鵠沼地区政治・軍事史年表 |
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西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 | 出 典 |
645 | 大化 1 | 東国に国司が派遣される | 藤沢市史年表 | ||
660 | 斉明 6 | 7 | 唐の将軍=李勣(リセキ)により高句麗の平壌城が陥落 | WEBsite | |
668 | 天智 7 | 高句麗王家後胤=背奈福徳(セナノフクトク)ら1799人の高句麗人、日本(伝、大磯付近)に亡命 | WEBsite | ||
675 | 天武 4 | 10 | 『日本書紀』に「高倉郡(高座郡)」の名、初出(相模國言、高倉郡女人生三男) | 藤沢の歴史 | |
689 | 持統 3 | 諸国に戸籍を制定(50戸=1里) | 藤沢市史年表 | ||
710 | 和銅 3 | 1 | 鈴鹿王(スズカノオオキミ ?-745 天武天皇の皇子高市親王の子=後に高座郡土甘郷の給主)、無位より従四位を賜る | 藤沢市史4巻 | |
713 | 和銅 6 | 風土記撰進の命の「郡・郷名に好字をつける」により高倉郡から高座郡になる(伝) | 神奈川県史 | ||
716 | 霊亀 1 | 朝廷、相模(大磯)・駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移す→高麗郡 | WEBsite | ||
716 | 霊亀 1 | 武蔵国高麗郡(入間郡)から1799人が高麗(高倉)氏に引率されて藤沢付近に移住※逆説も | 鵠沼1号 | ||
735 | 天平 7 | 11 | 鈴鹿王、叔父=舎人親王の葬事を監護。このころ高座郡土甘郷50戸ほどを賜る | 藤沢市史4巻 | |
735 | 天平 7 | ウ11 | 10 | 相模国司、相模国封戸租交易帳を作成し中央政府に報告。鵠沼付近を表す土甘(トカミ)郷50戸が見られる | 鵠沼1号 |
745 | 天平17 | 9 | 鈴鹿王、甍去する | 藤沢市史4巻 | |
750 | 勝宝 2 | 高麗福信(高麗より渡来した福徳の孫。聖武天皇の寵臣の一人)、高麗朝臣賜姓 | Website | ||
779 | 宝亀10 | 高麗朝臣福信、高麗を高倉に改めるよう申し出て「高倉朝臣」という氏姓を与えられる[続日本紀] | 鵠沼1号 | ||
905 | 延喜 5 | 現在の鵠沼、辻堂、大鋸、西富が合併され、相模国土甘郷となる | 鵠沼3号 | ||
1020 | 寛仁 4 | 9 | 前上総守菅原孝標の一家、相模国唐土が原(湘南砂丘地帯)を越えて帰京[更級日記] | 藤沢市史年表 | |
1057 | 天喜 5 | 11 | 八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次皇大神宮に祈願奉幣 | 列官社 | |
1085 | 応徳 2 | 平景正(鎌倉権五郎)、奥州清原氏の内乱(後三年の役)に15歳の若さで源義家に随って出陣 | WEBsite | ||
1104 | 長治 1 | 相模国の住人平景正(鎌倉権五郎)、高座郡の私領を開発、伊勢神宮に寄進を企画→大庭御厨(オオバノミクリヤ) | 鵠沼34・56号 | ||
1116 | 永久 4 | 大庭御厨、国司により正式に認められ、御厨の田畑の検注がなされる | 藤沢市史年表 | ||
1117 | 永久 5 | 10 | 23 | 平景正(鎌倉権五郎)、高座郡の私領田畑95町(約3万坪)の農地を開発、伊勢神宮に永代寄進[吾妻鏡] | 鵠沼2・3・56号 |
1118 | 元永 1 | 〜1120(元永年間)平景正の子景経、浮浪人を集め荒蕪地を開発、伊勢大神宮内宮に土地を寄進 | 鵠沼34・61号 | ||
1132 | 長承 1 | 2 | 5 | 大庭御厨司平景継、御厨が相模国司に収公されたことについて大神宮禰宜に訴える | 藤沢市史年表 |
1132 | 長承 1 | 2 | 22 | 大神宮禰宜、平景継の訴えを祭主神祇大副大中臣公長に訴え、祭主は太政官に訴える | 藤沢市史年表 |
1133 | 長承 2 | 相模の国解文(下の官司から上の官司へ上申する場合に用いられた文書)なされる[天養記] | 鵠沼2号 | ||
1134 | 長承 3 | ウ12 | 23 | 相模守藤原隆盛、太政官の命を受け大庭御厨収公の経緯を述べ、奉免の荘園であることを保証する | 藤沢市史年表 |
1140 | 保延 6 | 7 | 20 | 祭主大中臣親長、伊勢神宮禰宜からの大庭御厨収公意義の訴えを受ける | 藤沢市史年表 |
1140 | 保延 6 | 8 | 10 | 太政官、祭主大中臣親長からの大庭御厨収公意義の訴えを受ける | 藤沢市史年表 |
1140 | 保延 6 | 10 | 19 | 相模守平範家(1114-1161)、大庭御厨の訴状について太政官から子細を言上するよう命令を受ける | 藤沢市史年表 |
1141 | 保延 7 | 6 | 相模国司解案、大庭御厨成立の由来を記す[天養記] | 鵠沼62号 | |
1141 | 永治 1 | 6 | 相模守平範家、大庭御厨が奉免の領であることを太政官へ答申する | 藤沢市史年表 | |
1141 | 永治 1 | 平景正、大庭御厨の住民が逃散し田畑が荒廃することを訴える | 藤沢市史年表 | ||
1144 | 天養 1 | 9 | 8 | 源義朝、大庭御厨に乱入。伊介神社の神人8人死傷、鵠沼郷の魚・大豆・小豆等を奪取[天養記、鵠沼名の初出] | 鵠沼15・61・62号 |
1144 | 天養 1 | 9 | 10 | 伊勢神宮禰宜ら、大庭御厨神人らから義朝乱入につき訴状を得る | 鵠沼62号 |
1144 | 天養 1 | 9 | 29 | 祭主大中臣清親(1087-1157)、伊勢神宮禰宜より大庭御厨義朝乱入につき解状を得る | 藤沢市史年表 |
1144 | 天養 1 | 10 | 4 | 太政官、祭主大中臣清親より大庭御厨義朝乱入につき解状を得る | 藤沢市史年表 |
1144 | 天養 1 | 10 | 21 | 三浦一族千余騎で再度大庭御厨に乱入・御厨下司平景宗の屋敷を荒らし神人6人を殺し、農産物私財を奪取[天養記] | 鵠沼62号 |
1145 | 天養 2 | 1 | 源義朝、鎌倉より俣野川(境川)を越えて大庭御厨鵠沼郷に不法に侵入[天養記] | 鵠沼56号 | |
1145 | 天養 2 | 2 | 3 | 左弁官、伊勢大神宮司へ大庭御厨乱入事件の首謀者源義朝の乱行停止・犯人逮捕を命ずる | 鵠沼2号 |
1145 | 天養 2 | 2 | 7 | 大庭御厨第2回目の乱入事件の解状、伊勢恒吉→神宮祭主[天養記] | 鵠沼62号 |
1145 | 天養 2 | 2 | 12 | 大庭御厨第2回目の乱入事件の解状、祭主大中臣清親→太政官 | 藤沢市史年表 |
1145 | 天養 2 | 3 | 4 | 左弁官、伊勢大神宮司へ在庁官人らの乱行を停止するよう相模国司に命ずることを約束[天養記] | 鵠沼62号 |
1145 | 天養 2 | 3 | 大庭御厨の範囲、東は玉縄庄、西は神郷、北は大牧崎の95町を占める[宮宣旨] | 鵠沼62号 | |
1145 | 天養 2 | 太政官、官宣旨を下して、糾弾して処分を定め、供祭物の備進等を命ずる | 鵠沼34号 | ||
1156 | 保元 1 | 7 | 10 | 大庭(懐島)景義・景親、保元の乱の際、後白河天皇側に与した源義朝の陣に参陣する | 藤沢市史年表 |
