華ひらいた鵠沼文化展
―東屋・劉生・龍之介―

期日 2002年9月17日(火)〜9月29日(日)10:00〜19:00
場所 藤沢市民ギャラリー常設展示室(藤沢ルミネプラザ6階)
共催 鵠沼を語る会・藤沢市教育委員会
協力 藤沢市文書館
かつて鵠沼は砥上ガ原と呼ばれ、特に南部―帯は荒涼とした土地でした。
明治20年ごろから開発が始まり、大正期にかけて華族や財界人の大別荘、
さらには貸別荘なども建てられ、保養地としての鵠沼が形成されます。
明治30年ごろから、鵠沼には特異な文化の時代が華ひらきました。その中
心にあったのが文人宿といわれた旅館「東屋」でした。多くの文人、芸術
家たちがこの宿に逗留し,華やかな活動を展開しました。
今回の展示会は、この東屋と、鵠沼に縁の深かった二人の文人、画家岸田
劉生と作家芥川龍之介をいわばキーワードにして、鵠沼の歴史とそこに華
ひらいた文化を紹介しようとするものです。
会場は、
  「東屋のコーナー」    「劉生のコーナー」
  「龍之介のコーナー」   「鵠沼南部開発史のコーナー」
から構成されています。
劉生や龍之介が住んだ家の間取りや、絵画や小説の舞台の検証など、「鵠沼
を語る会」の会員が現地を調査して得た新資料も発表しています。
また特別出展として、藤沢市文書館のご協力で、同館が所蔵する龍之介の
新発見資料「葛巻文庫」の―部を展示しました。

展示室を訪れた小山文雄氏(左)と佐江衆一氏(右) 9/19

  東屋のコーナー

「東屋」とは
東屋は、明治25年ごろに創業された旅館です。同33年10月、明治の小説家
斎藤緑雨が病気療養をかねて長期逗留したのを契機に文人たちの出人りが
多くなり、後にはついに文士宿と呼ばれるようになります。
逗留した文士たちの顔ぶれは別掲のように実に多彩です。まさに明治、大正
を代表する文学者が寄り集った観があります。文芸雑誌[白樺]発刊に際
しても、志賀直哉と武者小路実篤が何度もこの東屋で相談しました。
鵠沼の文化はこの東屋を中心に華ひらきました。残念ながら東屋は、日本が
太平洋戦争に向かって急速に突き進んで行く昭和14年9月に閉業しました。
平成13年、長らく忘れられていた歴史がよみがえり、かつての正門そばに記
念碑「東屋の跡]碑が建てられました。

東屋に逗留した主な作家たち
 斎藤緑雨 徳冨蘆花 川上眉山 江見水蔭 巌谷小波 徳田秋声
 与謝野寛・晶子 大塚楠緒子 武林無想庵 斎藤茂吉 志賀直哉
 大杉 栄 武者小路実篤 谷崎潤―郎 里見 ク 久保田万太郎
 宇野浩二 久米正雄 広津和郎 芥川龍之介 佐藤春夫 佐佐木茂索
 吉屋信子 大佛次郎 宮本百合子 川端康成
主な展示品
1.図:再現された旅館東屋の見取り図(関東大震災前と震災後)
2.写真:残されていた東屋の外観、正門、庭園などの風景
3.写真:東屋を創った人々
4.書:作家佐江衆―氏揮毫による「東屋の跡」碑文
5.廃業を告げる東京日々新聞の記事
6.写真:東屋2代目女将の子で画家長谷川路可の板絵『歩む釈迦像』

