鵠沼海岸別荘地開發記念碑と登場人物

A.記念碑表面に登場する人々(碑文順)
【鵠沼海岸別荘地開發功労者】
A 1 伊 東 將 行 生没 1861-1920.7.29 出身 埼玉県川越市?
いとう しょうこう 居住 所有 鵠沼海岸2-9
1847年に紀州藩士伊東左衛門の男として江戸藩邸で誕生したという説もある。
上野彰義隊の生き残りともいわれる。鵠沼の前に茅ヶ崎に住んでいたという話もある。
この碑では「武州川越の人」となっている出自は謎の人物。鵠沼の名士となった。
鵠沼海岸別荘地開発功労者。鵠沼館・東屋経営。大給子爵家の土地開発 ・分譲で鵠沼南東部紹介の先駆けをした。
【鵠沼館創設者】
A 2 三 觜 直 吉 生没 不明 出身 羽鳥村
みつはし なおきち 居住 羽鳥村 所有
羽鳥村三觜家新宅=三觜小三郎(武相倶楽部創設者の一人)の長男。鵠沼舘を将行と協力して創設した。
【武相倶樂部建設メンバー】
A 3 今 a@元 穎 生没 1843-1924 出身 中新田村(海老名市)
いまふく もとひで 居住 所有
自由民権運動家。第2代高座郡長、神奈川県会議員、国会開設運動に熱心に取り組んだ。引退した後は鉄鈴(てつれい)と号し、書画を好んで描いたという。
A 4
墓所
三觜八郎右衛門 生没 不明 出身 羽鳥村
みつはし はちろうえもん 居住 羽鳥村 所有
旧羽鳥村名主、江戸時代には100石以上の高持であった。羽鳥村の農民の4分の3が同家と小作関係を結んでいたという 。代々八郎右衛門を名乗り、この碑にあるのは11代目。羽鳥村初代村長。明治5年鵠沼村戸長を兼ねる。同年、小笠原東陽を援助し、邸内に〈読書院〉後に〈耕余塾〉を開かせた。古文書を多く所蔵し、藤沢市文書館に寄託され〈三觜家文書〉と呼ばれる。
A 5 金 子 小左衛門 生没 不明 出身 大庭村
かねこ こざえもん 居住 所有
旧大庭村名主、大庭村村長、藤沢町会議員、神奈川県会議員(自由党)
2代目藤沢町長金子角之助の養父
A 6 田 中 平 八 生没 不明 出身
たなか へいはち 居住 東京麹町区内幸町1 所有 鵠沼海岸2-17
本名:北村菊次郎。相場師=田中平八(天下の糸平)の長女=登羅の婿で三代目平八を継ぐ。糸平不動産・田中鉱山を興す。
A 7 齋 藤 六左衛門 生没 不明 出身 鵠沼村苅田
さいとう ろくざえもん 居住 鵠沼村苅田 所有 本鵠沼5-10
旧鵠沼村名主(大齋藤)、鵠沼村会議員・藤沢町会議員、鵠沼新場(生糸 市場・地引き網)の取締役、大地主。
齋藤家は鎌倉時代に鵠沼に来住した三河の斎藤一族の末裔といわれる。神明宮の南方に居を構えたため、南と称した。
【鵠沼海岸別荘地開發関係者】
A 8 中 野 武 營 生没 1848.1.3-1918 出身 香川県
なかの ぶえい 居住 本郷元町1-5 所有
香川県官吏→農商務省書記官→東京株式取引所副頭取、東京市会議員、
衆議院議員。小田原電気鉄道社長、東京商工会議所会頭
「官から民、中央より地方へ」「小さな政府」などを訴え、満州の植民地化に反対、排日に傾くアメリカと中国(清)との民間経済外交の道を切り拓いた実業界の指導者
A 9 中 島 行 孝 生没 1836.8.21-1914.5.1 出身 江戸
なかじま ゆきたか 居住 牛込区南山伏町2 所有 鵠沼海岸1丁目〜鵠沼松が岡1丁目
