 3 5 県立湘南中学校初代校長として、新潟県女子師範学校校長赤木愛太郎赴任 鵠沼70号
1921 大正10 3   画家=長谷川路可、東京美術学校日本画科を卒業 画文集
1921 大正10 4 10 湘南中学、学校・家庭・生徒三位一体の訓育目標と知育・体育・徳育三位一体の教育目標を定める 湘南高校歴史年表
1921 大正10 4 20 県立湘南中学校開校。教師6名 生徒125名[湘友会の歩み]※鵠沼15号は600、高木氏の記憶では80 鵠沼15・70号
1921 大正10 4   〜5.1、評論家=山川均(1880-1958)・菊栄(1890-1980)夫妻、長男の病後保養のため鵠沼海岸に転地 近代文学年表
1921 大正10 5 1 県立湘南中学校、開校祝賀会開催 藤沢市史年表
1921 大正10 5 1 横浜電気梶A東京電燈鰍ニ合併。→江ノ電は東京電燈轄]之島線となる 江ノ電の100年
1921 大正10 5   画家=長谷川路可、日本郵船「加茂丸」にて渡欧。船中で徳川義親侯爵に知己を得る 画文集
1921 大正10 初夏   吉屋信子、東屋に滞在して『海の極みまで』を書きつぐ 近代文学年表
1921 大正10 6 9 東海土地電気、茅ヶ崎〜辻堂〜鵠沼の電気鉄道敷設免許申請 江ノ電の100年
1921 大正10 6 30 各神社の氏子戸数、皇大神宮=280、稲荷社=30、賀来神社=100[社寺に関する文書] 藤沢市史6巻
1921 大正10 7   画家=硲 伊之助(1895-1977)、フランス留学のため鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)を離れる 鵠沼84号
1921 大正10 8 17 〜8.31、思想評論家=林 達夫(1896-1984)、鵠沼川袋のP邸に滞在 個性きらめく
1921 大正10   吉屋信子、中屋で朝日新聞連載小説(7/10〜12/30)『海の極みまで』を執筆 鵠沼82号
1921 大正10 9 25 暴風雨のため浸水で江ノ電不通 百年の歴史
1921 大正10 9 思想家=大杉 栄(1885-1923)、東屋に滞在して『自叙伝』を書き始める。吉屋信子と面会 鵠沼82号
1921 大正10 9   画家=横堀角次郎(1897-1978)、品川区上大崎より鵠沼に転居。岸田劉生と親交 鵠沼78号
1921 大正10 9   山口寅之輔、松島苑入口付近の土地を購入[旧土地台帳謄本] 鵠沼89号
1921 大正10 10 20 藤沢町営の湘南中学校教員住宅が完成 藤沢市史年表
1921 大正10 10 29 大暴風雨により江ノ電の川袋の線路が流され、一方引地川の流路が付け変わる 鵠沼10・22号
1921 大正10 10   小説家=今井達夫、報知新聞に『鵠沼にいた文人』と題して5回連載[藤沢の文学] 鵠沼15号
1921 大正10 10   宇野浩二、東屋に10日余り滞在。『文学の三十年』に里見・久米・芥川・佐佐木・大杉と面会したと書く 鵠沼82号
1921 大正10 10   歌人=山口茂吉(1902-1958)、各務幸一郎の書生として鵠沼の各務別荘に数日間滞在 近代文学年表
1921 大正10 11 4 詩人・小説家=佐藤春夫(1892-1964)、東屋に滞在。『都会の憂鬱』を執筆 鵠沼82号
1921 大正10 11 18 鵠沼海岸で海軍陸戦隊の上陸演習挙行。皇太子(後の昭和天皇)が総監 戦争・軍隊・外地
1921 大正10   小説家=徳田秋声(1871- 1943)、東屋に滞在。後に『私の見た人』を執筆 鵠沼82号
1921 大正10 12 2 県立湘南中学校父兄会創立 藤沢市史年表
1921 大正10 12 26 小説家=江口 渙(1887-1975)、下谷区上野桜木町から鵠沼海岸の借家に転居 個性きらめく
1922 大正11 1   歌人=深尾須磨子(1888-1974)、鵠沼に遊び、短歌『氷雨の谷―鵠沼にて』を発表 近代文学年表
1922 大正11 2   歌誌『明星』2月号に深尾須磨子の『鵠沼にて』、荻野綾子の『湘南にて』掲載 個性きらめく
1922 大正11 3 3 町会議員=加藤徳右衛門ら、藤沢東海道より鵠沼海岸に至る幅4間以上の町道建設を建議[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1922 大正11 3 31 郡制廃止される[市史] 鵠沼15号
1922 大正11 4 26 南関東で地震(M=6.9震度6.3)(浦賀水道地震) 鵠沼16号
1922 大正11 5 21 思想評論家=林 達夫、鵠沼四軒別荘の北から3軒目に居住 個性きらめく
1922 大正11 6   藤沢町会議員第4期改選。P彌一当選[現在の藤澤] 鵠沼89号
1922 大正11 8 5 葉山虎吉(鵠沼の漁師。川戸マツの父親)、死去 鵠沼78号
1922 大正11 8   医師=富士 山(タカシ)、母と共に鵠沼6708に移住、研究の傍ら医院を開業 鵠沼9・33・55・58・93号
1922 大正11   網野 菊、義祖母・弟妹たちと鵠沼の農家に間借りして暮らす[全集年譜] 近代文学年表
1922 大正11 9 25 アナキスト=古田大次郎・中浜鉄、江口 渙宅を訪問。3か月滞在 WEBsite
1922 大正11 9 26 P 芳、林 達夫と結婚。松が岡四軒別荘の北から3軒目に新居を構える 鵠沼89号
1922 大正11 9   江口 渙、少女小説作家=北川千代との結婚生活が破局、借家を古田大次郎・中浜鉄に預け相馬孝と出奔 WEBsite
1922 大正11 10 30 〜11.3、大杉 栄、東屋に投宿。31日は朝飯がすんだら鎌倉行き[伊藤野枝宛書簡] WEBsite
1922 大正11 10 江口 渙の借家を預かっていた中浜鉄、千住に転居 WEBsite
1922 大正11 12 2 北村初雄、東屋にて病没 鵠沼82号
1922 大正11 12 22 東海土地電気梶A大船・鵠沼・辻堂・茅ヶ崎を結ぶ鉄道建設の出願・認可(→大震災で挫折) 鵠沼83号
1922 大正11     P彌一、川袋地区の別荘地開発と藤沢−鵠沼海岸を結ぶ道路建設に着手 鵠沼海岸開発史
1922 大正11     実業家=吉村鉄之助、別荘を大改築 鵠沼海岸開発史
1922 大正11     中根氏はじめ3軒、柳小路に初めて別荘を建てて住みつく 鵠沼56号
1922 大正11     長谷川欽一、日本郵船加茂丸でフランスへ遊学 鵠沼82号
1922 大正11     〜1923.9、歌人=茅野雅子、長女の病気療養のため子ども2人と鵠沼に借家して暮らす(1923.8長女死去) 個性きらめく
1922 大正11     今井達夫、処女詩集『心の風景』を大雲堂書店より刊行 鵠沼別冊
1923 大正12 1   宇野浩二、鵠沼で作品『思い川』のモデル村上八重を知る[文学散歩] 鵠沼15号
1923 大正12 1   江口 渙の借家は家賃棒引き、引っ越し費用警察持ちで明け渡すことを承諾 WEBsite
1923 大正12 4   尋常高等鵠沼小学校、鵠沼尋常高等小学校と改称[現在の藤澤] 鵠沼15号
1923 大正12   美術史家=沢木四方吉(ヨモキチ 1886-1930)、結核療養のため鵠沼に居住[鵠沼物語] 近代文学年表
1923 大正12   画家=椿 貞雄(1896-1957)、鵠沼海岸林別荘に居住。震災まで岸田劉生と親交を結ぶ WEBsite
1923 大正12   東久邇宮妃殿下歓迎のため、鵠沼海岸銀座通りをはじめ江ノ電から大曲を経るメイン道路を2尺拡幅 鵠沼10号
1923 大正12   東久邇宮妃、3人の子女と共に吉村鉄之助別荘で避暑 鵠沼海岸開発史
1923 大正12   海軍大佐・民族学者=松岡静雄(1878-1936)、鵠沼の山口紋蔵の別棟に滞在 鵠沼2号
1923 大正12 8 31 後の歴史学者=江口朴郎(1911-1989)、鵠沼川袋2486(橘2-5-12)に居住 WEBsite
1923 大正12 8 31 文部大臣官房建設課長=柴垣鼎太郎、鵠沼の池で投網をし、ナマズをバケツに3杯捕獲 地震なまず
1923 大正12 9 1 関東大震災(震源:相模湾東部、M=7.9) 藤沢町被害 家屋3200戸 死者104名 重傷者216名[現在の藤澤] 鵠沼15・22・50号
1923 大正12 9 1 鵠沼海岸の慈教庵津波のため倒壊[現在の藤澤] 鵠沼15号
1923 大正12 9 1 東久邇宮第二王子師正王、吉村家別荘で圧死→松岡静雄は遺体を引取りに軍艦を鵠沼沖に廻航させる 鵠沼5号
1923 大正12 9 1 関東大震災により鵠沼小学校校舎倒壊→仮設校舎にて学習。湘南中学校大破し圧死4名。応急修理継続 鵠沼15号
1923 大正12 9 1 川袋P邸全潰。長女=笑子、下敷きとなるも無事。二女=美枝子死亡[鵠沼断想] 鵠沼89号
1923 大正12 9 1 思想評論家=林 達夫、自宅全壊→三輪博士(千葉医事校長)宅に身を寄せ、鵠沼川袋のP邸へ避難 WEBsite
1923 大正12 9 1 鵠沼海岸6642東屋倒壊津波浸水[現在の藤澤] 鵠沼15号
1923 大正12 9 10 東海道線全線不通のところ、この日東京・藤沢間開通[現在の藤澤] 鵠沼15号
1923 大正12 9 16 岸田劉生、鵠沼を去り名古屋へ出発[絵日記] 鵠沼15・26・76号
1923 大正12 9 25 江ノ電、ほぼ全線運転復旧 江ノ電の100年
1923 大正12 9   藤沢町議会、大震災復興のため善後策委員会を設置。委員名の筆頭にP彌一の名がある[現在の藤澤] 鵠沼89号
1923 大正12 9   今井達夫・画家=横堀角次郎(1897-1978)、被災して鵠沼を去る 鵠沼41号
1923 大正12 10 1 湘南中学校、授業を再開 鵠沼11号
1923 大正12     内藤千代子(24歳)、双生児の姉妹を出産 鵠沼78号
1924 大正13 1 15 地震(M=7.3震度5.0)。藤沢北部で被害大 高座郡被害家屋3000軒 死者7名(丹沢地震) 鵠沼16・22・50号
1924 大正13 1   颯田本眞尼、関東大震災で倒壊した慈教庵を現在の本真寺の位置に移し、仮本堂を建立 鵠沼44号
1924 大正13 3 9 大工=浜野林蔵(林大工 宮ノ前・上村・清水・宿庭・大東の人形山車を製作)、死去 享年60 有賀密夫遺稿集
1924 大正13 5   慈教庵、堀川に再建[現在の藤澤] 鵠沼15号
1924 大正13 8   大震災の死亡者供養、海施餓鬼が鵠沼海岸で行われる 藤沢市史年表
1924 大正13 11   鵠沼海岸通の「藤ヶ谷橋」開通式 藤沢市史年表
1924 大正13     松岡静雄、脳溢血で倒れる(47才) 鵠沼23号
1924 大正13     東屋、当時としては数少ない硬球のテニスコートを2面、敷地の一角に造る 鵠沼55号
1924 大正13     東屋・中屋、再建して営業 鵠沼82号
1924 大正13     文芸誌=『白樺』、廃刊 鵠沼5号
1924 大正13     久米正雄、東屋に滞在。作品を執筆 続個性きらめく
1924 大正13     雑誌記者=馬 海松(マ・ヘソン)、久米正雄の原稿受け取りに東屋を訪れ、文藝春秋1925.1に『鵠沼行』を発表 続個性きらめく
1925 大正14 2 26 中国の書画家=呉 昌碩、鵠沼松が岡1丁目の菊本別荘のために『三宜荘』の扁額を書き長男に持たせる 鵠沼87・93号
1925 大正14 3 23 作家=内藤千代子(1893.12. 9-1925)、肺及び咽頭結核で死去。享年31。鵠沼神明の万福寺に埋葬 鵠沼39・78号
1925 大正14 3   関東大震災により倒壊した鵠沼尋常高等小学校、新校舎落成 鵠沼15号
1925 大正14 3   洋画家=塚本茂、東京美術学校を卒業。鵠沼に住み、湘南中学に就職 30日美術展
1925 大正14 4   町立藤沢実科高等女学校(花沢町?)、開校 藤沢市史年表
1925 大正14 5 9 林 巳奈夫(1925年5月9日-2006年1月1日)、林 達夫の長男として誕生 WEBsite
1925 大正14 5   P彌一らによる鵠沼新道開通 藤沢市史年表
1925 大正14 5   震災で倒壊した湘南中学校校舎、竣工 藤沢市史年表
1925 大正14 9 26 歌人=山口茂吉、鵠沼の各務別荘に滞在。短歌『鵠沼海岸』四首を詠む 近代文学年表
1925 大正14 10   松岡静雄、『太平洋民族誌』を岡書院から発行 鵠沼23号
1925 大正14 12 1 雑誌『中央公論』12月号に宮本百合子:『狭い一側面』掲載。鵠沼の東屋に原稿取りに行く話題 WEBsite
1925 大正14 12 13 東海道線、東京−国府津間の電化完成 藤沢市史6巻
1925 大正14     教育者(一高校長)・国文学者=杉 敏介(1872-1960)、鵠沼橘(P通り)に居住 WEBsite
1925 大正14     思想評論家=林 達夫、鵠沼川袋のP邸の離れに滞在[個性きらめく] 個性きらめく
1925 大正14     鵠沼の漁業組合員=12、本業=17戸、副業=148戸、漁船(無動力)=16[神奈川県漁村調査書] 藤沢市史3巻
1925 大正14     鵠沼の地曳網=6張/10隻、巾着網=1張/4隻、ウヅワ釣=2隻、地引網=9張/16隻[神奈川県漁村調査書] 藤沢市史3巻
1925 大正14     高座郡畜産組合、結成 藤沢市史3巻
1925 大正14     相澤土地(土木等業務→不動産業)、本鵠沼で創業。本社は南藤沢に移転。鵠沼桜が岡3-6-20に営業所 WEBsite
1926 大正15 1   評論家=山川均(1880-1958)・菊栄(1890-1980)夫妻、鵠沼海岸から鎌倉乱橋材木座257番地に転居 近代文学年表
1926 大正15 2 22 〜5/25、芥川龍之介が妻と三男也寸志をともなって初めて東屋に滞在。『追憶』を発表し始める 鵠沼5・11・64・82号
1926 大正15 3 4 県立湘南中学校第1回卒業式(79名)。湘南中学校同窓会=湘友会設立  WEBsite
1926 大正15 3 13 鵠沼のP彌一が発起人となり江之島水道鰍創立(資本金125,000円)[藤沢市史6巻] 鵠沼89号
1926 大正15 4 13 芥川龍之介、東屋に滞在。小品『凶』を執筆(遺稿) WEBsite
1926 大正15 4 22 芥川龍之介、鵠沼に静養に行き東屋に滞在する。以後翌年1月ごろまで鵠沼を生活の本拠とする 近代文学年表
1926 大正15 4   〜年末、芥川龍之介の妻=文の母、弟の八洲(ヤシマ)が鵠沼海岸3-11-5あたりに住む 鵠沼83号
1926 大正15 5 5 芥川文、也寸志、也寸志の初節句で一旦田端に戻る WEBsite
1926 大正15 5 25 〜6/8、芥川龍之介、一旦帰京[全集書簡] 近代文学年表
1926 大正15 6 8 〜6/22、芥川龍之介、東屋に滞在 鵠沼82号
1926 大正15 6 22 〜7/6、芥川龍之介、下痢が続くので不安になり、一旦帰京 WEBsite
1926 大正15 6   藤沢町会議員第5期改選。P彌一再選[現在の藤澤] 鵠沼89号
1926 大正15 6   『藤沢町地図』、刊行 鵠沼26号
1926 大正15 7 6 芥川龍之介、東屋に滞在。小品『鵠沼雑記』を執筆。茂吉の勧めで、貸し別荘「イ−4号」を借りる 鵠沼82号
1926 大正15 7  17 江ノ電、鉄道延長敷設免許申請「鵠沼〜大船」 江ノ電の100年
1926 大正15 7 19 江ノ島電気鉄道椛n立総会。資本金:100万円 江ノ電の100年
1926 大正15 7 20 芥川龍之介、妻と三男也寸志をともなって「イ-4号」に転居。比呂志、多加志が来る『点鬼簿』を執筆 鵠沼5・15・78・82号
1926 大正15 7 20 芥川龍之介、小品『家を借りてから』『鵠沼雑記』を脱稿 鵠沼11号
1926 大正15 7 27 医師=富士 山、芥川龍之介を初診。神経衰弱と診断。7/28・8/7・8/11・8/16にも処方[富士山] 鵠沼11・23・55号
1926 大正15 7 洋画家=小穴隆一(1894-1966)、東屋「イ−2号」に居住(『蜃気楼』O君のモデル) 続個性きらめく
1926 大正15 8 7 芥川龍之介、富士医院に来院[富士山] 鵠沼11・93号
1926 大正15 9 1 鵠沼尋常高等小学校、新校舎1棟4教室を増築 教育史研究99
1926 大正15 9 16 芥川龍之介、小品『點鬼簿』を脱稿 點鬼簿
1926 大正15 9 16 俳人=小澤碧童(1881-1941)、小穴隆一と芥川龍之介を見舞い、俳句2句を詠む。30日頃まで滞在 近代文学年表
1926 大正15 9 20 芥川龍之介、柴さんの二階家(鵠沼海岸2-7-18)に移る[富士山] 鵠沼15・78号
1926 大正15 9 25 歌人=斎藤茂吉(1882- 1953)と歌人=土屋文明(1890-1990)、スルガランを土産に芥川龍之介を訪問[富士山] 鵠沼15・22号
1926 大正15 10 1 芥川龍之介、小品『點鬼簿』を『改造』に発表 改造
1926 大正15 10 2 横濱工専学生=高木和男、鵠沼海岸の蜃気楼を撮影[百年の歴史] 鵠沼15号
1926 大正15 10 17 〜10/19、芥川龍之介、田端に戻る WEBsite
1926 大正15 10 26 芥川龍之介、小品『悠々荘』を執筆 東京日日新聞
1926 大正15 10 27 横浜貿易新聞に鵠沼海岸で蜃気楼が見られると報道 鵠沼83号
1926 大正15 10 28 東京朝日新聞に鵠沼海岸で蜃気楼が見られると報道、評判になる→芥川、小品『蜃気楼』を執筆 鵠沼82・83号
1926 大正15 10   小説家=川端康成(1899-1972)、芥川龍之介の紹介状を持って富士 山医師を訪問[富士山] 鵠沼11・15・93号
1926 大正15 10   小林理髪店(→理容やながわ)、鵠沼海岸2-7-1に開業※芥川龍之介『歯車』冒頭に登場する人物のモデル WEBsite
1926 大正15 11 26 江ノ電、7月17日に鉄道延長敷設免許申請した「鵠沼〜大船」を「片瀬〜大船」に変更追願 江ノ電の100年
1926 大正15 11 26 鵠沼電話増設工事開始 藤沢市史年表
1926 大正15 11 27 小説家=宇野浩二(1891-1961)、芥川龍之介を見舞う。小説『悠々荘』『彼』『玄鶴山房』など執筆 鵠沼82号
1926 大正15 11 28 小田急片瀬線、藤沢駅−片瀬間延長線の免許申請 藤沢市史年表
1926 大正15 12 14 鵠沼川袋のP彌一邸の井戸を水源とする江之島水道通水式[現在の藤澤] 鵠沼15・89号
1926 大正15     東京帝国大学名誉教授=村川堅固、鵠沼松が岡5-8一帯の砂丘1800坪を榛葉家より3回に分けて購入 鵠沼76号
1926 昭和 1 12 28 芥川龍之介の夫人文は子供三人をつれて田端の家に帰る 鵠沼20号
1926 昭和 1 12 30 〜1927/4/2、芥川龍之介、再び「イ−4号」に戻る 鵠沼82号
1926 昭和 1 12 31 午前、芥川龍之介は鎌倉の小町園へ行き二泊する 鵠沼20号
1926 昭和 1 12   〜1927/1、婦人運動家(羽仁五郎の妻,羽仁もと子の子)=羽仁説子(1903-1987)、東屋で転地療養 近代文学年表
1927 昭和 2 1 1 芥川龍之介、『サンデー毎日』に『悠々荘』を発表。モデルは鵠沼松が岡の「楽々荘」 鵠沼69号
1927 昭和 2 1 2 午前龍之介鎌倉より帰宅。その日のうちに田端の家に帰る。義敏は整理のため二・三日遅れて田端へ帰る 鵠沼15・20・78号
1927 昭和 2 2 28 画家=小穴隆一、東屋「イ−2号」を去り、東京田端へ転居 近代文学年表
1927 昭和 2 3 7 鵠沼小学校で亜米利加人形歓迎会[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1927 昭和 2 3   芥川龍之介、『婦人公論』に小品『蜃気楼』を発表。 鵠沼69号
1927 昭和 2 3 28 〜4/2、芥川龍之介、文子と東屋に滞在。文子・也寸志は5/4まで滞在 鵠沼78・82号
1927 昭和 2   経済学者=野呂栄太郎(1900-1934)、東仲通島田いし宅に居住 鵠沼18号
1927 昭和 2 5 4 片瀬−鵠沼間の鵠沼新道開通(片瀬県道南半) 鵠沼73号
1927 昭和 2 5   小説家=神西 清(1903-1957)、『鎌倉の女』を発表。鵠沼風景を描く[同人誌「虹」第2号] 藤沢文学年表
1927 昭和 2 5   一本松踏切から南下する新道(大東道)竣工。新道開通記念碑、建立 新道開通記念碑
1927 昭和 2 7   松岡静雄著『ミクロネシア民族誌』(岡書院)、刊行 鵠沼23・75号
1927 昭和 2 9 1 菊池 寛、『文藝春秋』9月号に『芥川の事ども』を掲載。鵠沼時代の芥川との関係を記す WEBsite
1927 昭和 2 10 2 県立原蚕種試験場、藤沢より海老名へ移転方針決定 藤沢市史年表
1927 昭和 2 10   小田急、藤沢−片瀬江ノ島間の敷設認可 藤沢市史年表
1927 昭和 2 11   芥川龍之介、『文藝春秋』に小説『歯車』を発表。舞台は鵠沼の二階家。葛巻左登子らしい人物登場 鵠沼69号
1927 昭和 2 12 4 鵠沼の花沢通り開通。花沢町、町内会を組織 藤沢市史年表
1927 昭和 2 12 26 〜1928/1.7、和辻哲郎、一家で鵠沼で越年(P邸?)[全集書簡] 近代文学年表
1927 昭和 2 12 29 東海道線一本松踏切に係員を配置 藤沢市史年表
1927 昭和 2 12   小説家=田中 純(1890-1966)、大橋幾久子と結婚して鵠沼に住む。広津和郎がこの家に2〜3回尋ねてきた 近代文学年表
1927 昭和 2     画家=長谷川路可(1897-1967)、フランス留学より帰国し、鵠沼海岸2-9にアトリエを構える 百年の歴史追補
1927 昭和 2     この頃、川袋の低湿地が片瀬山からトロッコを敷設して土砂を運び、埋め立てられる 鵠沼8・85号
1927 昭和 2     伊東将行の孫=右近一夫、東京日本橋から東屋別荘「イ-1号」に転居 東屋旅館物語
1928 昭和 3 1 15 画家=長谷川路可(1897-1967)、菊池登茂と結婚 画文集
1928 昭和 3 2 9 小田急江ノ島線、用地買収→工事開始 鵠沼1号
1928 昭和 3 2   江之島水道梶A玉川水道と提携、湘南水道鰍ニして事業を拡張[鵠沼海岸開発史] 鵠沼89号
1928 昭和 3 4 3 医師・民権運動家=平野友輔(1857-1828)、死去 藤沢市史年表
1928 昭和 3 4 20 鵠沼海岸在住の5歳の男児が天然痘に罹患、松病院に収容 20世紀の藤沢
1928 昭和 3 4 26 天然痘が発生したため、消毒のため各学校が休校[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1928 昭和 3 6 10 上郎新二(政友会)、県会議員に当選。金子角之助、町長を辞職して応援 鵠沼89号
1928 昭和 3 7 1 東京電燈轄]之島電気鉄道部、江ノ島電気鉄道として営業運転開始 江ノ電百年物語
1928 昭和 3 7   詩人・評論家・小説家=橋爪健、藤沢に行き、保養をかねて鵠沼海岸に住む[文芸時報] 近代文学年表
1928 昭和 3 8 8 慈教庵開山=颯田本眞尼(1845-1928)、入寂 享年84 現在の藤澤
1928 昭和 3   小説家=子母沢 寛(1892-1968)、鵠沼西海岸(後に堀川)に別荘を借り、毎夏避暑[文学碑建立記念誌] 個性きらめく
1928 昭和 3 9   この頃、町長選挙問題の政争から鵠沼独立論が出る[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1928 昭和 3 11 26 3代藤沢町長に湯原直平就任[現在の藤澤] 鵠沼15号
1928 昭和 3 11 27 湘南中学校に地元の寄付と生徒の勤労奉仕によるプール完成(田植え時に農業用水として利用) 鵠沼70号
1928 昭和 3 12 10 湘南中学校、校旗制定 湘南高校歴史年表
1928 昭和 3   高瀬通り南側の砂丘上(鵠沼字川袋2431。現鵠沼桜が岡1-17-41)に長谷川敬三により後の斎藤邸建築 鵠沼81号
1928 昭和 3     湘南海岸に御大典記念事業の一環として砂防林の植栽が始まる 神奈川県砂防史
1928 昭和 3     県立原蚕種試験場、海老名へ移転→跡地を8000円で藤沢町に払い下げ 藤沢市史6巻
1928 昭和 3     歌人=安藤 寛(1882-1993)、鵠沼に転居 鵠沼55号
1928 昭和 3     鵠沼地区の網元、6網に減る 鵠沼69号
1928 昭和 3     法照寺18代=岡本貫宝、入寂 有賀密夫遺稿集
1929 昭和 4 3   松岡静雄、『日本古語大辞典』第1巻(語誌)を刀江書院から発行 鵠沼23号
1929 昭和 4 4 1 小田原急行鉄道江ノ島線開通。本鵠沼・鵠沼海岸駅開設。「直通」の停車駅となる[市史] 鵠沼15・56号
1929 昭和 4 7 27 丹沢付近を震源とする神奈川県全域大地震 鵠沼50号
1929 昭和 4 7   鵠沼尋常高等小学校、2棟8教室増築(校地11233u、校舎1650u、児童数644名) 藤沢市教育史
1929 昭和 4   西洋古代史家(東大名誉教授)=村川堅固(1875-1946)、鵠沼中岡6282(鵠沼松が岡5-8-30)に別荘建設 鵠沼76号
1929 昭和 4 9 16 小田原急行鉄道、江ノ島電気鉄道との運輸協同契約認可 藤沢市史年表
1929 昭和 4 11   画家=硲 伊之助(1895-1977)、フランスから帰国、再び鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)に居住 鵠沼83・84号
1929 昭和 4 12 20 画家=岸田劉生(1891. 6.23-1929.12.20)、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して急逝 鵠沼26・72号