1180 | 治承 4 | 4 | 10 | 源頼朝鎌倉に幕府を開いて以来鵠沼は幕府の直轄となる[皇国地誌] | 鵠沼15号 |
1180 | 治承 4 | 5 | 大庭景親、源頼政の挙兵に伴い、平氏の命により上京し、合戦に参加する | 藤沢市史年表 | |
1180 | 治承 4 | 8 | 2 | 大庭景親、宇治より大庭御厨に帰還 | 藤沢市史4巻 |
1180 | 治承 4 | 9 | 伊豆に旗上げした頼朝が鎌倉へ討入りのおり六本松で大庭三郎景親の軍勢と激戦を交える→六本松供養塚 | 鵠沼73号 | |
1180 | 治承 4 | 10 | 23 | 大庭庄司平景義(景能)、大庭御厨の本領を源頼朝より安堵される | 鵠沼34号 |
1180 | 治承 4 | 10 | 26 | 大庭景親父子、片瀬河原で斬首。処刑者、兄の大庭景義(景能) | 藤沢市史4巻 |
1182 | 寿永 1 | 1 | 佐々木高綱、木曽義仲追討の軍陣に加わり上洛の際に砥上原を過ぎる[源平盛衰記] | 藤沢市史4巻 | |
1193 | 建久 4 | 大庭氏失脚、大庭城一時廃城となる | 鵠沼62号 | ||
1198 | 建久 9 | 冬 | 頼朝、八的が原にて、源氏義広、義経、行家以下の人々の怨霊に遭遇[保暦間記] | 鵠沼1号 | |
1210 | 承元 4 | 4 | 9 | 大庭御厨庄司大庭景義(景能)、没 | 藤沢市史4巻 |
1213 | 建保 1 | 5 | 和田合戦で和田一族に与した大庭景兼(景義の子)没。所領大庭御厨没収 | 藤沢市史4巻 | |
1217 | 建保 5 | 伊勢神宮の権神主荒木田氏良、内宮一禰宣となる→大庭御厨は荒木田氏子孫が知行 | 鵠沼34号 | ||
1285 | 弘安 8 | 2 | 22 | 石上郷、鎌倉の法華堂領となる | 藤沢市史年表 |
1333 | 元弘 3 | 5 | 18 | 鎌倉討伐の新田義貞軍、経路の民家に放火しつつ鵠沼付近を通過[太平記] | 藤沢市史4巻 |
1335 | 建武 2 | 8 | 19 | 足利尊氏の軍勢が「辻堂・片瀬原の合戦」で、北条時行の軍を破って鎌倉に攻め込む[合戦注文記] | 鵠沼73号 |
1411 | 応永18 | 10 | 6 | 上杉禅秀の乱。上杉(犬懸)持氏・憲基、鵠沼付近を通過して小田原に敗走→敵御方供養塔[鎌倉大草紙] | 藤沢市史4巻 |
1452 | 享徳 1 | 大庭御厨の地頭がこの頃結城氏となり、上杉伊予守がこれを押領[廳宣] | 鵠沼34号 | ||
1457 | 長禄 1 | 扇谷上杉氏が大庭御厨の支配権を握り、その家臣太田道灌が大庭城を修理築城 | 藤沢市史4巻 | ||
1464 | 寛正 5 | 8 | 太田道潅、荒木田氏経郷より大庭御厨等3か所に対して、神役としての河篭米の完済を命ぜらる | 鵠沼34号 | |
1465 | 寛正 6 | 3 | 29 | 内宮一禰宜=荒木田氏経、太田道灌への書で大庭御厨の神宮支配の貫徹を依頼 | 藤沢市史4巻 |
1469 | 応仁 3 | 1 | 26 | 内宮一禰宜=荒木田氏経、太田道灌への書で大庭御厨の地方武家の横領について述べる | 藤沢市史4巻 |
1469 | 応仁 3 | (文明1)、この頃、太田道灌による大庭城築城完成か | 藤沢市史4巻 | ||
1512 | 永正 9 | 上杉朝長の大庭城、北条早雲により落城 | 鵠沼31・34号 | ||
1526 | 大永 6 | 11 | 管領上杉憲政と扇谷上杉連合軍が玉縄城・鵠沼砦を攻める | 鶴岡八幡宮年表 | |
1535 | 天文 4 | 7 | 上杉(扇谷)朝興、北条氏綱の虚をついて相模国に侵入し、鵠沼などに放火(9〜10月とも) | 藤沢市史年表 | |
1546 | 天文15 | 小田原城主北条氏綱、福島伊賀守勝広に大庭付近を与え、大庭城を守らせる | 藤沢市史4巻 | ||
1551 | 天文20 | 7 | 北条氏綱に平井城を陥された上杉憲政が越後に逃げ延びた際、家臣=関根孫六が帰農、土着→関根家の祖 | 皇国地誌 | |
1557 | 弘治 3 | 〜1564、相模東郡鵠沼や相模三浦平佐久などに187貫余の知行岩本定次、奏者を務める | Website | ||
1559 | 永禄 2 | 鵠沼村、岩本太郎左衛門定次(御馬廻役)知行地となる(他を含め187貫167文)[北条氏所領役帳] | 藤沢市史年表 | ||
1590 | 天正18 | 7 | 5 | 「太閤の小田原攻め」の結果後北条氏敗北→遺領は徳川家康支配下に入る[藤沢市史4巻] | 鵠沼15号 |
1590 | 天正18 | 〜1593(文禄2)、大橋重保、京都南禅寺住職=以心より禅僧流の書を学ぶ | 鵠沼24・37号 | ||
1594 | 文禄 3 | 高座川を相武の国界とし、境川と称す | 鵠沼62号 | ||
1596 | 慶長 1 | 藤沢宿初代支配代官=彦坂小刑部元正(代官頭) | 藤沢沿革考 | ||
1601 | 慶長 6 | 3 | 鵠沼村の幕領の一部220石が譜代旗本(1500石鉄炮頭)布施孫兵衛重次知行地となる。残りは幕領[市史研] | 鵠沼15号 | |
1601 | 慶長 6 | 彦坂代官検地。鵠沼村幕領=530石 | 有賀氏遺稿集 | ||
1601 | 慶長 6 | 6 | 彦坂代官改役、家禄没収→藤沢宿支配代官=深津八九郎 | 藤沢沿革考 | |
1603 | 慶長 8 | 藤沢宿支配代官=米倉助右衛門永時 | 藤沢沿革考 | ||
1607 | 慶長12 | 藤沢宿支配代官=依田肥前守信重 | 藤沢沿革考 | ||
1617 | 元和 3 | 3 | 17 | 大橋重保、将軍=徳川秀忠増上寺に詣でた際に訴状を捧げて言上→召し出されて旗本・右筆となる | 鵠沼24・37号 |
1617 | 元和 3 | 鵠沼村(300石)・大庭折戸村他の幕領分500石、旗本大橋長左衛門重保知行地となる[市史研] | 鵠沼15号 | ||
1617 | 元和 3 | この頃、鵠沼村に「組」制度ができる | 鵠沼79号 | ||
1617 | 元和 3 | 藤沢宿支配代官=服部惣左衛門 | 有賀氏遺稿集 | ||
1618 | 元和 4 | 大橋重政、旗本大橋長左衛門重保の長子として誕生。幼名は小三郎 | 鵠沼24・37号 | ||
1620 | 元和 6 | 大橋重為、旗本大橋長左衛門重保の二男として誕生。通称左兵衛、初め重信、また重澄と称した | 鵠沼24・37号 | ||
1627 | 寛永 4 | 大橋重政、はじめて将軍家光に目見える。10歳 | 鵠沼24・37号 | ||
1631 | 寛永 8 | 大橋長左衛門重政(重保の嫡子)、14歳で右筆を拝命 | 鵠沼37号 | ||
1633 | 寛永10 | 旗本大橋長左衛門重保、病により右筆を辞す→剃髪して龍慶と号す | 鵠沼37号 | ||
1634 | 寛永11 | 大橋重保、稟米300俵を賜り後嗣長左衛門重政に家と鵠沼の采地を譲る[市史研] | 鵠沼15・24・37号 | ||
1641 | 寛永18 | 旗本大橋長左衛門重政、挙げられて右筆となる(時に14歳)。家光の覚えがめでたかった | 鵠沼37号 | ||
1645 | 正保 2 | 2 | 4 | 大橋重保、没(宝樹院殿式部卿法印天巌龍各覺居士) 享年64。武州高田南蔵院に葬る | 有賀氏遺稿集 |
1646 | 正保 3 | 8 | 大橋重為、はじめて家光に拝謁し、西城御右筆となる。後に(1689)表御右筆の組頭に昇進 | 鵠沼37号 | |