維新後、石灰業で成功する。東京株式取引所理事長、農工貯蓄銀行頭取。東京府議・東京市議(議長)・旧牛込区会議長・参事会員旧・衆議院議員(無所属)などを歴任した。享年79歳
A10 伊 藤 幹 一 生没 1844.11-1922.5.18 出身 江戸
いとう かんいち 居住 麹町区下二番町 所有 鵠沼松が岡1〜2丁目一帯
旧幕臣=伊藤幸之助の長男。戊申戦役従軍。明治5年(1872)学制の制定に従い、東京師範学校・学習院の設立に功績を挙げる。欧米の取引所研究。日本陶料・日韓瓦斯電機・東京瓦斯・東京湾汽船・石狩石炭・二十七銀行・日本昼夜貯蓄銀行・旭日生命保険各監査役。東京株式取引所東京株式取引所書記長→支配人→常務理事→相談役。東京市議(小石川区)。墓地:谷中霊園
【別荘地を購入した貴紳富豪】
A11 蜂須賀茂韶(承?) 生没 1848.8.8-1918 出身 徳島県徳島市
はちすか もちあき(つぐ) 居住 所有 鵠沼海岸2-12
東京生まれ。徳島藩主蜂須賀斉裕の次男。世子時代は朝命に応じて国事に奔走した。明治元年(1868)徳島藩主を継承し、新政府の議定として刑法事務局輔や民部官知事に就任。2年(1869)版籍奉還にともない徳島藩知事。5年(1872)イギリスに留学。帰国後は、大蔵省関税局長、参事院議官などをつとめた。15年(1882)特命全権公使としてフランスに駐在。17年(1884)侯爵。帰国後は、元老院議官、東京府知事、貴族院議長、文相、枢密顧問官などを歴任
A12 益 田   孝 生没 1847.11.17-1938.12.28 出身 新潟県佐渡
ますだ たかし 居住 品川区北品川宿 所有 鵠沼松が岡3-22
男爵・勲三等。安政6年(1859)、支配通弁御用出役となり麻布善福寺のアメリカ公使館に勤務、初代公使のハリスに接して大きな影響を受けた。文久3(1863)に遺仏使節の随員となった父・鷹之助の従者として初めて渡欧。井上馨の千収会社→三井物産→三井合名を組織。三井財 閥最高経営者・財界の重鎮。鈍翁と号し、茶人・古美術収集でも著名。 小田原が別邸で鵠沼別荘は愛妾邸。次男=信世氏が跡を預かる
A13 藤 堂  紹 生没 1884.7.27- 出身 三重県津市
とうどう たかつぐ 居住 本所横網 所有 鵠沼海岸2-17
伯爵。旧津藩主=藤堂潔の長男。学習院卒後ケンブリッジ大に留学、 外務省政務局→通訳・式部官。伊日辞典(鳳鳴堂)刊行。娘=千賀子は朝香宮妃。在英時代の友人=田中銀之助より赤別荘の地を分譲された
A14 久 松 定 謨 生没 1867.9.9-1943 出身 愛媛県松山市
ひさまつ さだこと 居住 所有 鵠沼海岸1-14
伯爵。静岡藩士族=松平勝氏の次男。伊豫松山藩主=久松定昭卿の跡を嗣 ぐ。1884年仏国に留学、帰国後陸軍に入隊、歩兵大佐→中将
A15 馬 越 恭 平 生没 1844.10-1933 出身 岡山県
まごし きょうへい 居住 芝桜川13 所有 鵠沼松が岡2-4
家代々医を業とするが、商を目指し大阪の巨商=鴻池から井上馨の千収 会社にて益田孝と苦楽を共にする。三井物産、三井呉服店理事を経て日 本・札幌・大阪合同成立の大日本麦酒且ミ長。商工会議所初期より10期 理事。衆議院議員
A16  瀬 三 郎 生没 1859-1916 出身 鎌倉十二所
たかせ さぶろう 居住 中藤ヶ谷= 所有 鵠沼藤が谷2-7