1929 昭和 4 12   松岡静雄、『日本古語大辞典』第2巻(訓話)を刀江書院から発行 鵠沼23号
1929 昭和 4 12   P彌一、藤沢町会議員第6期改選に出馬せず。議員引退[現在の藤澤] 鵠沼89号
1929 昭和 4     長谷川路可、藤沢町旧郡役所で個展を開く WEBsite
1929 昭和 4     中村武羅夫、鵠沼から辻堂に移住 個性きらめく
1929 昭和 4     石上神社の本体たる神銘を刻んだ石塔が片瀬の浜辺に置き捨てられていたものを神社に戻す 藤沢の地名
1929 昭和 4     鵠沼松が岡5丁目の村川堅固別荘、葉山家より買い足す 鵠沼76号
1930 昭和 5 2 13 4代藤沢町長に隈川基就任[現在の藤澤] 鵠沼15号
1930 昭和 5 3   県土木部、湘南海岸道路(川口村片瀬龍口寺−中郡大磯町間)の敷設計画に着手 藤沢市史年表
1930 昭和 5 4 18 歌人=與謝野寛・晶子夫妻、「冬柏」同人らと鵠沼碧瀾荘に滞在[冬柏5月号] 鵠沼88号
1930 昭和 5 5   岸田 蓁、雑誌「いとし児」の5月号に「吾子のモデルの想出」発表 鵠沼72号
1930 昭和 5 5   鵠沼商業組合設立[市史] 鵠沼15号
1930 昭和 5 7   建築家=内藤多仲、下岡6695-1の土地を入手、別荘とする 鵠沼94号
1930 昭和 5 10 1 鵠沼地区の世帯数=1,221、人口=5,992[藤沢町報] 藤沢市史6巻
1930 昭和 5 11 26 北伊豆地震(M=7.0震度5.4) 鵠沼16・50号
1930 昭和 5 11   通常県会、湘南海岸道路(川口村片瀬龍口寺−中郡大磯町間)新設案を可決 藤沢市史年表
1930 昭和 5 12 19 小説家=宮本百合子(1899-1951)、湯浅芳子と藤沢の鵠沼に行き、東屋に泊まる[全集日記] 近代文学年表
1930 昭和 5 12 29 宮本百合子、鵠沼の「まんじゅう屋の借家」に移り、越年する。[全集日記] 近代文学年表
1930 昭和 5 12   藤沢町より鵠沼の分離運動起こる 藤沢市史年表
1930 昭和 5     外交官=広田弘毅(1878-1948)、現鵠沼松が岡1-18-9に別荘を構える(本人はソ連大使着任) 鵠沼83号
1930 昭和 5     教育者・国文学者=杉 敏介(1872-1960)、鵠沼(高瀬通り)を去る WEBsite
1930 昭和 5     東洋思想史学者(東京帝国大学教授)=宇野哲人(1875-1974)、鵠沼中岡6281に居住 鵠沼76号
1930 昭和 5     湘南水道梶A村岡村奥田の伏流水を水源に鎌倉町への給水を計画。内務省に許可申請[現在の藤澤] 鵠沼89号
1930 昭和 5     鵠沼地区の網元、5網に減る 鵠沼69号
1931 昭和 6 1   引地川の第3期改修工事に着手 藤沢市史年表
1931 昭和 6 2   葉山又三郎、破防法容疑で特高に逮捕され、拷問を受ける 湘南新聞
1931 昭和 6 3 23 氏原佐蔵、私立爽明学園小学校・幼稚園開設→間もなく氏原佐蔵死去により休校→湘南学園へ 湘南学園史
1931 昭和 6 4   画家=荒木襄太郎(1917-2001)、湘南中学3年に編入。現鵠沼桜が岡2丁目に住む 荒木襄太郎展
1931 昭和 6 4   P彌太郎、飛び級で県立湘南中学校に入学 鵠沼89号
1931 昭和 6 5 11 町有の元県立原蚕種試験場を東京鉄道局に寄付し、鵠沼海岸に同局の「海の家」建設を促進 震災戦後復興期
1931 昭和 6 5 21 藤沢町に払い下げられた県立原蚕種試験場跡地を東京鉄道局へ寄付することを町会で可決 藤沢市史6巻
1931 昭和 6 5   鵠沼耕地整理組合設立[市史] 鵠沼15号
1931 昭和 6 6   遊歩道路(湘南海岸道路)工事起工式 藤沢市史年表
1931 昭和 6 6   鉄道省「海の家」建設に、町の有志が寄付を集める 藤沢市史年表
1931 昭和 6 7 10 引地川下流で「海の家」建設起工 藤沢市史年表
1931 昭和 6 7 27 「海の家」完成、脱衣室・浴室・食堂等が整備される[藤沢市史年表] 鵠沼74号
1931 昭和 6 7 31 「海の家」の披露会 藤沢市史年表
1931 昭和 6 7   芥川龍之介著『文学的なあまりに文学的な』岩波書店より刊行。『鵠沼雑記』を収録 鵠沼69号
1931 昭和 6 8 1 藤沢駅から「海の家」まで直通バス運行開始。藤沢駅から片道5銭 鵠沼15号
1931 昭和 6 8 1 東京鉄道局の「海の家」が鵠沼海岸に開業。大人30銭小人15銭[現在の藤澤] 鵠沼15号
1931 昭和 6 8 15 鵠沼海岸で燈籠流し・花火大会開催 鵠沼海岸開発史
1931 昭和 6 8 27 県道湘南海岸道路(片瀬−大磯間)の起工式挙行 藤沢市史年表
1931 昭和 6 8   県当局、鵠沼海岸に県営プール開設を計画。藤沢町、県知事へ促進意見書を提出 藤沢市史年表
1931 昭和 6   江ノ島電氣鐵道、納涼電車を運転。好評を博す 江ノ電百年物語
1931 昭和 6 9 1 医師=富士 山、東京大学病院小児科を退職、鵠沼に診療所を開く 鵠沼93号
1931 昭和 6 9 17 湘南瓦斯梶A鵠沼7408で創業 藤沢市史3巻
1931 昭和 6 9 21 片瀬−大磯線県道(川口村片瀬龍口寺前−中郡大磯町郵便局前)工事着手[市史6巻] 鵠沼16号
1931 昭和 6 9 23 藤沢町中央部−鵠沼海岸間の町道敷設計画挫折、隈川町長辞職 藤沢市史年表
1931 昭和 6 9 23 県道江の島線の改修工事着手 鵠沼73号
1931 昭和 6 10 3 一木與十郎、5代町長に当選 鵠沼15・80号
1931 昭和 6 11 9 鵠沼小学校、校名を藤沢第三小学校と改称することに決定(1937) 藤沢市史年表
1931 昭和 6 11 10 湘南養蚕実行組合、結成 藤沢市史3巻
1931 昭和 6     一木與十郎町長邸前の通り、一木通りと称せられる 鵠沼73・81号
1931 昭和 6     江之島自動車梶A鵠沼乗合自動車、土屋自動車商会が合併し藤沢自動車鰍ニなる[現在の藤澤] 鵠沼15号
1932 昭和 7 5 31 結核療養所の開設予定を巡り、鵠沼の旅館建設に反対運動起こる 藤沢市史年表
1932 昭和 7 6 15 藤沢町民大会、肺結核療養旅館建設の反対決議→知事に陳情→設置中止ということで解決 藤沢市史年表
1932 昭和 7 7   中岡耕地整理起工[中岡耕地整理紀功碑] 鵠沼80号
1932 昭和 7 8 23 浅場虎吉、堀川改修記念碑を再建。現在は鵠沼海岸 4-21-8 地先 引地川堤上に移動 鵠沼30号
1932 昭和 7 10   〜1833/12、歌人=日夏耿之介(1890-1971)、療養のため鵠沼下岡円城の別荘に居住[鵠沼之記] 個性きらめく
1932 昭和 7 10   小松製作所工場、鵠沼大東に設立[市史] 鵠沼15号
1932 昭和 7 10   経済学者=野呂栄太郎(1900-1934)、東仲通島田いし宅を去る[山口富男]※翌年説も WEBsite
1932 昭和 7 11 14 〜15、県下に暴風雨 高座郡で3200戸藤沢で76戸被害 鵠沼22号
1932 昭和 7     ソ連大使=広田弘毅(1878-1948)、5・15事件の後始末のため帰国。現鵠沼松が岡1-18-9の別荘に居住 鵠沼83号
1932 昭和 7     鵠沼尋常高等小学校に実業補修学校を併設 藤沢市教育史
1932 昭和 7     植物学者=久内清孝、植物研究雑誌に『滅び行く湘南の鵠沼片瀬を弔う』を発表 WEBsite
1932 昭和 7     植物学者=服部静夫(東京帝国大学助教授)、病気療養のため鵠沼下鰯(鵠沼海岸3-9)に居住 鵠沼88号
1932 昭和 7     鵠沼地区区画整理事業開始 藤沢市史年表
1932 昭和 7     百両山別荘地に渡辺邸完成 鵠沼73号
1932 昭和 7     松島苑住宅地、区画完了 鵠沼89号
1932 昭和 7     保証責任高座牛乳販売購買利用組合、結成 藤沢市史3巻
1933 昭和 8 1   藤沢商工聯合会、結成 藤沢市史3巻
1933 昭和 8 2 1 加藤徳右衛門、『現在の藤澤』を刊行 鵠沼15・27・73・75号
1933 昭和 8 2 1 引地川下流の改修工事着工[藤沢市史年表] 鵠沼84号
1933 昭和 8 2 9 湘南中学校、北原白秋作詞、山田耕筰作曲による校歌発表  WEBsite
1933 昭和 8 3 12 日本メソヂスト藤沢補助教会、新会堂建設・献堂式。陣屋小路から鵠沼へ移転 藤沢市史年表
1933 昭和 8 3 30 県営水道、湘南水道鰍合併[藤沢市史6巻] 鵠沼89号
1933 昭和 8 4 1 我が国最初の広域水道としての県営水道を設置。藤沢営業所、開設[藤沢市史6巻] 鵠沼89号
1933 昭和 8 4 2 玉川学園分校として私立湘南学園開校。初代園長=小原國芳。校医=富士 山 湘南学園史
1933 昭和 8   経済学者=野呂栄太郎(1900-1934)、東仲通島田いし宅を去る 鵠沼18号
1933 昭和 8 5 1 葉山 峻、誕生 鵠沼75号
1933 昭和 8 6 藤沢高等小学校、着工 藤沢市史年表
1933 昭和 8 6 25 地元出身の三觜泉蔵飛行士の郷土訪問飛行機、鵠沼海岸に着陸[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1933 昭和 8 7 9 鵠沼海水浴場・鉄道省海の家開く 藤沢市史年表
1933 昭和 8 7 17 湘南学園第1校舎落成 湘南学園史
1933 昭和 8 7   40年来の旱魃 鵠沼22号
1933 昭和 8 8   中岡耕地整理竣工[中岡耕地整理紀功碑] 鵠沼80号
1933 昭和 8 9   外交官=広田弘毅(1878-1948)、外相に就任。鵠沼を離れ、原宿に転居 鵠沼83号
1933 昭和 8 10 30 神奈川県、鵠沼・片瀬地区の県有地を住宅地として売却するため土地区画を決定[東京朝日神奈川版] 藤沢市史6巻
1933 昭和 8 10   詩人=日夏耿之助(1890-1971)、病気静養のため鵠沼海岸に転地[文学散歩] 鵠沼15号
1933 昭和 8 10   中岡耕地整理紀功碑、鵠沼松が岡 4-19-5 小田急踏切り脇に造立 鵠沼30・80号
1933 昭和 8 11 14 藤沢高等小学校(現藤沢第一中学校)開校式 藤沢市史年表
1933 昭和 8 11 14 鵠沼尋常高等小学校の高等科が藤沢高等小学校に統合され、鵠沼尋常小学校と改称 藤沢市教育史
1933 昭和 8 11 15 湘南学園幼稚園開園[教育研] 鵠沼15・76号
1933 昭和 8 11 26 〜1936年、評論家=上田 進(1907-1947)、妻=千代子(秋田雨雀の娘)の療養のため鵠沼に転居[雨雀日記] 近代文学年表
1933 昭和 8 11 28 経済学者=野呂栄太郎(1900-1934)、特高に逮捕される WEBsite
1933 昭和 8 12 31 歌人=日夏耿之介(1890-1971)、鵠沼を去る※1934年説も 鵠沼15号
1933 昭和 8     評論家=室伏高信(1892-1970)、現鵠沼石上に居住 WEBsite
1933 昭和 8     キス網廃止 鵠沼79号
1933 昭和 8     伊東将行の末娘=政子夫妻、東屋西方に隣接して「鵠沼ホテル」を開く 鵠沼82号
1933 昭和 8     日本芸能百撰会・創韻会会長=杵屋五十郎、東京から鵠沼橘通りの借家に転居 鵠沼61号
1933 昭和 8     『大藤澤復興市街圖』、刊行 鵠沼85号
1933 昭和 8     後藤医院分院、鵠沼橘1-14-7に開業 WEBsite
1934 昭和 9 1 21 関東陸上競技協会主催のクロスカントリー大会、鵠沼海岸で挙行[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1934 昭和 9 1 27 江ノ電、貨物営業一時休止許可 江ノ電の100年
1934 昭和 9 2 19 経済学者=野呂栄太郎(1900-1934)、拷問の末、品川病院で死去 鵠沼18号
1934 昭和 9 2   仏教史学者=圭室諦成、鵠沼海岸に居住[藤沢文人録] 藤沢文人録
1934 昭和 9 2   引地川改修事業完成。『紀功碑』、鵠沼海岸2-17地先引地川河畔に造立(撰:藤沢町長 一木與十郎)  鵠沼30・62号
1934 昭和 9 3   一木與十郎、町長を辞任 鵠沼80号
1934 昭和 9 5 8 6代藤沢町長に大野守衛就任[市史] 鵠沼15号
1934 昭和 9 5   鵠沼1806日本メソヂスト藤沢補助教会に「みくに愛児園」開園[教育研] 鵠沼15号
1934 昭和 9 8 7 石上神社、南部低湿地から集落中央に移転[石上神社記念碑]※明治29 鵠沼30・84号
1934 昭和 9 9 1 江ノ島電気鉄道、藤沢駅東口〜江ノ島・藤沢駅東口〜鵠沼海岸〜石上間(5.1km)の乗合自動車運輸開始 江ノ電の100年
1934 昭和 9 12 23 鵠沼1806に「みくに愛児園園舎建築落成 藤沢教会100年史
1934 昭和 9 12   詩人=日夏耿之助(1890-1971)、鵠沼海岸を去る[文学散歩]※1933年説も 鵠沼15号
1934 昭和 9     日本芸能百撰会・創韻会会長=杵屋五十郎、鵠沼橘通に家を建て、借家より転居 鵠沼61号
1934 昭和 9     劇作家=田中千禾夫・澄江夫妻、新婚から昭和10年代を鵠沼2439(鵠沼桜が岡4-15-20)に借家して暮らす 鵠沼別冊文化人
1934 昭和 9     田中 安、没。その跡を耕太郎が継ぐ 鵠沼77号
1935 昭和10 2 14 〜18、在鵠沼の小説家=今井達夫が報知新聞に『鵠沼にいた文人』と題して5回連載[藤沢の文学] 鵠沼15・73・77号
1935 昭和10 4   引地川「大平橋」、竣工 鵠沼15号
1935 昭和10 4   慈教庵(後に本真寺)本堂完成 鵠沼44号
1935 昭和10   鵠沼海岸で療養中の服部静夫博士が新種の蘭を発見、後に前川文夫博士がクゲヌマランと命名し発表 鵠沼88号
1935 昭和10   後の小説家=阿部 昭(1934-1989)、父の転勤に伴い広島市から藤沢(場所不明)に転居 鵠沼55・63号
1935 昭和10 7 17 中国の青年作曲家=聶耳(ニェ・アール。1912-1935)(中華人民共和国国歌を作曲)、鵠沼海岸で遊泳中に水死 鵠沼2号
1935 昭和10 7 22 都市計画神奈川地方委員会、湘南海岸公園計画地域を可決、答申 藤沢市史6巻
1935 昭和10 7 27 湘南海岸道路開通。「汀橋」「鵠沼橋」落成、渡り初め 鵠沼62・73・76号
1935 昭和10 8 神明宮鳥居、関根治郎吉(鵠沼出身で横須賀在住の篤志家)らにより建立(木造) 記念碑
1935 昭和10 9 1 江ノ島電気鉄道、鵠沼・片瀬・茅ヶ崎でハイヤー営業開始 江ノ電の100年
1935 昭和10 9   県都市計画課、藤沢都市計画公園(鵠沼・辻堂・片瀬合計54.45ha)設計案を作成 藤沢市史年表
1935 昭和10 10 1 鵠沼地区の世帯数=1,606、人口=7,879[藤沢町報] 藤沢市史6巻
1935 昭和10 10   文藝春秋10月号に富士 山の『芥川龍之介の憶ひ出』掲載。鵠沼時代の芥川龍之介を描く 鵠沼23・69・75・83号
1935 昭和10 11 8 鵠沼海岸で横須賀鎮守府所属の海軍陸戦隊が上陸演習を挙行 藤沢市史年表
1935 昭和10 12 5 藤沢町選挙粛正委員選出。鵠沼地区からは7名[選挙粛正委員に関する文書] 藤沢市史3巻
1935 昭和10 12   後の小説家=阿部 昭(1934-1989)、鵠沼海岸下鰯に定住 鵠沼55・63号
1935 昭和10     民俗学者=圭室諦成、鵠沼海岸を去る[藤沢文人録] 藤沢文人録
1935 昭和10     画家=裕伊之助、帰国して「鵠沼の思い出」「砂丘」「小憩」などを制作 鵠沼83号
1936 昭和11 2   山口茂吉、鎌倉から鵠沼の各務別荘に社用で訪れる。短歌『鵠沼』8首を詠む 近代文学年表
1936 昭和11 3 川端康成、東屋に滞在。少女小説『花のワルツ』を執筆[改造] 鵠沼82号
1936 昭和11 3 30 鵠沼郵便局、鵠沼下岡6653番地(鵠沼海岸 2-7-3)に新築・移転 鵠沼81号
1936 昭和11 3   広田弘毅、2・26事件の後を受けて首相に就任(1937年2月まで) 鵠沼30号
1936 昭和11 3   広田弘毅の首相就任を受け、石上から広田弘毅別荘までの道路アスファルト舗装 鵠沼海岸開発史
1936 昭和11 3   花沢町下水施設、資金積立を開始[花沢町下水施設記念碑] 鵠沼30号
1936 昭和11 4   湘南氷業販売組合、結成 藤沢市史3巻
1936 昭和11 4   言語学者=田中隆尚(1918-2002)、山口県長府町より鵠沼2442(鵠沼桜が岡4-15)へ転居 鵠沼87号
1936 昭和11 4   広田弘毅の首相就任を受け、別荘に18坪の警備建物を設置[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1936 昭和11 5 12 植物学者=服部静夫(東京帝国大学助教授)、クゲヌマランのタイプ標本を採集→東大の前川氏に送る 鵠沼88号
1936 昭和11 5 23 民族学者=松岡静雄、午後0時55分 妻子門弟にかこまれて死去 享年59 鵠沼23号
1936 昭和11 7 5 湘南中学校、体育館落成式。当時の中学校体育館として日本最高といわれた WEBsite
1936 昭和11 8 26 藤沢町会、東京オリンピックに備えて、県知事に鵠沼海岸プール設置要望の意見書提出を決定 藤沢市史年表
1936 昭和11 8 27 鈴木鎌吉(東屋の男衆、伊東将行を鵠沼に導いたとされる)、死去 東屋旅館物語
1936 昭和11 8 31 片瀬−大磯線県道工事竣工[市史] 鵠沼15・81号
1936 昭和11 9 25 高座郡藤澤町より鎌倉郡鎌倉町に達する道路、県道十一號に指定[内務省告示第五百十六號] WEBsite
1936 昭和11 9 25 鎌倉郡鎌倉町より中郡大磯町に達する道路、県道二十六號に指定[内務省告示第五百十六號] WEBsite
1936 昭和11 9   植物分類学者=前川文夫、『東亞植物図説』(春陽堂)第一巻第三輯に服部静夫発見のクゲヌマランを紹介 鵠沼88号
1936 昭和11 10 17 山口茂吉、鵠沼に遊び、短歌『冬の海』11首を詠む 近代文学年表
1936 昭和11 10   小松製作所、住友金属工業鰍フ傘下に入り、小松熟練工業鰍ニして再発足→辻堂移転を計画 藤沢市史6巻
1936 昭和11 12 19 県会で、鵠沼プール建設のための「風景地開発費」予算案を無修正可決 藤沢市史年表
1936 昭和11 12   日本精工鵠沼工場、鵠沼1375に新設決定 藤沢市史年表
1936 昭和11     小説家=今井達夫、小説『青い鳥を探す方法』で三田文学賞を受賞 藤沢文学年表
1936 昭和11     書家=金田松月(?-1960)、息子=金田元彦と共に本鵠沼に転居 私の鵠沼日記
1937 昭和12 2   東海道1号国道、藤沢−茅ヶ崎間4kmの拡築工事完了 藤沢市史年表
1937 昭和12 4 1 鵠沼尋常小学校、新校名=藤沢第三尋常小学校を採用 藤沢市史年表
1937 昭和12 4 3 花沢町下水施設、起工[花沢町下水施設記念碑] 鵠沼30号
1937 昭和12   教育史学者=加藤仁平、鵠沼西海岸5572に居住 WEBsite
1937 昭和12 5 13 日本精工鋼球工場開場式(1938年?) 藤沢市史年表
1937 昭和12 5 30 松岡静雄先生之庵跡碑、鵠沼海岸7-18-18に造立 現地調査
1937 昭和12 6 17 随筆家=奥田 操、随筆集『鵠沼海岸』(有斐閣)刊行 鵠沼73・77号
1937 昭和12 8 18 県営鵠沼プール建設工事竣工 藤沢市史年表
1937 昭和12 8   花沢町下水施設、竣工(花沢町下水施設記念碑) 鵠沼30号
1937 昭和12 8   小松熟練工業樺メ堂工場竣工 藤沢市史6巻
1937 昭和12 9 1 東海道1号国道、藤沢−茅ヶ崎間の舗装工事完了 藤沢市史年表
1937 昭和12 9   第三尋常小学校に私立鵠沼図書館を併設 藤沢市教育史
1937 昭和12 12 1 日本精工、鵠沼へ移転[市史] 鵠沼15号
1937 昭和12 12   小松熟練工業(翌年関東特殊製鋼鰍ニ改称)、鵠沼より辻堂工場へ移転 藤沢市史6巻
1937 昭和12   思想評論家=林 達夫(1896-1984)、鵠沼上岡6098(鵠沼桜が岡)に古英国風田舎家を新築 鵠沼63・83号
1937 昭和12     画家=長谷川路可、鵠沼より東京目白へ転出 百年の歴史追補
1937 昭和12     〜1952、西洋古代史家(東大教授)=村川堅太郎・操夫妻、鵠沼中岡6282(鵠沼松が岡5-8-30)に居住 鵠沼76号
1937 昭和12     鵠沼海岸商店街、商店街の形を整え鵠栄会の名称になる 鵠沼73・81号
1937 昭和12     この頃まで鵠沼の電気は夕方5時に通電して、朝7時に遮断する方式だった 鵠沼79号
1937 昭和12     鵠沼地区の網元、4網に減る 鵠沼69号
1937 昭和12     田中耕太郎、別荘「鴻鵠荘」を建てる 鵠沼77号
1937 昭和12     この頃、熊倉通りに稲荷社を建てる計画があり、建て前までやった 鵠沼77号
1938 昭和13 3   植物学者=服部静夫(東京帝国大学助教授)、鵠沼下岡(鵠沼松が岡3-5)より東京に転居→大学に復職 鵠沼88号
1938 昭和13 4 1 藤沢町立第四尋常小学校(現本町小学校)、開校。鵠沼北部、第三尋常小学校と校区を分ける 藤沢市史年表
1938 昭和13 5 13 日本精工藤沢工場開場式 藤沢市史年表
1938 昭和13 5   劇作家=真船 豊(1902-1977)、妻の病気療養のため大森から鵠沼藤が谷片瀬河畔に転居 個性きらめく
1938 昭和13 7 2 豪雨によリ各河川増水。片瀬川・引地川大洪水 鵠沼22号
1938 昭和13 7 13 江ノ島電気鉄道、乗合自動車辻堂線「藤沢駅東口〜辻堂駅前」運輸開始認可 江ノ電の100年
1938 昭和13 7   真船 豊、片瀬川洪水の様子を『片瀬川』と題し東京朝日新聞に寄稿 個性きらめく
1938 昭和13 7   県立鵠沼プール開場、藤沢町に管理を委託[市史] 鵠沼15号
1938 昭和13 8   本鵠沼耕地整理記念碑、鵠沼桜が岡4-11-2に造立(現在は桜が岡公園に移設) 現地調査
1938 昭和13   鵠沼海岸海水浴場、引地川右岸に「海の家」を移転開設。「海の家」はこの年限りで閉鎖 鵠沼海岸開発史
1938 昭和13 9 1 20年振りの台風 豪雨のため境・柏尾・引地川出水被害大 鵠沼22号
1938 昭和13 9 7 東屋2代目女将=長谷川たか、死去。墓所:本眞寺 東屋旅館物語
1938 昭和13 10   思想評論家=林 達夫(1896-1984)、婦人公論10月号に『私の家』掲載。鵠沼上岡の自宅を紹介 鵠沼83号
1938 昭和13 10   日本精工、藤沢鋼球工場隣接地で、旋削・研磨工場の建設に着工 藤沢市史年表
1938 昭和13 10   俳人=松本たかし、句集『鷹』を刊行。「鵠沼二句」を収める 藤沢文学年表
1938 昭和13     斎藤音次、鵠沼字川袋2431(現鵠沼桜が岡1-17-41)に長谷川邸を購入 鵠沼81号
1939 昭和14 3 12 日本精工内に私立日本精工藤沢青年学校開校[市史] 鵠沼15号
1939 昭和14 3 16 〜23、武者小路実篤、東屋に滞在して執筆[全集書簡] 近代文学年表
1939 昭和14 3 20 日本メソヂスト藤沢補助教会、自給教会に昇格 藤沢教会100年史
1939 昭和14 3 31 私立湘陽中学校設置認可→県立湘南中学校に併設[市史] 鵠沼15・70号
1939 昭和14 3   歌人=與謝野晶子、鵠沼ホテルに滞在 鵠沼88号
1939 昭和14 4 2 大平橋、橋脚が1mほど沈下して危険となる 藤沢市史年表
1939 昭和14 4 24 第三尋常小学校に第三青年学校併設(勅令254号) 藤沢市教育史
1939 昭和14 4 26 青年学校は義務制となる[大和史] 鵠沼15号
1939 昭和14 4   真船豊の妻、鵠沼で死去[新盆の月] 近代文学年表
1939 昭和14 4   阿部 昭、乃木女学校(現南白百合学園)付属幼稚園に入園 WEBsite
1939 昭和14 4   小説家・平塚高女教員=鳴山草平(1902-1972)、鵠沼5601(鵠沼海岸7-14-3)に居住 藤沢人物ファイル
1939 昭和14 5 6 出版人=長谷川巳之吉(1893-1973)、鵠沼松が岡1-17-20に瀟洒な洋館を新築して居住(富士見坂と命名) 近代文学年表
1939 昭和14 5   〜1940.5月号、長谷川巳之吉、雑誌『セルパン』に『鵠沼だより』を連載 鵠沼94号
1939 昭和14 7 2 県営鵠沼プール、県より無償で払い下げられて町営となる[市史] 鵠沼15号
1939 昭和14 7   日本精工、陸海軍の管理工場となる[市史] 鵠沼15号
1939 昭和14 8   花沢町下水施設記念碑、鵠沼1799に造立 鵠沼30号
1939 昭和14 9 11 長谷川欽一、東屋を廃業 鵠沼75・76・81・82号
1939 昭和14 9 12 『東京日々新聞』、「突如廃業の声明」「鵠沼名物”文士宿”」と東屋の廃業を報道 鵠沼76・82号
1939 昭和14 9 22 鵠沼堀川農事実行組合設立[市史]※市史では20日 鵠沼15号
1939 昭和14 11 20 神奈川県甘藷移出商業組合、結成 藤沢市史3巻
1939 昭和14 12 31 鵠沼地区、戸数=2,017戸、人口=9,096人、選挙人=1,490人[愛市同盟書類] 藤沢市史3巻
