農婦と子供 昭和10年

 今の鵠沼新道と太平台へ行く道の藤原交差点附近(鵠沼海岸7丁目あたり)。
 当時は畑へ出るにも農家の主婦はリアカーに子供を乗せていったものである。背負われた赤ちゃんやリアカーの幼女も、今は70の坂を越えよう。
水田からの夕富士 昭和30年頃

 今のバス停「鵠沼車庫前」あたりから西を望んだところ。鵠沼海岸5丁目から西は引地川の堤まで続く大水田で、春は蓮華草の花で埋まり、富士のシルエットが美しかった。
堀川の十字路 昭和30年頃

 秋には稲の稲架(ハサ)掛けがされた。この地はこのあたりから水田であった。写真前方は辻堂方面、現在の運動公園へと続く道である。
大平橋 昭和25年頃

 鵠沼と辻堂の交通路の一つで、大きな砂丘の松林の中に居を構えておられた大野氏と平沼氏の二人の名をとって、大平橋と名づけられた。昭和の初めの河川改修前は、夕方一人で通るには淋しすぎる橋であった。下流から上流を眺めたもの。左側の岸は辻堂である。
さく橋 昭和25年頃

 農作業のために引地川を渡人々のためのさく橋は、もとは3尺の板を並べたもので、河川改修後左のようになった。辻堂側から鵠沼側を望んだところ。当時、鵠沼側は一面の水田。現在は鵠沼運動公園や太陽の家・心身障害児福祉センターができていて、周辺は宅地の分譲が進められている。
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堀川附近