1649 | 慶安 2 | 藤沢宿支配代官=成瀬五左衛門重治 | 有賀氏遺稿集 | ||
1652 | 承応 2 | 2 | 19 | 一色式部少輔源範勝娘、没。空乗寺大橋家墓所に埋葬 | 鵠沼寺院考 |
1656 | 明暦 2 | 12 | 大橋重政の弟重為稟米100俵加増され月俸は公収 | 鵠沼24号 | |
1657 | 明暦 3 | 7 | 大橋重政の長子=重好、はじめて将軍家綱に拝顔。18歳、幼名を重吉。新五左衛門と称す | 鵠沼24号 | |
1658 | 万治 1 | 松平(大給)忠昭、豊後高松より22,000石で豊後府内藩に入封。以後松平氏が明治まで10代続く | 鵠沼94号 | ||
1665 | 寛文 5 | 9 | 23 | 大橋重政、寺社領御朱印の労により賞を受く | 鵠沼24号 |
1665 | 寛文 5 | 大橋重政の三男重尚生まれる、幼名千之助、小左衛門または小兵衛と称した | 鵠沼24号 | ||
1667 | 寛文 7 | 大橋重好、幕府の大番となる。 | 鵠沼24・37号 | ||
1669 | 寛文 9 | 12 | 大橋重好、廩米200俵を給されたが、間もなく小普請になる。 | 鵠沼37号 | |
1672 | 寛文12 | 大橋長左衛門重政没後、家督を重好が嗣いだが、幕府の不評をかったらしい↓ | 鵠沼37号 | ||
1672 | 寛文12 | 鵠沼村の旗本大橋氏知行分が重政死亡により上知、幕領(代官成瀬五左衛門重治)となる[市史研] | 鵠沼15号 | ||
1673 | 寛文13 | 4 | 鵠沼村・大庭村間の水論。大庭村が奉行所へ返答書を提出(鵠沼新田の用水堰切開に関して) | 鵠沼62号 | |
1673 | 延宝 1 | 藤沢宿支配代官成瀬五左衛門重治、幕領鵠沼村で検地施行 | 藤沢市史5巻 | ||
1678 | 延宝 6 | 8 | 成瀬代官検地。鵠沼村=605石。うち幕領=394反?、旗本布施領=220石、寺領=9石[新編相模國風土記稿] | 有賀氏遺稿集 | |
1679 | 延宝 7 | 旗本布施孫兵衛鵠沼村600石のうち250石を賜り、残り350石は御料地となり代官支配す(代官は成瀬重治) | 鵠沼24号 | ||
1679 | 延宝 7 | 代官=成瀬重治、幕領分を検地。旗本=布施孫兵衛重次、知行地鵠沼村で検地施行[藤沢市史5巻] | 鵠沼15号 | ||
1683 | 天和 3 | 藤沢宿支配代官=国領半兵衛重次 | 藤沢市史 | ||
1686 | 貞享 3 | 3 | 旗本大橋長左衛門重好、幕府の大番に復帰(後に辞す) | 鵠沼37号 | |
1687 | 貞享 4 | 藤沢宿支配代官=西山八兵衛昌親 | 藤沢市史 | ||
1687 | 貞享 4 | 豊後府内藩、江戸上屋敷を現在の神田淡路町1丁目に構える。善神王宮(賀来神社)を分祀 | 鵠沼94号 | ||
1691 | 元禄 4 | 藤沢宿支配代官=古郡文右衛門正府 | 藤沢沿革考 | ||
1692 | 元禄 5 | 4 | 30 | 大橋左衛門重為没す。享年73。駒込西善寺に葬る | 鵠沼24・37号 |
1692 | 元禄 5 | 7 | 大橋重為の死により子重豊遺跡を継ぐ | 鵠沼24・37号 | |
1693 | 元禄 6 | 12 | 大橋重豊、右筆となる | 鵠沼24・37号 | |
1694 | 元禄 7 | 9 | 鵠沼村他43か村、藤沢宿の助郷村に確定 | 藤沢市史年表 | |
1694 | 元禄 7 | 鵠沼村=585石。うち幕領=356石、旗本布施領=220石、寺領=9石[東海道藤沢町助郷帳] | 有賀氏遺稿集 | ||
1694 | 元禄 7 | 藤沢宿支配代官=竹村総左衛門嘉躬[藤沢御殿絵図] | 藤沢市史年表 | ||
1694 | 元禄 7 | 鵠沼村=605石。うち幕領=376石、旗本布施領=220石、寺領=9石[東海道藤沢宿役高助郷] | 有賀氏遺稿集 | ||
1695 | 元禄 8 | 3 | 3 | 鵠沼新田名主=(平本)伊右衛門(眞如院日實 俗名権兵衛)、没[平本家墓標] | 有賀氏遺稿集 |
1697 | 元禄10 | 8 | 鵠沼新田名主=(平本)伊右衛門の妻(法性院日相信女)、没[妙善寺過去帳] | 有賀氏遺稿集 | |
1697 | 元禄10 | 11 | 鵠沼村等の年貢米が江の島より船積みされ、江戸へ送られる | 鵠沼15号 | |
1697 | 元禄10 | 藤沢宿支配代官=竹村惣左衛門[鶏肋温故〈1〉] | 藤沢市史料集2 | ||
1700 | 元禄13 | 藤沢宿支配代官=平岡三郎右衛門尚宣[藤沢御殿絵図] | 藤沢市史年表 | ||
1701 | 元禄14 | 藤沢宿支配代官=小長谷勘左衛門正綱※小長谷市右衛門[鶏肋温故〈1〉] | 藤沢市史 | ||
1702 | 元禄15 | 鵠沼村=614石6斗3升3合。うち幕領=385.632石、旗本布施領=220石、寺領=9石[相模国郷帳] | 藤沢市史5巻 | ||
1704 | 宝永 1 | 6 | 30 | 大橋重政33回忌にあたり、長子重好 弟重尚とはかり、空乗寺の霊前に墓碑を建て、常夜灯一対を献げる | 鵠沼24・37号 |
1704 | 宝永 1 | 10 | 鵠沼村幕府領石高=385.632石[相州鎌倉高座郡村々年貢割付帳] | 有賀氏遺稿集 | |
1706 | 宝永 3 | 1 | 鵠沼村幕領の一部、間部詮房(マナベアキフサ)の「厚木藩」一万石の所領となる[寛政重修諸家譜] | Website | |
1707 | 宝永 4 | 12 | 間部詮房、伊豆国・播磨国へ国替えとなり、相模国の支配は2年足らずに終わる | Website | |
1710 | 宝永 7 | 藤沢宿支配代官=小林又左衛門正府 | 藤沢沿革考 | ||
1714 | 正徳 4 | 藤沢宿支配代官=河原清兵衛正真 | 有賀氏遺稿集 | ||
1716 | 享保 1 | 〜36 享保年中 鵠沼村高605石 | 鵠沼24号 | ||
1718 | 享保 3 | 5 | 20 | 旗本大橋長左衛門重好、没。享年79。江戸麻布の真性寺に葬る | 鵠沼37号 |
1721 | 享保 6 | 藤沢宿支配代官=江川太郎左衛門英勝 | 藤沢市史年表 | ||
1724 | 享保 9 | 藤沢宿支配代官=松平金左衛門[我が住む里・鶏肋温故] | 有賀氏遺稿集 | ||
1725 | 享保10 | 鵠沼村村高=605石[東海道藤沢宿助郷帳] | 有賀氏遺稿集 | ||
1727 | 享保12 | 藤沢宿支配代官=日野小左衛門正晴 | 藤沢市史年表 | ||
1728 | 享保13 | 幕府鉄炮方=井上左太夫貞高、享保の改革の一環として湘南海岸に相州炮術調練場(鉄炮場)を設置[風土記稿] | 鵠沼15・62号 | ||
1730 | 享保15 | 12 | 10 | 鵠沼の浜で鉄炮の試射演習[戌年鵠沼浜御鉄炮入用帳] | 藤沢市史年表 |
1732 | 享保17 | 藤沢宿支配代官=齋藤喜六郎直房 | 有賀氏遺稿集 | ||
1733 | 享保18 | 6 | 17 | 〜7/6、鵠沼村他に逗留し鉄炮の試射演習[御鉄炮御用宿賄帳扣] | 藤沢市史2巻 |
1734 | 享保19 | 鵠沼村他に逗留し鉄炮の試射演習[御鉄炮御用宿賄帳扣] | 藤沢市史2巻 | ||
1735 | 享保20 | 7 | 幕府、鵠沼海岸大筒鉄炮稽古人足差し出しについての触書を通達 | 藤沢市史年表 | |
1735 | 享保20 | 12 | 鵠沼村、代官分=380石(名主:六左衛門)・布施孫兵衛分(表壱番町)=220石(名主:三左衛門)[相模国改帳] | 藤沢市史2巻 | |