1939 昭和14     カトリック片瀬教会の聖堂献堂。内部装飾は仮聖堂の時からの信者=長谷川路可(鵠沼に在住した)が担当 WEBsite
1939 昭和14     小説家=鳴山草平、雑誌「新青年」の1000円懸賞小説に『極楽剣法』が第一席で当選 藤沢文学年表
1939 昭和14     民俗学者=圭室諦成、鵠沼海岸3-12-28に居住[藤沢文人録] 藤沢文人録
1940 昭和15   県道藤沢停車場・江の島線改修工事完成 藤沢市史6巻
1940 昭和15 1 20 小説家=邦枝完二、東京麹町より鵠沼上岡(桜が岡2-1-29)に転居 藤沢文学年表
1940 昭和15 3 30 藤沢養鶏組合、結成 藤沢市史3巻
1940 昭和15 3   地理学者=有賀密夫、鵠沼2883(鵠沼桜が岡4-9-8)に転居 有賀密夫遺稿集
1940 昭和15 5 25 日夏耿之介、随筆集『聴雪盧小品』(中央公論社)を刊行。鵠沼生活を「鵠沼之記」と題しおさめる WEBsite
1940 昭和15 6 〜23、武者小路実篤、廃業後の東屋に滞在[文学者たちの神奈川] 東屋旅館物語
1940 昭和15 7 1 神奈川県、鵠沼図書館(第三尋常小学校内)に貸出文庫を設置(第1期設置県内4か所の1つ) WEBsite
1940 昭和15 7 6 寺門 忠、藤沢橘通郵便局開局[市史] 鵠沼77号
1940 昭和15 7   鵠沼海水浴客のために品川藤沢間臨時列車増発[市史] 鵠沼15号
1940 昭和15 9 23 江ノ島電気鉄道、ハイヤー鵠沼営業所廃止 江ノ電の100年
1940 昭和15 10 1 藤沢市制施行藤沢市になる。戸数6,357戸、人□32,479人。初代市長に大野守衛就任[市史] 鵠沼15・80号
1940 昭和15 10 1 市制施行により、藤沢町立第三尋常小学校は藤沢市立第三尋常小学校となる 藤沢市教育史
1940 昭和15 11 13 歌人=山口茂吉、鵠沼・江の島に遊び、短歌『砂丘』11首を詠む 近代文学年表
1940 昭和15 12   鵠沼・辻堂両漁業組合合併[市史] 鵠沼15号
1940 昭和15     元藤沢町長一木與十郎、死去 鵠沼80号
1940 昭和15     画家=硲 伊之助(1895-1977)、鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)を去る 鵠沼84号
1940 昭和15     建築家=内藤多仲、下岡6695-1の別荘を手放す 鵠沼94号
1940 昭和15     大野守衡町長、『大藤沢市建設豫定圖』を作成 鵠沼48号
1941 昭和16 2 20 小学校令改正により小学校は国民学校となり、初等科と高等科となる[大和史] 鵠沼15号
1941 昭和16 3 1 鵠沼を舞台にした松竹映画『戸田家の兄妹』(監督:小津安二郎)、制作公開 WEBsite
1941 昭和16 3 3 湘陽中学校、財団法人となる 藤沢市史年表
1941 昭和16 3 31 医師=富士 山、診療所を閉鎖 鵠沼93号
1941 昭和16 4 1 市立藤沢第三尋常小学校を藤沢第三国民学校に、藤沢高等小学校を藤高国民学校に改称 藤沢市史年表
1941 昭和16 4 1 阿部 昭、藤沢第一国民学校に入学 藤沢文学展図録
1941 昭和16 4   歴史学者=江口朴郎(1911-1989)、姫路高等学校着任のため鵠沼より姫路市に転居 朴郎文庫目録
1941 昭和16 6 23 〜28、大政翼賛会、鵠沼海岸で「みそぎ」講習会 藤沢市史年表
1941 昭和16 7 18 〜22、豪雨市内各所に浸水家屋続出 鵠沼22号
1941 昭和16 10 25 〜29、中山義秀・菊池寛・吉川英治・福田正夫、大政翼賛会鵠沼道場で禊修業 近代文学年表
1941 昭和16 12   鵠沼地区他で亜炭試掘願が提出される 藤沢市史年表
1941 昭和16 12   歌人=與謝野晶子、病床で“鵠沼の松の敷波ながめつつ我は師走の鶯を聞く”を詠む 鵠沼86号
1941 昭和16     日本メソヂスト藤沢教会、日本基督教団藤沢教会に改称 藤沢教会100年史
1941 昭和16     轄h苣ク器,本社・工場を東京芝から藤沢市鵠沼神明1-3-1に移転 WEBsite
1941 昭和16     臨戦態勢食糧増産のため、果樹伐採の命令が出され、鵠沼名物だったモモ畑が消える 鵠沼84号
1941 昭和16     中屋旅館女将=田中カネ、没。その後中屋には病気療養に来ていた次男元嗣の継いだ上村の一家が居住 鵠沼77号
1942 昭和17 2 27 小田急電鉄、相模大野−片瀬江ノ島間の貨物営業開始認可 藤沢市史年表
1942 昭和17 3   小説家=宮内寒弥(1912-1983)、鵠沼東海岸6711(鵠沼松が岡)に転居[食用蛙その他] 藤沢人物ファイル
1942 昭和17 3   小説家=城夏子、鵠沼の知人の別荘を借りて住む。長谷川巳之吉・林達夫らと交流[辰知十年] 近代文学年表
1942 昭和17 3   小説家=網野 菊、『若い日』を著す。大正8年鵠沼慈教庵での生活を描写 藤沢文学展図録
1942 昭和17 4 18 米軍空母ホーネット搭載の「B-25」16機、日本本土初空襲。鵠沼上空を通過 目撃談
1942 昭和17 4   小説家=宮内寒弥、鵠沼東海岸に移住 藤沢文学年表
1942 昭和17   今井達夫、鵠沼海岸3-10「新風荘」に転入 鵠沼別冊
1942 昭和17 5 1 小田急電鉄、東横電鉄に合併、社名を東京急行電鉄に改称 藤沢市史年表
1942 昭和17 7 17 〜19、藤沢海洋少年団、第1回宿泊訓練を鵠沼海岸にて実施 藤沢市史年表
1942 昭和17 7   大日本婦人会(愛国婦人会+大日本国防婦人会+大日本聯合婦人会)藤沢支部結成 藤沢市史年表
1942 昭和17 9   歌人=生田蝶介(1889-1976)、鵠沼に遊ぶ。短歌『鵠沼海岸』 近代文学年表
1942 昭和17 10 25 湘陽中学校、文部大臣指定校となる 藤沢市史年表
1942 昭和17 11 26 鵠沼の日本硝子綿工場より出火し同工場と隣接田中精麦工場消失 藤沢市史年表
1942 昭和17     映画評論家=小森和子、鵠沼下岡6703に居住 WEBsite
1942 昭和17     パナマの実業家=天野芳太郎(1898-1982)、捕虜交換船で一時帰国し、現鵠沼橘に居住 鵠沼断想
1942 昭和17     画家=矢田修(1906-1980)、藤沢相生町から鵠沼橘1-16-11に転居 WEBsite
1943 昭和18 4 30 第三青年学校は第一青年学校に併合される 教育史研究99
1943 昭和18 4   東海道の松並木、船舶用材として供出 藤沢市史年表
1943 昭和18 5 12 鵠沼伏見稲荷神社、京都市伏見区の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創立(宮司:高山昇) 鵠沼74・94号
1943 昭和18 5 15 大政翼賛会横浜市支部、鵠沼海岸で「みそぎ」錬成会を挙行 鵠沼74号
1943 昭和18 10 山口茂吉、鵠沼に遊ぶ。短歌『秋海』13首を詠む 近代文学年表
1943 昭和18 11 16 東京急行電鉄(小田急)江ノ島線単線化(線路供出) 鵠沼56号
1943 昭和18 12 7 鵠沼土地区画整理組合、県より設立認可[鵠沼土地区画整理記念碑] 鵠沼30号
1943 昭和18     言語学者=田中隆尚(1918-2002)、鵠沼2442(鵠沼桜が岡4-15)より鵠沼桜が岡3-17-25へ転居 鵠沼87号
1943 昭和18     サンスクリット学者(東京帝国大学教授)=辻 直四郎(1899-1979)、鵠沼下岡6708に居住[学士会名簿] 鵠沼別冊文化人
1943 昭和18     出版人=長谷川巳之吉(1893-1973)、鵠沼松が岡1-17-20から鵠沼松が岡3-24-35に転居 鵠沼別冊文化人
1943 昭和18     日本画家=佐多芳郎(1927-1997)、鵠沼藤が谷2-11-32に居住 郷土史料展示室
1943 昭和18     日本精工敷地内から弥生式土器の完形品が発掘される 鵠沼史談会報1号
1943 昭和18     万福寺梵鐘、供出 鵠沼寺院考
1944 昭和19 1 20 邦枝完二、鵠沼上岡6098(鵠沼桜が岡2-1-29)より堀川へ転居 鵠沼78号
1944 昭和19 3 3 湘陽中学校、第1回卒業式 藤沢市史年表
1944 昭和19 3 4 江ノ島電気鉄道、乗合自動車藤沢線、鵠沼線、辻堂線を休止 江ノ電の100年
1944 昭和19 3 歴史学者=大類伸(1884−1975)、鵠沼下岡6684の別荘へ疎開。東北帝大の職を辞し、日本女子大学へ転勤 WEBsite
1944 昭和19 5   文芸評論家=葛巻義敏、東京田端より疎開、鵠沼に転居 鵠沼69号
1944 昭和19 5 31 東海道乗合自動車、伊勢原自動車および藤沢自動車を合併 WEBsite
1944 昭和19 6 1 市会、第三国民学校校舎建設及び工事請負契約を可決 藤沢市史年表
1944 昭和19 6   芥川龍之介の妻=文、鵠沼西海岸5501(鵠沼海岸3丁目)に疎開 鵠沼83号
1944 昭和19 8 5 鵠沼海岸での海水浴は警察の許可を得た市民に限られる[市史] 鵠沼15号
1944 昭和19 8 10 江ノ島電気鉄道、戦時統制強化により乗合バス運輸全営業休止 江ノ電の100年
1944 昭和19 8 25 官立管理無線電信講習所(後の電通大)藤沢分教場が開場(俗称鵠沼校舎,本館所在地は藤沢市辻堂浜見山) WEBsite
1944 昭和19 10 12 鵠沼南部に新設の国民学校を鵠洋国民学校と命名 鵠洋40年記念誌
1944 昭和19 11 28 江ノ島電気鉄道、神奈川中央乗合自動車に路線を譲渡し、路線バス事業から撤退 江ノ電の100年
1944 昭和19   日本精工の工員慰安会に市川猿之助公演。肝煎り=邦枝完二 鵠沼78号
1944 昭和19 12 17 湘南中学校併設の湘陽中学校、廃止認可[市史] 鵠沼15号
1944 昭和19     長谷川巳之吉、講談社に権利を譲り、第一書房を廃業→以後鵠沼に隠棲 鵠沼94号
1944 昭和19     ガラス工芸作家=各務鑛三(1896-1985)、鵠沼海岸7-18-2に疎開、以後後半生を居住 郷土史料展示室
1944 昭和19     日本芸能百撰会・創韻会会長=杵屋五十郎、鵠沼橘通より群馬県伊香保に疎開 鵠沼61号
1944 昭和19     劇作家=田中千禾夫・澄江夫妻、鵠沼2439(鵠沼桜が岡4-15-20)を去り、鳥取に疎開 鵠沼別冊文化人
1944 昭和19     4郵便局、藤沢郵便局に統合 鵠沼74号
1945 昭和20 2 17 湘南地区に米軍機320機来襲→空襲の日常化 鵠沼15号
1945 昭和20 2 26 関東地方大雪。善行で積雪45cm。東海道線、一時不通[市史] 鵠沼15・22号
1945 昭和20   俳優=芥川比呂志(1920-1981)一家、田端から母の実家=鵠沼西海岸に疎開(本人は出征中) WEBsite
1945 昭和20 3 18 湘南中学校、決戦教育処置要綱により4月1日から1年間授業は停止となる  WEBsite
1945 昭和20 3   民俗学者=圭室諦成、応召。家族は鵠沼海岸3-12-28から熊本県に移住 鵠沼別冊文化人
1945 昭和20 4 1 官立管理無線電信講習所藤沢分教場、中央無線電信講習所藤沢支所に改名 WEBsite
1945 昭和20 4 1 俳人=渡辺水巴(義 1882-1946)、強制疎開で鵠沼7327(鵠沼藤が谷2-10)に転居 近代文学年表
1945 昭和20 4 15 米軍B-29重爆撃機(#42-94034)、江の島沖に墜落。乗員4名、本鵠沼駅付近に落下傘降下→拘束 WEBsite
1945 昭和20 4 28 鵠洋国民学校建築認可 鵠洋沿革
1945 昭和20 4   民俗学者=圭室諦成、鵠沼海岸3-12-28を去る[藤沢文人録] 藤沢文人録
1945 昭和20 4   みくに愛児園、閉鎖 藤沢教会100年史
1945 昭和20 4   本鵠沼駅周辺の企業、「鵠商會」を結成 現地調査
1945 昭和20 5 25 元首相=広田弘毅(1878-1948)、東京大空襲のため原宿で罹災→現鵠沼松が岡1-18-9の別荘に一時避難 鵠沼83号
1945 昭和20 6   子母沢寛、東京から鵠沼5594(鵠沼海岸 7-15-4)堀川の別荘に移る[年譜] 鵠沼15号
1945 昭和20 6   小田急線本鵠沼・鵠沼海岸、「各駅停車」の停車駅となる。(同時に、「直通」は廃止される。) WEBsite
1945 昭和20 7 30 県南部中心に艦載機315機による最も激しい空襲 相模湾上陸作戦
1945 昭和20 8 13 県下最後の艦載機200機による広範な空襲 相模湾上陸作戦
1945 昭和20     今井達夫、鵠沼を去り、福島市北町に転居 鵠沼別冊
1945 昭和20 8 16 湘南中学校、文部次官通達により学徒動員解除  湘南高校史
1945 昭和20 8 16 東京音楽学校学生=芥川也寸志(1925-1989)、鵠沼下鰯5501(鵠沼海岸3-11-5)の母の実家に転居 WEBsite
1945 昭和20 8 17 神明宮、例大祭を自粛 鵠沼12号
1945 昭和20 8 19 林 達夫ら、本鵠沼金田邸と鵠沼海岸駅前に文化人の書籍提供を受け貸本屋「湘南文庫」開設※終戦直前? 鵠沼83号
1945 昭和20 8 20 元首相=広田弘毅(1878-1948)、現鵠沼松が岡1-18-9を離れ、練馬の知人安部十二造氏宅に移住 鵠沼83号
1945 昭和20 8 25 日本精工藤沢工場従業員の大半を解雇 藤沢市史年表
1945 昭和20 9 1 湘南中学校、授業再開 WEBsite
1945 昭和20 9 1 相模女子商業学校、藤嶺学園に移管される WEBsite
1945 昭和20 10 23 東京新聞、「文化人の書斎開放」の見出しで「湘南文庫」開設を報道 鵠沼83号
1945 昭和20 10   鵠沼1559に東京養老院藤沢分院設立(東京の本院が戦災に遭ったため移転) 鵠沼寺院考
1945 昭和20 11 1 雑誌『俳句研究』11月号に渡辺水巴:『鵠沼新居』掲載 占領期雑誌記事
1945 昭和20 11 30 日本精工労働組合結成 藤沢市史年表
1945 昭和20 11   写真家=影山光洋、鵠沼に転居 WEBsite
1945 昭和20 12 1 江の島鎌倉観光労働組合結成 藤沢市史6巻
1945 昭和20 12 2 元首相=広田弘毅(1878-1948)、戦争犯罪人として収監 鵠沼83号
1945 昭和20     古書の弘文荘の反町茂雄(1901-1991)、鵠沼海岸5-13付近に300坪の土地を購入 WEBsite
1945 昭和20     小説家=安岡章太郎(1920-)、鵠沼に居住 藤沢人物ファイル
1945 昭和20     日本画家=上田臥牛(1920-1999)、鵠沼新田(鵠沼橘2-1-13)に居住 上田臥牛展
1945 昭和20     湘南瓦斯梶A東京瓦斯(現東京ガス)に合併 WEBsite
1946 昭和21 1 21 東京帝国大学名誉教授(西洋史)=村川堅固(1875-1946)、疎開先の溝口にて没 鵠沼76号
1946 昭和21 2 15 米軍、鵠沼付近の空中写真を撮影(日本地図センターで入手可) 鵠沼83号
1946 昭和21 2 25 中央無線電信講習所藤沢支所、生徒寮3棟を焼失 WEBsite
1946 昭和21 2   東急電鉄、鵠沼中藤ヶ谷2.5ha・30区画の分譲地、区画660u、57?65 円/坪の高級分譲地を販売=戦後初 WEBsite
1946 昭和21 2 28 鵠洋国民学校、鈴木匡雄初代校長、飯田義治初代教頭発令。市役所の一室に創立事務所を設置 鵠洋40年記念誌
1946 昭和21 4 1 渡辺水巴、鵠沼7327に句誌『曲水』発行所を移し、第30巻第1号より『鵠沼より』を連載 占領期雑誌記事
1946 昭和21 4 24 鵠洋国民学校、創立事務所を市役所から第三国民学校に移す 鵠洋沿革
1946 昭和21 5 17 元首相=広田弘毅の家族、東京裁判傍聴後、鵠沼松が岡1-18-9の別荘に戻り、翌朝静子夫人が自ら命を絶つ 鵠沼83号
1946 昭和21 6 14 飛島 繁、3代藤沢市長に就任[市史] 鵠沼15号
1946 昭和21 6   六代目尾上菊五郎一家、江の電鵠沼駅の裏、境川の畔に居を構える。九郎右衛門一家も大川橋蔵も一緒 鵠沼25号
1946 昭和21 7 1 江ノ島電氣鐵道、運転間隔15分になる 江ノ電百年物語
1946 昭和21 7 21 林達夫・長谷川巳之吉ら、湘南学園の夏期休暇を利用し、市民向け教養講座「鵠沼夏期自由大学」を開催 鵠沼77号
1946 昭和21 7 24 第三国民学校にて鵠洋国民学校分離告別式 藤沢市教育史
1946 昭和21 8 10 鵠洋国民学校竣工式並びに開校式 鵠沼15・76号
1946 昭和21 8 10 子母沢寛、堀川から鵠沼6350(鵠沼松が岡5-1-16)熊倉通りに移る[藤沢風物] 鵠沼15号
1946 昭和21 8 13 俳人=渡辺水巴(1882. 6.16-1946)、鵠沼の寓居で死去。享年65※鵠沼9号では1945年 鵠沼9号
1946 昭和21 8 26 鵠洋国民学校、第二学期始業→「本校に於ての最初の意義ある学習の幕が開かれた」 鵠洋沿革
1946 昭和21 8   鵠沼海岸・鵠沼松が岡の洋風別荘・鵠沼ホテルが進駐軍に接収される 鵠沼87号
1946 昭和21 10 1 小田急線本鵠沼・鵠沼海岸、「準急」停車駅となる WEBsite
1946 昭和21 10 16 鵠洋国民学校、山口紋藏・加藤徳太郎・有田金八・長谷川欽一の四氏発企によって学校後援会設立委員会組織 鵠洋沿革
1946 昭和21 10 20 県立湘南中学校蹴球部、第1回国民大会決勝戦で神戸一中を破り全国優勝 WEBsite
1946 昭和21 10 20 鵠洋国民学校、開校記念大運動会、全校児童で「開校音頭」を踊る 鵠洋沿革
1946 昭和21 11 3 県立湘南中学校、第1回国体で全国優勝[市史] 鵠沼15号
1946 昭和21 11 5 雑誌『現代俳句』11月号に渡辺水巴:『水巴句抄』掲載。小見出しに『鵠沼』 占領期雑誌記事
1946 昭和21 12 2 鵠洋国民学校、学校後援会創設総会→会長加藤徳太郎・副会長有田金八を選出、会則・予算を採決 鵠洋沿革
1946 昭和21 12 20 鵠沼地区農地委員、小作委員=宮崎治三郎・山口栄次郎/地主委員=関根善之助/自作委員=近藤初太郎 藤沢市史6巻
1946 昭和21     評論家・小説家=鹿地 亘(1903-1982)、中国より帰国し、鵠沼6083の知人宅で結核療養 WEBsite
1946 昭和21     長谷川巳之吉、戦争中に、ヒトラーの『我が闘争』を刊行したなどの理由で公職追放 第一書房
1946 昭和21     第三国民学校、奉安殿を撤去 藤沢市教育史
1946 昭和21     湘南砂防事務所、鵠沼で再開 鵠沼海岸開発史
1946 昭和21     鵠沼海岸に「なぎさクラブ」(文化活動の交流会)結成(1948年まで) 鵠沼82号
1947 昭和22 1 10 鵠洋国民学校、第一回学校自治委員会 鵠洋沿革
1947 昭和22 2 10 国民学校で連合軍及びララ委員会からの脱脂粉乳、その他の援助物資により、学校給食開始 鵠洋40年記念誌
1947 昭和22 3 19 鎌倉郡片瀬町を藤沢市に合併すること、県告示 藤沢市史6巻
1947 昭和22 4 1 鵠洋小学校、第1回入学式 鵠洋沿革
1947 昭和22 4 1 鎌倉郡片瀬町、藤沢市に編入合併。鵠沼地区と境を接する。鵠洋国民学校で片瀬町合併祝賀式 藤沢市史年表
1947 昭和22 4 1 町内会廃止 百年の歴史
1947 昭和22 4 1 湘南学園中学校開校[教育研]宮下正美、湘南学園三代目園長に就任 鵠沼15号
1947 昭和22 4 15 鵠洋国民学校、臨時措置として昭和21年度終業式(最初で最後の鵠洋国民学校終了式)を行う。本日から4月中休業 鵠洋沿革
1947 昭和22 4 30 地方選挙。藤沢市議選で鵠沼地区から共産党の葉山・大和田2名が当選(全国で唯一) 百年の歴史
1947 昭和22 4   みくに愛児園、再開 藤沢教会100年史
1947 昭和22 4   元外交官=杉原千畝(1900-1986)・幸子(歌人)夫妻、鵠沼に居住 命のビザ
1947 昭和22 5 1 国民学校、新制の小学校に切り替えられる 第三国民学校→鵠沼小学校、鵠洋国民学校→鵠洋小学校 藤沢市教育史
1947 昭和22 5 3 GHQ、政令15号を発令し、町内会・部落会の全面的解散を命令 藤沢市史6巻
1947 昭和22 5 5 新制の藤沢市立第一中学校(旧藤高国民学校)・鵠沼中学校(鵠沼小学校の一部を借りて)発足[市史] 鵠沼15号
1947 昭和22 5 20 鵠洋小学校に湘南文庫から571冊の雑書の寄付→これによって学校図書室の基礎ができた 鵠洋沿革
1947 昭和22 5   歴史学者=江口朴郎(1911-1989)、姫路市より鵠沼に戻る 朴郎文庫目録
1947 昭和22 6 6 鵠洋小学校に鵠青会(鵠沼海岸の青年団)からサイレンの寄付→屋上に設置→登下校時の合図に使用 鵠洋沿革
1947 昭和22 6 9 中央無線電信講習所藤沢支所、前年火災で焼失した生徒寮2階建1棟(鴻志寮)が新築落成 WEBsite
1947 昭和22 6 10 藤沢市立鵠沼中学校PTA結成発足。校章・生徒より公募できまる WEBsite
1947 昭和22 9 15 キャスリン台風関東大水害 鵠沼22号
1947 昭和22 10 1 雑誌『青年作家』第1巻第2号に野田桂子の入選小説:『鵠沼』掲載 占領期雑誌記事
1947 昭和22 10 1 雑誌『川柳きやり』第27巻第5号に坂本猿冠:『鵠沼だより』掲載 占領期雑誌記事
1947 昭和22 10 23 鵠洋小学校、「母と先生の会」発足。会長佐々木静子、副会長百武そよ 鵠洋沿革
1947 昭和22 12 22 湘南学園中学部第1校舎落成(柳小路の東京螺子宿舎跡) 湘南学園史
1947 昭和22     江ノ電・小田急、東急傘下から独立 WEBsite
1947 昭和22     無量壽院法圓寺(浄土宗)、川瀬法圓を開基とし、鵠沼1559東京養老院藤沢分院敷地内に創建 鵠沼寺院考
1947 昭和22     網野 菊、『海辺』(三島書房)を著す。大正8〜9年の鵠沼を描写 鵠沼45号
1947 昭和22     書誌学者=森 銑三(1895-1985)、鵠沼海岸5-13付近(反町茂雄所有地)に東京板橋から転居 鵠沼79号
1947 昭和22     画家=兵藤和男(1920-)、第15回独立美術協会展に『鵠沼風景』を出品、会友となる WEBsite
1947 昭和22     脚本家・映画評論家=飯田心美、現鵠沼桜が岡1-3-7に居住 WEBsite
1947 昭和22     今井達夫、大森より鵠沼海岸3-10加藤産婦人科の2階を間借りして転入 鵠沼別冊
1947 昭和22     今井達夫、鵠沼海岸3-8安岡章太郎の父の家の離れに転居 鵠沼別冊
1947 昭和22     チェリスト=安田謙一郎、鵠沼藤が谷に居住 人物ファイル
1947 昭和22     俳人・エッセイスト=飯島晴子、疎開先の生地=京都府富野荘村長池から鵠沼海岸の市営住宅に転居 WEBsite
1948 昭和23 2 1 湘南中学校、新学制実施に伴い定時制高等学校ならびに通信教育部の設置決定 WEBsite
1948 昭和23 2   作曲家=芥川也寸志(1925-1989)、山田紗織と結婚し、鵠沼を去る WEBsite
1948 昭和23 2 23 飛島市長、木材払い下げ問題で引責辞任 藤沢市史6巻
1948 昭和23 3 10 鵠洋小学校、給食調理室完成→13日に落成式 鵠洋沿革
1948 昭和23 4 1 県立湘南中学校、新制高等学校として再発足[市史] 鵠沼15号
1948 昭和23 4 1 湘南学園新制中学発足 湘南学園史
1948 昭和23 4 1 藤嶺学園相模女子商業学校、藤嶺学園女子中高等学校として再発足 WEBsite
1948 昭和23 4 5 雑誌『青森美術』第3巻第3号に棟方寅雄:『回想の劉生』掲載。小見出しに『鵠沼の家』 占領期雑誌記事
1948 昭和23 4 21 東京養老院藤沢分院、鵠沼に開設[市史] 鵠沼15号
1948 昭和23 4 27 鵠洋小学校、バラック校舎1室完成(石村清氏寄贈) 鵠洋沿革
1948 昭和23 4 28 鵠洋小学校、学校後援会・母と先生の会を解消し、藤沢市立鵠洋小学校PTAとして発足。初代会長=柴田善次郎 鵠洋沿革
1948 昭和23 4   みくに愛児園、みくに幼稚園に改称 藤沢教会100年史
1948 昭和23 5 1 県立湘南高等学校、定時制開設 藤沢市史年表
1948 昭和23 5 1 雑誌『かまくら』第3号に小島政二郎:『山茶花』掲載。小見出しに『鵠沼、松花亭眺望即事』 占領期雑誌記事
1948 昭和23 5 26 藤鵠農業協同組合設立[市史] 鵠沼15号
1948 昭和23 6 1 旧小田急電鉄、東京急行電鉄から分離独立し、"新生"小田急電鉄鰍ニして発足 藤沢市史年表
1948 昭和23 6 1 神奈川中央乗合自動車梶A小田急電鉄且P下となる WEBsite
1948 昭和23 7 1 市警察署本鵠沼派出所設置[市史] 鵠沼15号
1948 昭和23   市営鵠沼プール再開 鵠沼海岸開発史
1948 昭和23 8 1 雑誌『小説界』8月号に小穴隆一:『芥川竜之介と五十銭銀貨』掲載。小見出しに『鵠沼・鎌倉のころ』 占領期雑誌記事
1948 昭和23 8 2 女優=大田黒久美(本名:大田黒美波)、鵠沼海岸で出生 WEBsite
1948 昭和23   第二十三世本因坊=坂田栄寿、鵠沼に転居。鵠沼海岸町会事務所に仮寓 鵠沼80号
1948 昭和23 9 15 アイオン台風関東被害甚大 鵠沼22号
1948 昭和23 9 18 小田急電鉄江ノ島線、藤沢・本鵠沼間複線復旧 鵠沼56・77号