旧十二所村名主=山口義高の次男として生まれ、1883年高瀬家を嗣ぐ。 横浜貿易・高瀬商店設立、一代で財を成す。破産時中藤ヶ谷に2万坪余 の土地を長男=彌一名義で購入、豪邸を構え、再起を期す[鵠沼89号]
明治末期から大正初期、敷地内の離れには娘婿となった和辻哲郎をはじめ安倍能成や阿部次郎も住み、谷崎潤一郎・与謝野晶子らが訪れた記録がある。
A17 郷   誠之助 生没 1865.1.8-1942.1.12 出身 東京
ごう せいのすけ 居住 麹町上二番町 所有 鵠沼松が岡4-17〜19
男爵。岐阜出身の正二位勲一等=男爵=郷純造の次男。1884年独国に留学、 経済学を学ぶ。哲学の博士号を得て帰国。農商務省の嘱託を経て実業界 入り。東京株式取引所理事長、帝國商工銀行頭取、商工会議所会頭。貴 族院議員
A18 廣 岡 助五郎 生没 1882.10.31-? 出身 東京
ひろおか すけごろう 居住 京橋区四日市2-3 所有 鵠沼海岸2-7
都下屈指の清酒問屋[加島屋]先代助五郎の長男。1888.1家督相続。商売 を拡大させ、加島屋貯蓄銀行取締役を兼任するも後辞任。鵠沼に隠居し、 鵠沼郵便局2代目局長・自警団顧問
A19 山 口 寅之輔 生没 不明 出身 鎌倉十二所
やまぐち とらのすけ 居住 所有 鵠沼桜が岡2-6
高瀬三郎の甥(弟とも)。旧鎌倉十二所村名主→村長=山口高重(喜左衛門)の子=高久。不動産業。後に松島苑住宅地を開発[鵠沼89号]
A20 佐 藤 長四郎 生没 不明 出身
さとう ちょうしろう 居住 麹町区 所有 鵠沼松が岡2-1
代々薬種問屋の家に生まれる。三井物産役員。『日本諸會社登記録』を編纂
A21 吉 田 嘉 助 生没 1890.4.28-? 出身 東京
よしだ かすけ 居住 京橋区元数寄屋2-4 所有 鵠沼海岸2-1
紙商=吉田嘉平の次男。開発初期に海岸商店街の一角を先代が入手
A22 宮 ア 寛 愛 生没 不明 出身 土佐
みやざき ひろちか 居住 鵠沼桜が岡4-1 所有 鵠沼桜が岡4-1
北海道開拓史にその名を留める。初めは鵠沼松が岡4丁目にあたる大給家旧邸を買収して住み、大正初期に川袋(宮崎町)に広大な屋敷を構える。昭和10年代初め旧満州に渡り、屋敷は昭和18年に安斉氏に売却。[鵠沼86号]墓所:遊行寺
A23 千 葉 恒次郎 生没 不明 出身 東京
ちば つねじろう 居住 麻布区新龍土町 所有 鵠沼松が岡2-7
千葉忠三郎の次男。長兄=清(肥料部)と三井物産に入り、石油部門の取 締役。兄弟で鵠沼に別荘を持ち、後に常住
A24 小田柿 捨次郎 生没 1865.11.6-? 出身 滋賀県
おだがき すてじろう 居住 芝高輪南30 所有 鵠沼松が岡1-13〜15
小田柿彦内の三男。東京高等商業学校卒。三井物産海外部の取締役。上 海・香港など中国、米国(桑港)、朝鮮などの支店長を歴任。歌人として『樟蔭歌集』を著す
A25 田 中 銀之助 生没 1873.1.20-1935 出身 東京
たなか ぎんのすけ 居住 麻布区市兵衛町 所有 鵠沼海岸2-17
3代目田中平八(A 6)の長男、糸平の孫。慶應義塾→ケンブリッジ大卒、 藤堂紹(A13)と親交。日本にラグビーを導入。田中銀行・田中鉱業・ 日本製鋼所各取締役。鵠沼の別荘は「赤別荘」と呼ばれた。
【來遊し、伊東將行を世に紹介した】