1736 | 元文 1 | 鵠沼村他に逗留し鉄砲の試射演習[御鉄炮御用宿賄帳扣] | 藤沢市史2巻 | ||
1737 | 元文 2 | 12 | 11 | 〜以後3年間、各村、鉄炮場の宿賄帳を作成[御鉄炮御用宿賄帳扣] | 藤沢市史2巻 |
1738 | 元文 3 | 10 | 18 | 幕府が、役職として大筒役を新設 | Wikipedia |
1738 | 元文 3 | 11 | 23 | 大橋小兵衛重尚、没。享年74。江戸鮫橋常深寺に葬る。以後同家菩提寺とする | 鵠沼24・37号 |
1742 | 寛保 2 | 1 | 2 | 新田名主=(平本)「遥照院英コ居士」、没[妙典寺過去帳] | 有賀氏遺稿集 |
1748 | 寛延 1 | この年まで鉄炮場の訓練は毎年行われた(1750年からは隔年) | Website | ||
1749 | 寛延 2 | 藤沢宿支配代官=戸田忠兵衛正方 | 有賀氏遺稿集 | ||
1749 | 寛延 2 | 藤沢宿支配代官=辻六郎左衛門富安 | 有賀氏遺稿集 | ||
1750 | 寛延 3 | この年から1774年までの24年間は鉄炮場の訓練は隔年に行われた | Website | ||
1751 | 宝暦 1 | 藤沢宿支配代官=岩出伊左衛門信之 | 有賀氏遺稿集 | ||
1755 | 宝暦 5 | 10 | 鵠沼村名主・金主、朝鮮人琉球人来朝諸役金の不正納入 | 藤沢市史年表 | |
1756 | 宝暦 6 | 藤沢宿支配代官=志村多宮師智 | 藤沢市史年表 | ||
1756 | 宝暦 6 | 代官=志村多宮、鵠沼村に新田検地施行 | 藤沢市史年表 | ||
1757 | 宝暦 7 | 6 | 30 | 新田名主=(平本)「善性院宗悦日眞」(俗名五良兵衛)、没[平本家墓標] | 有賀氏遺稿集 |
1759 | 宝暦 9 | 藤沢宿支配代官=伊奈半左衛門忠宥 | 藤沢市史年表 | ||
1768 | 明和 5 | 藤沢宿支配代官=池田喜八郎季庸 | 有賀氏遺稿集 | ||
1769 | 明和 6 | 3 | 鵠沼村石上において土地出入 | 藤沢市史年表 | |
1769 | 明和 6 | 3 | 鵠沼村において宗門人別帳作成[市史]※市域宗門人別帳の初見 | 鵠沼15号 | |
1769 | 明和 6 | 藤沢宿支配代官=久保田十左衛門政邦 | 有賀氏遺稿集 | ||
1770 | 明和 7 | 鵠沼村村高=605石[東海道宿場仕出帳] | 有賀氏遺稿集 | ||
1771 | 明和 8 | 藤沢宿支配代官=江川太郎左衛門英征(ひでゆき) | 藤沢市史年表 | ||
1771 | 明和 8 | 江川太郎左衛門英征ノ経歴ト支配国郡村名高帳、「高 弐千三百六拾石九斗七升八合 高座郡」と記す | WEBsite | ||
1771 | 明和 8 | 藤沢宿助郷村々、助郷軽減願を提出 | 藤沢市史年表 | ||
1786 | 天明 6 | 3 | 24 | 藤沢宿助郷49か村、助郷役正人馬差出の免除及び前年の上納金返済を代官所へ願書提出 | 藤沢市史年表 |
1786 | 天明 6 | 11 | 11 | 境川氾濫により、勘定所役人・普請役人が初見聞を実施 | 藤沢市史年表 |
1791 | 寛政 3 | 藤沢宿支配代官=江川太郎左衛門英征、没。享年48。翌年、子=江川太郎左衛門英毅が嗣ぐ[青木美智男] | 有賀氏遺稿集 | ||
1791 | 寛政 3 | 藤沢宿支配代官=小笠原仁右衛門 | 有賀氏遺稿集 | ||
1791 | 寛政 3 | 藤沢宿支配代官=野田文蔵 | 有賀氏遺稿集 | ||
1792 | 寛政 4 | 1 | 〜4月、幕領藤沢宿代官=小笠原仁右衛門 | 藤沢市史料集2 | |
1792 | 寛政 4 | 6 | 藤沢宿支配代官=大貫次右衛門光豊 | 藤沢市史年表 | |
1800 | 寛政12 | 藤沢宿と鵠沼村との間に村境の松木伐採を巡り争論 | 藤沢市史年表 | ||
1801 | 享和 1 | ウ4 | 22 | 伊能忠敬とその一行六人の測量隊、鵠沼村から柳島村までの海岸線を測量 | WEBsite |
1801 | 享和 1 | 幕府、『新編相模國風土記稿』を編纂 | 有賀氏遺稿集 | ||
1802 | 享和 2 | 8 | 鵠沼村と大庭・稲荷・折戸・羽鳥村との間に鉄炮場御用宿賄い金滞納を巡り論争[為取替証文之事] | 藤沢市史年表 | |
1806 | 文化 3 | 1 | 鵠沼村(組頭:元右衛門)はじめ御宿組合村々、鉄炮場負担軽減を嘆願 | 藤沢市史2巻 | |
1806 | 文化 3 | 鵠沼等5か村と三浦郡の4か村、鉄炮稽古役人宿入用高割納入願を代官所に提出 | 藤沢市史年表 | ||
1812 | 文化 9 | 11 | 羽鳥村、「片瀬浦鵠沼藤ヶ谷ニ而次右衛門船渡シ御年貢米津出覚帳」を作成 | 藤沢市史年表 | |
1823 | 文政 6 | 藤沢宿支配代官=大貫鎌次郎 | 有賀氏遺稿集 | ||
1823 | 文政 6 | 11 | 藤沢宿支配代官=当分御預所 | 藤沢市史料集2 | |
1824 | 文政 7 | 鵠沼村=665石2斗6升2合。うち幕領=394.262石、旗本布施領=265石、寺領=9石[江川代官支配] | 有賀氏遺稿集 | ||
1824 | 文政 7 | 藤沢宿支配代官=中村八太夫 | 有賀氏遺稿集 | ||
1827 | 文政10 | 鵠沼村高=677石 4斗 8升 9合[組合村高書付] | 鵠沼24号 | ||
1830 | 天保 1 | ウ3 | 大筒鉄炮方の宿、鵠沼村より羽鳥・大庭の両村に変更 | 藤沢市史年表 | |
1831 | 天保 2 | 藤沢宿支配代官=江川太郎左衛門英龍 | 藤沢市史年表 | ||
1834 | 天保 5 | 10 | 藤沢宿・鵠沼村名主、浅草御廻籾の件で周辺幕領名主へ相談通知を出す | 藤沢市史年表 | |
1834 | 天保 5 | 12 | 藤沢宿問屋と定助郷組22か村、人馬賃銭の授受・人馬の割付を巡り争論 | 藤沢市史年表 | |
1834 | 天保 5 | 鵠沼村の村高=700.99325石。戸数=250戸[相模国郷帳] | 藤沢市史5巻 | ||
1834 | 天保 5 | 幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英毅、没。享年65。翌年、子=江川太郎左衛門英龍が嗣ぐ[青木美智男] | 有賀氏遺稿集 | ||
1835 | 天保 6 | 12 | 幕府評定所、鉄砲場内諸村の試作田を未公認のまま開発耕作させた大筒役佐々木卯之助一家を青ヶ島遠島 | 茅ヶ崎市史四 | |
1838 | 天保 9 | 江戸幕府が、調練場内の田畑の休耕を命じる | Wikipedia | ||
1842 | 天保13 | 新編相模風土記稿刊行。鵠沼村久久比奴末牟良とある | 鵠沼12号 | ||
1843 | 天保14 | 鵠沼村の村高=670.62835石[領主制知行高書上帳] | 有賀氏遺稿集 | ||
1850 | 嘉永 3 | 片瀬、鵠沼、辻堂村に鉄炮場が増設[市史] | 鵠沼15号 | ||
1853 | 嘉永 6 | 江川太郎左衛門英龍、若年寄本多越中守に従い関東南部の海岸を巡視。鵠沼村より見廻役2名選抜 | 鵠沼82号 | ||
1853 | 嘉永 6 | 上記見廻役の一人=齋藤六左衛門、名字帯刀を許される | 有賀氏遺稿集 | ||
1855 | 安政 2 | 8 | 13 | 柏尾川組合惣代役人、鵠沼村等14か村名主へ、柏尾川苅払・浚方出役御見分の通知 | 藤沢市史年表 |