1948 昭和23 12 23 元首相=広田弘毅(1878-1948)、東京裁判の結果、A級戦犯として文官としてはただ一人絞首刑 鵠沼83号
1948 昭和23 12 俳優=木村功、4月1日に邦枝梢(邦枝完二の長女)と結婚し、鵠沼上岡6098(鵠沼桜が岡2-1-29)へ転居 WEBsite
1948 昭和23     岸田劉生の『鵠沼日記』、建設社より刊行 鵠沼26号
1948 昭和23     県道片瀬江の島線、整備工事竣工 藤沢市史年表
1948 昭和23     警防団、消防団に改称。鵠沼海岸は西海岸と南海岸の2分団を統合 鵠沼81号
1948 昭和23     横浜銀行鵠沼支店、鵠沼海岸3-5-2に開業 WEBsite
1949 昭和24 1 9 ルーテル派宣教師=リチャード・マイヤー、鵠沼で集会を開始(鵠沼めぐみルーテル教会の基礎) WEBsite
1949 昭和24 2   言語学者=喜安?太郎(1876-1955)、山梨県河口湖畔より鵠沼2724(本鵠沼4-7-6)に転居 わが住む里42号
1949 昭和24 3 26 松嶋喜作(民自)、戦後第2代参議院副議長に就任※証券業 WEBsite
1949 昭和24 3 31 藤沢市、風致地区制定。鵠沼地区は3か所 江の島桟橋物語
1949 昭和24 3   P笑子、津田塾を卒業、東京大学文科に進学(東大初の女子学生) ゆく河の流れ
1949 昭和24 4 10 小田急電鉄江ノ島線、本鵠沼・片瀬江ノ島間複線復旧 鵠沼56号
1949 昭和24 5 20 江ノ島電気鉄道、藤原〜東町・藤沢駅南口〜高瀬通り入口などのバス路線認可 江ノ電の100年
1949 昭和24 5   喜安?太郎、雑誌『英語青年』5月号より『鵠沼通信』(『湖畔便り』改め)を連載(1955年5月号まで) わが住む里42号
1949 昭和24 6 1 中央無線電信講習所藤沢支所、電気通信大学藤沢分校と改称 WEBsite
1949 昭和24 6 20 江ノ島電気鉄道、神奈川中央乗合自動車から路線を譲受し路線バス事業を再開。本鵠沼駅〜辻堂駅間運行 江ノ電の100年
1949 昭和24 7 1 本鵠沼駅前交番開設※鵠沼15号では1948.7.1 鵠沼77号
1949 昭和24 7 10 鵠沼中学校、校舎2棟(15教室及び管理室)、便所2棟、使丁室1棟完成→鵠沼小学校より移転完了 WEBsite
1949 昭和24 7 10 歌舞伎役者=六代目尾上菊五郎(1885.8.26-1949)、東京木挽町の自宅で死去 鵠沼25号
1949 昭和24 8 1 江ノ島電気鉄道梶A江ノ島鎌倉観光鰍ニ改称 鵠沼83号
1949 昭和24 8 20 県立湘南高校野球部、全国高校野球選手権大会(甲子園)決勝戦で岐阜高を5-3で破り全国優勝[市史] 鵠沼15・70号
1949 昭和24 8 30 市議会、運輸大臣・東京急行鰍ノ対し江ノ島線鵠沼地区内の踏切に危険予防設備設置方の意見書提出 藤沢市史年表
1949 昭和24 8 31 キティ台風。市内にも被害続出。鉄道省海の家、波浪で流失 鵠沼22号
1949 昭和24 9 13 鵠沼を舞台にした松竹映画『晩春』(監督:小津安二郎)、制作公開 WEBsite
1949 昭和24 9 26 鵠洋小学校、第2期校舎増築工事竣工(8教室、便所、渡り廊下) 藤沢市教育史
1949 昭和24 9 27 鵠洋小学校、給食調理室増設 鵠洋40年記念誌
1949 昭和24 10 6 鵠洋小学校、学校報「鵠洋通信」第一号発行 鵠洋沿革
1949 昭和24 10 10 雑誌『映画春秋』10月号に木下恵介・小林正樹:シナリオ『破れ太鼓』掲載。鵠沼、野中の家のアトリエも舞台 占領期雑誌記事
1949 昭和24 11 26 市議会、日本精工敷地を候補地に競輪場誘致許可願い提出[横浜貿易新報] 20世紀の藤沢
1949 昭和24 12 1 鵠沼を舞台にした松竹映画『破れ太鼓』(監督:木下恵介)、制作公開 WEBsite
1949 昭和24 12 14 湘南学園高等学校設置認可[県告示554] WEBsite
1949 昭和24     新劇俳優=芥川比呂志(1920-1981)一家と母=文、鵠沼西海岸から東京上目黒に転居 鵠沼83号
1949 昭和24     マルクス経済学者(東京大学教授)=宇野弘蔵(1899-1977)、鵠沼下岡6643(鵠沼海岸1-8-19)に居住 WEBsite
1949 昭和24     〜1950、洋画家=斎藤真一(1922-1994)、萩野悦子と結婚し、鵠沼に居住するも1年で岡山県に戻る WEBsite
1949 昭和24     橘通親和会発足。藤沢駅南口周辺の商店会として最古 鵠沼85号
1950 昭和25 1 6 ルーテル派宣教師=リチャード・マイヤーの鵠沼集会で最初の洗礼式。6名が受洗 WEBsite
1950 昭和25 3 11 詩人=伊藤海彦、これまでに片瀬より鵠沼海岸5311または5305(隣接地番)に転居 鵠沼86号
1950 昭和25 3 20 第一中学校、校歌制定 土岐善麿氏作詞・平井康三郎氏作曲 WEBsite
1950 昭和25 4 1 湘南高校、男女共学となる  WEBsite
1950 昭和25 4 15 湘南学園高等学校発足[湘南学園史](市史では1日開校) 鵠沼15号
1950 昭和25 4 17 シュテルンベルク、東京・中落合の聖母病院で死去 鵠沼80号
1950 昭和25 5 2 松嶋喜作(民自)、参議院副議長を離任 WEBsite
1950 昭和25 6 25 鵠沼めぐみルーテル幼稚園、非公式に開始(この日を創立記念日とする) WEBsite
1950 昭和25 7 1 江ノ島鎌倉観光線、運転間隔13分になる 江ノ電百年物語
1950 昭和25 7 15 江ノ島鎌倉観光線、戦時中統合していた「川袋」駅を廃止し、「石上」駅・「柳小路」駅に分割 鵠沼85号
1950 昭和25 7   女声合唱団=湘南コール(後の湘南コール・グリューン)、横浜第一高女(平沼)出身者を中心に結成 鵠沼88号
1950 昭和25 7   藤沢保健所、藤沢市藤沢965から鵠沼2168に移転 WEBsite
1950 昭和25 8 20 新田宮、知事の認可で神明宮の境内社となる 有賀密夫遺稿集
1950 昭和25 10 1 市制10周年記念式典で各小中学校、校旗受領 WEBsite
1950 昭和25 10   鵠沼伏見稲荷神社宮司:高山昇死去 享年87[高山昇翁碩徳碑] 鵠沼30号
1950 昭和25 12 16 横浜興信銀行鵠沼支店開設[市史] 鵠沼15号
1950 昭和25 12 17 鵠沼めぐみルーテル教会、鵠沼松が岡1-1-6で献堂式 WEBsite
1950 昭和25     伊東将行の孫で養子の伊東将治、旅館東屋跡から西方、鵠沼ホテル跡地に割烹料亭「東家」を開く 東屋旅館物語
1951 昭和26 1 1 詩人=伊藤海彦、これまでに鵠沼海岸5311または5305より鵠沼海岸6629に転居(一時滞在) 鵠沼86号
1951 昭和26 2   天野芳太郎、鵠沼を去り、ペルーへ向かう。プレインカ文化の発掘・研究をし、リマに天野博物館開設 鵠沼断想
1951 昭和26 2   小学校で完全給食実施 WEBsite
1951 昭和26 3 31 鵠洋小学校、運動場整地工事第二期完了。砂から土の校庭になる。周囲にクロマツ植樹 鵠洋沿革
1951 昭和26 4 1 宗教法人 鵠沼めぐみルーテル幼稚園、鵠沼松が岡1-1-6に開設 WEBsite
1951 昭和26 4 16 宗教法人日本聖公会横浜教区聖マルコ幼稚園、鵠沼海岸7-10-20に開設 WEBsite
1951 昭和26 5 5 鵠沼を舞台にした松竹映画『自由学校』(監督:渋谷実)、制作公開 WEBsite
1951 昭和26 6 5 鵠沼・川袋方面で県営高圧線電柱の無断設置が問題化する 藤沢市史年表
1951 昭和26 6 1 市立藤沢保育園、鵠沼石上1-11-5に開設 WEBsite
1951 昭和26 6   歌手=井口小夜子、鵠沼東原2849-1(現鵠沼桜が岡4-4-9)に転居 湘南新聞
1951 昭和26 7 9 江ノ島鎌倉観光、乗合自動車鵠沼線運行再開(20日説も) 江ノ電の100年
1951 昭和26 8 17 高圧線電柱設置問題第3回交渉(第1回、第2回は不明。第4回=8/21、第5回=8/28) 湘南新聞
1951 昭和26 8 18 市議会、鵠沼住民310名より提出の藤沢警察署駐在所設置の請願採択 藤沢市史年表
1951 昭和26 11 3 東京養老院藤沢分院増築落成 藤沢市史年表
1951 昭和26 11 12 鵠洋小学校にモデル給食調理室を設置 藤沢市史年表
1951 昭和26 11 25 鵠沼6063の知人宅で病気療養中の鹿地 亘、江ノ電鵠沼駅付近を散歩中に米謀略機関に拉致=鹿地事件 藤沢市史年表
1951 昭和26 12   詩人=伊藤海彦、これまでに鵠沼海岸より鎌倉市台に転居 鵠沼86号
1951 昭和26     今井達夫、鵠沼下岡6708(鵠沼松が岡3-14)に新築し、転居 鵠沼別冊
1951 昭和26     今井達夫ら鵠沼在住の作家・画家・俳優・ジャーナリストを中心に「スワン会」を結成 鵠沼別冊
1951 昭和26     P笑子、ガリオア(翌年よりフルブライトと改称)留学生として米国ミネソタ大学に入学 ゆく河の流れ
1951 昭和26     心理学者(東京大学教授)=相良守次(1903-1986)、鵠沼西海岸5213(鵠沼海岸5-13-6)に居住 WEBsite
1951 昭和26     鵠洋小学校PTAコーラス結成 カーテンコール
1951 昭和26     法政大学教授=逸見重雄(後に社会学部長。マルクス経済学)、松本陽松園一番左奥の家に居住 鵠沼77号
1952 昭和27 1 20 秩父宮雍仁親王(1902-1953)、御殿場別邸より鵠沼桜が岡4-1-22の別邸に移居 鵠沼58号
1952 昭和27 1   宗教法人日本聖公会横浜教区藤沢聖マルコ教会、藤沢市鵠沼海岸7-10-20に設立(幼稚園園舎利用) WEBsite
1952 昭和27 3 23 鵠洋小学校、第3期校舎増築工事竣工(2階建て校舎、便所、渡り廊下)→二部授業を解消 藤沢市教育史
1952 昭和27 4 15 江ノ島鎌倉観光線、ダイヤ改正により現行の12分間隔運転となる 江ノ電の100年
1952 昭和27 5 28 (福)共生会藤沢養護老人ホーム、鵠沼1559に設立 WEBsite
1952 昭和27 6   鵠沼一木通り側溝護岸工事完了 藤沢市史年表
1952 昭和27 6   本鵠沼駅付近側溝新設工事竣工 藤沢市史年表
1952 昭和27 8 18 金子市長、高圧線電柱設置問題で県から事業認定申請書が出されたことを地元民に報告→8/20告示 湘南新聞
1952 昭和27 8 21 高圧線電柱設置問題で地元民15名、市議16名による懇談会。電柱撤廃を請願することを決める 湘南新聞
1952 昭和27 9 8 金子市長、高圧線電柱設置問題で関野・杉浦市議を呼び出し、一方的説明会→紛糾 湘南新聞
1952 昭和27 9   鵠沼公民館期成会、旧西海岸町会・旧南海岸町会町内会クラブの敷地を売却 郷土史料展示室
1952 昭和27 9   第二十三世本因坊=坂田栄寿(1920-)、鵠沼から東京大森に転居 鵠沼80号
1952 昭和27 10 10 鵠沼小学校、創立80周年記念式挙行。校歌(作詞:高橋掬太郎/作曲:江口夜詩)制定 藤沢市教育史
1952 昭和27 12 4 1等国道東海道を1級国道1号線に指定[政令第477号] WEBsite
1952 昭和27 12   江ノ島鎌倉観光、辻堂線(藤沢駅裏口〜本鵠沼〜辻堂駅)バス運輸開始 江ノ電の100年
1952 昭和27     岸田劉生の『劉生絵日記(全3巻)』、竜星閣より発行 鵠沼26号
1952 昭和27     西洋古代史家(東大教授)=村川堅太郎、鵠沼中岡6282(鵠沼松が岡5-8-30)より文京区目白台に転居 鵠沼76号
1952 昭和27     童画家=黒崎義介、鵠沼海岸5-1-11に居住 藤沢文学年表
1952 昭和27     小説家=広津桃子(1918-1988)、鵠沼6142(鵠沼桜が岡3-16-18)に居住 藤沢文学展図録
1952 昭和27     小説家=安岡章太郎(1920-)、鵠沼を去る 藤沢文学展図録
1952 昭和27     赤木圭一郎(本名:赤塚親弘)、鎌倉から鵠沼6867(鵠沼藤が谷4-19-29)へ転居し、鵠沼中学校に転校 WEBsite
1952 昭和27     彫刻家=菅沼五郎(1905-1999)、鵠沼松が岡1-22-2に転居 菅沼五郎展
1952 昭和27     鵠沼幼稚園、鵠沼桜が岡3-5-20に開園。創設者:相原和郎(市立明治小学校元校長) WEBsite
1953 昭和28 1 4 秩父宮雍仁親王、鵠沼の別邸で薨去[市史] 鵠沼15・58号
1953 昭和28 1 17 鵠洋小学校、図書館開館 藤沢市教育史
1953 昭和28 1 24 鵠沼中学校図書館竣工 藤沢市史年表
1953 昭和28 1   ユーモア作家=日吉早苗(1900.11.25-1953)、鵠沼で死去 藤沢人物ファイル
1953 昭和28 3 9 江ノ島鎌倉観光、乗合自動車石上線を廃止 江ノ電の100年
1953 昭和28 3 16 市内海岸一帯が「海岸砂地地帯農業振興臨時措置法」指定地域となる 藤沢市史年表
1953 昭和28 4 1 小田急電鉄、江ノ島鎌倉観光を関係会社に加える 藤沢市史年表
1953 昭和28 4 21 鵠沼小学校、火災により本館・宿直室・仕丁室・給食調理場等の大半を消失 藤沢市史年表
1953 昭和28 5 18 横須賀大磯線(湘南遊歩道路。横須賀市―大磯町)、2級国道134号線に指定[政令第96号] 鵠沼海岸開発史
1953 昭和28 7 1 鵠沼地区社会福祉協議会創立。初代会長=袴田可坪 社協50周年記念誌
1953 昭和28 7   鵠沼小学校、新館大教室竣工 藤沢市教育史
1953 昭和28 8   阿部 昭(東大1年生)、鵠沼西海岸から鵠沼松が岡に転居 WEBsite
1953 昭和28 9 1 賀来神社、宗教法人に改組・登記 鵠沼海岸開発史
1953 昭和28 10 1 鵠沼地区社会福祉協議会第1回総会(市役所) 社協50周年記念誌
1953 昭和28 10 5 藤沢全耕地で塩害発生し、凶作対策協議会開催 藤沢市史年表
1953 昭和28 10 24 藤沢・鵠沼・辻堂・片瀬の電話4局合併のため期成同盟会設立 藤沢市史年表
1953 昭和28 11   鵠沼めぐみルーテル教会、名尾耕作牧師を招聘して、教団最初の自立教会となる WEBsite
1953 昭和28     菊本別荘の進駐軍接収が解除される 鵠沼87号
1954 昭和29 1 9 鵠沼めぐみルーテル教会、宗教法人としての登記。認証を受ける WEBsite
1954 昭和29 1 24 関東地方大雪藤沢で30cm記録[市史] 鵠沼15号
1954 昭和29 2   湘友会(湘南高校同窓会)、初代校長=赤木愛一郎先生像を湘南高校正門正面に造立 現地調査
1954 昭和29 4 1 鵠沼の電話自動化[市史] 鵠沼15号
1954 昭和29 4   鵠沼海岸に横浜ゴルフ場開設 藤沢市史年表
1954 昭和29 5   鵠沼小学校、本館・給食調理場・宿直室・便所竣工 藤沢市教育史
1954 昭和29 6 26 元外交官=森島守人、社会党(左派)に入党 WEBsite
1954 昭和29 7 12 鵠沼小学校、開校記念日を期し、竣工式を挙行 藤沢市教育史
1954 昭和29 10 5 P彌一、仙台・東北大学病院にて死去。享年67[鵠沼断想] 鵠沼89号
1954 昭和29 10   聶耳(ニェ・アール)記念碑(制作:山口文象)、鵠沼海岸 2 -18 地先引地川河畔に造立 鵠沼30・62号
1954 昭和29 10   俳優=木村功、鵠沼から東京都渋谷区西原へ転居 WEBsite
1954 昭和29 11 1 鵠沼の聶耳(ニェ・アール)記念碑(設計:山口文象/碑文:秋田雨雀)、李徳全女史による除幕式[市史] 鵠沼15号
1954 昭和29     出版人=長谷川巳之吉(1893-1973)、鵠沼松が岡3-24-35から鵠沼松が岡4-15-9に転居 鵠沼別冊文化人
1954 昭和29     葛巻左登子、東京田端より鵠沼引地川縁に転居 鵠沼69号
1954 昭和29     県立湘南海岸公園、建設開始 鵠沼海岸開発史
1954 昭和29     台風5号 家屋被害全壊流失22(藤沢市新総合計画S54.4) 鵠沼22号
1954 昭和29     岸田麗子(劉生の長女、『麗子像』のモデル)、鵠沼に来訪。逸見重雄宅に立ち寄る 鵠沼72号
1954 昭和29     渡辺邸、米軍からの接収解除 鵠沼78・80号
1954 昭和29     菊本別荘敷地の北部1500坪、東急電鉄及び五島慶太に売却 鵠沼87号
1955 昭和30 3 25 小田急線本鵠沼・鵠沼海岸、「通勤急行」停車駅となる WEBsite
1955 昭和30 3 31 鵠洋小学校、第4期校舎増築工事竣工(2階建て校舎、渡り廊下) 藤沢市教育史
1955 昭和30 4 29 カトリック聖コロンバン会、藤沢教会創立・献堂式 WEBsite
1955 昭和30 4   鵠沼宮の前改良下水道完成 藤沢市史年表
1955 昭和30   教育史学者=加藤仁平(1894-1993)、鵠沼海岸7-10-22へ転居 WEBsite
1955 昭和30 5 20 高山昇翁碩徳碑、鵠沼海岸 5-11 鵠沼伏見稲荷神社境内に造立 鵠沼15・30号
1955 昭和30 5 21 湘南高校新図書館落成(県下初のブロック造り) 藤沢市史年表
1955 昭和30 5   公共下水道の第一歩を歩み出す(作橋通り)  WEBsite
1955 昭和30 7   公共下水道南部処理区、藤沢、鵠沼、片瀬地区875.7haの事業認可、合流式下水道で管渠整備を開始 WEBsite
1955 昭和30 9 1 鵠洋小学校、特殊学級設置 鵠洋40年記念誌
1955 昭和30 9   鵠沼地区を含む市下水道事業、認可 藤沢市史年表
1955 昭和30 9   江ノ島鎌倉観光、鵠沼松が岡に鵠沼第1分譲地27,254u24区画を販売 江ノ電の100年
1955 昭和30 10 22 秩父宮記念体育館開館[市史] 鵠沼15号
1955 昭和30 10   江ノ島鎌倉観光、鵠沼松が岡に鵠沼第2分譲地21,548u17区画を販売 江ノ電の100年
1955 昭和30 11 10 鵠洋小学校、給食調理室拡張工事完成 鵠洋沿革
1955 昭和30 11 30 県収用委員会、川袋地内の高圧線使用を認める旨を採決 藤沢市史年表
1955 昭和30 12 3 郭沫若ら中国学術視察団、聶耳(ニェ・アール)記念碑を訪問 藤沢市史年表
1955 昭和30 12 22 『英語青年』主宰者=喜安?太郎(1876-1955)、本鵠沼4-7-6にて死去 わが住む里42号
1955 昭和30     葛巻左登子、鵠沼引地川縁より鵠沼海岸に転居 鵠沼69号
1955 昭和30     独文学者・演劇研究家=新関良三(1889-1979)、鵠沼松が岡5-1-4に居住[学士会名簿] WEBsite
1955 昭和30     高瀬通りの旧長谷川→斉藤邸、出光興産の保養所「出光寮」となり、テニスコートが1面つくられる 鵠沼81号
1956 昭和31 1 27 良好な住宅地・境川ぞいの水と緑の調和を地域の特性とする鵠沼風致地区138.44haを指定 WEBsite
1956 昭和31 2   『英語青年』2月号に喜安?太郎(-1955)による「鵠沼通信」最終回掲載(遺作) WEBsite
1956 昭和31 4 1 市立湘洋中学校開校→鵠沼中学校の校区分割 藤沢市史年表
1956 昭和31 4 30 植物学者=前川文夫博士、鵠沼でクゲヌマランを採集して描く 鵠沼88号
1956 昭和31 4   鵠沼藤が谷と片瀬新屋敷を結ぶ「境橋」掛け替え工事竣工[市史] 鵠沼15号
1956 昭和31 7   文芸座談会ノート第8号、天才作曲家聶耳の生涯と業績特集。附記「遭難終焉地鵠沼海弔訪記」影山 巍 WEBsite
1956 昭和31 7   小田急ビーチハウス、開業 WEBsite
1956 昭和31 8 2 邦枝完二(1892.12.28-1956)、自宅(鵠沼桜が岡2-1-29)で死去・64才[年譜] 鵠沼15号
1956 昭和31 9 25 植物学者=前川文夫博士、鈴木吉五郎氏が栽培したクゲヌマランの種子を描く 鵠沼88号
1956 昭和31 11 27 鵠洋小学校、創立10周年記念校歌制定祝賀会。校歌(作詞:小林純一/作曲:磯部 俶)制定 藤沢市教育史
1956 昭和31     江の島・西浜・鵠沼海水浴場を統合した「江の島海水浴場協同組合」、創立 WEBsite
1957 昭和32 1 19 藤嶺学園女子高校商業実践室完成→遊行寺境内より鵠沼に移転 藤沢市史年表
1957 昭和32 2 27 鵠洋小学校理科室増築工事竣工 藤沢市史年表
1957 昭和32 3   神明宮境内に山車合同格納庫完成 鵠沼12号
1957 昭和32 5 1 鵠沼中学校に特殊学級新設 WEBsite
1957 昭和32 5 8 境川「上山本橋」架け替え工事着工 藤沢市史年表
1957 昭和32 5 28 鵠沼小学校、理科室・図工室改築完成 藤沢市史年表
1957 昭和32 5   鵠沼西部4号線(熊倉通り)下水管埋設工事完成 藤沢市史年表
1957 昭和32 6 1 宮沢紙工梶A鵠沼石上で創業 WEBsite
1957 昭和32 6 20 本鵠沼郵便局(現在の鵠沼桜が岡郵便局)、開局[市史] 鵠沼15号
1957 昭和32 7   歴史学者=大類伸、『新潮』昭和32年7月号に『鵠沼随想』を寄稿 鵠沼別冊文化人
1957 昭和32 9   カトリック聖コロンバン会藤沢教会、聖堂内で祭壇に放火される WEBsite
1957 昭和32 9   江ノ島鎌倉観光、鵠沼桜が岡に桜小路第1分譲地16,280u27区画を販売 江ノ電の100年
1957 昭和32 11 30 鵠洋小学校、講堂・保健室完成 鵠洋40年記念誌
1957 昭和32 12 7 藤沢市、都市計画案(市道・公園等)を発表 道路整備課
1957 昭和32 12 10 上岡公園(鵠沼桜が岡3丁目)、開園 WEBsite
1957 昭和32     鵠沼公民館期成会、敷地268坪を市に無償提供→市は次年度予算に建設費1,090万円を計上 郷土史料展示室
1957 昭和32     杉沢家、「東屋の離れ」を買い取り、辻堂より移住 鵠沼75号
1957 昭和32     日本芸能百撰会・創韻会会長=杵屋五十郎、群馬県伊香保より鵠沼橘通に戻り、活動する 鵠沼61号
1958 昭和33 2 24 湘南高校火災 鵠沼70号
1958 昭和33 3 3 鵠沼海岸に「片帆橋」竣工 鵠沼15号
1958 昭和33 3 15 藤嶺学園女子高校校舎落成 藤沢市史年表
1958 昭和33 3 31 鵠洋小学校、校舎増築工事竣工 藤沢市教育史
1958 昭和33 4 13 鵠洋小学校、第五期校舎増築工事竣工(四教室・便所・渡り廊下) 鵠洋沿革
1958 昭和33 5 6 アテネ株式会社(プリント回路基板・電子回路部品の製造)、鵠沼神明3-2-1で創業 WEBsite
1958 昭和33 5   岸田麗子、『鵠沼に住んでいた頃』を発表[現代の眼42号 (名作のモデル)] 現代の眼総目次
1958 昭和33 6   引地川「龍宮橋」、掛け替え工事完成[市史] 鵠沼15・62号
1958 昭和33 6   境川「上山本橋」、掛け替え工事完成 鵠沼15号
1958 昭和33 7 26 鵠沼に小田急シーサイドパレス営業開始 鵠沼81号
1958 昭和33 8 20 鵠沼土地区画整理組合、再発足総会(鵠沼土地区画整理記念碑) 鵠沼30号
1958 昭和33 8   映画俳優=赤木圭一郎(1939-1962)、日活第4期ニューフェースとして映画界に入り、鵠沼を去る WEBsite
1958 昭和33 9 13 鵠沼の関東ヤクルト製造椛業開始[市史] 鵠沼15号
1958 昭和33 9 27 台風22号(狩野川台風)江の島より上陸 市内死者3 被害甚大。聶耳(ニェ・アール)記念碑破損 鵠沼22号
1958 昭和33 10 18 県営特別高圧線問題、県側が折れて妥協成立 鵠沼85号
1958 昭和33 11 20 鵠洋小学校4年生児童2名と湘南学園小学校5年生児童1名、一木通り踏切で事故死 鵠洋沿革
1958 昭和33     鵠沼松が岡4-19-5小田急一木通り踏切脇の地蔵菩薩像(立像丸彫)、造立 鵠沼30号
1958 昭和33     元外交官=森島守人(1906-1975)、鵠沼松が岡4丁目に居住 藤沢文学展図録
1958 昭和33     小説家=白井喬二(小説『富士に立つ影』)、杉沢家より「東屋の離れ」を借り受け、3年間静養生活 鵠沼75号
1958 昭和33     鵠栄会「奥様ボーナス(Rチップサービス) 」始まる 鵠沼81号
1958 昭和33     電気通信大学藤沢分校藤沢鴻志寮の調布寮への統合決まる WEBsite
1959 昭和34 1 19 ミュージシャン=白井貴子、鵠沼で生まれる WEBsite
1959 昭和34 2 12 鵠沼公民館落成(14日落成式)[市史] 鵠沼15・33・77号
1959 昭和34 2 14 津久井発電所〜鎌倉山間の高圧線工事で再度鵠沼住民と県企業庁電気局もめる 藤沢市史年表
1959 昭和34 3 5 藤沢市、マイアミビーチ市と姉妹都市提携 藤沢市史
1959 昭和34 3 10 江ノ島電鉄バス、鵠沼線の高根〜鵠沼海岸間廃止→高根線となる 江ノ電の100年
1959 昭和34 4 1 初代鵠沼公民館長=見上文雄発令。婦人学級・成人学校はじまる。結婚式場を開く(1967年まで) 公民館のあゆみ
1959 昭和34 4 1 日本電気硝子鞄。沢工場操業開始[市史] 鵠沼15号
1959 昭和34 4 1 烏森公園(鵠沼神明2丁目)、開園 WEBsite
1959 昭和34 4 10 皇太子殿下御成婚記念植樹記念碑、湘南海岸公園国道脇に建立 現地調査