A26 寺 尾   亨 生没 1859.2.1-1925.9.15 出身 筑前福岡藩
てらお とおる 居住 赤坂 所有
帝国大学教授、国際法学者。外務省参事官として対露強硬論を唱えた七博士の一人。
東京天文台の初代台長=寺尾寿の弟。頭山滿(A29)の隣人にして盟友。亡命中の孫文とも関わった。
若いころ画家=黒田清輝と親交しフランス語を教えた。女優=東山千栄子(姪)の養父
【後継者】
A27 伊 東 將 治 生没 ?-1998 出身 鵠沼
いとう しょうじ 居住 鵠沼海岸 所有 鵠沼海岸2-9
伊東将行の一人娘=政子の婿=右近辰太郎の次男。将行の養子となる。
母=政子は1933年東屋の西隣に西洋風の「鵠沼ホテル」を開設、戦後駐留軍に接収された。
接収解除後の1950年、鵠沼ホテル跡に割烹料亭「東家」を開く。1995.12.31廃業。
※旅館東屋と混同されることが多い。
A28 長谷川 欽 一 生没 1900.9-1985.6.24 出身 東京
はせがわ きんいち 居住 鵠沼村6642東屋 所有 鵠沼海岸2-8
東屋初代女将=長谷川榮の弟=長谷川繁蔵の長男。父の死により1902年数 え3歳で長谷川家の家督を継ぎ、名目上東屋の経営者となる。渡仏し、ソルボンヌ留学を目指すが、関東大震災で東屋が倒壊したため呼び戻される。2代目女将=多嘉(B 2)の死(1938)後実質的に東屋を経営するも、翌1939年9月に廃業に踏み切った
【鵠沼海岸別荘地開發碑記載者
A29 頭 山   滿 生没 1855.4.12-1944.10.5 出身 福岡県
とうやま みつる 居住 赤坂 所有
大亜細亜主義の立場で運動を行った国家主義運動家。政治結社《玄洋社》 を創設、日本亡命中の孫文・ボースらを庇護した。
A30 牧 野 随 吉 生没 1860-1929 出身 高座郡綾瀬村
まきの ずいきち 居住 所有
自由民権運動家。《真友会》会員。書家。著書に『震災余禄』がある。旧姓は前川。小笠原東陽にまなぶ。明治16年神奈川県高座>郡に長谷川彦八、峰尾文太郎らと真友会を結成。26年綾瀬村に蓼川(たでかわ)学舎を設立し、教育事業にたずさわる。29年県会議員。
B.記念碑裏面に連名する発起人(町長外イロハ順)
B 1 金子角之助 生没 1866.12.25-? 出身 高座郡綾瀬村蓼川
かねこ かくのすけ 居住 所有
蓼川の武藤家の三男。耕余塾卒業後教職につき、自由民権運動に参加。
金子正左衛門(A 5)の養子となる。町会議員を経て2代目藤沢町長4期
B 2 長谷川多嘉 生没 1866.10.13-1958.9.7 出身 牛込区
はせがわ たか 居住 鵠沼村6642東屋 所有 鵠沼海岸2-8
東屋2代目女将。初代=榮の姉。画家=長谷川路可の母。墓所:本眞寺
B 3 萩原 輝 生没 出身
はぎわら あきら 居住 所有
長谷川欽一の後見人
B 4 加藤徳右ヱ門 生没 1875.9.8-? 出身 鵠沼村引地
かとう とくえもん 居住 鵠沼村引地 所有 鵠沼村引地
引地の酒・醤油醸造業、黄金飴製造に成功し飴専業となる。一代前より 鵠沼の宅地開発を手がけ、藤沢町会議員。後に『現代の藤澤』を編著
B 5 松良夫 生没 1864.6.21-? 出身 鵠沼村仲東
たかまつ よしお 居住 鵠沼村仲東 所有 本鵠沼2-9
鵠沼きっての旧家。高座郡会議員を経て藤沢町初代町長。建碑時は町会 議員。墓所:鵠沼墓地