1855 | 安政 2 | 藤沢宿支配代官=江川太郎左衛門英龍、没。享年55。子=江川太郎左衛門英敏が嗣ぐ | 有賀氏遺稿集 | ||
1855 | 安政 2 | 鵠沼村幕領=412.189石、旗本布施領=266.351石[藤沢宿寄場組合村高家数表] | 有賀氏遺稿集 | ||
1858 | 安政 5 | 鵠沼村、細川越中守(熊本藩)預り地となる[皇国地誌] | 鵠沼15・62号 | ||
1859 | 安政 6 | 2 | 鵠沼村、幕領(代官所管)に復する[皇国地誌] | 鵠沼15号 | |
1859 | 安政 6 | 横浜開港、藤沢の村々は外国人遊歩区域内となる | Website | ||
1860 | 万延 1 | 10 | 6 | 〜10/8、鉄炮場検見[御検見諸用帳] | 藤沢市史2巻 |
1862 | 文久 2 | 藤沢宿支配代官=江川太郎左衛門英敏、没。享年24。弟=江川太郎左衛門英武が嗣ぐ | 有賀氏遺稿集 | ||
1864 | 元治 1 | 6 | 21 | 松家34代=松良夫、33代=祐重の長男として誕生 | 現代の藤澤 |
1864 | 元治 1 | 9 | 28 | 鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳] | 藤沢市史2巻 |
1865 | 元治 2 | 3 | 藤沢宿周辺の村々、農兵相続仕法講を組織。鵠沼村、名主=2名、組頭百姓代=2名、百姓=2名 | 藤沢市史5巻 | |
1865 | 慶応 1 | 10 | 8 | 鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳] | 藤沢市史2巻 |
1866 | 慶応 2 | 10 | 25 | 鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳] | 藤沢市史2巻 |
1867 | 慶応 3 | 大給家10代=松平近説(チカヨシ、桑名藩主松平貞永の七男→養子)、寺社奉行から若年寄に昇格 | 鵠沼12号 | ||
1868 | 慶応 4 | 2 | 6 | 松平近説、願って若年寄を免ぜられ、京都へ上り、「大給」に復する旨を京都の弁事御伝達所に届け出る | 鵠沼12号 |
1868 | 慶応 4 | 3 | 上 | 官軍東征軍、藤沢宿を通過 | 藤沢市史5巻 |
1868 | 慶応 4 | 10 | 10 | 東幸の明治天皇、藤沢行在所(遊行寺)に止宿 | 藤沢市史6巻 |
1868 | 慶応 4 | 鵠沼村村高=756石4斗7升7合5勺[旧高旧領調帳] | 有賀氏遺稿集 | ||
1868 | 慶応 4 | 鵠沼村=733.371石。うち幕領=430.658石、旗本布施領=293.331石、寺領=9.352石[代官/布施/空乗寺] | 有賀氏遺稿集 | ||
1868 | 明治 1 | 6 | 29 | 高座郡諸村、韮山県の管轄下におかれる(県知事:江川太郎左衛門英武)[市史6巻] | 鵠沼15号 |
1868 | 明治 1 | 6 | 鵠沼村、村高=756.4石、うち江川の支配高=453.8石(59.9%)[旧高旧領取調帳] | 藤沢市史6巻 | |
1868 | 明治 1 | 7 | 相模国県知事江川太郎左衛門とあり[御用留] | 藤沢市史6巻 | |
1868 | 明治 1 | 8 | 高座郡諸村、韮山県の管轄下におかれる(県知事:江川太郎左衛門英武)[皇国地誌](6月説も) | 鵠沼15号 | |
1868 | 明治 1 | 9 | 21 | 神奈川府を神奈川県と改称(県知事:井関盛艮)。韮山県の管轄下の高座郡諸村、神奈川県管轄下におかれる | 鵠沼15号 |
1868 | 明治 1 | 相州炮術調練場が廃止される | Wikipedia | ||
1868 | 明治 1 | 鉄砲場内諸村の試作田を未公認のまま開発耕作させ、青ヶ島遠島になった大筒役佐々木卯之助、赦免 | 茅ヶ崎市史四 | ||
1869 | 明治 2 | 2 | 5 | 神奈川府を神奈川県と改称。韮山県の管轄下の高座郡諸村、神奈川県管轄下におかれる[市史6巻] | 鵠沼15号 |
1869 | 明治 2 | 6 | 17 | 諸藩主版籍奉還[郡史] | 鵠沼15号 |
1869 | 明治 2 | 9 | 鵠沼村、組頭=(山上)八左衛門/百姓代=権左衛門/百姓惣代=10名[三番御用留]、 | 有賀氏遺稿集 | |
1869 | 明治 2 | 9 | 鵠沼村、年番名主=小林三左衛門/年寄=齋藤六左衛門・山上八左衛門/組頭=関根庄左衛門[明治5年資料] | 有賀氏遺稿集 | |
1869 | 明治 2 | 鵠沼村幕領=453.7745石、旗本布施領=293.331石、寺領=9.352石[藩知事大久保忠長] | 有賀氏遺稿集 | ||
1870 | 明治 3 | 鵠沼村戸口資料発表[末広・石井・湯山『明治初期の鵠沼村の史料について』(『窓』27号)] | 有賀氏遺稿集 | ||
1870 | 明治 3 | 鵠沼村、年番名主=六左衛門/年寄=八左衛門・三左衛門/組頭=庄左衛門 | 有賀氏遺稿集 | ||
1871 | 明治 4 | 4 | 4 | 戸籍法公布(翌年施行されたため、「壬申戸籍」と呼ばれる) | 鵠沼77号 |
1871 | 明治 4 | 7 | 14 | 廃藩置県→府内藩は府内県となり大給近説は藩知事を免ぜられて東京に移り、子爵として華族に列す | 鵠沼12・15号 |
1871 | 明治 4 | 12 | 東海道各宿の助郷廃止 | 藤沢市史年表 | |
1872 | 明治 5 | 4 | 9 | 圧屋・名主・年寄などの称を廃して戸長・副戸長をおく[郡史] | 鵠沼15号 |
1873 | 明治 6 | 1 | 徴兵令発布 | 有賀氏遺稿集 | |
1873 | 明治 6 | 5 | 1 | 区・番組制施行、鵠沼村は第17大区・第2小区となる。小字・番地の制定 | 鵠沼15・74号 |
1873 | 明治 6 | 5 | 13 | 大江県令「管内区画」により、鵠沼村は第18区2番組。戸長三觜八郎右衛門、番組扱所を大庭村におく | 鵠沼15号 |
1873 | 明治 6 | 5 | 関根伝左衛門、第2小区の副戸長、齋藤六左衛門、鵠沼村用掛に就任。 | 藤沢市史年表 | |
1873 | 明治 6 | 7 | 28 | 地租改正条例、布告(私的土地所有権を前提にした定額金納地租3%が課せられる) | 藤沢市史6巻 |
1874 | 明治 7 | 7 | 6 | 区番組制を改め大小区制を実施する。鵠沼村は第18大区第2小区。区長、戸長等は区番組制下と同一人 | 鵠沼15号 |
1875 | 明治 8 | 6 | 5 | 太政官の皇国地誌編輯例則に基づく「皇国地誌村誌相模国高座郡鵠沼村」刊行 | 鵠沼73号 |
1876 | 明治 9 | 1 | 1 | 鵠沼村戸数297、神社7、寺4、学校1、人口総数1922人、平民男974、平民女948[皇国地誌] | 鵠沼15号 |
1876 | 明治 9 | 第二次大廃合。足柄県と神奈川県が合併し神奈川県となる | 有賀氏遺稿集 | ||
1876 | 明治 9 | すべての土地所有者に地券が渡される(「壬申地券」と呼ばれるが、壬申は1872(明治5)年) | 鵠沼74号 | ||
1878 | 明治11 | 7 | 22 | 郡区町村編成法の公布→大小区政廃止、神奈川県は1区15郡となり、郡に郡長、町村に公選の戸長をおく | 鵠沼15号 |