1959 昭和34 5   引地川「日の出橋」、架け替え工事完成 鵠沼15号
1959 昭和34 9 15 第一中学校図書館落成 藤沢市史年表
1959 昭和34 9 27 鵠沼を舞台にした松竹映画『今日もまたかくてありなん』(監督:木下恵介)、制作公開 WEBsite
1959 昭和34 9 29 鵠洋小学校、第二校舎・保健室火災により焼失※鵠沼15号には鵠沼小とあるが、誤り 鵠沼15号
1959 昭和34 10 13 鵠沼小学校4教室増築工事完成 藤沢市教育史
1959 昭和34 11 5 湘南高校本館新築工事完成 藤沢市史年表
1959 昭和34 11 5 湘友会、湘南高校校歌碑を正面玄関脇に造立 現地調査
1959 昭和34 11 22 藤沢市民交響楽団、発会式(鵠沼公民館) 鵠沼88号
1959 昭和34 11 23 鵠沼公民館にて第1回市民俳句会開催 鵠沼15号
1959 昭和34 11 29 秩父宮記念体育館にて第1回市民音楽祭開催 鵠沼15・88号
1959 昭和34     西海岸と南海岸とに分かれていた鵠沼海岸青年会、一本化する 鵠沼81号
1959 昭和34     長谷川巳之吉、鵠沼公民館に第一書房刊『短歌文学全集』を寄贈 鵠沼94号
1960 昭和35 2 26 藤沢駅前南部地区土地区画整理事業(市施行)、認可公告 WEBsite
1960 昭和35 2   鵠沼公民館、優良公民館として神奈川県より表彰 公民館のあゆみ
1960 昭和35 3 5 鵠沼中学校体育館落成 藤沢市史年表
1960 昭和35 3 25 鵠沼土地区画整理組合に神奈川県知事から換地処分の認可下りる(鵠沼土地区画整理記念碑) 鵠沼30号
1960 昭和35 3 31 市域内海岸一帯が指定地域とされていた海岸砂地地帯農業振興臨時措置法終了 藤沢市史年表
1960 昭和35 3 31 鵠沼土地区画整理組合、解散総会[鵠沼土地区画整理記念碑] 鵠沼30号
1960 昭和35 4 1 鵠沼土地区画整理記念碑、鵠沼神明 2-11(神社裏側道路わき)に造立 鵠沼30号
1960 昭和35 7 13 湘南海岸公園完成 鵠沼15号
1960 昭和35 7 20 鵠洋小学校校舎復旧工事完成 藤沢市史年表
1960 昭和35 7 20 鵠沼公民館及び本鵠沼駅前に公衆電話設置 藤沢市史年表
1960 昭和35 9 2 書家=金田松月(?-1960)、本鵠沼駅頭で脳溢血に倒れ、翌日死去。享年69 私の鵠沼日記
1960 昭和35 9   民俗学者=圭室諦成、熊本県から鵠沼松が岡3-7-15に居住[藤沢文人録] 藤沢文人録
1960 昭和35 10 20 朝鮮人帰国記念植樹 記念碑
1960 昭和35 10   神明宮鳥居、コンクリート造に再建工事着工(1961年1月完成) 記念碑
1960 昭和35 11 28 電気通信大学、旧学生寮および食堂(藤沢市鵠沼上鰯5,200)延1,650uが用途廃止 WEBsite
1960 昭和35 12 26 和辻哲郎、心筋梗塞のため東京都練馬区の自宅で死去。享年 71 。 和辻哲郎全集
1960 昭和35     輸入自動車だけの展示会「輸入車ショウ」、東急レストハウスにおいて初めて開催 WEBsite
1960 昭和35     藤沢市、聶耳(ニェ・アール)没後25周年「聶耳記念音楽祭」を鵠沼公民館で開催 WEBsite
1960 昭和35     日本ボーイスカウト神奈川連盟 藤沢第1団、鵠沼海岸7-10-20藤沢聖マルコ教会を本部に結成 WEBsite
1961 昭和36 1 17 皇大神宮鳥居再建記念碑、鵠沼神明 2-11(一の鳥居左側)に造立 鵠沼30号
1961 昭和36 3   白浜養護学校新設に伴い鵠沼中学校の特殊学級閉鎖 WEBsite
1961 昭和36 4 1 藤嶺学園女子中高等学校、鵠沼女子高等学校と改名し再発足 鵠沼15号
1961 昭和36 4 1 鵠沼海浜公園開園 藤沢市史年表
1961 昭和36 5 29 湘南新道(県道30号線)竣工 藤沢市史年表
1961 昭和36 6 28 台風6号 市内各地で多くの被害出る 鵠沼22号
1961 昭和36 7 20 引地川畔の旧藤沢市営プールの経営を引き継いで全面的に改良し、小田急鵠沼プールガーデン開場 鵠沼15・62号
1961 昭和36 7   佐賀紀充、東急レストハウス前でサ−フィンをしていた米兵から技術を学ぶ[サーフィンザオフィシャルハンドブック] WEBsite
1961 昭和36 9 16 第二室戸台風 県下被害甚大死者57名、市内各地で多くの被害出る 鵠沼22号
1961 昭和36     小説家=川口松太郎(1899-1985)、鵠沼松が岡2-19-10に別荘を構え、執筆場とする 藤沢人物ファイル
1961 昭和36     鵠沼小学校2教室増築工事完成。本町小学校火災のため校舎の一部を貸す 藤沢市教育史
1961 昭和36     岸田劉生『麗子像』のモデル岸田麗子と『村娘像』のモデル川戸マツ、40年ぶりに再会 鵠沼78号
1961 昭和36     日本画家=織田観潮(1889-1961)、鵠沼にて死去 人物ファイル
1962 昭和37 1 28 日本バプテスト連盟藤沢伝道所、鵠沼7365に仮開設 神ともに在まして
1962 昭和37 2 14 映画俳優=赤木圭一郎(1939-1962)、ゴーカートによる事故で慈恵医大第三病院に入院 WEBsite
1962 昭和37 2 21 映画俳優=赤木圭一郎(1939.5.8-1962)、午前7時50分死去。享年21 WEBsite
1962 昭和37 3   指揮者=福永陽一郎(1926-1970)、片瀬山から本鵠沼に転居 鵠沼89号
1962 昭和37 4 1 湘洋公園(鵠沼海岸4丁目)、開園 WEBsite
1962 昭和37 6 11 江ノ島鎌倉観光、藤沢駅北口〜長久保〜堂面・養老院前〜上村〜仲町のバス路線面許認可 江ノ電の100年
1962 昭和37 7 19 消防署鵠沼出張所開設[市史] 鵠沼15号
1962 昭和37 10 1 江ノ島鎌倉観光、藤沢駅〜長久保〜辻堂駅・藤沢駅〜上村〜辻堂駅バス運輸開始 江ノ電の100年
1962 昭和37 12   日本バプテスト連盟藤沢伝道所、本鵠沼5-10-29に移転 神ともに在まして
1962 昭和37     藤沢駅南側の区画整理事業はじまる 鵠沼85号
1962 昭和37     本多医師(代表)、作曲家=磯部俶、声楽家=塚本智子らの提唱で「藤沢音楽院」発足 WEBsite
1963 昭和38 1 15 鵠沼女子高校講堂落成 藤沢市史年表
1963 昭和38 1   湘南遊歩道路に水銀灯設置 鵠沼62号
1963 昭和38 3   藤沢バイパス開通→国道1号となり、鵠沼北端の旧東海道は神奈川県道43号藤沢厚木線に降格 WEBsite
1963 昭和38   西浜海水浴場警備員、ライフガード組織化(日本初のライフガード組織) WEBsite
1963 昭和38 11   宮之前・上村・烏森町3町内会、県・市に対し日本電気硝子工場から出る騒音・煤煙・粉塵被害について陳情 ここに歴史あり
1963 昭和38     鵠沼新道開通 鵠沼73号
1963 昭和38     鵠沼小学校、東側校舎3教室解体 藤沢市教育史
1963 昭和38     詩人=高橋元吉(1893-1965)、鎌倉市材木座から鵠沼松が岡2-9-15倉田健次方に居を移す 鵠沼82号
1964 昭和39 2 19 野呂栄太郎三十周忌、鵠沼公民館で開催 鵠沼18号
1964 昭和39 3 31 鵠洋小学校、校舎(職員室・校長室・図書室)増築工事竣工 藤沢市教育史
1964 昭和39 3   引地川「稲荷橋」、竣工 鵠沼15号
1964 昭和39 4 24 社会学者(慶応大学教授)加田哲二(1895.11.26-1964)、死去。享年68 WEBsite
1964 昭和39 4 28 藤沢警察署、現在地(本鵠沼4-1-8)に移転 藤沢市史年表
1964 昭和39   教育史学者=加藤仁平(1894-1993)、鵠沼海岸7-10-22から前橋市の長女水沢澄子方へ転居 WEBsite
1964 昭和39 5 23 第一中学校、第1校舎(本館)落成 普通教室20、校長室、職員室、事務室等 WEBsite
1964 昭和39 6 1 市立鵠沼保育園(本鵠沼3-16-25)、認可・開園 鵠沼15号
1964 昭和39 6 1 湘友会、湘南高校校歌楽譜レリーフ碑を正面玄関脇に造立 現地調査
1964 昭和39 8 1 鵠沼の一部(鵠沼松が岡1〜5丁目・鵠沼海岸1〜4丁目)で新住居表示を実施 鵠沼15号
1964 昭和39 8 1 鵠沼郵便局、鵠沼海岸郵便局に局名改称。住居表示鵠沼海岸2-7-3に変更 鵠沼81号
1964 昭和39 8 26 鵠沼海岸線、開通 藤沢市史年表
1964 昭和39 8   南部下水処理場の運転開始 WEBsite
1964 昭和39 10 6 江ノ島鎌倉観光、藤沢駅〜長久保〜辻堂団地バス運輸開始 江ノ電の100年
1964 昭和39 11 5 小田急線本鵠沼・鵠沼海岸、「急行」の停車駅となる。(当時は全列車が停車。) WEBsite
1964 昭和39 11 14 江ノ電設備管理梶A鵠沼石上1-1-1江ノ電第2ビル6階に創業 一般土木建築工事の請負業他 WEBsite
1964 昭和39 12 13 日本バプテスト連盟藤沢伝道所、本鵠沼5-10-29で会堂献堂式 神ともに在まして
1964 昭和39     藤沢聖マルコ教会、最初の聖堂を建築 WEBsite
1964 昭和39     精神障害者のための湘南精神クリニックを開設(鵠生園の前身) 鵠沼52号
1964 昭和39     新田宮前の新田道に沿った農業用水路、暗渠化 鵠沼76号
1964 昭和39     堀川(堀川田の排水路。「肥上げ道」に沿っていた)上流部、暗渠化 鵠沼8号
1965 昭和40 1 1 鵠沼の一部(鵠沼藤が谷1〜4丁目・鵠沼桜が岡1〜4丁目)で新住居表示を実施。片瀬地区との境界線変更 藤沢市史年表
1965 昭和40 1 20 第一中学校で火災、1棟消失 藤沢市史年表
1965 昭和40 1 28 詩人=高橋元吉(1893. 3. 6-1965)、鵠沼松が岡2-9-15倉田健次方にて死去 鵠沼82号
1965 昭和40 2 10 本鵠沼5-10-29に日本バプテスト連盟藤沢伝道所付属幼稚園「めぐみ園」開設 神ともに在まして
1965 昭和40 3 1 小田急線、特急「えのしま」運行開始 鵠沼15号
1965 昭和40 3 11 宮大工=加藤徳太郎(苅田・仲東・原の人形山車を製作)、死去 享年94 有賀密夫遺稿集
1965 昭和40 3 31 平和の像、鵠沼海岸2、湘南海岸公園憩いの広場に造立(像製作者:難波孫次郎/撰・書:金子小一郎) 鵠沼15・30号
1965 昭和40 4 10 鵠洋小学校屋内運動場落成 藤沢市史年表
1965 昭和40 4   鵠沼海岸聶耳(ニェ・アール)記念碑再建運動活発化 藤沢市史年表
1965 昭和40 5 31 空乗寺大橋重政の墓を藤沢市の文化財として「史跡」に指定 鵠沼15・24・37号
1965 昭和40 8 17 神明宮例祭で人形山車の町内巡行はこの年まで 鵠洋40年記念誌
1965 昭和40 8 18 図案家=杉浦非水(1876.5.15-1965 本鵠沼2-9-6)、死去  WEBsite
1965 昭和40 9 1 鵠沼駅前郵便局開局 鵠沼15号
1965 昭和40 9 18 鵠沼海岸聶耳(ニェ・アール)記念碑、再建除幕式挙行 鵠沼15号
1965 昭和40 10 1 鵠沼の一部(鵠沼神明1〜5丁目・本鵠沼1〜5丁目・鵠沼海岸5〜7丁目)で新住居表示を実施 鵠沼15・62号
1965 昭和40 11 18 第一中学校、第2校舎(新館)落成 普通教室7、音楽室、同準備室等 WEBsite
1965 昭和40 11   湘南海岸のクロマツ防砂林、塩害により枯死寸前となる 鵠沼62号
1965 昭和40 12 1 江ノ島鎌倉観光、藤沢駅〜長久保〜辻堂団地急行バス運輸開始 江ノ電の100年
1965 昭和40 12   湘南高校入口前東海道三差路に市内初の人型シグナル信号機完成 藤沢市史年表
1965 昭和40     この頃、俳優=中村錦之助(1932-1997)、鵠沼桜が岡3-17-24に居住 WEBsite
1966 昭和41 2 22 鵠洋小学校、新給食調理場完成 鵠洋40年記念誌
1966 昭和41 2 28 鵠洋小学校、理科室火災 藤沢市教育史
1966 昭和41 3   引地川「高山橋」、竣工 鵠沼15号
1966 昭和41 4   美術評論家=土方定一(1904-1980『岸田劉生全集』(岩波書店)の監修者)、鵠沼海岸旧東屋近くに転居 WEBsite
1966 昭和41 5 13 鵠沼小学校、屋内体育館落成。付随校地拡張 藤沢市教育史
1966 昭和41 5 15 仏教史学者=圭室諦成(1902-1966)、鵠沼松が岡3-7-15にて死去[藤沢文人録] 藤沢文人録
1966 昭和41 6 28 台風4号 引地川・柏尾川氾濫 100軒床上浸水 鵠沼9・22・83号
1966 昭和41 8   南部下水処理場、高級処理開始 WEBsite
1966 昭和41 9 24 台風26号 浸水倒壊の被害あり 鵠沼22・83号
1966 昭和41 10 1 奥田公園(鵠沼東)、開園 藤沢市史年表
1966 昭和41 10 14 境川・引地川水系水質浄化促進協議会設立 鵠沼62号
1966 昭和41 11   美術評論家=土方定一(1904-1980)、鵠沼藤が谷3-1-10に新居を建てて鵠沼海岸の借家から移住 WEBsite
1966 昭和41 12 10 内田公園(鵠沼神明4丁目)、開園 WEBsite
1966 昭和41     鵠沼公民館、青年教室・家庭教育学級はじまる 公民館のあゆみ
1967 昭和42 3   境川「新川名橋」、架け替え工事完成 WEBsite
1967 昭和42 3   鵠洋小学校、第2校舎増改築工事(鉄筋3階建て9教室)竣工 藤沢市教育史
1967 昭和42 4 1 私立富士幼稚園、本鵠沼1-3-7に開園 WEBsite
1967 昭和42 4   藤沢保健所、藤沢市鵠沼2168から鵠沼石上2-7-1(藤沢合同庁舎2階・3階)に移転 WEBsite
1967 昭和42 6 1 神奈川県合同庁舎(鵠沼石上2-7-1)、落成 藤沢市史年表
1967 昭和42 6 1 5月の異常渇水のため20%節水 鵠沼22号
1967 昭和42 6 6 江ノ島鎌倉観光バス藤沢営業所(鵠沼車庫)、藤沢駅南口から鵠沼海岸7丁目に移転 江ノ電の100年
1967 昭和42 6 28 湘南学園東校舎落成 湘南学園史
1967 昭和42 9   境川「新屋敷橋」、架橋 WEBsite
1967 昭和42 10 1 中学通り線と小田急線の立体交差完成 藤沢市史年表
1967 昭和42 11 3 ハーモニカ奏者=川口章吾、盲児福祉貢献者として第16回神奈川文化賞受賞 WEBsite
1967 昭和42     市立藤沢保育園(鵠沼石上1-11-5)、認可・開園 WEBsite
1967 昭和42     画家=長谷川路可、ローマにて客死 鵠沼86号
1968 昭和43 2 29 第一中学校、第2校舎西側増築落成 家庭科室2、理科室2、技術室2棟 WEBsite
1968 昭和43 3 2 鵠沼小学校、鉄筋3階建北校舎8教室完成 藤沢市教育史
1968 昭和43 3 20 日本バプテスト連盟藤沢伝道所、藤沢バプテスト教会として独立 神ともに在まして
1968 昭和43 3   引地川「上村橋」、掛け替え工事完成[市史] 鵠沼15号
1968 昭和43 4 1 湘南看護専門学校、鵠沼2168に開校 WEBsite
1968 昭和43 4   文芸評論家=葛巻義敏、火災で焼け出され、鵠沼の妹=葛巻左登子宅に転居※69号同稿次頁には1970.4? 鵠沼69・80号
1968 昭和43 4   市道中学通り線(延長1443m)、整備開通 藤沢市史年表
1968 昭和43 5 31 鵠沼内田土地区画整理組合落成記念碑、鵠沼神明 5-11 第一中学西南隅に造立 鵠沼30号
1968 昭和43 6 18 鵠沼内田土地区画整理事業完成 藤沢市史年表
1968 昭和43 7 1 鵠沼海岸の引地川河畔に八部公園(鵠沼運動公園)開園※鵠沼15号には1967.4.1とあるが間違い 鵠沼15号
1968 昭和43 7 19 子母沢寛(梅谷松太郎1892-1968)、心筋梗塞で死去 享年76(慧光院文宗寛居士)鎌倉霊園に埋葬 鵠沼15号
1968 昭和43 7 31 鵠沼2121に市民会館完成[市史] 鵠沼15・88号
1968 昭和43 7   鵠沼海岸2-11-29に集合住宅「鵠沼ニューマンション」完成(「マンション」を名乗った最初の集合住宅) 現地調査
1968 昭和43 8 22 鵠沼公園(よつば公園 鵠沼海岸6丁目)、開園 WEBsite
1968 昭和43 9 25 藤沢市民会館、開館式典挙行 鵠沼88号
1968 昭和43 9   引地川「清水橋」、掛け替え工事完成[市史] 鵠沼15号
1968 昭和43 11 4 新関良三、文化功労者に選ばれる 藤沢文学展図録
1968 昭和43 11 18 葛竝タメリヤス・菊水社長=内藤長一(1911-1968鵠沼海岸1-9-24)、湘南遊歩道路上で交通事故死 白い花
1968 昭和43     東屋貸別荘「イー4号」、改築 鵠沼78号
1969 昭和44 3   鵠沼南部を対象区域として市下水道事業認可 藤沢市史年表
1969 昭和44 3   引地川「長久保みどり橋」、竣工 鵠沼15号
1969 昭和44 4 1 社会福祉法人藤沢市社会福祉協議会、発足→鵠沼地区社会福祉協議会を組織 WEBsite
1969 昭和44 4   画家=加藤東一(1916-1979)、鵠沼桜が岡2-5-15に居住 WEBsite
1969 昭和44 4   鵠洋第二小学校新設事業一般計画(鵠南小学校) 教育史研究99
1969 昭和44 6   小説家=阿部昭、雑誌「群像」6月号に『鵠沼西海岸』を発表 WEBsite
1969 昭和44 6   鵠沼橋そばに県下初のスロープ式横断歩道橋完成 鵠沼15・62号
1969 昭和44 7 1 鵠沼運動公園にこどもプールと幼児用プール開設 藤沢市史年表
1969 昭和44 7 2 湘南高校新体育館落成 藤沢市史年表
1969 昭和44 7 8 藤沢市社会福祉事業協会(シルバー人材センター・生きがい就労センター)、鵠沼神明1-3-18に設立 WEBsite
1969 昭和44 7 31 鵠沼小学校、大道小学校と校区の一部を分離 教育史研究99
1969 昭和44 9 6 小説家=立原正秋(1926-1980)、鎌倉梶原に新居建築中、1年ほど鵠沼海岸3-8に居住 藤沢文学年表
1969 昭和44 9 22 渚橋下に湘南遊歩道新設 鵠沼15号
1969 昭和44 10 1 片山 哲を名誉市民に決定 藤沢市史年表
1969 昭和44     鵠沼公民館、高齢者学級はじまる。優良公民館として文部大臣表彰 公民館のあゆみ
1969 昭和44     藤が谷の蓮池でデンジソウの自生を発見(湘南砂丘地帯唯一の自生地) 鵠洋40年記念誌
1970 昭和45 1 22 湘南海岸観光開発マスタープラン発表 藤沢市史年表
1970 昭和45 2   湘南海岸自転車道で関東以北で初めてのハマネナシカズラ発見 藤沢市史年表
1970 昭和45 3 8 カトリック藤沢教会、八角形の新会堂献堂式 WEBsite
1970 昭和45 3 25 鵠洋小学校、鵠南小学校新設にともない分離式挙行 鵠洋40年記念誌
1970 昭和45 3   引地川「龍宮橋」、掛け替え工事完成 鵠沼15号
1970 昭和45 4 1 藤沢市立鵠南小学校開校 鵠沼15号
1970 昭和45 4 1 引地川緑地(左岸)公園指定 鵠沼15号
1970 昭和45 4   文芸評論家=葛巻義敏、鵠沼の妹=葛巻左登子宅に転居※同稿前頁には1968? 鵠沼69号
1970 昭和45 4   市道藤沢駅―辻堂線(延長3540m)、開通 藤沢市史年表
1970 昭和45 5   鵠沼海岸2-17-1に集合住宅「鵠沼スカイマンション」、建築開業 WEBsite
1970 昭和45 6 2 鵠沼運動公園にテニスコートオープン 藤沢市史年表
1970 昭和45 6 10 鵠南小学校、落成式。開校記念日とする WEBsite
1970 昭和45 7 3 第一中学校の屋内運動場落成 藤沢市史年表
1970 昭和45 8 10 藤沢市、市の木「クロマツ」、市の花「フジ」に決定[市史] 鵠沼15号
1970 昭和45 8   引地川「富士見橋」、掛け替え工事完成 鵠沼15号
1970 昭和45 10 1 指揮者=福永陽一郎、藤沢市より文化功労者として表彰される 演奏ひとすじ
1970 昭和45 10 16 マルクス経済学者=逸見重雄(鵠沼松が岡4-3-1)、死去 鵠沼別冊文化人
1970 昭和45 12 9 鵠沼小学校、鉄筋4階建北校舎8教室完成 藤沢市教育史
1970 昭和45 12 20 第一中学校で再度火災 藤沢市史年表
1971 昭和46 3 9 市議会で中西議員が日本電気硝子褐害問題を追及→藤沢労基署、工場立入検査 藤沢市史年表
1971 昭和46 3 12 万福寺で住民集会。鵠沼神明公害対策委員会の結成を話し合う ここに歴史あり
1971 昭和46 3 16 万福寺で住民の総決起集会。会社の検診ボイコットを決定 ここに歴史あり
1971 昭和46 3 21 鵠沼神明公害対策委員会、正式結成(委員長:宮崎誠一) ここに歴史あり
1971 昭和46 3 24 鵠沼歩道橋完成 藤沢市史年表
1971 昭和46 3 31 鵠沼運動公園に公式野球場竣工 鵠沼62号
1971 昭和46 3   引地川「作橋」、掛け替え工事完成 鵠沼15号
1971 昭和46 4 1 社会福祉法人 湘南児童福祉会 神明保育園(鵠沼神明5-5-32)、法人認可。開園 鵠沼15号
1971 昭和46 4 1 松葉公園(鵠沼松が岡3丁目)、開園 WEBsite
1971 昭和46 4 10 藤沢労基署、日本電気硝子鞄。沢工場に施設改善命令 ここに歴史あり
1971 昭和46 5 12 神奈川県、日本電気硝子に対し藤沢工場の一部操業停止を指示 ここに歴史あり
1971 昭和46 5 28 市、鵠沼神明住民の鉛中毒一斉検診開始→住民の被害なしと発表 ここに歴史あり
1971 昭和46 6 1 鵠沼運動公園の公式野球場使用開始 藤沢市史年表
1971 昭和46 6 5 鵠沼地区社会福祉協議会総会(鵠沼公民館)。会報1号発行 社協50周年記念誌
1971 昭和46 6 15 鵠沼神明住民、公害対策特別委員会に対して日本電気硝子轄H場移転についての陳情提出 藤沢市史年表
1971 昭和46 6 21 江ノ電、4両編成での運転を開始。(続行運転の廃止) ウィキペディア
1971 昭和46 7 1 鵠沼運動公園プール開設 藤沢市史年表
1971 昭和46 7 1 立原正秋、鵠沼海岸を去り、鎌倉市梶原に転居 藤沢文人展
1971 昭和46 7 20 東京氷川下セツルメントの山田信夫医師、鵠沼神明住民106人を自主検診→50%の異常を発表 ここに歴史あり
1971 昭和46 8 31 台風23号のため小田急藤沢−本町間不通 鵠沼22号
1971 昭和46 9 17 教育文化研究所(鵠沼神明)所蔵の藤沢の信仰用具コレクション、県指定民俗資料となる 藤沢の歴史
1971 昭和46 9   日本電気硝子公害問題で「患者同盟会」を組織 20世紀の藤沢
1971 昭和46 10 1 鵠沼運動公園に釣り堀完成 藤沢市史年表
1971 昭和46 11 3 藤沢メディカルセンター(藤沢市鵠沼2168)に藤沢市休日急病診療所開設 鵠沼15号
1971 昭和46 11 3 ガラス工芸作家=各務鑛三、第20回神奈川文化賞受賞 WEBsite
1971 昭和46 11 13 内藤長一遺稿集『白い花』(私家版)、刊行 白い花
1971 昭和46 11   大橋重政300回忌、空乗寺にて供養 鵠沼37号
1971 昭和46     阿部 昭、TBSを辞職。鵠沼海岸から辻堂東海岸に転居。作家生活に専念 WEBsite
1971 昭和46     美術評論家=土方定一、「鵠沼、鎌倉時代の劉生」『神奈川県美術風土記・明治大正篇』を発表 土方定一著作集
1971 昭和46     鵠沼公民館、神明地区に移動公民館はじまる 公民館のあゆみ
1972 昭和47 1   藤沢警察署本鵠沼派出所、改築完成 藤沢市史年表
1972 昭和47 2 20 葉山 峻(鵠沼)、市長選挙に初当選、第10代藤沢市長となる 鵠沼15号
1972 昭和47 3 16 鵠南小学校、屋内運動場竣工 WEBsite
1972 昭和47 3   指揮者=福永陽一郎、本鵠沼から鵠沼藤が谷に転居 鵠沼89号
1972 昭和47 4 1 指揮者=福永陽一郎、藤沢市文化担当参与となり、市民会館の自主事業をプロデュース 演奏ひとすじ
1972 昭和47 4 23 日本電気硝子公害問題で「患者同盟会」総会。葉山市長出席。会長に荒木良正万福寺住職を選出 20世紀の藤沢
1972 昭和47 5   名誉市民 片山 哲 先生像、鵠沼 2121 藤沢市中央図書館前に造立(彫刻:菅沼五郎) 鵠沼15・30号
1972 昭和47 7 3 〜13、記録的な集中豪雨全国で死者行方不明者52名 浸水約15万戸 鵠沼22号
1972 昭和47 7 4 鵠洋小学校、プール新設(6日、プール開き) 鵠洋40年記念誌
1972 昭和47 7 11 鵠沼小学校、創立100周年記念式挙行 WEBsite
1972 昭和47 8 18 中居正広(SMAP)、鵠沼で誕生。鵠沼小学校→明治小学校(小学校の途中で鵠沼を離れる) WEBsite
1972 昭和47 8   第1回「日本芸能百撰会」、藤沢市民会館で開催。以後年1回第20回まで公演 鵠沼61号
1972 昭和47 8   今井達夫、『昔の鵠沼抄』を「文芸広場」20号に発表[原稿は東京都近代文学博物館] WEBsite
1972 昭和47     鵠沼松が岡の村川邸の松林、「保存樹林」に指定 鵠沼76号