B 6 右近辰太郎 生没 出身 東京日本橋
うこん たつたろう 居住 所有
伊東将行(A 1)の一人娘=政子の婿。伊東将治(A27)の実父で後見人
B 7 福田良平 生没 1877.8-? 出身 埼玉県吹上
ふくだ りょうへい 居住 東屋の隣で開業 所有 鵠沼海岸2-13
伊東将行が呼び寄せた医師。東屋の隣に《鵠沼海浜病院》を開設、医院 長。東屋の女将=多嘉(B 2)の妹=長谷川蝶と結婚。藤沢町会議員。後に 藤沢の乗合自動車会社を統合した《藤沢自動車梶tの社長
B 8 齋藤正五郎 生没 出身 鵠沼村苅田
さいとう しょうごろう 居住 鵠沼村苅田 所有 本鵠沼5-10
齋藤六左衛門(A 7))の長男。藤沢町会議員2期、学務委員を務める
B 9 關根芳五郎 生没 出身 鵠沼
せきね よしごろう 居住 鵠沼 所有 鵠沼海岸3-8
鵠沼の《安場》を経営。藤沢の土建業の元締め大親分
C.別碑『建碑賛助者』に記された人々(イロハ順)
C 1 伊藤幹一 備考 (A10)参照
C 2 伊藤 清 生没 出身 東京府
いとう きよし 居住 日本橋区茅場町 所有 鵠沼海岸1-9-2
茅場町の呉服商。岸上由蔵(C40)の隣に居住
C 3 岩田正道 生没 出身
いわた せいどう 居住 所有 鵠沼松が岡1-20
明治43年獨協中卒、医博、三井厚生病院長
C 4 岩垂邦彦 生没 1857.8.15-1941.12.20 出身 福岡県
いわだれ くにひこ 居住 芝区三田1-4 所有 鵠沼松が岡3-1
士族=喜田村脩蔵の次男に生まれ、1864年先代=岩垂茂七の養子となる。
理科大卒。電気事業の可能性を研究し同士と工場設立。日本電気叶齧ア
C 5 長谷川欽一 備考 (A28)参照
C 6 藤堂紹 備考 (A13)参照
C 7 千葉恒次郎 備考 (A23)参照 ※碑に恒三郎とあるは誤りか?
C 8 千葉 清 生没 878.8.22-? 出身 東京府
ちば きよし 居住 麻布区新龍土町12 所有 鵠沼松が岡2-12
千葉忠三郎の長男、恒次郎(A23)の兄。東京高等商業学校(一橋)卒。
三井物産の綿布部を経て肥料部。推進取締役
C 9 岡田福壽 生没 出身 東京
居住 淺草須賀町 所有
C10 小澤ヒサ 生没 出身 横浜市野毛1丁目
おざわ ひさ 居住 横浜市野毛1丁目 所有
C11 加藤為二郎 生没 出身 神田区中猿楽町
居住 神田区中猿楽町 所有
石炭商
C12 川元姉妹 生没 出身 東京府
居住 鵠沼 所有 鵠沼松が岡3-8
貸別荘「川元別荘」(武者小路実篤も住む)所有
C13 梶川儀隆 生没 出身
居住 所有
C14 各務幸一郎 生没 1861.10.24-? 出身 東京府
かがみ こういちろう 居住 麹町区富士見2丁目 所有 鵠沼松が岡1-4〜10
各務省三の長男。日本郵船梶A東京電力梶A富士紡績鰍ネど、多くの有力企業の経営に参画し、東京海上火災鰍フ社長、各務謙吉の実兄。書生に後の歌人=山口茂吉
C15 金杉英五郎 生没 1865.7.13-1942.1.26 出身 千葉県
居住 神田駿河台 所有 鵠沼松が岡2-14〜15
金杉與右衛門の三男、姻戚恒の養子に。ドイツ留学、医学博士。
耳鼻咽喉科金杉医院設立。慈恵医大設立に尽力。建碑当時衆議院議員
C16 横井忠吉 生没 1883.2-? 出身 大分県