   龍之介のコーナー
龍之介と鵠沼
龍之介は鵠沼と縁の深い人で、大正3年1月には、中学時代からの友人山本
喜誉司の家の別荘を訪れています。当時23歳、大学に入ったばかりでした。
後に龍之介の妻となる塚本文は、山本喜誉司の姪でした。塚本文も、後に鵠
沼のこの別荘に移り住みます。
大正7年、龍之介は文と結婚、またこの年、東屋離れにいた谷崎潤―郎を佐
藤春夫とともに訪れています。そして大正11年には家族連れで東屋に滞在す
るなど、鵠沼との縁は深まります。大正15年8月から翌昭和2年1月までは
東屋の貸別荘「イの4号」や近くの二階建の貸家に住み、親子水入らずの生
活をしました。
しかし、龍之介はこの頃すでに極度の神経衰弱に悩まされ、健康状態は最悪
でした。結局、鵠沼での静養もかいなく、同年7月、田端の自宅で36歳の生
涯を自らの手で閉じました。
鵠沼滞在中に書いた作品に「鵠沼雑記]、鵠沼に材をとった作品に[蜃気楼]
などがあります。
主な展示品
1.図:龍之介の住んだ東屋貸別荘「イの4号」の間取り
2.考証:小説[蜃気楼」の舞台。蜃気楼を見た場所などの検証
3.写真:鵠沼海岸に出現した蜃気楼
4.写真:蜃気楼の出現を伝える当時の新聞
5.写真:『歯車』に登場する理髪店
特別出展:藤沢市文書館葛巻文庫に収められている回覧雑誌[日の出界]
など龍之介直筆資料。

葛巻文庫について
葛巻文庫は、龍之介の甥(実姉ヒサの長男)の葛巻義敏が最後まで所蔵して
いた龍之介の遺稿を中心とする文芸資料で、総数約3000点にものぼります。
龍之介は義敏を大変可愛がり、田端の家に同居させ勉強を教えながら仕事の
手伝いをさせていました。したがって義敏は龍之介の死後も、全集の編集に
加わり、友人たちと同人雑誌をつくり、また龍之介の遺稿を整理して「芥川
龍之介未定稿集]を出版するなど、文芸評論家としても知られていました。
戦後、義敏は鵠沼にあった龍之介の妻文の実家跡に妹左登子とともに住み、
鵠沼とも深い縁をもっていました。昭和60年に義敏は死去、その資料は引き
続き左登子が保管していましたが、平成8年、左登子が入院するに際し、自
ら会員でもあった「鵠沼を語る会」に協力を求め、これらの資料すべてを藤
沢市文書館に寄贈しました。左登子も平成11年11月、この世を去りました。

   劉生のコーナー
劉生と鵠沼
岸田劉生が肺に異常があるという診断を受け、鵠沼の貸別荘へ転地療養を
かねて移ってきたのは、大正6年2月23日のことでした。
胸の病気というのは誤診だったという説もありますが、劉生は鵠沼で健康
を取り戻し、活発な制作活動を展開します。
大正12年9月1日の関東大震災も鵠沼で遭遇しました。同月18日にはあわた
だしく鵠沼を去って、同年10月から京都に居を定めました。
劉生の鵠沼での生活は、結局6年半ほどでしたが、この鵠沼時代こそ、彼
の芸術家としての生活の中で、最も重要かつ充実した時代とされています。
ここで『麗子像』、『村娘お松』などの代表作が続々と描かれたのでした。
『村娘お松』のモデルとなった川戸(旧姓葉山)マツさんは、いまも藤沢市
内にご健在です。貴重な時代の証言者としてのマツさんの記録も写真ととも
に展示されています。

主な展示品
1.考証復元:劉生が住んだ貸別荘松本陽松園の間取り図、模型による復元
2.図:東屋のビヤガーデンで会食する劉生一家
3.写真:鵠沼の道端で絵を描く劉生
4.写真:椿 貞雄と相撲をとる劉生
5.写真:地震で潰れた家と劉生一家
6.写真:40年ぶりに再会した麗子とお松
7.複製画:NHKドラマで使われた額装複製画[童女舞姿]
8.考証:「鵠沼風景]を描いた視点の検証と確定

   鵠沼南部開発史のコーナー
鵠沼南部地区を中心に、開発の歴史をたどるコーナーです。
明治、大正、昭和初期の地図、風景写真などを展示、鵠沼の発展と変遷の様
子を、ビジュアルに確かめることができます。

岡田氏の力作
岸田劉生の住居復元模型
特別展示「葛巻文庫」
芥川龍之介の自筆手帳


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