1972 昭和47     小説家=鳴山草平(1902-1972)、鵠沼海岸7-14-3にて死去 藤沢人物ファイル
1973 昭和48 1 10 一木公園(鵠沼松が岡4丁目)、開園 WEBsite
1973 昭和48 3   鵠沼海岸5-8-23に集合住宅「鵠沼パークハウス」建築開業 WEBsite
1973 昭和48 4 1 鵠南公園(鵠沼海岸5丁目)、開園 WEBsite
1973 昭和48 4 20 鵠南小学校、校歌制定・発表会施行 WEBsite
1973 昭和48 4   江ノ電、高架工事着工 藤沢市史年表
1973 昭和48 4   三笠会館鵠沼店、鵠沼海岸に初の郊外レストランとして開業 WEBsite
1973 昭和48 6   池波正太郎、『食卓の情景』に『鵠沼の夏』(長谷川伸と子母沢寛の交流を描く)を発表 池波正太郎年譜
1973 昭和48 7   鵠沼小学校、プール完成 WEBsite
1973 昭和48 8 23 第一中学校、プールおよび付属施設落成 WEBsite
1973 昭和48 9 7 鵠南小学校、プール1期工事完了 WEBsite
1973 昭和48 9   社会福祉法人上村鵠生会設立発起人会 鵠沼52号
1973 昭和48 10 10 〜12、第1回藤沢市民オペラ、『フィガロの結婚』公演(藤沢市民会館) 演奏ひとすじ
1973 昭和48 10 11 演劇評論家・詩人・出版者=長谷川巳之吉(1893.12.28-1973)、鵠沼にて死去 享年79 WEBsite
1973 昭和48 11 10 暴風雨により引地川氾濫 鵠沼9・22号
1973 昭和48     法律家=田中二郎(1906-1982)、鵠沼松が岡に居住 藤沢人物展
1973 昭和48     独文学者・演劇研究家=新関良三(鵠沼松が岡5-1-4)、ギリシャ政府「文化功労フェニックス勲章」受賞  WEBsite
1973 昭和48     小説家=阿部昭、『千年』で毎日出版文化賞受賞 WEBsite
1974 昭和49 1   社会福祉法人上村鵠生会の法人設立認可 鵠沼52号
1974 昭和49 2 19 東洋思想史学者(東京帝国大学教授)=宇野哲人(1875.11.15-1974)、鵠沼中岡6281にて没 享年99 鵠沼76号
1974 昭和49 2   県の計画による境川堤防サイクリング道路、終点が鵠沼コースと直結する 藤沢市史年表
1974 昭和49 3 24 歌手=山岡 恭子、鵠沼で誕生 WEBsite
1974 昭和49 3 31 高根公園(鵠沼海岸5丁目)、開園 WEBsite
1974 昭和49 3 31 橘公園(鵠沼橘1丁目)、開園 WEBsite
1974 昭和49 6 7 江ノ電、藤沢高架線、藤沢新駅に乗り入れ。藤沢−石上間高架線になる 鵠沼15号
1974 昭和49 6   イトーヨーカドー藤沢店、鵠沼石上1-10-1に開業 WEBsite
1974 昭和49 7 8 台風8号により引地川氾濫 鵠沼9号
1974 昭和49 7   社会福祉法人上村鵠生会の特別養護老人ホーム鵠生園、竣工(鵠沼海岸2-6629-2) 鵠沼52号
1974 昭和49 8 1 特別養護老人ホーム鵠生園、開園 鵠沼15・52号
1974 昭和49 12 12 野呂栄太郎40周年記念集会、藤沢市民会館で開催 鵠沼時代の野呂
1974 昭和49 12   特別養護老人ホーム鵠生園、鵠生クリニック事業開始 鵠沼52号
1974 昭和49     普門寺の梵鐘鋳造 鵠沼35号
1974 昭和49     植物学者=前川文夫博士、『原色日本のラン』(誠文堂新光社)に1956年に描いたクゲヌマランの図を掲載 鵠沼88号
1974 昭和49     チェリスト=安田謙一郎、鵠沼を去り茅ヶ崎に転居 人物ファイル
1975 昭和50 3 1 野口喜久子編『砂のいろ』 法政大学出版局より発行(鵠沼75号には1976とあり) 鵠沼23・75号
1975 昭和50 3 31 下藤ヶ谷公園(鵠沼松が岡1丁目)、開園 WEBsite
1975 昭和50 4 25 小野光敬(こうけい=刀剣研磨 鵠沼石上)、重要無形文化財に指定 WEBsite
1975 昭和50 4   特別養護老人ホーム鵠生園、一般クリニックサービス事業開始 鵠沼52号
1975 昭和50 5   (福)光友会、太陽の家しいの実学園(知的障害児通園施設)を鵠沼海岸6-6-12太陽の家内に開設 WEBsite
1975 昭和50 5   鵠沼を語る会の設立準備 鵠沼13号
1975 昭和50 6 1 心身障害者福祉センター太陽の家開設 鵠沼15号
1975 昭和50 7 16 江ノ島鎌倉観光、江ノ島海岸〜大磯駅バス運輸廃止 江ノ電の100年
1975 昭和50 7 20 聶耳(ニェ・アール)碑前音楽祭開催 藤沢市史年表
1975 昭和50 10 1 蒸気機関車C11245号、国鉄から藤沢市ヘナンバープレートの授受が行われ、鵠沼運動公園に保存(76年?) 鵠沼14号
1975 昭和50 10 16 経済学者=逸見重雄、死去[鵠沼時代の野呂榮太郎] 鵠沼19号
1975 昭和50 11   鵠沼を語る会第1回会合 参集者番場定八、福地誠一他 鵠沼13号
1975 昭和50 12 27 歴史学者=大類 伸、鵠沼松が岡2-16-22の自宅で死去。享年91 WEBsite
1975 昭和50     版画家=馬渕 聖(トオル 1920〜1994)、鵠沼海岸より茅ヶ崎市芹沢に転居 WEBsite
1975 昭和50     元外交官・代議士=森島守人(1906-1975)、鵠沼松が岡4丁目にて死去 藤沢文学年表
1975 昭和50     県立博物館調査報告書、「藤沢・茅ヶ崎などの松林で見られたクゲヌマランが3年前を最後に絶滅」と書く 鵠沼88号
1976 昭和51 1   単立鵠沼海岸教会(創立年代不詳)解散、坂倉敏夫牧師により日本ホーリネス教団鵠沼教会として再出発 WEBsite
1976 昭和51 2 26 葉山 峻、第11代藤沢市長に再選 鵠沼15号
1976 昭和51 3 31 下岡公園(松が岡公園 鵠沼松が岡3丁目)、開園 市史年表稿
1976 昭和51 4 1 第一中学校に特別指導学級開設 WEBsite
1976 昭和51 4 27 本鵠沼市民の家(本鵠沼3-9-9)開設 市史年表稿
1976 昭和51 6 17 法照寺境内の相模国準四国八十八か所供養塔、造立 有賀密夫遺稿集
1976 昭和51 7 4 映画俳優=山路義人(1904-1976 鵠沼松が岡1丁目)、死去 享年74 鵠沼別冊文化人
1976 昭和51 7 31 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』1号発行(鵠沼海岸の海水浴:伊藤 昌・他) 鵠沼1・11号
1976 昭和51 7   鵠沼小学校ことばの教室開設 市史年表稿
1976 昭和51 8   美術評論家=土方定一(1904-1980)、鵠沼藤が谷3-1-18から鎌倉市笛田に転居  WEBsite
1976 昭和51 10 1 蒸気機関車C11245号、国鉄から藤沢市ヘナンバープレートの授受が行われ、鵠沼運動公園に保存 鵠沼14号
1976 昭和51 11   東急ハンズ藤沢店、ハンズ事業の第1号店として鵠沼東1-2にオープン WEBsite
1976 昭和51 12 1 太陽の家に歯科室開設 市史年表稿
1976 昭和51     書誌学者=森 銑三、鵠沼海岸5丁目から鵠沼海岸2丁目に転居 鵠沼79号
1976 昭和51     小説家=阿部昭、『人生の一日』で藝術選奨新人賞を受賞 WEBsite
1976 昭和51     台風17号による豪雨で被害多数 市史年表稿
1976 昭和51     神輿愛好家の組織=「藤沢藤睦会」発足 藤沢藤睦会
1977 昭和52 2 22 マルクス経済学者=宇野弘蔵(1899-1977)、肺炎のため鵠沼の自宅で死去 享年79 WEBsite
1977 昭和52 2 25 〜27 第1回鵠沼地区公民館まつり開催(2回・3回は3月に開催) 公民館のあゆみ
1977 昭和52 3 9 鵠南小学校、増築4教室及び仮設昇降口完成 WEBsite
1977 昭和52 3 22 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』4号発行(鵠沼と私) 鵠沼4号
1977 昭和52 4 24 第1回湘南マラソン大会開催 市史年表稿
1977 昭和52 7   横浜平和球場のスコアボード、鵠沼運動公園市営球場に移す 市史年表稿
1977 昭和52 8 1 社会福祉法人 二葉福祉会 二葉保育園(鵠沼海岸6-6-10)、認可・開園 市史年表稿
1977 昭和52 9   神奈川県、鵠沼を県社協福祉モデル地区に指定 神奈川新聞
1977 昭和52 10 1 神奈川県、神明宮の風流山車を「かながわの民俗芸能50選」に指定 鵠沼12号
1977 昭和52 11 南部開発事業費を得て石上会館開設、石上会館建設記念碑を造立 現地調査
1977 昭和52     尾崎秀樹、『子母澤寛−人と文学』(中央公論社)刊行。聞き書き「鵠沼閑話」を含む WEBsite
1977 昭和52     鵠沼ローンテニスクラブ、鵠沼松が岡2-1-13にオープン WEBsite
1978 昭和53 2 28 鵠洋小学校第二校舎改築完成 市史年表稿
1978 昭和53 2   鵠沼地区で資源ゴミ収集始まる 市史年表稿
1978 昭和53 3 5 第一中学校、第3校舎落成 普通教室2 特別指導学級教室2棟 WEBsite
1978 昭和53 3 31 (財)藤沢市生きがい福祉事業団(高齢者事業団・シルバー人材センター)、鵠沼神明1-3-18に開設 WEBsite
1978 昭和53 4 3 藤沢市立新林小学校開校。鵠沼東・鵠沼石上が校区となる 市史年表稿
1978 昭和53 4   鵠沼小学校、仮設1教室を校庭に建設 教育史研究99
1978 昭和53 4 17 砥上公園(鵠沼石上1丁目)、開園 市史年表稿
1978 昭和53 5 6 今井達夫、鵠沼松が岡3-14にて死去。享年75 鵠沼別冊
1978 昭和53 5   今井達夫、雑誌山紫水明5月号に『鵠沼物語序説』を掲載 個性きらめく
1978 昭和53 9 22 この夏、鵠沼海岸でアメリカネナシカズラが繁殖。神奈川新聞「私の意見」欄に会員=伊藤節堂が投稿 鵠沼8号
1978 昭和53 12 16 藤沢メディカルセンター(藤沢市鵠沼2168)の藤沢市急病診療所、夜間診療開始 WEBsite
1978 昭和53     評論家=野田宇太郎(1909-1989)、『湘南相模野文学散歩』で芥川龍之介と東屋の関係について誤った記述 東屋旅館物語
1978 昭和53     画家=小林哲夫(1927-1997)、鵠沼海岸1丁目に居住 郷土史料展示室
1978 昭和53     この頃から引地川にアヒルが住みつき、付近住民が餌付け 神奈川新聞
1979 昭和54 1 8 境川「奥田橋」、架橋(新林小学校通学路改善) 市史年表稿
1979 昭和54 2 15 花立公園(本鵠沼1丁目)、開園 WEBsite
1979 昭和54 3 3 ・11、藤沢市民オペラ、初の創作オペラ『竜恋譜』公演 カーテンコール
1979 昭和54 3 31 高砂公園(鵠沼石上2丁目)、開園 WEBsite
1979 昭和54 4 1 ことばの教室は鵠沼小学校から鵠洋小学校に移設 教育史研究99
1979 昭和54 4 5 境川・引地川、建設省の都市河川総合対策の対象に選ばれる[神奈川新聞] 鵠沼9号
1979 昭和54 4 17 伊藤節堂(会員)、鵠沼海岸のサイクリング道路でハマボウフウを再発見 鵠沼9・27号
1979 昭和54 4 25 鵠南市民の家(鵠沼海岸1-10-1)開設 市史年表稿
1979 昭和54 4 27 独文学者・演劇研究家=新関良三(1889-1979 鵠沼松が岡5-1-4)、死去 享年90 鵠沼別冊文化人
1979 昭和54 4 29 日本基督教団藤沢教会、新会堂献堂式 藤沢教会100年史
1979 昭和54 4   鵠洋小学校ことばの教室開設 市史年表稿
1979 昭和54 4   渇裳苑藤沢営業所(現:湘和会堂鵠沼)を開設 WEBsite
1979 昭和54 8 5 川袋の蓮池、都市公園として保存が決定 中日新聞
1979 昭和54 8 10 鵠沼公民館、町内会自治会長等地元への改築説明会 鵠沼33号
1979 昭和54 8 神明宮参道整備工事、完成 石柵
1979 昭和54   鵠沼公民館、改築工事着工 鵠沼33号
1979 昭和54 9 9 神明宮参道石玉垣竣工記念碑、神明宮境内に造立 現地調査
1979 昭和54 9 24 サンスクリット学者=辻 直四郎(1899-1979)、鵠沼松が岡3-8-13にて死去 享年80[学士会名簿] 鵠沼別冊文化人
1979 昭和54 10 19 台風20号来襲、各河川増水。堀川(排水路)渚橋下流部の埋没進む 鵠沼8号
1979 昭和54 10 20 岸田麗子:『父岸田劉生』、読売新聞社より刊行 鵠沼72号
1979 昭和54     鵠沼公民館、サークル数80→サークル交歓会開催→サークル交歓会広報誌『しおさい』第1号発行 公民館のあゆみ
1979 昭和54     鵠沼松が岡の村川邸の一部、「みどりの広場」に指定 鵠沼76号
1980 昭和55 1 14 鵠沼海岸郵便局、鵠沼海岸3-1-12に新築・移転 鵠沼81号
1980 昭和55 2 1 秩父公園(鵠沼桜が岡4丁目)、開園 市史年表稿
1980 昭和55 2   葉山 峻、第12代藤沢市長に就任 市史年表稿
1980 昭和55 3 24 鵠沼公民館、改築のためプレハブの仮設公民館に移転 鵠沼33号
1980 昭和55 3   特別養護老人ホーム鵠生園、デイサービス棟竣工(327u)。デイサービス事業開始 鵠沼52号
1980 昭和55 4   池波正太郎、エッセイ集『食卓の情景』刊行(新潮文庫『鵠沼の夏』を含む) 新潮社
1980 昭和55 7   鵠沼を語る会、藤沢市に東久彌宮王子遭難記念碑の移転願い提出 鵠沼11号
1980 昭和55 7 鵠沼公民館「こどもサマースクール」でカヌーの講座(湘南カヌースポーツクラブ発祥のきっかけ) 鵠沼63号
1980 昭和55 8   小説家=広津桃子(1918-1988)、『石蕗の花』で第20回女流文学賞(中央公論社)を受賞 WEBsite
1980 昭和55 9 1 奥田三角公園(鵠沼東)、開園 WEBsite
1980 昭和55 10 1 太陽の家に心身障害者体育館開館 市史年表稿
1980 昭和55 10 8 蔵書家=横山 重(シゲル、1896−1980)、死去 享年84 WEBsite
1980 昭和55 10   第1回「創韻会」、藤沢市民会館で開催。以後年1回第12回まで公演 鵠沼61号
1980 昭和55 11 2 藤沢市、蓮池周辺1.6haを近隣公園用地に指定 鵠沼85号
1980 昭和55 11 10 鵠洋小学校の給食調理室改修工事が完了 鵠洋沿革
1980 昭和55     神奈川県土木部による引地川コンクリート護岸、橋梁工事始まる WEBsite
1980 昭和55     藤沢男声合唱団、鵠沼公民館を練習場として発足 WEBsite
1980 昭和55     画家=矢田修(1906-1980)、鵠沼橘1-16-11にて死去。享年74 WEBsite
1981 昭和56 2 14 鵠沼公民館竣工式(15日、披露式) 鵠沼33号
1981 昭和56 2 15 第一中学校、更衣室完成 WEBsite
1981 昭和56 2 28 鵠南小学校、増築教室竣工(普通教室4 昇降口 便所 焼窯庫 図工室・家庭科室及び各準備室) WEBsite
1981 昭和56 3 15 鵠沼公民館、改築竣工→引き渡し 鵠沼33号
1981 昭和56 3 31 鵠沼小学校、給食調理室改築工事完成 市史年表稿
1981 昭和56 3   旧近藤邸(1925年辻堂に別荘として建てられた和洋折衷の建物)、保存のため鵠沼東の市民会館隣に移築 WEBsite
1981 昭和56 4 5 鵠沼公民館、改築完成→開館※7日とも 鵠沼33号
1981 昭和56 4 10 高木和男(会員)、『鵠沼海岸百年の歴史』刊行 鵠沼18号
1981 昭和56 5   諏訪松男(高谷小校長)・塩澤 努(会員)らによるクゲヌマラン捜索活動開始(この年は成果なし) 鵠沼88号
1981 昭和56 6 2 鵠沼在住の高橋 良氏より古代文化遺産3500点が市に寄贈される(高橋コレクション) 市史年表稿
1981 昭和56 7 15 湘南カヌースポーツクラブ発足 WEBsite
1981 昭和56 8 20 江ノ島鎌倉観光会社は社名を「江ノ島電鉄会社」と改称、略称を「江ノ電」と呼ぶことに決定 市史年表稿
1981 昭和56 8 31 会員=塩澤 努、行方不明だった東久邇宮第二王子師正王の遭難記念碑を港区白金4-2-3本妙寺で発見 鵠沼50号
1981 昭和56 10 23 台風24号による豪雨で被害多数 WEBsite
1981 昭和56 10 24 江ノ電境川橋梁架替工事起工 市史年表稿
1981 昭和56 11 1 鵠沼出身のロックシンガー=白井貴子、デビューシングル「内気なマイボーイ」でメジャーデビュー WEBsite
1981 昭和56 11 5 藤沢市、聶耳の故郷中国雲南省昆明市と姉妹都市提携 百年の歴史
1981 昭和56     書家=川口芝香(1896-1981 鵠沼松が岡3)、死去 郷土史料展示室
1982 昭和57 1 29 鵠沼神明の日本電気硝子藤沢工場の粉塵公害訴訟問題、11年ぶりに和解 市史年表稿
1982 昭和57 2 12 鵠沼公民館ホールで「聶耳生誕70周年記念の集い」、日中両国関係者により開催される 市史年表稿
1982 昭和57 3 31 藤が谷公園(鵠沼藤が谷2丁目)、開園 WEBsite
1982 昭和57 3   指揮者=福永陽一郎、鵠沼藤が谷からみその台に転居 鵠沼89号
1982 昭和57 4 11 空乗寺、客殿改築工事完成。落慶法要 現地調査
1982 昭和57 4 23 江ノ電境川橋梁架替工事に伴い、鵠沼駅を藤沢寄りに180m仮移転(旧藤ヶ谷信号所跡) 市史年表稿
1982 昭和57 5 4 普門寺本堂改修・客殿庫裏新築完成 市史年表稿
1982 昭和57 8 1 台風10号により海岸の海の家の半数が倒壊、残る半数も今シーズン復旧不能となる 市史年表稿
1982 昭和57 8 28 藤沢駅前南部地区土地区画整理事業(市施行)、換地処分公告=完了 WEBsite
1982 昭和57 8 29 鵠沼の一部(鵠沼東・鵠沼石上1〜3丁目・鵠沼花沢町・鵠沼橘1〜2丁目)で新住居表示を実施 市史年表稿
1982 昭和57 9 12 台風18号東日本を縦断 藤沢市内半壊浸水家屋2002軒 鵠沼22号
1982 昭和57 10 1 高木和男(会員)、『鵠沼海岸百年の歴史増補補正版』刊行 百年の歴史
1982 昭和57 10 1 鵠沼石上に市歯科医師会の手により心身障害児者歯科診療所開所 市史年表稿
1982 昭和57 11 1 私立富士幼稚園(本鵠沼1-3-7)、学校法人森井学園認可 WEBsite
1982 昭和57     鵠沼皇大神宮例大祭、かながわのまつり50選に指定 WEBsite
1982 昭和57     法律家=田中二郎(1906-1982)、鵠沼松が岡にて死去 藤沢人物展
1982 昭和57     三浦藤沢信用金庫鵠沼支店、鵠沼海岸3-1-7に開業 WEBsite
1982 昭和57     藤睦会の神輿完成。遊行寺境内で修祓 藤沢藤睦会
1982 昭和57     引地川「龍宮橋」、架け替え工事完成 WEBsite
1983 昭和58 2   藤沢ジュニアオーケストラ発足、鵠沼公民館で初練習 WEBsite
1983 昭和58 3 15 鵠沼小学校、仮設校舎14教室、職員室等を校庭に建設、移転 教育史研究99
1983 昭和58 5 6 引地川川べり遊歩道開通 市史年表稿
1983 昭和58 5 番場定孝(会員)・諏訪松男(高谷小校長)・塩澤 努(会員)らによるクゲヌマラン再発見 鵠沼88・93号
1983 昭和58 5 13 植物学者=大場秀章(東大総合研究資料館教授)、再発見されたランをクゲヌマランと同定 鵠沼88号
1983 昭和58 6   特別養護老人ホーム鵠生園、介護相談サービス事業開始 鵠沼52号
1983 昭和58 7 1 ホテル法華クラブ 藤沢店、鵠沼石上1-6-1に開業 WEBsite
1983 昭和58 7   特別養護老人ホーム鵠生園、自宅入浴サービス事業開始 鵠沼52号
1983 昭和58 9 16 〜18『くげぬまの50年』展、鵠沼公民館にて開催 鵠沼17号
1983 昭和58 10 9 〜10、藤沢市民オペラ、『ウィリアム・テル』日本初演 カーテンコール
1983 昭和58     集中豪雨で鵠沼東の境川氾濫 WEBsite
1983 昭和58     藤沢聖マルコ教会、聖堂を増築 WEBsite
1983 昭和58     藤沢橘通郵便局局舎改築 WEBsite
1983 昭和58     洋画家=塚本茂(1903-1983)、死去 30日美術館
1984 昭和59 1 22 神奈川地域史研究会発足 市史年表稿
1984 昭和59 1 31 第一中学校、図書館完成 WEBsite
1984 昭和59 2   葉山 峻、第13代藤沢市長に就任 市史年表稿
1984 昭和59 3 30 鵠沼小学校、鉄筋4階建て南校舎完成。普通教室16、特別教室5 教育史研究99
1984 昭和59 4 5 鵠南小学校、特別指導学級開設(2学級4名) WEBsite
1984 昭和59 4 25 思想評論家=林 達夫(1896.11.20-1984)、鵠沼桜が岡2-1-26の自宅で死去[個性きらめく] 鵠沼83号
1984 昭和59 4   日本ボーイスカウト神奈川連盟 藤沢第21団、鵠沼海岸7-10-20藤沢聖マルコ教会を本部に第1団から分封 WEBsite
1984 昭和59 4   特別養護老人ホーム鵠生園、訪問看護サービス事業開始 鵠沼52号
1984 昭和59 5 14 神明宮の社殿完成 市史年表稿
1984 昭和59 5 23 江ノ電境川鵠沼新鉄橋完成。使用開始 江ノ電百年物語
1984 昭和59 7 1 福地誠一(会員)、写真集『鵠沼の五十年』刊行 市史年表稿
1984 昭和59 8 12 童画家=黒崎義介(1905-1984)、鵠沼海岸5-1-11にて死去 WEBsite
1984 昭和59 8   市消防局、湘南海岸の海岸線にある51施設と津波対策の「緊急一時避難のための協力協定」を結ぶ 20世紀の藤沢
1984 昭和59 9 14 林達夫、福田清人、布川角左衛門/編著『第一書房 長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部)、刊行 同書
1984 昭和59     小説家=村上春樹(1949-)、千葉県船橋市より鵠沼海岸3丁目に転居 WEBsite
1984 昭和59     東屋貸別荘「イ−2号」、改築 鵠沼78号
1985 昭和60 3 7 書誌学者=森 銑三(1895. 9.11-1985)、死去 鵠沼79号
1985 昭和60 3 27 藤沢湘南ライオンズクラブ、奥田公園東の境川河畔に湘南櫻並木植樹 記念碑
1985 昭和60 3   『藤沢市史料(29)─鵠沼研究資料集─』、刊行 鵠沼77号
1985 昭和60 4 15 匠秀夫、『岸田劉生の鵠沼時代と「白樺」〈武者小路実篤と白樺美術展特集〉』を発表[神奈川近代文学館] 近代文学館8号
1985 昭和60 4 17 第一中学校、体育器具庫完成 WEBsite
1985 昭和60 4   藤沢探鳥クラブ、『藤沢自然地図』発行 市史年表稿
1985 昭和60 5 25 江ノ電鵠沼駅、地下駅に改装して開業(旧藤ヶ谷信号所より戻す) 鵠沼76号
1985 昭和60 6 30 台風により石上地区の20棟が床下浸水 市史年表稿
1985 昭和60 6   元東屋主人=長谷川欽一、死去 享年85 鵠沼82号
1985 昭和60 7 6 鵠沼運動公園野球場新装オープン 市史年表稿
1985 昭和60 9 2 鵠洋小学校、調理場に炊飯設備コンペクションオーブンを設置し、米飯給食を実施 鵠洋沿革
1985 昭和60 10 23 〜28、『高橋コレクション』一般公開(市民ギャラリー) 市史年表稿
1985 昭和60 11 3 横浜国大教授=見上敬三、第34回神奈川文化賞受賞 WEBsite
1985 昭和60 11 皇大神宮(神明宮)造営記念碑・別碑:皇大神宮御社殿造営奉賛者、境内に造立 現地調査
1985 昭和60 12 16 文芸評論家=葛巻義敏(芥川龍之介の甥 1918-1985)、鵠沼海岸の妹=葛巻左登子宅で急性心不全にて死去 鵠沼69・75・83号
1985 昭和60     ガラス工芸作家=各務鑛三(1896-1985 鵠沼海岸7-18-2)、死去 郷土史料展示室
1985 昭和60     村上春樹(1949-)、鵠沼海岸より東京千駄ヶ谷に転居 WEBsite
1985 昭和60     神奈川県、「湘南なぎさプラン」策定 鵠沼海岸開発史
1986 昭和61 2 1 テレビ神奈川、テレビ広報『ニェ・アール物語』放映 市史年表稿
1986 昭和61 3 24 鵠沼耕地整理事業、55年ぶりに完了 神奈川新聞
1986 昭和61 3   鵠生園、重度痴呆性老人専用棟の増築工事完成 鵠沼52号
1986 昭和61 4 11 没後50周年記念事業として聶耳記念広場完成。レリーフ制作:菅沼五郎 市史年表稿
1986 昭和61 5 8 大潮によって海岸にバカガイの大群がうち寄せる 市史年表稿
1986 昭和61 5 11 故黒崎義介画伯宅の一部が障害者のホームとして開所 市史年表稿
1986 昭和61 7 31 杉原千畝、西鎌倉にて死去。享年86 命のビザ
1986 昭和61 8 31 鵠沼小学校、体育館天井屋根改修工事完了 教育史研究99
1986 昭和61 10 1 下藤が谷公園(鵠沼松が岡1丁目)、改装開園 WEBsite
