「首塚」の碑と野村 靖
松岡 喬(会員)
鵠沼神明3丁目、空乗寺と万福寺の中間あたり、宮ノ前公民館の前に「首塚の碑」があることは知っていたが、ある日自転車で前を通って題額を見ると「首塚」との題の後に野村靖とあった。「ことによるとこれはあの野村靖では」と思い調べてみることにした。「あの野村靖」というのは私の曽祖父、つまり父方の祖母松岡初子の父のことである。この人が神奈川県令だったことがある、と聞いた事があったので、その在籍期間にこの碑が建てられたとしたら、まず間違いはないと思われた。
 碑の建立は1879年(明治12年)4月とある。さて在籍期間は――神奈川県史人物編によれば「1876年3月神奈川県権令に就任、1878年2月県令に改まる。......1881年駅逓総監に転じ........」とある。「ビンゴ!」といったところだろうか。
 
 1871年(明治4年)の廃藩置県から1876年(明治9年)の大廃合を経て当時の神奈川県の版図はおおよそ今の神奈川県に三多摩を加えたものであった。
(1893年多摩三郡を東京都に移管)神奈川県は東京・京都・大阪の三府に次ぐ筆頭県と位置付けられており、いわゆる大物が県令に就任している。初代・陸奥宗光、次代・大江卓、3代・中島信行である。4代目が野村ということになる。
 野村靖は物静かな文人タイプで、書に堪能であったとされているから、県令として「首塚」の題額を依頼されたのであろう。残っているものがあるかどうかはともかく多数依頼されたものの一つであろう。神奈川県令就任以前も、おそらくその後も神奈川県とは大きな関係を持たなかったであろう彼にすればこのときまだ生まれていない五女初子(1987年(明治20年)生まれ)がやがて鵠沼に住み、子孫のはしくれがこの碑のそばに住んでいると知ったら苦笑することだろう。
 「首塚」の碑 2004年1月撮影
 その子孫のはしくれとして野村靖の経歴について書いておこう。
 野村靖は「勤皇の志士」と言われる人の一人である。彼は1842年(天保13年)山口藩士入江嘉伝次の次男として長門国萩に生まれた。幼名を和作という。(私は祖母から「元服して小吉と名乗ったが維新後「格好が悪い」と言って靖と改めた、と聞いたような気がするが、資料野村靖(逓信大臣時代) の裏づけはない」兄は入江九一である。明治維新に先立つこと26年であった。この入江家というのは無給通士という身分で、いわゆる足軽であった。(父はよく「入江、野村と言ったってついこの間まで足軽、草履取り」などと言っていた)野村靖は親戚の野村家に養子に入り家督を継ぐが、この野村家も扶持方二人(米2石4斗)という貧乏侍であった。
 ちなみに藤沢周平原作・山田洋二監督の「たそがれ清兵衛」という映画の主人公真田広之演じる清兵衛はたいへん貧乏に描かれているが、時代も同じ幕末で彼の石高は50石ということになっている。
 とてもうだつが上がりそうにないが、時は幕末、所は長州である。靖は五つ違いの兄の後を追って吉田松陰の松下村塾に入門した。兄の九一は弟と違って血気盛んな行動派で、武闘派でもあった。九一は高杉晋作、久坂源瑞らと奇兵隊を組織して京都に赴き、いわゆる「禁門の変」で負傷のうえ切腹して果てた。維新まであと4年のことであった。実はこのことが靖の運命を大きく変えることになった。彼は「維新の英雄の弟」の地位をも獲得したのである。1866年(明治4年)岩倉具視大使の欧米視察に随行し、帰朝後外務省に出仕した。文武の文を得意とする弟の出番が来たのである。
 
 神奈川県令を離れたあと靖は順風満帆とも言える人生を送る、以下順に記しておこう。
1881年(明治14年)駅逓総監
1887年(明治20年)子爵となる
1888年(明治21年)枢密顧問官
1891年(明治24年)駐仏公使
1894年(明治27年)内務大臣(第二次伊藤内閣)
1896年(明治29年)逓信大臣(第二次松方内閣)
その後は明治天皇の娘である富美宮、泰宮両内親王の養育掛を長く勤め1909年(明治42年)鎌倉御用邸にて没した。松岡静雄、野村初子の結婚の翌年であった。
 