1878 | 明治11 | 11 | 18 | 郡区町村編成法により鵠沼村は高座郡に所属 | 藤沢市史年表 |
1878 | 明治11 | 12 | 神奈川県、大小区制廃止→鵠沼村となる | 有賀氏遺稿集 | |
1879 | 明治12 | 2 | 1 | 鵠沼村の人家は字引地、車田、上村、宮ノ前、宿庭、清水、苅田、原、堀川、納屋、中東、大東、新田、石上の14ケ所 | 鵠沼15号 |
1879 | 明治12 | 2 | 鵠沼村、戸数=302戸、人口=1,922人、男974、女948[皇国地誌村誌]※3年前と比べて人口が全く同数 | 藤沢市史5巻 | |
1879 | 明治12 | 11 | 鵠沼村、戸長=関根伝右衛門、筆生=関根庄左衛門[神奈川県郡区職員録] | 藤沢市史3巻 | |
1879 | 明治12 | 12 | 関根伝左衛門、首塚を発掘し、二人分の遺骨発見。首塚の碑、鵠沼神明 3-3-17 宮ノ前公民館前に造立 | 鵠沼15・30・80号 | |
1880 | 明治13 | 11 | 7 | 第1回神奈川連合会(議会)開催。鵠沼村議員=齋藤六左衛門 | 藤沢市史6巻 |
1880 | 明治13 | 鵠沼村、村長(戸長改め)=関根庄左衛門(引地)/助役(筆生改め)=齋藤弥五右衛門(苅田) | 有賀氏遺稿集 | ||
1881 | 明治14 | 11 | 7 | 高座郡各町村連合会開催。鵠沼村議員=斎藤六左衛門[会議日誌] | 藤沢市史6巻 |
1884 | 明治17 | 5 | 7 | 郡区町村編成法の改正→戸長の公選→官選。鵠沼村は羽鳥、大庭、稲荷、辻堂連合、戸長三觜小三郎任命 | 鵠沼15号 |
1884 | 明治17 | 神奈川県令=野村靖、ベルツに居住地の選定を依頼。1.鵠沼 2.酒匂 3.小田原の回答を得、小田原に決定 | 海岸開発史 | ||
1886 | 明治19 | 大給近説、没 | 鵠沼94号 | ||
1889 | 明治22 | 4 | 1 | 市制町村制施行、鵠沼村は連合組織から分れ1村で独立、役場を字中井におく[郡史] | 鵠沼15号 |
1889 | 明治22 | 8 | 1 | 鵠沼村、村長=関根庄左衛門、助役=松祐重、収入役=山口房次郎[神奈川県市町村職員録] | 鵠沼3号 |
1896 | 明治29 | 鵠沼村の役場費279円68銭、教育費498円20銭 | 藤沢市史年表 | ||
1897 | 明治30 | 2 | 松良夫、鵠沼村村長に就任[現在の藤澤] | 鵠沼15号 | |
1897 | 明治30 | 鵠沼村、戸数=330戸、人口=2,540人、男1,285、女1,255[神奈川県統計書] | 藤沢市史3巻 | ||
1902 | 明治35 | 鵠沼村、戸数=370戸、人口=2,830人、男1,401、女1,429[神奈川県統計書] | 藤沢市史3巻 | ||
1905 | 明治38 | 普門寺に日露戦役戦死戦病没者英魂供養碑造立(総高240cm) | Website | ||
1907 | 明治40 | 鵠沼村、戸数=355戸、人口=2,696人、男1,318、女1,378[神奈川県統計書] | 藤沢市史3巻 | ||
1908 | 明治41 | 4 | 1 | 高座郡藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併、藤沢町となる。合併人口15043人。 | 鵠沼15号 |
1908 | 明治41 | 4 | 8 | 藤沢町、等級選挙を実施、1・2級議員合計各12名を選出 | 藤沢市史年表 |
1908 | 明治41 | 6 | 8 | 藤沢町会議員選挙 | 藤沢市史年表 |
1908 | 明治41 | 6 | 14 | 第1回藤沢町会招集、町会会議細則可決、初代町長に松良夫(鵠沼)選出 | 鵠沼15号 |
1921 | 大正10 | 11 | 18 | 鵠沼海岸で海軍陸戦隊の上陸演習挙行。皇太子(後の昭和天皇)が総監 | 戦争・軍隊・外地 |
1922 | 大正11 | 3 | 31 | 郡制廃止される[市史] | 鵠沼15号 |
1922 | 大正11 | 6 | 藤沢町会議員第4期改選。高瀬彌一当選[現在の藤澤] | 鵠沼89号 | |
1923 | 大正12 | 9 | 1 | 東久邇宮第二王子師正王、吉村家別荘で圧死→松岡静雄は遺体を引取りに軍艦を鵠沼沖に廻航させる | 鵠沼5号 |
1923 | 大正12 | 9 | 藤沢町議会、大震災復興のため善後策委員会を設置。委員名の筆頭に高瀬彌一の名がある[現在の藤澤] | 鵠沼89号 | |
1925 | 大正14 | 8 | 16 | 初代町長松良夫の妻廣子没、享年60[現在の藤澤] | 現在の藤澤 |
1926 | 大正15 | 6 | 藤沢町会議員第5期改選。高瀬彌一再選[現在の藤澤] | 鵠沼89号 | |
1928 | 昭和 3 | 6 | 10 | 上郎新二(政友会)、県会議員に当選。金子角之助、町長を辞職して応援 | 鵠沼89号 |
1928 | 昭和 3 | 9 | この頃、町長選挙問題の政争から鵠沼独立論が出る[横浜貿易新報] | 20世紀藤沢 | |
1928 | 昭和 3 | 11 | 26 | 3代藤沢町長に湯原直平就任[現在の藤澤] | 鵠沼15号 |
1929 | 昭和 4 | 7 | 5 | 〜1931.12.27、山県治郎、神奈川県知事に任命→湘南海岸の国際観光地化を推進 | Wikipedia |
1929 | 昭和 4 | 12 | 高瀬彌一、藤沢町会議員第6期改選に出馬せず。議員引退[現在の藤澤] | 鵠沼89号 | |
1930 | 昭和 5 | 2 | 13 | 4代藤沢町長に隈川基就任[現在の藤澤] | 鵠沼15号 |
1930 | 昭和 5 | 10 | 1 | 鵠沼地区の世帯数=1,221、人口=5,992[藤沢町報] | 藤沢市史6巻 |
1930 | 昭和 5 | 12 | 藤沢町より鵠沼の分離運動起こる | 藤沢市史年表 | |
1930 | 昭和 5 | 外交官=広田弘毅(1878-1948)、現鵠沼松が岡1-18-9に別荘を構える(本人はソ連大使着任) | 鵠沼83号 | ||
1931 | 昭和 6 | 2 | 葉山又三郎、破防法容疑で特高に逮捕され、拷問を受ける | 湘南新聞 | |
1931 | 昭和 6 | 10 | 3 | 一木與十郎、5代町長に就任 | 鵠沼15・80号 |
1932 | 昭和 7 | ソ連大使=広田弘毅(1878-1948)、5・15事件の後始末のため帰国。現鵠沼松が岡1-18-9の別荘に居住 | 鵠沼83号 | ||
1933 | 昭和 8 | 4 | 1 | 川口村が町制を施行し、片瀬町と改称 | 震災戦後復興期 |
1933 | 昭和 8 | 5 | 1 | 葉山 峻、誕生 | 鵠沼75号 |
1933 | 昭和 8 | 9 | 外交官=広田弘毅、外相に就任。鵠沼を離れ、原宿に転居 | 鵠沼83号 | |
1934 | 昭和 9 | 2 | 26 | 藤沢が都市計画法の適用をうける | 震災戦後復興期 |
1934 | 昭和 9 | 3 | 一木與十郎、町長を辞任 | 鵠沼80号 | |
1934 | 昭和 9 | 5 | 8 | 6代藤沢町長に大野守衛就任[市史] | 鵠沼15号 |
1935 | 昭和10 | 10 | 1 | 鵠沼地区の世帯数=1,606、人口=7,879[藤沢町報] | 藤沢市史6巻 |
1935 | 昭和10 | 11 | 8 | 鵠沼海岸で横須賀鎮守府所属の海軍陸戦隊が上陸演習を挙行 | 藤沢市史年表 |