1986 昭和61 11 21 鵠沼墓地移転記念碑、万福寺裏鵠沼墓地に造立 現地調査
1986 昭和61 11 鵠沼耕地整理記念碑、鵠沼海岸4-8地先引地川緑道に造立 現地調査
1986 昭和61 湘南海岸公園西端に「聶耳記念広場」整備自署とレリーフ(菅沼五郎作)、聶耳記念碑の由来碑、造立 現地調査
1986 昭和61     鵠沼耕地整理組合、区画整理事業換地処分認可 毎日新聞
1986 昭和61     鵠沼松が岡界隈・他、「かながわまちなみ百選」に選定 WEBsite
1986 昭和61     境川「境川橋」、架け替え工事完成 WEBsite
1987 昭和62 1   湘南海岸、「21世紀に引き継ぎたい日本の白砂青松百選」に選定 鵠沼海岸開発史
1987 昭和62 3 15 鵠洋小学校、創立40周年記念誌「くげぬまの風の中で」発行 鵠洋40年記念誌
1987 昭和62 3 27 桜小路公園(鵠沼藤が谷4丁目)、開園 鵠沼85号
1987 昭和62 4   藤沢市、「ふるさとまっぷ鵠沼地区」発行。製作協力:鵠沼を語る会 鵠沼37号
1987 昭和62 4   特別養護老人ホーム鵠生園、デイサービス事業を改め、ケアーセンター事業を開始 鵠沼52号
1987 昭和62 5 17 藤沢JC、第8回歴史散歩(鵠沼神明→本鵠沼→鵠沼海岸4km。小学生1000名以上が参加) 鵠沼37号
1987 昭和62 8 9 鵠沼海岸で日本初のビーチバレー公式大会「ビーチバレー・ジャパン」開催 市史年表稿
1987 昭和62 8 31 市内で6番目の鵠沼子供の家(鵠っ子とりで)本鵠沼4-3-2に開設 市史年表稿
1987 昭和62   藤沢音楽院、「藤沢音楽家協会」と改称。これを機に、協会員の組織を生徒から指導者に変更 WEBsite
1987 昭和62 11 7 心理学者=相良守次(1903-1987)、鵠沼海岸5-13-6にて死去 毎日新聞
1987 昭和62 12 10 引地川、建設省より「ふるさとの川」モデル河川に指定される WEBsite
1987 昭和62     湘南海岸、(社)日本の松の緑を守る会より「日本の白砂青松100選」に選定される WEBsite
1988 昭和63 2 21 引地川「作橋」、架け替え工事完成 市史年表稿
1988 昭和63 2   葉山 峻、第14代藤沢市長に就任 市史年表稿
1988 昭和63 3 16 鵠洋小学校、管理棟増改築 鵠洋沿革
1988 昭和63 3 22 神奈川県県民部の選んだ「かながわ文学100選」に志賀直哉の『鵠沼行』・阿部昭『子供部屋』を選定 市史年表稿
1988 昭和63 3   引地川「清水橋」、架け替え工事完成 市史年表稿
1988 昭和63 4 5 藤が谷小公園(鵠沼藤が谷2丁目)、開園 WEBsite
1988 昭和63 4   鵠洋小学校、給食調理室改築工事が完了 鵠洋沿革
1988 昭和63 5 21 鵠沼の万福寺に「大気汚染告発記念碑」が造立され、除幕式挙行 市史年表稿
1988 昭和63 5   鵠沼海岸1-16地先の道祖神塔、再建 現地調査
1988 昭和63 6 10 農協鵠沼支所で鵠沼カボチャの試食会開催 市史年表稿
1988 昭和63 7 15 宮坂覺、『東家と<鵠沼文人村> 〈神奈川文学散歩展特集〉』を発表[神奈川近代文学館21号] 近代文学館21
1988 昭和63 7 31 磯部 俶邸内に「いそべサロン」が完成 WEBsite
1988 昭和63 7   手づくり郷土賞関東地方運営委員会、引地川川べり遊歩道を「やすらぎとうるおいのある歩道30選」に選定 市史年表稿
1988 昭和63 11 16 〜27、市民ギャラリーで「黒崎義介展」開催 市史年表稿
1988 昭和63 11 24 作家=広津桃子(1918-1988)、鵠沼桜が岡3-16-18にて死去 享年70 WEBsite
1988 昭和63 11   安藤 寛、第4歌集『二水以後』を刊行 市史年表稿
1988 昭和63 12 10 湘南学園、創立55周年記念演奏会を開催(市民会館) 市史年表稿
1988 昭和63 12 16 鵠沼皇大神宮人形山車9台、藤沢市有形民俗文化財に指定 WEBsite
1988 昭和63 12 20 鵠洋小学校、第二校舎完工・全校舎に空調設備設置 鵠洋沿革
1988 昭和63     俳優=森次晃嗣、鵠沼海岸6-8-3に『ウルトラセブンの店 ジョリーシャポー』を創業 WEBsite
1988 昭和63     境川「上山本橋」・引地川「稲荷橋」、架け替え工事完成 WEBsite
1989 平成 1 3 15 歴史学者=江口朴郎(1911-1989)、鵠沼橘2-5-12にて死去。享年77 朴郎文庫目録
1989 平成 1 3 27 藤沢警察署、新庁舎完成 20世紀の藤沢
1989 平成 1 4 19 彫刻家=菅沼五郎、死去 享年93 WEBsite
1989 平成 1 5 19 阿部 昭、午後0時30分に急性心不全のため辻堂東海岸で死去。享年55。墓所:鵠沼本真寺 WEBsite
1989 平成 1 8 4 〜7、鵠沼海岸で第3回ビーチバレージャパン大会開催 市史年表稿
1989 平成 1 12 1 (福)共生会、鵠沼1559に藤沢特別養護老人ホームを設立 WEBsite
1989 平成 1 12 10 鵠沼海岸で来年開かれる「サーフ90」会場の起工式挙行 市史年表稿
1989 平成 1 12 20 鵠沼を語る会、藤沢市と協力して5ヶ所(鵠沼・鵠沼海岸・本鵠沼・鵠沼神明・石上)に案内看板設置 鵠沼51号
1989 平成 1     日本画家=佐多芳郎(1927-1997)、鵠沼藤が谷2-11-32から横浜市港北区綱島に転居 郷土史料展示室
1989 平成 1     境川「境橋」、架け替え工事完成(クゲヌマランのレリーフ) WEBsite
1989 平成 1     県立湘南海岸公園整備(太陽の広場・野外ステージ・駐車場等撤去) 鵠沼海岸開発史
1989 平成 1     国内初のスポーツカイト競技会、鵠沼海岸で開催 WEBsite
1990 平成 2 1   聶耳記念碑保存会、『聶耳物語』刊行 市史年表稿
1990 平成 2 1   鵠沼神明公害対策委員会、『ここに歴史あり』刊行 市史年表稿
1990 平成 2 2 10 指揮者=福永陽一郎、死去 享年63 鵠沼87号
1990 平成 2 3 15 第一中学校、校舎大改修工事完成 焼き釜庫完成 WEBsite
1990 平成 2 3 26 雅楽奏者=多 忠麿、芸術院賞受賞 市史年表稿
1990 平成 2 4 29 〜10/10、イベント「Sagami-wan Urban Resort Festival in 1990(サーフ'90)」開催、湘南海岸公園に開催記念碑造立 鵠沼海岸開発史
1990 平成 2 5 10 鵠沼海岸商店街振興組合、「鵠沼海岸通街づくり協定書」施行 WEBsite
1990 平成 2 6   藤沢市環境部環境管理課、鵠沼神明3丁目付近(上村橋下流)に引地川除塵機を設置 WEBsite
1990 平成 2 8 27 市文書館で「黒崎よし介の描いた藤沢」展開催 市史年表稿
1990 平成 2 9 25 鵠沼室内楽愛好会結成。第1回鵠沼サロンコンサート「加藤知子リサイタル」をレールブランシュで開催 WEBsite
1990 平成 2 9 30 台風20号の豪雨の増水により、引地川鵠沼橋落橋 鵠沼62号
1990 平成 2 10 9 第一中学校、グランド改修工事完成 テニスコート バレーコート完成 WEBsite
1990 平成 2 10   鵠沼公民館、藤沢市制50周年記念カプセル設置 公民館のあゆみ
1990 平成 2 12   藤沢リラホール(鵠沼石上1-1-15 藤沢リラ5F)、オープン WEBsite
1990 平成 2     義圓上人、大震災以来観音堂を仮本堂にしていた善光山天龍院法照寺の本堂を再建起工 WEBsite
1990 平成 2     松岡磐木著『ひよどりの凪の海』刊行 鵠沼75号
1991 平成 3 1 11 鵠沼石上に湘南赤十字血液センター藤沢献血ルーム開設 市史年表稿
1991 平成 3 1 24 鵠沼を語る会会員、富士 山、死去 享年96 鵠沼58号
1991 平成 3 2 8 故福永陽一郎のレリーフが市に寄贈される 市史年表稿
1991 平成 3 2   新城弘三(1972年より鵠沼在住。91歳)、青梅マラソンで最高年齢の部に出場して優勝 鵠沼62号
1991 平成 3 4 29 鵠南子供の家(ひょっこり鵠南島)、鵠沼海岸5-11-8に開設 地域子供の家一覧
1991 平成 3 4 30 間宮記念社会福祉助成財団、鵠沼1-11-18(?)に設立(社会福祉事業及び調査研究に対して助成) WEBsite
1991 平成 3 6 1 錦公園(鵠沼字花立)、開園 WEBsite
1991 平成 3 7 1 藤沢市老人福祉センター「湘南なぎさ荘」、鵠沼海岸6-17-7に開設 老人福祉センター
1991 平成 3 8 1 (福)上村鵠生会、デイサービスセンター湘南なぎさ荘を鵠沼海岸6-17-7湘南なぎさ荘内に開設 WEBsite
1991 平成 3 12 23 東京大学名誉教授(西洋史)=村川堅太郎(1907-1991)、死去 鵠沼76号
1991 平成 3     県立湘南海岸公園整備(遊歩道・シーサイドパレス・ビーチハウス等撤去) 鵠沼海岸開発史
1992 平成 4 2   葉山 峻、第15代藤沢市長に就任 市史年表稿
1992 平成 4 3   国道134号線引地川「鵠沼橋」架け替え工事完了。旧鵠沼橋の親柱を記念に造立 WEBsite
1992 平成 4 4   主要地方道11号鎌倉片瀬藤沢線(鵠沼付近では片瀬県道と呼ばれた)、藤沢町田線と共に国道467号に昇格 WEBsite
1992 平成 4 4   下沢まちかど公園(本鵠沼4丁目)、開園 WEBsite
1992 平成 4 4   法照寺、本堂新築完成※1990説あり 有賀密夫遺稿集
1992 平成 4 8 26 〜27、鵠沼海岸で第6回ビーチバレージャパン大会開催 市史年表稿
1992 平成 4 9 4 詩人=佐川英三詩碑、鵠沼橘の自邸角に造立 現地調査
1992 平成 4 10 1 藤沢ケーブルテレビ、開局 WEBsite
1992 平成 4 10 1 市、市の鳥に「カワセミ」を制定 20世紀の藤沢
1992 平成 4 10 1 財団法人藤沢市芸術文化振興財団、鵠沼東8-1に設立 WEBsite
1992 平成 4     画家=小林哲夫(1927-1997)、鵠沼海岸1丁目から片瀬海岸2-18へ転出 郷土史料展示室
1992 平成 4     鵠沼海岸旧銀座通り、モール化完成 マリンロードと改称 鵠沼81号
1992 平成 4     鵠栄会、鵠沼海岸商店街振興組合と改称 法人化 鵠沼81号
1992 平成 4     鵠沼海岸にサーフビレッジ完成 鵠沼81号
1993 平成 5 3 23 鵠沼中学校、屋内運動場、プール落成 WEBsite
1993 平成 5 3   市議会市民図書館がビデオ『海のかがやき―藤沢近代の文士たち(2)』を作成 市史年表稿
1993 平成 5 4 12 教育史学者=加藤仁平(1894-1993 鵠沼藤が谷1丁目)、死去 WEBsite
1993 平成 5 4 13 鵠沼藤が谷市民の家(鵠沼藤が谷2-11-32)開設 市史年表稿
1993 平成 5 5 6 「鵠商會」、「本鵠沼商店街協同組合」に改称し法人化 現地調査
1993 平成 5 5 30 第1回ジュニアオープンサーフィン選手権大会、鵠沼海岸で開催 WEBsite
1993 平成 5 6   高木和男、『踏み拓いた峠道―葉山又三郎とふゆ子の記録』(菜根出版)刊行 踏み拓いた峠道
1993 平成 5 7 1 藤原公園(鵠沼海岸5丁目)、開園 WEBsite
1993 平成 5 7 28 〜8/1、鵠沼海岸で第7回ビーチバレージャパン大会開催 市史年表稿
1993 平成 5   鵠沼公民館サマースクール参加者、〈鵠沼ジュニアコール〉結成 WEBsite
1993 平成 5 9 18 〜19、鵠沼海岸で全日本ライフセービング選手権大会開催 市史年表稿
1993 平成 5     この頃から宮ノ前では一日講などの行事をやらなくなる 鵠沼79号
1993 平成 5     鵠沼松が岡旧村川堅太郎邸の生け垣、「藤沢市緑と花いっぱい推進のつどい」で銅賞受賞 鵠沼76号
1994 平成 6 1   大山道・江之島道など、「かながわ古道五十選」決まる 市史年表稿
1994 平成 6 2 24 藤沢青年会議所、ビデオ『引地川―源流から海まで―』を制作 市史年表稿
1994 平成 6 3 25 鵠南小学校、給食調理場完成 理科室・家庭科室・視聴覚室 増改築及び空調工事完了 WEBsite
1994 平成 6 4   くげぬま探求クラブ、鵠沼公民館を拠点に創設。会員相互の親睦と研鑽、地域に役立つ活動を目指す WEBsite
1994 平成 6 6 29 地理学者=有賀密夫、藤沢市民病院で死去。自宅:鵠沼桜が岡4-9-8 有賀密夫遺稿集
1994 平成 6 7 8 国道134号線、片瀬海岸から鵠沼海岸まで4車線拡幅工事完成。利用開始 市史年表稿
1994 平成 6 7 30 鵠沼海岸で「かながわゆめ国体開催記念第2回ビーチバレー湘南」開催 市史年表稿
1994 平成 6   西浜ライフセービングクラブ、日本ライフセービング協会に登録。通年活動開始 WEBsite
1994 平成 6 9 9 高木和男元会長、自宅・屋敷を藤沢市に寄贈を申し出(8/31)、受理される 鵠沼89号
1994 平成 6 9 23 知的障害者の地域作業所「よし介工芸館」で童画家故黒崎義介胸像除幕式 市史年表稿
1994 平成 6 10 17 (荒木)蕉窓句碑、万福寺境内に造立 現地調査
1994 平成 6 12 5 鵠沼松が岡郵便局、鵠沼駅前郵便局に改称 WEBsite
1994 平成 6 12 15 ヤクルト本社前社長=松園尚巳(1922-1994。鵠沼松が岡1-16-18)、死去。享年72 WEBsite
1994 平成 6 12 16 石楯尾神社神殿、神明宮境内に再建 有賀密夫遺稿集
1994 平成 6 12   多忠麿(雅楽奏者、重要無形文化財、鵠沼海岸1-12-5)、死去 神奈川新聞
1994 平成 6     鵠沼を語る会、JR地下通路展示場で「鵠沼のくらし」を展示 鵠沼72号
1994 平成 6     鵠沼公民館、駐車場解放開始 公民館のあゆみ
1994 平成 6     かながわ男性ボランティアクラブ、鵠沼海岸3-16-2を拠点に活動を開始 WEBsite
1995 平成 7 4 1 南高根公園(鵠沼海岸5丁目)、開園 WEBsite
1995 平成 7 4 1 鵠沼桜が岡公園(鵠沼桜が岡4丁目)、開園 WEBsite
1995 平成 7 4 1 YMCA高等学院、鵠沼石上1-13-7に開設 WEBsite
1995 平成 7 4   岡崎 洋(鵠沼花沢町)、神奈川県知事選に当選 神奈川新聞
1995 平成 7 6 12 鵠沼海岸にビーチバレー用コートの常設が決まり、運営団体「ラブ・ユア・ビーチ湘南藤沢実行委員会」設立 市史年表稿
1995 平成 7 7 12 鵠沼公民館で第4回神奈川の中国セミナー「聶耳記念碑設立から藤沢・昆明友好提携へ」開催 市史年表稿
1995 平成 7 7 26 鵠沼海岸で「男子ビーチバレーボール世界選手権シリーズ江の島大会」開催 市史年表稿
1995 平成 7 8 1 鵠沼東の奥田公園駐車場オープン 市史年表稿
1995 平成 7 8 15 終戦50周年記念として奥田公園多目的広場に平和の像(彫刻:熊坂兌子)設置 記念碑
1995 平成 7 8   鵠沼中学校1期生、小冊子『戦後五十年鵠沼中学昭和二十二年 蟻の行列でできた教室』を発行 市史年表稿
1995 平成 7 9 23 鵠沼海岸でごみを回収して分析調査する「国際ビーチ・クリーンアップ」開催。市民ボランティア600名参加 市史年表稿
1995 平成 7 9 25 鵠沼花沢町1-4に藤沢南口郵便局、開局 WEBsite
1995 平成 7 10   県水産総合研究所内水面試験場長城条義興、鵠沼桜が岡池田邸で酒匂川水系蓮池産のメダカを再発見 鵠沼85号
1995 平成 7 12 19 宮内庁楽部奏者。重要無形文化財=多 忠麿(-1995 鵠沼海岸1-12-6)、死去 WEBsite
1995 平成 7 12 31 割烹料亭「東家」、廃業 鵠沼78・83号
1995 平成 7 12   南消防署跡地(鵠沼東)に『核兵器廃絶平和祈念像』完成 20世紀の藤沢
1995 平成 7     藤沢市、広報誌『わたしの藤沢』(28号)刊行。東屋旅館の記事・写真に誤りあり 鵠沼78号
1995 平成 7     村川堅太郎邸跡、大蔵省の協力により国有地及び藤沢市有地をもって都市公園鵠沼松が岡公園となる 鵠沼76号
1996 平成 8 1   市広報課、広報ビデオ『フレスコ画のパイオニア長谷川路可の世界』を作成 市史年表稿
1996 平成 8 2 1 鵠沼松が岡公園(鵠沼松が岡5丁目)、開園 WEBsite
1996 平成 8 2 26 山本捷雄(鵠沼桜が岡)、藤沢市長選挙に初当選。第16代藤沢市長に就任 市史年表稿
1996 平成 8 2 29 葛巻左登子、湘南中央病院へ緊急入院→芥川龍之介関連の本類、書き物等一切を文書館に寄託=葛巻文庫 鵠沼75号
1996 平成 8 3 7 第一中学校、特別指導学級棟外壁・屋上工事完成 WEBsite
1996 平成 8 3   ファミリー通りのモール化が完成 20世紀の藤沢
1996 平成 8 6 12 引地川でアユ約300匹が酸欠死 市史年表稿
1996 平成 8 7 20 鵠沼海岸でかながわ海岸美化財団などの主催による「海の日」制定記念のビーチクリーンアップを開催 市史年表稿
1996 平成 8 7 26 鵠沼海岸などで津波対策訓練実施 市史年表稿
1996 平成 8 8 4 鵠沼公民館で「なぎさシティー計画の中止を求める市民の会」が「市民円卓会議こんな海がいい」を開催 市史年表稿
1996 平成 8 8 26 藤沢メダカの学校をつくる会発足 鵠沼85号
1996 平成 8 9 8 鵠沼運動公園に保存・展示されている蒸気機関車「しおかぜ号」誘致20周年を記念した「SLまつり」開催 市史年表稿
1996 平成 8 10   鵠沼松が岡公園の由来碑、設立 鵠沼76号
1996 平成 8 12 20 鵠沼小学校、モデルトイレ改修工事完成 教育史研究99
1996 平成 8 12 31 日本画家=加藤東一(1916-1996)、鵠沼桜が岡2-5-15にて死去 WEBsite
1996 平成 8     鵠沼公民館、地域団体の一部の事務を開始 公民館のあゆみ
1997 平成 9 1   秩父宮記念体育館、改築工事完成 広報ふじさわ
1997 平成 9 4 1 南部下水処理場名を辻堂浄化センターに改称 WEBsite
1997 平成 9 4 1 「鵠沼地区くらしまちづくり会議」、発足 WEBsite
1997 平成 9 4 14 湘南海岸一帯に油の塊が漂着 市史年表稿
1997 平成 9 4 20 かながわ海岸美化財団、鵠沼海岸で春のビーチクリーンアップを開催 市史年表稿
1997 平成 9 5   サーフビレッジ新築工事完成 WEBsite
1997 平成 9 8 12 江ノ電バス叶ン立。藤沢営業所の運行を委託 ウィキペディア
1997 平成 9 9 16 元湯浅電池<YUASA>専務取締役=井手実男(鵠沼松が岡4-13-6)、肺炎のため茅ヶ崎市の病院で死去 産業新聞
1997 平成 9 10 1 日本画家=故・加藤東一(1916-1996 鵠沼桜が岡2-5-15)、藤沢市名誉市民に推挙 WEBsite
1997 平成 9 11 1 歌手・俳優=小坂一也(鵠沼松が岡2-5-25)、食道癌で没。享年62 鵠沼別冊文化人
1997 平成 9 11 8 鵠沼中学校、創立50周年記念フェスティバル、記念誌「くぐい」発刊 WEBsite
1997 平成 9 11 18 本鵠沼商店街協同組合、「本鵠沼駅を中心とする周辺地域のまちづくりについて」要望書提出 本鵠沼駅前の変遷
1997 平成 9 11 25 高三啓輔(会員)、『鵠沼・東屋旅館物語』刊行 東屋旅館物語
1997 平成 9     伊東将行の孫=右近一夫、死去 鵠沼78号
1998 平成10 1 10 私立富士幼稚園(本鵠沼1-3-7)、新園舎落成 WEBsite
1998 平成10 1 15 関東地方で大雪。鵠沼海岸駅階段で転倒し、骨折者出る 市史年表稿
1998 平成10 1   上村町内会、上村神社・上野森稲荷を改築造営 現地調査
1998 平成10 4 19 クリーンアップ全国事務局、鵠沼海岸で砂浜に漂着したプラスチックに的を絞ったゴミ拾いを実施 市史年表稿
1998 平成10 5 1 藤沢市、鵠沼公民館に8か所目となる福祉の相談や手続きができる「地区福祉窓口」を開設 市史年表稿
1998 平成10 5 24 鵠沼運動公園屋内温水プール開所式(26日から使用開始) 市史年表稿
1998 平成10 6 4 第1回蓮池の生態調査 鵠沼85号
1998 平成10 6 19 市長、本鵠沼商店街協同組合に「本鵠沼駅を中心とする周辺地域のまちづくりについて」回答 本鵠沼駅前の変遷
1998 平成10 7 4 作詞家=水木かおる(鵠沼桜が岡1-4-10。本名・奥村聖二)、心不全で藤沢市民病院で死去。享年71 WEBsite
1998 平成10 7 17 日本芸能百撰会・創韻会会長=杵屋五十郎、死去。享年83 鵠沼別冊文化人
1998 平成10 8 12 江ノ電バス設立 江ノ電の100年
1998 平成10 8 22 小田急江ノ島線急行10両運転開始に伴い、従来停車駅だった鵠沼海岸と本鵠沼駅が一部通過駅となる WEBsite
1998 平成10 8 31 鵠沼海岸、全国漂着ペレット調査で最悪の結果。1平方メートルあたり1500個 WEBsite
1998 平成10   小説家=佐江衆一(財団法人「神奈川文学振興会』理事)、藤沢市へ「東屋」記念碑の設置を提唱 鵠沼81・82号
1998 平成10 11 6 ハス池の自然を愛する会、蓮池の保存を市長に陳情。請願署名運動を展開 鵠沼85号
1998 平成10 11 10 藤沢市側の担当者と佐江衆一、元市教育長小山文雄、『鵠沼を語る会』編集委員、「東屋」記念碑相談会 鵠沼81・82号
1998 平成10 11 22 藤沢市民オペラ『リエンツィ・最後の護民官』を本邦初演 WEBsite
1998 平成10 11 25 作曲家=磯部 俶(1917-1998)、鵠沼松が岡2-5-20にて死去。享年81 WEBsite
1998 平成10 12 2 日本陸連名誉会長=織田幹雄(1905-1998 鵠沼海岸2-11-17-106)、死去 享年93 市史年表稿
1998 平成10 12 19 高三啓輔(会員)著『鵠沼・東屋旅館物語』、第12回大衆文学研究賞を受賞 市史年表稿
1998 平成10     鵠沼を語る会、渡辺邸保存活動を始める 鵠沼78号
1998 平成10     鵠沼海岸4−15−2に日本一小さなジャズ喫茶「響庵(ひびきあん)」開業 WEBsite
1998 平成10     伊東将行の2番目の孫にあたり将行の養子となった伊東将治(もと割烹料亭東家経営者)、死去 鵠沼78号
1999 平成11 1 4 〜2/7、市民ギャラリーで『高橋コレクション展』開催 市史年表稿
1999 平成11 1 29 日本画家=加山又造、第6回井上靖文化賞を受賞(絵画部門で初) 市史年表稿
1999 平成11 2 15 ハス池の自然を愛する会会長吉田敏平他4053人、ハス池とその周辺広場を保全・維持する陳情提出 市史年表稿
1999 平成11 3 20 元東亜国内航空〈現日本エアシステム〉社長=窪田俊彦(鵠沼藤が谷)、死去 享年82 WEBsite
1999 平成11 4 7 鵠沼東の藤沢東急プラザ南館立体駐車場6階から壁を破って乗用車が落下 市史年表稿
1999 平成11 5 21 友禅作家=田島比呂子(本名 田島 博、鵠沼海岸2-17-1-413)、国の重要無形文化財(人間国宝)に指定 WEBsite
1999 平成11 5 30 鵠沼公民館で第1回「鵠っ子〜めだかの学校」開催 鵠沼85号
1999 平成11 6 27 音楽評論家=志摩夕起夫(本名:小島幸雄 鵠沼松が岡在住)、死去。 享年76 WEBsite
1999 平成11 7 17 斉藤孝治著『聶耳 閃光の生涯』刊行 市史年表稿
1999 平成11 7 20 第1回かんぽ杯・海の日記念ビーチバレー大会、鵠沼海岸で開催 市史年表稿
1999 平成11 8 27 日本電気硝子鞄。沢事業場(藤沢市鵠沼神明3-7-6)、県より環境管理事業所として認定 WEBsite
1999 平成11 8 28 海岸清掃後にコンサートを楽しむ「ベアフットコンサートin鵠沼1999」、鵠沼海岸で開催 市史年表稿
1999 平成11 9   鵠沼小学校に空き教室を活用した「ぽてんこ児童クラブ」開設 市史年表稿
1999 平成11 9   旧長谷川・斉藤邸(鵠沼桜が岡1-17-41)取り壊し 鵠沼81号
1999 平成11 10 1 友禅作家=田島比呂子(本名 田島 博、鵠沼海岸2-17-1-413)、藤沢市名誉市民に推挙 WEBsite
1999 平成11 10 10 第23回SLまつり、鵠沼運動公園で開催 市史年表稿
1999 平成11 11 11 葛巻左登子(会員。芥川龍之介の姪)死去。 鵠沼80・83号
1999 平成11     日本画家=上田臥牛(1920.8.16-1999)、鵠沼橘2-1-13にて死去 享年79 上田臥牛展
2000 平成12 1 25 「引地川水系ダイオキシン汚染事件」新聞報道/藤沢市記者発表 WEBsite
2000 平成12 1 26 ダイオキシン汚染事件報道を受け、引地川河口の鵠沼海岸で予定されていたプロサーフィン大会中止決定 WEBsite
2000 平成12 2 10 第二花立公園(本鵠沼1丁目)、開園 WEBsite
2000 平成12 2 16 藤沢市の水質調査により、8100pg/lという高濃度のダイオキシンを都市排水路稲荷雨水幹線から検出 WEBsite