居住 牛込区矢来町3 所有 鵠沼松が岡3-5
横井忠直の長男。能楽シテ方、宝生流家元=宝生九郎。鵠沼は愛妾別荘。
次男はバレエ振り付け師=横井 茂
C17 濱源藏 生没 出身
居住 所有
C18 瀬彌一 生没 1887.7.28-1954.10.5 出身 横浜市
たかせ やいち 居住 建碑時は川袋 所有 鵠沼桜が岡1-5〜6
瀬三郎(A16)の長男。藤嶺中学教員→不動産業。後に藤沢町議2期。和辻哲郎・林達夫の義兄。
藤ヶ谷瀬邸で青年期を過ごしたが、父の死を期に川袋の5000坪の敷地に数寄屋造りの瀟洒な邸を構えた。後に震災で倒壊し、土蔵を中心に建て直した。離れには林達夫夫妻が暫く住んだこともある。詳細は[鵠沼89号]
C19 田中常徳 生没 1860.1.8-1923 出身 東京府
たなか つねのり 居住 麹町区中六番町 所有
三菱商業学校を卒業し、日本郵船を経て麒麟麦酒・帝国劇場・日本共同製茶・福徳生命各取締役
C20 田中 安 生没 1851.12-? 出身 東京市
たなか やす 居住 四谷区北伊賀町4丁目 所有 鵠沼海岸2-6
田中倉吉の長男。鵠沼別荘前の対江館(待潮館)を購入、中屋旅館として営業。土地を広く購入して貸店舗・貸別荘・貸家を手広く経営。後に石 油元売り田安商事鰍創業。長男=耕太郎。次男=上村元嗣→安一郎(鵠 生園)
C21 玉置孝兵衛 生没 出身 東京府
居住 日本橋区堀江町4丁目 所有
砂糖商
C22 佃 一豫 生没 出身 東京府豊多摩郡
つくだ かずまさ 居住 原宿 所有 鵠沼松が岡2-6
東京大学政治学科を卒業し内務省に入る。のち大蔵省の参事官・総理大臣の秘書官になり、大阪や神戸の税関長も務める。清国にわたって袁世凱の財政顧問になり、その後日本興業銀行副総裁・南満州鉄道総裁。"海軍航空の生みの親"と呼ばれる山路一善は実弟 。
C23 辻 一郎 生没 出身 東京府
つじ いちろう 居住 麻布区東町 所有
会社役員
C24 内藤彦一 生没 1865.7.6-1933.11.17 出身 山梨県
ないとう ひこいち 居住 京橋区尾張町 所有 鵠沼海岸1-9-24
内藤朝政の長男。米国で商業・経済学を学び、メーシー百貨店(ニューヨーク) で研鑽。鶴や呉服店(横浜)に入り、東京に進出、松屋呉服店→松屋百貨 店。支配人→専務。商工会議所理事。銀座菊水煙草店店主。玄洋社
建碑当時、米国から輸入した日本最古の組立家屋を建築[鵠沼79号]
C25 中丸一平 生没 1870.4.25-? 出身 東京市
なかまる いっぺい 居住 所有 鵠沼藤が谷1-7
山口藩士=中丸照一の長男。法科大学卒、三井物産門司支店長→本社営 業部長→取締役
C26 名塚源太郎 生没 出身
居住 所有
C27 山田松三郎 生没 出身 岡山県小田村
やまだ まつさぶろう 居住 芝高輪南町 所有
製糸合名会社代表社員
C28 松本直祐 生没 1858.6.4-? 出身 東京市
まつもと なおすけ 居住 日本橋区通油町 所有 鵠沼松が岡4-9
平井庄次郎の長男。松本家を嗣ぐ。呉服太物金巾卸業。鵠沼では貸別荘= 《松本陽松園》(建碑当時画家=岸田劉生も住む)を経営[鵠沼86号]
C29 馬越恭平 備考 (A15)参照
C30 益田信世 生没 出身 京橋区築地明石町
ますだ のぶよ 居住 京橋区築地明石町 所有 鵠沼松が岡3-22