1935 | 昭和10 | 12 | 5 | 藤沢町選挙粛正委員選出。鵠沼地区からは7名[選挙粛正委員に関する文書] | 藤沢市史3巻 |
1936 | 昭和11 | 3 | 広田弘毅、2・26事件の後を受けて首相に就任(1937年2月まで) | 鵠沼30号 | |
1936 | 昭和11 | 4 | 広田弘毅の首相就任を受け、別荘に18坪の警備建物を設置[横浜貿易新報] | 20世紀藤沢 | |
1939 | 昭和14 | 12 | 31 | 鵠沼地区、戸数=2,017戸、人口=9,096人、選挙人=1,490人[愛市同盟書類] | 藤沢市史3巻 |
1940 | 昭和15 | 3 | 7 | 町勢振興委員会、三町村合併と同時に市制実現の方針を決定、新市名は「藤沢市」 | 震災戦後復興期 |
1940 | 昭和15 | 7 | 5 | 町勢振興委員会、単独市制施行の方針を決定 | 震災戦後復興期 |
1940 | 昭和15 | 10 | 1 | 藤沢市制施行藤沢市になる。戸数6,357戸、人□32,479人。初代市長に大野守衛就任[市史] | 鵠沼15・80号 |
1940 | 昭和15 | 元藤沢町長一木與十郎、没 | 鵠沼80号 | ||
1941 | 昭和16 | 2 | 藤沢市町内会設置要綱」・「藤沢市常会設置規程」制定。町内会・隣組の整備を進める | 藤沢市史6巻 | |
1941 | 昭和16 | 6 | 1 | 鎌倉郡村岡村、藤沢市に合併。鵠沼地区に一部隣接 | 藤沢市史年表 |
1941 | 昭和16 | 7 | 1 | 大政翼賛会藤沢支部結成(支部長は大野市長) | 震災戦後復興期 |
1942 | 昭和17 | 4 | 18 | 米軍空母ホーネット搭載の「B-25」16機、日本本土初空襲。鵠沼上空を通過 | 目撃談 |
1945 | 昭和20 | 2 | 16 | 湘南地区に米軍機273機来襲→空襲の日常化 | 神奈川県記録 |
1945 | 昭和20 | 2 | 17 | 湘南地区に米軍機320機来襲 | 鵠沼15号 |
1945 | 昭和20 | 4 | 2 | B29が60機来襲、一部が辻堂地区上空に入る | 神奈川県記録 |
1945 | 昭和20 | 4 | 15 | 川崎空襲帰りの米軍B-29重爆撃機(#42-94034)、江の島沖に墜落。乗員4名、本鵠沼駅付近に落下傘降下→拘束 | WEBsite |
1945 | 昭和20 | 5 | 17 | B-29、1機、P-51、40機が来襲 | 震災戦後復興期 |
1945 | 昭和20 | 5 | 24 | 夜半に、川崎・横浜来襲のB-29編隊の一部、藤沢署管内に焼夷弾360発投下、36戸が全焼、99人が罹災する | 震災戦後復興期 |
1945 | 昭和20 | 5 | 25 | 元首相=広田弘毅(1878-1948)、東京大空襲のため原宿で罹災→現鵠沼松が岡1-18-9の別荘に一時避難 | 鵠沼83号 |
1945 | 昭和20 | 5 | 29 | 横浜大空襲。余波は藤沢に及ぶ | 神奈川県記録 |
1945 | 昭和20 | 7 | 1 | 陸軍護東部隊が藤沢地域各地区に駐屯を開始 | 昭和の日年表 |
1945 | 昭和20 | 7 | 30 | 県南部中心に艦載機315機による最も激しい空襲 | 相模湾上陸作戦 |
1945 | 昭和20 | 8 | 13 | 県下最後の艦載機200機による広範な空襲 | 相模湾上陸作戦 |
1945 | 昭和20 | 8 | 20 | 元首相=広田弘毅、現鵠沼松が岡1-18-9を離れ、練馬の知人安部十二造氏宅に移住 | 鵠沼83号 |
1945 | 昭和20 | 12 | 2 | 元首相=広田弘毅、戦争犯罪人として収監 | 鵠沼83号 |
1946 | 昭和21 | 2 | 15 | 米軍、鵠沼付近の空中写真を撮影(日本地図センターで入手可) | 鵠沼83号 |
1946 | 昭和21 | 5 | 17 | 元首相=広田弘毅の家族、東京裁判傍聴後、鵠沼松が岡1-18-9の別荘に戻り、翌朝静子夫人が自ら命を絶つ | 鵠沼83号 |
1946 | 昭和21 | 6 | 14 | 飛島 繁、3代藤沢市長に就任[市史] | 鵠沼15号 |
1946 | 昭和21 | 8 | 鵠沼海岸・鵠沼松が岡の別荘が進駐軍に接収される | 鵠沼87号 | |
1946 | 昭和21 | 評論家・小説家=鹿地 亘(1903-1982)、中国より帰国し、鵠沼6083の知人宅で結核療養 | WEBsite | ||
1946 | 昭和21 | 長谷川巳之吉、戦争中に、ヒトラーの『我が闘争』を刊行したなどの理由で公職追放 | 第一書房 | ||
1947 | 昭和22 | 3 | 19 | 鎌倉郡片瀬町を藤沢市に合併すること、県告示 | 藤沢市史6巻 |
1947 | 昭和22 | 4 | 1 | 鎌倉郡片瀬町、藤沢市に編入合併。鵠沼地区と境を接する。鵠洋国民学校で片瀬町合併祝賀式 | 藤沢市史年表 |
1947 | 昭和22 | 4 | 1 | 町内会廃止 | 百年の歴史 |
1947 | 昭和22 | 4 | 30 | 地方選挙。藤沢市議選で鵠沼地区から共産党の葉山・大和田2名が当選(全国で唯一) | 百年の歴史 |
1947 | 昭和22 | 4 | 元外交官=杉原千畝(1900-1986)・幸子(歌人)夫妻、鵠沼松が岡3-5-3に居住 | 命のビザ | |
1947 | 昭和22 | 5 | 3 | GHQ、政令15号を発令し、町内会・部落会の全面的解散を命令 | 藤沢市史6巻 |
1947 | 昭和22 | 5 | 片山 哲、首相に選出 | 鵠沼30号 | |
1947 | 昭和22 | 11 | 元外交官=杉原千畝(1900-1986)・幸子(歌人)夫妻、鵠沼松が岡1-2-3に移住 | 命のビザ | |
1948 | 昭和23 | 2 | 23 | 飛島市長、木材払い下げ問題で引責辞任 | 藤沢市史6巻 |
1948 | 昭和23 | 12 | 23 | 元首相=広田弘毅(1878-1948)、東京裁判の結果、A級戦犯として文官としてはただ一人絞首刑 | 鵠沼83号 |
1949 | 昭和24 | 3 | 26 | 松嶋喜作(民自)、戦後第2代参議院副議長に就任※証券業 | WEBsite |
1950 | 昭和25 | 5 | 2 | 松嶋喜作(民自)、参議院副議長を離任 | WEBsite |
1951 | 昭和26 | 11 | 25 | 鵠沼6063の知人宅で病気療養中の鹿地 亘、江ノ電鵠沼駅付近を散歩中に米謀略機関に拉致=鹿地事件 | 藤沢市史年表 |
1952 | 昭和27 | 1 | 20 | 秩父宮雍仁親王(1902-1953)、御殿場別邸より鵠沼桜が岡4-1-22の別邸に移居 | 鵠沼58号 |
1953 | 昭和28 | 1 | 4 | 秩父宮雍仁親王、鵠沼の別邸で薨去[市史] | 鵠沼15・58号 |
1953 | 昭和28 | 菊本別荘の進駐軍接収が解除される | 鵠沼87号 | ||
1954 | 昭和29 | 6 | 26 | 元外交官=森島守人、社会党(左派)に入党 | WEBsite |
1954 | 昭和29 | 渡辺邸、米軍からの接収解除 | 鵠沼78・80号 | ||
1958 | 昭和33 | 元外交官=森島守人(1906-1975)、鵠沼松が岡4丁目に居住 | 藤沢文学展図録 | ||
1959 | 昭和34 | 3 | 5 | 藤沢市とマイアミビーチ市の姉妹都市提携 | 江の島海水浴場 |
1959 | 昭和34 | 6 | 25 | 辻堂演習地の米軍接収解除 | 白砂青松 |