2000 平成12 2 29 NHK教育テレビ、『鹿地亘事件〜アメリカ情報機関の謀略〜』を放映 WEBsite
2000 平成12 2   山本捷雄、藤沢市長選挙に再選。第17代藤沢市長に就任 市史年表稿
2000 平成12 3 12 江ノ島電鉄、藤沢営業所乗合管理業務を江ノ電バスに委託開始 江ノ電の100年
2000 平成12 3 24 環境庁・県、荏原製作所藤沢工場付近の雨水路の水から最高で8100pg/lのダイオキシン類を検出と発表 WEBsite
2000 平成12 5   日本初のビーチアルティメット大会『江橋カップ(江橋慎四郎名誉顧問の名を冠す)』を鵠沼海岸で開催 WEBsite
2000 平成12 6 6 俳人=飯島晴子、自死 WEBsite
2000 平成12 7 1 鵠洋児童館「わんぱくワールド」、開所(小説家=広津桃子の遺志により寄贈されたもの) WEBsite
2000 平成12 9 3 小田急鵠沼プールガーデン、営業を終了 WEBsite
2000 平成12 9 14 元日本精工取締役=真鍋武雄(鵠沼橘2-5-19)、群馬県安中市で死去。享年66 WEBsite
2000 平成12 9 19 日本電気硝子鞄。沢事業場(鵠沼神明3-7-6)、ISO9001:2000に登録 WEBsite
2000 平成12 9 20 鵠沼の渡辺邸と文化財を考える会。講師:生涯学習課水谷主幹 鵠沼81号
2000 平成12 9   本鵠沼駅前道路改良工事完了 本鵠沼駅前の変遷
2000 平成12 10   空乗寺ゆかりの22名の英霊慰霊碑造立 現地調査
2000 平成12 11 2 特定非営利活動法人 湘南栄養指導センター(鵠沼海岸1-15-29 代表:高木和夫)、認可 WEBsite
2000 平成12 11 29 鵠沼の渡辺邸と文化財を考える会杉山和彦ほか1,094人、藤沢市議会に「渡辺邸の保存に関する陳情」提出 WEBsite
2000 平成12 12 6 藤沢市議会文教常任委員会、「渡辺邸の保存に関する陳情」について質疑。全員異議なく、結論保留 WEBsite
2000 平成12     鵠沼公民館、館報『しおさい』69号から全戸配布開始 公民館のあゆみ
2001 平成13 1 15 鵠沼桜が岡郵便局、鵠沼皇大神宮例大祭の原町地区人形山車、富士山をデザインした風景印を制作・発表 WEBsite
2001 平成13 1 15 鵠沼駅前郵便局、松、江ノ電電車、富士山をデザインした風景印を制作・発表 WEBsite
2001 平成13 3 3 藤沢南口郵便局、藤沢駅前情景、江ノ電電車、市花・フジをデザインした風景印を制作・発表 WEBsite
2001 平成13 3 22 東屋記念碑」設置記念式典(鵠沼公民館)→除幕式(鵠沼海岸2-8-26) 鵠沼82号
2001 平成13 3 31 藤沢市環境部みどり課、『藤沢の自然』No.26『鵠沼の自然』刊行 鵠沼の自然
2001 平成13 4 3 江ノ島電鉄、鵠沼変電所新設竣工(江ノ島変電所廃止) 江ノ電の100年
2001 平成13 4 10 藤沢橘通郵便局、藤沢メダカと江ノ電をデザインした風景印を制作・発表 鵠沼85号
2001 平成13 4 14 画家=荒木襄太郎(1917.2.27-2001)、死去 享年84(鵠沼桜が岡2丁目) 荒木襄太郎展
2001 平成13 4   鵠沼ふれあいトライアングル(鵠沼中学校・鵠沼小学校・鵠洋小学校3校と地域の連携組織)、発足 トライアングル
2001 平成13 5 5 作家=佐江衆一、文芸誌「潮」6月号に随筆『鵠沼の東屋旅館』を寄稿 WEBsite
2001 平成13 6 2 鵠沼を語る会・鵠沼公民館共催シンポジウム「東屋と文人たち」。10:00-12:00鵠沼公民館ホール 鵠沼83号
2001 平成13 7 10 作家=佐江衆一、情報誌「有鄰」No.404に『鵠沼の東屋旅館と芥川龍之介』を寄稿 有鄰No.404
2001 平成13 7 15 作家=佐江衆一、『芥川龍之介と鵠沼の東屋 〈寄稿・大正の文学〉』を発表[神奈川近代文学館73号] 近代文学館73号
2001 平成13 7 20 鵠沼プールガーデン跡地に鵠沼スケートパーク、オープン WEBsite
2001 平成13 7 31 神奈川県・藤沢市・鎌倉市合同津波対策訓練実施 神奈川県
2001 平成13 8 3 元東海汽船社長、元日本興業銀行常務=新村和雄(鵠沼藤が谷1-4-10)、死去。享年74 WEBsite
2001 平成13 9 9 元蛇の目ミシン工業常務=半田雄三(鵠沼橘1-15-28)、死去。享年65 WEBsite
2001 平成13 9 16 神奈中バス、藤沢駅―鵠沼海岸経由辻堂駅(藤77)線を廃止 WEBsite
2001 平成13 10 30 環境省、『鵠沼、金木犀の住宅街』を「全国かおり風景100選」に選定 WEBsite
2001 平成13 10 『鵠沼海岸商店街100年の歴史』『鵠沼海岸開発史の概略』刊行 鵠沼84号
2001 平成13 12 1 季刊地域誌『探検隊』、14鵠沼号を発行 探検隊
2001 平成13     作曲家=島根 恵、2ヴァイオリン,チェロのための小品組曲『湘南鵠沼海岸の想い出』を発表 WEBsite
2002 平成14 1 22 鵠洋小学校、南棟にエレベーター完成 鵠洋沿革
2002 平成14 2 22 J-COM湘南藤沢局、しおかぜ湘南−文学散歩会員の案内で取材 鵠沼84号
2002 平成14 2   橘通商店会のシンボルタワーを商店街入り口に設置 鵠沼85号
2002 平成14 3 3 鵠沼を語る会、鵠沼探求クラブと共に松が岡公園にモモの苗木を植樹 鵠沼84号
2002 平成14 3 7 J-COM湘南藤沢局、しおかぜ湘南−文学散歩を放映 鵠沼84号
2002 平成14 3 10 小田急がダイヤ変更。毎時2本を藤沢折返しの湘南急行と変更し、鵠沼海岸、本鵠沼を急行停車駅に残す 小田急
2002 平成14 3 23 第3回全国めだかシンポジウム(日本めだかトラスト協会主催)、藤沢公民館で開催 鵠沼84・85号
2002 平成14 3 30 慶応大名誉教授・仏文学者=大久保洋海(鵠沼松が岡1-4-1)、死去 享年93 毎日新聞
2002 平成14 3 30 居酒屋=「ながら」(鵠沼橘一丁目、女将=詩人=三宅節子)、閉店 WEBsite
2002 平成14 3 31 鵠洋小学校、プレハブ教室(普通教室用平屋建 二教室)増設 鵠洋沿革
2002 平成14 4 19 〜25、J-COM湘南藤沢局、市広報番組パステルタイムで鵠沼を語る会の活動を報道 鵠沼85号
2002 平成14 4 21 元鬼怒川ゴム工業社長=藤田昌次郎(1926-2002、鵠沼桜が岡2の3の10)死去、享年86 毎日新聞
2002 平成14 4   「渡辺邸と文化財を考える会」、「鵠沼の緑と文化財を守る会」として再発足 WEBsite
2002 平成14 5 7 潟сNルト本社藤沢工場(藤沢市鵠沼神明2-5-10)、県より環境管理事業所として認定 WEBsite
2002 平成14 5 17 旧近藤邸(鵠沼東8-1に移転)、国指定有形文化財(建造物)に登録 WEBsite
2002 平成14 6 1 〜9/7、2002 湘南ビーチサッカーシリーズ、鵠沼海岸『ラブ・ユア・ビーチ湘南藤沢』特設コートで開催 WEBsite
2002 平成14 7 1 元五洋建設専務=山ア 浩(鵠沼桜が岡4-15-10)、死去 享年76 毎日新聞
2002 平成14 8 16 神奈中/江ノ電バス、藤沢駅―辻堂北口(藤03)、辻堂団地(藤04)、辻堂駅(藤06)に深夜バス運行開始 WEBsite
2002 平成14 8 31 日本聖公会・横浜教区藤沢聖マルコ教会、宣教50周年記念新聖堂・幼稚園竣工 WEBsite
2002 平成14 9 6 元日本コロムビア社長=望月和夫(1924-2002、鵠沼松が岡1-20-3)死去。享年78 毎日新聞
2002 平成14 9 17 〜29、鵠沼を語る会、市教委と共催で『華ひらいた鵠沼文化展』を市民ギャラリー常設展示場で開催 鵠沼85号
2002 平成14 9 25 広報ふじさわ9月25日号、1面のトピックス「伝えていきたい藤沢の歴史」として東屋を紹介 広報ふじさわ
2002 平成14 9 26 特定非営利活動法人 湘南ライフサポート・きずな(鵠沼石上1-1-17 代表:川辺克郎)、認可 WEBsite
2002 平成14 9 27 読売新聞、湘南版「湘南20世紀物語」で『蜃気楼』と題し鵠沼時代の芥川を掲載。鵠沼を語る会も紹介 読売新聞
2002 平成14 10 14 日本聖公会・横浜教区藤沢聖マルコ教会、宣教50周年記念新聖堂・幼稚園聖別式・竣工式 WEBsite
2002 平成14 10 19 藤沢市生涯学習大学かわせみ学園、レディオ湘南で開講。小山文雄:『潮風のたより〜文士たちの藤沢〜』 WEBsite
2002 平成14 10 21 言語学者=田中隆尚(1918-2002)、鵠沼桜が岡2にて死去。享年83 鵠沼87号
2002 平成14 11 5 元アルテック会長=村永幸男(鵠沼桜が岡2-8-31)、死去 享年76 毎日新聞
2002 平成14 11 29 県都市計画審議会、第3978号議案藤沢都市計画用途地域の変更(鵠沼松が岡1丁目)を決議 WEBsite
2002 平成14 12 23 元いすゞ自動車取締役=磯貝 衛(鵠沼花沢町10-8)、死去 享年86 毎日新聞
2003 平成15 1 10 TKC監査役・弁護士=柴田政雄(鵠沼松が岡4-11-5)、死去 享年71 毎日新聞
2003 平成15 1 22 元法政二高校長(1960-66)=藤間嘉雄(鵠沼海岸6-2-5)、死去 享年100※葉山峻衆院議員の義父 毎日新聞
2003 平成15 1 27 鵠生園、鵠沼を離れ片瀬に移転 広報ふじさわ
2003 平成15 2 5 元舞鶴地方総監、元海将=松崎純生(鵠沼海岸1-7-15)、死去 享年96 毎日新聞
2003 平成15 2 11 元学習院大教授、元明治大教授、国文学=木村正中(鵠沼橘2-5-11)、死去 享年76 毎日新聞
2003 平成15 2 14 〜3/20、藤沢市民ギャラリー常設展示室「30日美術館」で『荒木襄太郎展』開催 広報ふじさわ
2003 平成15 2 17 鵠沼を語る会会員=関根久男(藤沢市議)、膵臓癌のため死去。享年79 鵠沼86号
2003 平成15 3 21 元日本酸素社長=石沢 夏郎(鵠沼藤が谷3-1-27)、死去 享年84 WEBsite
2003 平成15 3 29 小田急江ノ島線、急行車両の10両化に伴い、本鵠沼・鵠沼海岸を通過する「湘南急行」を運行 小田急
2003 平成15 4 13 獣医師=田中 博(鵠沼松が岡1-6-7)、食道癌のため死去。享年82 毎日新聞
2003 平成15 4 22 鵠沼市民センター、開所式挙行 広報ふじさわ
2003 平成15 4 24 鵠沼海岸に体長9.7mのマッコウクジラの死骸が漂着。県なぎさ事務所が埋葬処理 毎日新聞
2003 平成15 5 1 鵠沼市民センター、開業 広報ふじさわ
2003 平成15 5 28 東海大名誉教授、老年病学=五島雄一郎(鵠沼松が岡1-2-14)、死去 享年80 毎日新聞
2003 平成15 5 31 集中豪雨により鵠沼各所で道路冠水、家屋浸水(床上=3棟、床下=13棟) WEBsite
2003 平成15 6 1 〜11/30、神奈川県警、鵠沼海岸地区を高齢者交通安全対策モデル地区に指定 WEBsite
2003 平成15 7 1 鵠沼地区社会福祉協議会、創立50周年記念式典(市民会館小ホール)「創立五十周年記念誌」発行 社協50周年記念誌
2003 平成15 7 1 〜8/31、歌手=浜崎あゆみ、『ayu ready?』(フジテレビ)の海の家「RAINBOW HOUSE」を鵠沼海岸に開設 WEBsite
2003 平成15 7 30 湘南海岸のサーファーの草分け=小川秀之(1946-2003)、急性心不全で死去 WEBsite
2003 平成15 7 30 読売新聞、『湘南20世紀物語』を刊行。100ページに鵠沼を語る会を紹介 湘南20世紀物語
2003 平成15 8 1 Robert A. Juhl, Ph.D.(鵠沼藤が谷)、論文“The Goddess, the Dragon, and the Island”を発表 WEBsite
2003 平成15 8 16 深谷百合子(長谷川路可の次女・宇都宮市在住)ら遺族、長谷川路可の絵画作品22点を藤沢市に寄贈 WEBsite
2003 平成15 9 30 〜10/5、『寄贈絵画紹介・長谷川路可展(第1回)』、鵠沼市民センター 郷土資料展示室で開催 WEBsite
2003 平成15 10 1 岡崎 洋=前神奈川県知事(鵠沼花沢町)、藤沢市名誉市民に推挙 朝日新聞
2003 平成15 10 25 〜31、鵠沼を語る会、公民館郷土資料展示室運営委と共催で『写真で見る鵠沼の今昔』展 鵠沼88号
2003 平成15 10 26 NHK教育テレビ『新日曜美術館〜百人の麗子〜』放映。取材協力:鵠沼を語る会 NHK教育TV
2003 平成15 10   万福寺、太子堂新築工事完成。落慶法要 現地調査
2003 平成15 10   特定非営利活動法人西浜サーフライフセービングクラブ、認可 WEBsite
2003 平成15 11 9 歌手=井口小夜子(1914-2003 桜が岡4-4-8)、急性呼吸不全のため鎌倉市の病院で死去 享年89 毎日新聞
2003 平成15 11 18 〜12/21、藤沢市民ギャラリー常設展示室[30日美術館]で『上田臥牛展〜新しい日本画への挑戦〜』開催 WEBsite
2003 平成15 11 28 〜12/4、J-COM湘南藤沢局、市広報番組パステルタイムで「鵠沼郷土資料展示室」正式オープンを報道 J-COM湘南藤沢局
2003 平成15 11   マリンロード鵠沼海岸駅前角に昭和四年丸政料理店発祥の地記念碑、建立 現地調査
2003 平成15 12 1 鵠沼市民センター「鵠沼郷土資料展示室」、正式オープン。〜2/29記念展『鵠沼の歴史をひもとく』開催 郷土資料展示室
2004 平成16 2   山本捷雄、第18代藤沢市長に就任 市史年表稿
2004 平成16 3 1 集中豪雨により各地で家屋浸水の被害 WEBsite
2004 平成16 3 8 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』別冊『今井達夫著作品復刻号』発行 鵠沼別冊
2004 平成16 3 23 高木和男元会長千恵子夫人、自宅にて死去 鵠沼89号
2004 平成16 3 23 〜6/30、鵠沼郷土資料展示室第2回企画展『鵠沼が生んだ世界的画家―長谷川路可展』開催 郷土資料展示室
2004 平成16 3 28 藤沢市、藤沢都市計画公園(桜小路公園)変更の説明会を開催 WEBsite
2004 平成16 3 31 鵠沼海岸駅駐輪場1341台分、鵠沼海岸駅第2駐輪場220台分、(財)自転車駐車場整備センターより市に譲渡 WEBsite
2004 平成16 4 1 小田急鵠沼海岸駅のホームと跨線橋間にエレベーター設置。使用開始 現地調査
2004 平成16 4 1 鵠沼女子高等学校、男女共学になり、鵠沼高等学校として再スタート WEBsite
2004 平成16 4 28 元セコム専務=長田晨一郎(鵠沼松が岡2-7-18)、脳こうそくのため死去、享年70 毎日新聞
2004 平成16 5 16 小田急本鵠沼駅に東口改札口完成。使用開始 現地調査
2004 平成16 5 26 高木和男元会長、聖テレジア病院にて死去。享年95 鵠沼89号
2004 平成16 6 13 空乗寺、本堂改築工事完成。落慶法要 現地調査
2004 平成16 6 16 井上妙子(長谷川路可『妙子女史像』のモデル、長岡輝子の姉。鵠沼松が岡4-10-10)、死去。享年101 長岡輝子の四姉妹
2004 平成16 6   鵠沼石上3-3-6に医療法人篠原湘南クリニック クローバーホスピタル開院(鵠沼地区唯一の病院) WEBsite
2004 平成16 7 15 〜9/15、鵠沼郷土資料展示室第2回常設展『海浜リゾート鵠沼の移り変わり』開催 郷土資料展示室
2004 平成16 8 6 奥津工務店元経営者=奥津一男、自作の神輿を鵠沼伏見稲荷神社に奉納 ぶらり鵠沼9号
2004 平成16 8 20 声楽家、元武蔵野音大教授=井崎嘉代(鵠沼松が岡2-14-12)、老衰のため死去。享年95 毎日新聞
2004 平成16 9   鵠沼海岸商店街振興組合、コンシェルジュ制度をスタート WEBsite
2004 平成16 9 27 鵠沼小学校、全棟給水管改修工事完成 WEBsite
2004 平成16 10 1 元市長=葉山峻(鵠沼海岸6-2-5)、藤沢市名誉市民に推挙 広報ふじさわ
2004 平成16 10 9 小田急、本鵠沼・鵠沼海岸停車の東京地下鉄と直通の臨時列車「秋のレジャートレイン江の島号」を運転 小田急
2004 平成16 10 9 関東南部に上陸した台風22号による豪雨で各地で家屋浸水の被害。県道30号線冠水 広報ふじさわ
2004 平成16 10 15 〜1/15、鵠沼郷土資料展示室第3回企画展『鵠沼の祭りと年中行事』開催 郷土資料展示室
2004 平成16 10 20 台風23号による豪雨で県道30号線通行止め WEBsite
2004 平成16 11 1 小田急本鵠沼駅東口に有料駐輪場開設 現地調査
2004 平成16 11 16 〜12/18、藤沢市民ギャラリー常設展示室[30日美術館]で『菅沼五郎展』開催 広報ふじさわ
2004 平成16 12 11 小田急江ノ島線、湘南急行を10両編成の快速急行に切り替える。本鵠沼・鵠沼海岸駅は通過 小田急
2005 平成17 1 5 藤沢市、鵠沼に新保健所建設着工 毎日新聞
2005 平成17 1 19 原の辻石碑群整備工事竣工、石碑整備賛助者碑、造立 神奈川新聞
2005 平成17 2 15 〜5/15、鵠沼郷土資料展示室第3回常設展『藤澤駅南口周辺の変遷/なつかしの学舎No1鵠沼小学校』開催 郷土資料展示室
2005 平成17 3 20 鵠沼の緑と景観を守る会、「みんなで守ろう失われ行く鵠沼の緑と景観」シンポ開催(公民館ホール) WEBsite
2005 平成17 3 27 鵠沼中学校、鵠沼公民館を全館利用して「青鵠祭(せいこくさい)」を開催 タウンニュース
2005 平成17 5 12 黒崎義介画伯作品保存会、童画や日本画、デッサンなど1011点とスケッチブック98冊などを藤沢市に寄贈 朝日新聞
2005 平成17 5 14 獣医=市川貞治(本鵠沼4-1-7)、心筋梗塞のため死去。享年77 WEBsite
2005 平成17 5 15 小田急本鵠沼駅、昼間一時無人化試行はじまる 現地調査
2005 平成17 5 30 『長岡輝子の四姉妹』(鈴木美代子著、草思社)出版(鵠沼松が岡で撮影した四姉妹の表紙) 長岡輝子の四姉妹
2005 平成17 5   旧高木和男邸、「高木ふれあい荘」としてオープン。老人福祉やボランティアセンター事務局等に活用 現地調査
2005 平成17 6 15 〜9/15、鵠沼郷土資料展示室第4回企画展『あれから60年 戦中・戦後の鵠沼』開催 郷土資料展示室
2005 平成17 7 7 桜小路公園(鵠沼藤が谷4丁目)で落雷により岡崎前知事の妻と長女(鵠沼花沢町)が死去 各メディア
2005 平成17 8 1 鵠沼の緑と景観を守る会、『みんなで守ろう!失われ行く鵠沼の緑と景観』を刊行 同書
2005 平成17 8 5 東屋旅館海浜口門柱、鵠沼公民館裏庭に移設(鵠沼を語る会などの呼びかけ) 鵠沼91号
2005 平成17 8 9 〜21、寄贈絵画紹介「生誕100年黒崎よし介展」(市民ギャラリー)開催 広報ふじさわ
2005 平成17 9 4 集中豪雨により鵠沼海岸・鵠沼松が岡で床下浸水 WEBsite
2005 平成17 9 5 猪俣てる(故猪俣浩三元社会党代議士の妻。鵠沼松が岡1-16-2)肺炎のため藤沢市の病院で死去、享年100 各メディア
2005 平成17 10 4 〜11/6、藤沢市30日美術館「塚本茂展〜油彩の輝きを謳う〜」 開催 30日美術館
2005 平成17 10 15 〜1/15、鵠沼郷土資料展示室第5回企画展『鵠沼ゆかりの文化人展』鵠沼を語る会創立30周年事業共催 郷土資料展示室
2005 平成17 10 24 〜30、神明宮上村の人形山車、「江戸天下祭」(丸ビル)に出展 タウンニュース
2005 平成17 11 29 旧東屋旅館海浜口の石畳改修工事完成。門柱跡にプレート設置(市教委) 現地調査
2006 平成18 1 1 東洋考古学者・京都大名誉教授=林巳奈夫(1925-2006、鵠沼桜が岡2-1-26)、急性心不全で死去。享年80 各メディア
2006 平成18 1 22 元日本陸上競技連盟常務理事=伊藤貫三(鵠沼松が岡1-21-21)、肺炎のため死去。享年97 毎日新聞
2006 平成18 2 15 〜5/15、鵠沼郷土資料展示室、『なつかしき学び舎その2湘南学園・鵠沼村の時代』開催 郷土資料展示室
2006 平成18 2   鵠沼海岸のサーフビレッジ前に海岸気象情報板を設置 読売新聞
2006 平成18 3 22 鵠沼2131-1に保健所政令市指定に伴う藤沢市保健所・南保健センター完成。開所式(4/1開所) 広報ふじさわ
2006 平成18 3   医師=本田一壽、『湘南雑記』(新風舎)を刊行。鵠沼にも触れる 湘南雑記
2006 平成18 4 1 藤沢市保健所・南保健センター、鵠沼2131-4に開設 広報ふじさわ
2006 平成18 4 1 ボランティアセンター「ささえ」(北島令司センター長)、高木ふれあい荘に開所 ささえ
2006 平成18 4 1 県立湘南海岸公園、指定管理者=鰹テ南なぎさパークに管理移管 WEBsite
2006 平成18 4 1 本鵠沼在住の葉山陽一郎監督の映画『君はまだ、無名だった。』、公開(鵠沼は出ないが周辺各地でロケ) WEBsite
2006 平成18 6   『天養記』(伊勢・神宮文庫蔵)、国の重要文化財に指定。5〜7日、神宮文庫大閲覧室で全文を特別公開 毎日新聞
2006 平成18 6 15 〜9/15、鵠沼郷土資料展示室、『鵠沼海岸別荘地の開発と変遷』開催 郷土資料展示室
2006 平成18 6 17 鵠沼海岸でもロケをしたYUI、塚本高史主演の映画『タイヨウのうた』、公開 WEBsite
2006 平成18 7 14 〜9/15、TBS金曜ドラマ『タイヨウのうた』、オンエア(鵠沼海岸でロケ) WEBsite
2006 平成18 7 27 竢o版、『湘南スタイルエリアガイド2 鵠沼 辻堂 茅ヶ崎』を出版 竢o版
2006 平成18 7   鵠洋小学校父親の有志、「鵠洋おやじパトロール隊」を結成 各メディア
2006 平成18 8 18 サーフビレッジ南側前庭に日本ビーチバレー発祥の地記念碑のオブジェ(日比野克彦作)建立 神奈川新聞
2006 平成18 9 17 江ノ電沿線新聞社主=吉田克彦、『湘南讃歌』(江ノ電沿線新聞社)を刊行。鵠沼にも触れる 湘南讃歌
2006 平成18 10 15 〜1/14、鵠沼郷土資料展示室、『駅周辺商店街の移り変わり/鵠沼公民館のあゆみ』開催 郷土資料展示室
2006 平成18 10 31 みずほ銀行藤沢支店鵠沼出張所、鵠沼支店に昇格 現地調査
2006 平成18 12 31 東急ハンズ藤沢店(鵠沼東1-2)、30年の歴史を閉じ閉業 現地調査
2007 平成19 1 26 江幡 清(元朝日新聞論説主幹・取締役、鵠沼松が岡4-10-10)、心不全で死去。享年92 朝日新聞
2007 平成19 1 28 TV朝日『グレートマザー物語・究極の宝…中島誠之助』放映、鵠沼時代の紹介に有田会長が出演 TV朝日
2007 平成19 1   鵠沼災害救済ボランティアセンター設置準備会、発足 まどい83号
2007 平成19 3 9 〜15、J:COM湘南「パステルタイム」で景観条例を特集、鵠沼の緑と景観を守る会も出演 J:COM湘南
2007 平成19 3 11 中岡耕地整理紀功碑、鵠沼松が岡4-19-5(一木通り踏切脇)から鵠沼公民館裏庭に移設 現地調査
2007 平成19 3 15 鵠洋小学校PTA、創立60周年記念誌『くげぬまの風の中で Part3』発行 同誌
2007 平成19 3 18 第1回湘南国際マラソン大会、江の島〜二宮間の国道134号線往復コースで開催 各メディア
2007 平成19 3 31 小田急江ノ島線本鵠沼1号踏切、拡幅工事完成 現地調査
2008 平成20 2 1 旧後藤医院(藤沢市鵠沼橘1丁目)、「鵠沼橘市民の家」としてオープン 現地調査
2008 平成20 2 1 本鵠沼市民の家、リニューアルオープン 現地調査
2008 平成20 2 26 海老根靖典(鵠沼)、第19代藤沢市長に就任 各メディア
2008 平成20 5 19 詩人=浜田知章(鵠沼海岸7-20-18)、没 享年:88 各メディア
2008 平成20 10 8 元藤沢市民短歌会会長=杉原幸子(故杉原千畝夫人)、心筋梗塞で没。享年94 各メディア
2009 平成21 10 17 国際テニス連盟の公認大会「湘南国際ビーチテニストーナメント」日本初のG3開催 各メディア
2010 平成22 3 13 元市長・元代議士・藤沢市名誉市民=葉山峻(鵠沼海岸6-2-5)、没。享年76 各メディア
2010 平成22 4  30 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』100号刊行([相模国準四国八十八ヶ所]藤沢市公益的市民活動助成事業) 鵠沼100号
2010 平成22 8 26 〜10/12、藤沢市総合市民図書館で『鵠沼の女流作家 内藤千代子展』 現地調査
2010 平成22 9 10 旧後藤医院鵠沼分院、国登録有形文化財(建造物)に正式登録 各メディア
2010 平成22 10 1 前市長=山本捷雄(鵠沼桜が岡)、藤沢市名誉市民として顕彰 神奈川新聞
2010 平成22 10 3 藤沢市、長崎市から寄贈された「被爆クスノキ2世」の苗木を旧近藤邸前庭に植樹 神奈川新聞