益田 孝(A12)の次男。三井物産社員。小田原市初代市長。鵠沼の別荘を引き継ぐ(A12)参照
C31 深江基太郎 生没 出身
ふかえ もとたろう 居住 所有
C32 後藤武夫 生没 1870.8.18-1933.2.25 出身 福岡県
ごとう たけお 居住 京橋区木挽町 所有 鵠沼海岸1-9-5
久留米藩士=後藤増蔵の長男。 英吉利法律学校(中央大学)→第五高等学 校中退。同志社に学び全国演説旅行。福岡新聞記者を経て上京、帝国興 信所(帝国データバンク)を興す。鵠沼には賢夫人=タマが常住
C33 郷 誠之助 備考 (A17)参照
C34 小城ウタ 生没 出身 芝公園20
居住 芝公園20 所有
西洋料理店経営
C35 山祿郎 生没 出身 愛知県
あおやま ろくろう 居住 所有
逓信省技師→安中電気製作所社長。ダットサンのAの字は彼の姓から
C36 坂田重雄 生没 出身
居住 所有
C37 木下利吉 生没 1882.2.12-? 出身 東京府
きのした りきち 居住 神田区通新石町 所有 鵠沼松が岡2-16
代々岡山池田藩抱えの宮大工。江戸に出て維新後宮内省の出入り。鵠沼 には叔父=米三郎(C39)が関わった縁で母親=千賀子(定住)が広大な土地 を購入、貸別荘を営む。賀来神社石囲いの主柱献納者
C38 木下米三郎 生没 1858-? 出身 東京市
きのした よねさぶろう 居住 下谷区池之端七軒町 所有 鵠沼松が岡2-12
先代利吉の弟(分家)。鵠沼の初期開発を手がけた。神職の資格を持ち、
賀来神社の遷座を行った。賀来神社石囲い献納者
C39 菊本直次郎 生没 1870.9.12-1957 出身 三重県
きくもと なおじろう 居住 南青山 所有 鵠沼松が岡1-11
津藩主=藤堂家家臣=菊本保有の次男。慶應義塾卒。三井銀行常務取締役 →初代会長。同郷の俳人=松尾芭蕉の研究家としても知られる[鵠沼87号]
C40 岸上由藏 生没 出身 東京市
きしがみ よしぞう 居住 日本橋区南茅場町 所有 鵠沼松が岡2-17〜19
茅場町の商人。伊藤幹一と親交、海岸に広大な土地を購入。別荘なし
C41 三觜舜太郎 生没 出身 羽鳥村
みつはし しゅんたろう 居住 羽鳥村 所有
三觜八郎右衛門(A 4)の長男。本家当主。関東銀行の重役。第2期藤沢町会議員→学務委員
C42 柴 丑之助 生没 出身
しば うしのすけ 居住 所有
C43 柴垣鼎太郎 生没 出身
しばがき ていたろう 居住 所有
文部大臣官房建設課長。千葉大医学部本館など、多くの名建築物を設計。後に1923年関東地震の前日、鵠沼の池で投網をしてナマズをバケツ3杯も捕獲したと『地震なまず』にある。
C44 慈 教 庵 生没 出身
じきょうあん 居住 鵠沼字下鰯細川邸内 所有 鵠沼海岸3-13
浄土宗寺院。開山=颯田本眞尼。震災で倒壊後、移転して本眞寺となる
伊東将行の葬儀が行われ、本眞寺に墓碑も建つが、伊東家は日蓮宗で墓所は別(青山墓地)
C45 廣岡助五郎 備考 (A18)参照
C46 平井重美 生没 出身
居住 所有
C47 平山儀三郎 生没 出身 東京府
ひらやま ぎさぶろう 居住 京橋区本材木町 所有
売薬業
C48 久松定謨 備考 (A14)参照
C49 最上廣胖 生没 出身 秋田県大曲市角間川町
もがみ こうはん 居住 麹町区飯田町3丁目 所有 鵠沼松が岡2-9