1960 | 昭和35 | 10 | 20 | 在日朝鮮人総?合会藤沢支部、奥田公園に朝鮮人帰国記念植樹。記念碑、造立 | 現地調査 |
1964 | 昭和39 | 8 | 1 | 鵠沼の一部(鵠沼松が岡1〜5丁目・鵠沼海岸1〜4丁目)で新住居表示を実施 | 鵠沼15号 |
1965 | 昭和40 | 1 | 1 | 鵠沼の一部(鵠沼藤が谷1〜4丁目・鵠沼桜が岡1〜4丁目)で新住居表示を実施。片瀬地区との境界線変更 | 藤沢市史年表 |
1965 | 昭和40 | 10 | 1 | 鵠沼の一部(鵠沼神明1〜5丁目・本鵠沼1〜5丁目・鵠沼海岸5〜7丁目)で新住居表示を実施 | 鵠沼15・62号 |
1967 | 昭和42 | 6 | 1 | 神奈川県合同庁舎(鵠沼石上2-7-1)、落成 | 藤沢市史年表 |
1968 | 昭和43 | 4 | 中 | 横須賀線爆破テロ事件(6/16)犯人=若松善紀、鵠沼ニューマンション建設工事現場で爆発物を製造 | WEBsite |
1969 | 昭和44 | 10 | 1 | 片山 哲を名誉市民に決定 | 藤沢市史年表 |
1970 | 昭和45 | 8 | 10 | 藤沢市、市の木「クロマツ」、市の花「フジ」に決定[市史] | 鵠沼15号 |
1972 | 昭和47 | 2 | 20 | 葉山 峻(鵠沼)、市長選挙に初当選、第10代藤沢市長となる | 鵠沼15号 |
1972 | 昭和47 | 5 | 名誉市民 片山 哲 先生像、鵠沼 2121 藤沢市中央図書館前に造立(彫刻:菅沼五郎) | 鵠沼15・30号 | |
1973 | 昭和48 | 法律家=田中二郎(1906-1982)、鵠沼松が岡に居住 | 藤沢人物展 | ||
1973 | 昭和48 | この年度で江ノ電鵠沼駅前の鵠沼交番、廃止 | WEBsite | ||
1975 | 昭和50 | 元外交官・代議士=森島守人(1906-1975)、鵠沼松が岡4丁目にて没 | 藤沢文学年表 | ||
1976 | 昭和51 | 2 | 26 | 葉山 峻、第11代藤沢市長に再選 | 鵠沼15号 |
1977 | 昭和52 | 元外交官=杉原千畝、鵠沼松が岡から鎌倉市西鎌倉に転居 | Wikipedia | ||
1980 | 昭和55 | 2 | 葉山 峻、第12代藤沢市長に就任 | 市史年表稿 | |
1981 | 昭和56 | 11 | 5 | 藤沢市、聶耳の故郷中国雲南省昆明市と友好都市提携 | 百年の歴史 |
1982 | 昭和57 | 1 | 16 | 法律家=田中二郎(1906-1982)、鵠沼松が岡にて没 | 藤沢人物展 |
1982 | 昭和57 | 8 | 29 | 鵠沼の一部(鵠沼東・鵠沼石上1〜3丁目・鵠沼花沢町・鵠沼橘1〜2丁目)で新住居表示を実施 | 市史年表稿 |
1984 | 昭和59 | 2 | 葉山 峻、第13代藤沢市長に就任 | 市史年表稿 | |
1984 | 昭和59 | 7 | 23 | 鵠沼公民館、主査渡貫 洋→天田又之 | 鵠沼25号 |
1986 | 昭和61 | 7 | 31 | 杉原千畝、西鎌倉にて没。享年86 | 命のビザ |
1986 | 昭和61 | 9 | 10 | 鵠沼海岸1丁目自治会会長他6845人より提出の暴走族取締等の強化の請願採択 | 市史年表稿 |
1988 | 昭和63 | 2 | 葉山 峻、第14代藤沢市長に就任 | 市史年表稿 | |
1992 | 平成 4 | 2 | 葉山 峻、第15代藤沢市長に就任 | 市史年表稿 | |
1993 | 平成 5 | 8 | 21 | 代議士/弁護士=猪俣浩三(1894-1993、鵠沼松が岡1-16-2)、没 | WEBsite |
1995 | 平成 7 | 4 | 岡崎 洋(鵠沼花沢町)、神奈川県知事選に当選 | 神奈川新聞 | |
1995 | 平成 7 | 11 | 19 | 「湘南の自然と共に生きる会」、鵠沼公民館で湘南なぎさシティー計画見直しを求める湘南なぎさセミナー開催 | 市史年表稿 |
1996 | 平成 8 | 2 | 26 | 山本捷雄(鵠沼桜が岡)、藤沢市長選挙に初当選。第16代藤沢市長に就任 | 市史年表稿 |
1996 | 平成 8 | 7 | 14 | 鵠沼公民館で県・市による湘南なぎさシティー計画見直しに関する説明会を開催 | 市史年表稿 |
1996 | 平成 8 | 8 | 4 | 鵠沼公民館で「なぎさシティー計画の中止を求める市民の会」が「市民円卓会議こんな海がいい」を開催 | 市史年表稿 |
1996 | 平成 8 | 鵠沼公民館、地域団体の一部の事務を開始 | 公民館の歩み | ||
1998 | 平成10 | 5 | 1 | 藤沢市、鵠沼公民館に8か所目となる福祉の相談や手続きができる「地区福祉窓口」を開設 | 市史年表稿 |
1998 | 平成10 | 5 | 番場定孝(鵠沼松が岡・会員)、県会議長に就任 | 毎日新聞 | |
2000 | 平成12 | 1 | 15 | 第1回鵠沼地区賀詞交換会開催 | 社協記念誌 |
2000 | 平成12 | 2 | 29 | NHK教育テレビ、『鹿地亘事件〜アメリカ情報機関の謀略〜』を放映 | WEBsite |
2000 | 平成12 | 2 | 山本捷雄、藤沢市長選挙に再選。第17代藤沢市長に就任 | 市史年表稿 | |
2001 | 平成13 | 7 | 24 | 元首相=広田弘毅の三男正雄の厳水夫人、鵠沼松が岡1-18-9を離れ、東京に移住 | 鵠沼83号 |
2003 | 平成15 | 2 | 5 | 元舞鶴地方総監、元海将=松崎純生(鵠沼海岸1-7-15)、没 享年96 | 毎日新聞 |
2003 | 平成15 | 10 | 1 | 岡崎 洋=前神奈川県知事(鵠沼花沢町)、藤沢市名誉市民に推挙 | 朝日新聞 |
2004 | 平成16 | 2 | 山本捷雄、第18代藤沢市長に就任 | 市史年表稿 | |
2004 | 平成16 | 10 | 1 | 元市長=葉山峻(鵠沼海岸6-2-5)、藤沢市名誉市民に推挙 | 広報ふじさわ |
2005 | 平成17 | 9 | 5 | 猪俣てる(故猪俣浩三元社会党代議士の妻。鵠沼松が岡1-16-2)肺炎のため藤沢市の病院で没、100歳 | 各メディア |
2006 | 平成18 | 6 | 5 | 『天養記』(伊勢・神宮文庫蔵)、国の重要文化財に指定。5〜7日、神宮文庫大閲覧室で全文を特別公開 | 毎日新聞 |
2007 | 平成19 | 5 | 21 | 河野顕子(会員)、第37代藤沢市議会議長に就任 | 議会だより |
2008 | 平成20 | 2 | 26 | 海老根靖典(鵠沼)、第19代藤沢市長に就任 | 各メディア |
2009 | 平成21 | 5 | 3 | 元警部=大谷助、危険業務従事者叙勲で瑞宝単光章を受章 | 各メディア |
2009 | 平成21 | 10 | 6 | 鵠沼地区地域経営会議が発足 | 各メディア |
2010 | 平成22 | 3 | 13 | 元市長・元代議士・藤沢市名誉市民=葉山峻(鵠沼海岸6-2-5)、没。享年76 | 各メディア |
2010 | 平成22 | 7 | 1 | 鵠沼市民センターで職員がアロハシャツを着用する「アロハビズ」始まる | 現地調査 |
2010 | 平成22 | 10 | 1 | 前市長=山本捷雄(鵠沼桜が岡)、藤沢市名誉市民として顕彰 | 神奈川新聞 |
2010 | 平成22 | 10 | 10 | 鵠沼市民センター、ポータルサイトを開設 | 鵠沼市民センター |