海開きの日 昭和3年

 この日は、藤沢から綺麗所が来て手踊りを見せるのが恒例となっていた。当時流行のカンカン帽を被った観客の姿が散見される。
真夏の海岸 大正15年

 海水浴の客足も当時はせいぜいこの程度。それでも鵠沼海岸の居住者にとって、夏場は書き入れ時で、1年の商いの殆どをこの季に稼ぎ上げた。海水浴場へ行くには、引地川河口が今の東急レストハウスあたりにあったため、これにかかるドンドン橋を渡って行くことになっていた。真ん中の小屋の中には見張り人がいた。立て看板には「男」「女」と書いてあって混浴はできなかった。
海岸の雪景色 昭和2年

 引地川は、河口附近で東に湾曲していた。手前の橋は今の鵠沼海岸1丁目の西側(東屋のあたり)から海岸へ出るところに、その先の橋は2丁目(八百徳の横丁)から海岸へ出るところにかかっていた。今の鵠沼橋の位置である。その先に今の龍宮橋、日之出橋と続くことになる。ちなみに写真の川は移動されて今はない。中央やや左の白い柱は海水浴場の表示柱である。
海岸と富士と 昭和3年

 葦原の向こうから流れ来る細い支流は堀川水田(今の鵠沼運動公園あたり)の排水路で、引地川へ注いでいた。やがて、引地川が現在地へ移動すると、この支流はドブのようになって西へ流れを変え、現在は下水道となり道路下に埋められてしまった。
龍宮橋 昭和3年

 朝露に濡れる龍宮橋である。命名のいわれは終戦まで漁師たちに祀られていた八大龍王の社がこのあたりに存在していたことによる。この龍王社は現在、辻堂海岸へ移されている。橋のたもとの建物はどこかの大学の夏季学生寮で(日大か?)学生寮として鵠沼海岸初のものであった。
海岸遊歩道路 昭和6年

 今の国道134号線は、そもそも失業者救済事業として建設されたもので、昭和5年頃には辻堂の海軍演習場あたりまで作られていた。当時は“遊歩道路”と呼ばれていたのがそれである。先の方に見える橋は片帆橋、脇の建物は日大の水泳寮である。
鉄道省海の家 昭和10年

 鵠沼海岸に昭和6年竣工の鉄道省海の家である。場所は今のレストラン雅叙園の下あたり、むろん、現在は跡形もない。看板に書かれた右書き文字が昔を思い起こさせる。
地引き網 昭和6年

 地引き網は今のように客網ではなかったし、機械引きでもなかった。十数名の漁師が左右に分かれて、1本ずつの網を引くのである。地引き網は農家の副業で、生計を立てるに必要欠くべからざるものであった。見れば江の島に燈台のないことがわかる。これができたのは戦後のことである。
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海岸風景