 1980年に出された「藤沢市史・資料編第3巻」にすでに「碑文は細字で彫りが浅いために読みにくい」とある。今はさらに風化が進んだうえ、剥落部分も多くなっている。碑の材質は根府川石である。この石は「安山岩系でやわらかく加工しやすいが風化もしやすい、歌碑や句碑に適する」とされる。なぜ根府川石を使ったのかというのはこの文が平仮名であることに関係がある。元来碑文というものは公式の物であるから漢文で書かれるのが普通である。(賀来神社の碑文は「首塚」の碑より40年も後のものながら漢文である)漢文であれば硬い石(たとえば花崗岩)に刻みつけることが比較的容易であるが、平仮名となるとそうはいかない。そこでやわらかい石が選ばれるのである。根府川石の「歌碑や句碑に適する」というのは「平仮名用」ということなのだ。
 実際に風化と剥落は進み、新たにこの碑文を読み下すことは不可能である。(ましてや何の知識もない私などには)そこで以前に読み下されたテキストを探すわけであるが、我が「鵠沼を語る会」の大先輩伊藤節堂氏が「鵠沼10号」(1980)−当時の「鵠沼」は手書き、青焼きコピーであった―に発表されたものが「鵠沼」合本に転載されているというのは知っていた。註に「欠落部分は藤沢市史資料によった」とあるので探してみると、「藤沢市市史資料集・第3巻」(1980)に服部清道氏による読み下しを見つけることができた。この二つのテキストには多くの相違点があり、どちらの解釈が正しいのかということを中心として2月の例会でお話をさせていただいた。ところがすぐに佐藤会員から「最も古い読み下しはこれではないか」と加藤徳右衛門著「藤沢郷土史」1933年(昭和8年)を教えていただいた。渡部会員からは故有賀密夫氏が書写した「首塚の碑」を見せていただいた。(結果的には有賀氏のものは「藤沢郷土史」を書写したものと判明した)私は前記二つの資料を参照して「鵠沼10号」の再改訂版として本文の末尾に掲載する予定でいたが、それより古い資料、それも前二者が参考にしたであろう資料が出てきたので、「それではこの間の例会での話はなんだったのか」というおしかりは甘受しながら、もう少し研究を続けてまたの機会ということにさせていただきたい。
 
 碑文の文章形式は「和歌の詞」と呼ばれるものである。「和歌の詞」とは末尾に和歌をおいて、その前に「なぜその歌が詠まれたのか」という事情や経過を「けり」による叙述によって順に説明してゆく文章形式で、代表とされているのは「伊勢物語」(950年頃成立)である。この碑文は王朝文学のスタイルを取っている。ずいぶん復古調的な話だが、これも王政復古などと言って宮廷文化が再認識されたこの時代ならではと言うことだろう。
 
 碑文の内容だが、御世(今の世の中)を讃えるものとなっている。1879年(明治12年)といえば維新の混乱期をようやく脱した時期で、最大の内乱である西南の役は前々年のことであった。しかしこの時期は維新政府による三大改革(学制・徴兵制・地租改正)に対する反発もあり、官の側からすると「上下協和」や「輿論公議」を重視せざるを得ない状況であった。「いまや文明の御世にあひ」「我も人もなみ風たヽぬ御世にうまれて」「みよのひかりにあらはれにけり」など必要以上に時代に媚びているような気もするが、素直に受け取れば封建時代がようやく終わったことをよろこぶような内容である。ちなみにこの頃の鵠沼村の人口は2000人程度であった。
 
 ところでこの碑のことを「首塚」の碑と書いてきたが、そもそもこの碑はそばにある塚「首塚」の由来を書く説明文である。「市史」にも「いまその塚はない」と書かれているからとっくになくなってしまっていたのだろう。そうなるとこの碑はないものを説明する、食べてしまったインスタントラーメンの袋の「作り方説明書」のようになってしまっている。表面の風化とあいまって寂しさを感じさせる。
 もし古老にこの「塚」を見られたことのある方がおられたらお話を伺ってみたい。「ふるくよりある塚」は直径3m以上、高さ1.5mくらいのかなり大きいもので円墳状のもので碑の後側(まさに公民館の建物のところ)にあったのではないかと想像している。そのくらい大きなものでなければわざわざ碑など立てなかったのではないだろうか。
 曽祖父の名が刻まれたこの石碑の寿命も長くないような気がするが.....。
(まつおか たかし)