講演記録「鵠沼松が岡公園になるまで

      〜なぜ緑は残ったか〜」


       講演日 1997年9月9日
       会 場 鵠沼公民館
       講 師 村川 夏子

 はじめまして、今ご紹介にあずかりました村川夏子でございます。
 今日は東京文京区目白台から参りました、
 しかし10年前までは鵠沼に住んでおりましたし、この中半分ぐらいの方のお顔はよく存じ上げておりますので、今日は大変懐かしく、半分ぐらいは同窓会気分で始めさせて頂きたいと思います。
 鵠沼には二回住んだことがあります。一回目は幼稚園の時、昭和20年代の終わり頃です。それで2回目が昭和51年から62年まで、ちょうど10年前まで、結婚して子育ての時です。私が二つの時期を過ごした家が昨年の4月に藤沢市の「鵠沼松が岡公園」になりました。白分の住んでた家が公園になるというめったにない経験をして、次々に緑が失われて行く昨今、よく公園になったと、自分自身渦中にありながら不思議に思い、公園に至ったわけを考えて見ました。
 今日は、「なぜ緑は残ったか」というところを頭に置きながら過去にさかのぽり、その時々士地が見てきたであろうことをお話したいと思います。ただ私、年齢はあまり言いたくありませんが、戦後の生まれでございます。でここにいらしゃる方々は鵠沼のことを私よりはるかによくご存知の方のように思いますので、皆様には「おや」と思われることがあるかもしれませんが、これは父が長丁場の晩酌の中で繰り返し語ることを、私がいつの間にか聞き覚えたからだと思っていただきたいと思います。
 公園の概要を御説明しますと所在地は藤沢市鵠沼松が岡5丁目8の30という住所です。小田急線が本鵠沼から鵠沼海岸へ行く中間で大きくカーブする時左手に見ることができる場所です。私が鵠沼に住んでいたと申しますと、それを知らないであそこは小田急線からいつも見ていたとおっしゃる方がたくさんいらっしゃるので、大体分かっていただけるのではないかと思います。
 面積はおおよそ1800坪ほどです。正確には1800坪はなかったと思いますが、もう詳細は忘れました。大きく分けますと、北半分が砂丘の上の杉林で、南の半分がかっては桃畑、今は原っぱになっています。こういう二つの異った部分から出来上がっている公園でございます。
 さていよいよ過去にさかのぽるのですが、なにぶん70年ぐらいの時間のお話をしなけれぱなりませんので、まず大枠を皆様の頭に入れていただきたいと思いまして、「鵠沼松が岡公園」の北の入り口こある公園の由来の碑を読んでみたいと思います。その前に由来の碑について一言御説明します。そもそもここが公園と決まった時に藤沢市の方から「何かご要望は」とお尋ねがありました。それで「なるべく現状保存、あまり人工的な手を加えないで欲しいということと、先々ここがどういうところだったかわからなくなるといけないから、何か由来がわかるようなものを作っていただきたい」と申し上げましたところ、その時は立ち消えになりました。ところが実際に昨年4月に公園として整備する突貫工事が行われた時に、市民の方から「いったいあそこはどなたの所有地だったのか」とか「とうしてあそこが残っているのか」とかお問い合わせがだいぶありましたそうで、それならやはり由来がわかった方がいいだろうということで昨年の10月に碑ができました。
















                 鵠沼松が岡公園由来説明板
 「この地は、村川堅固(明治8年〜昭和21年 東京帝国大学名誉教授)と長男堅太郎(明治40年〜平成3年 東京大学名誉教授)の二代の西洋史家が大正15年から所有していた別荘地でした。
 堅固は、樹木の大切さを説き、その精神は堅太郎に受け継がれました。
 周辺の宅地化が進む中、竪太郎は昭和47年に「保存樹林」の指定、また54年には「みどりの広場」の指定も受けて自然の姿の維持に努めました。こうして鵠沼の原風景である松林と広場が残りました。
 平成7年度この地は大蔵省の協力により国有地及び藤沢市有地をもって藤沢市の都市公園になりました。
 ここは市民の大切な財産です。
 みんなで守り、明日に伝えましょう」
 こういう文章になっています。しかし私のような中の人間から見ますとちょっと補足することができます。それで下から5行目「こうして鵠沼の原風景である松林と広場が残りました。」と言う文章の後に次のようた文章を足してみました。「平成3年12月23日に堅太郎が没した後、遺族がその大部分を物納した。堅太郎は自分の死後も自治体によって別荘の現状保存が図られることを望み、遺族は物納申請するかたわらこの遺志を藤沢市と大蔵省に伝えた。」それで次の「平成7年度、この地は大蔵省の協力により……藤沢の都市公園になりました」という文につながります。これが時間的経緯です。今日のお話もこの流れに沿って進めたいと思います。

現在の鵠沼松が岡公園

 このお話には村川堅固、堅太郎という二人の人物が登場します。
 堅固は明治8年に熊本で生れた学者で、西洋古代史のギリシャ史を専攻しております。堅太郎の方は明治40年東京浅草生れで、同じく西洋古代史、ギリシャ史だけではなくギリシャ・ローマ史ということになっていますが、そういう学者でございます。堅固が在職中に堅太郎がもう帝大を卒業しまして同じような職業でしたので、ある世代の方、もう八十もよほど過ぎたような世代の方ですけれど、堅固を「大先生」堅太郎のことを「若先生」といまだにお呼ぴになるような方もいらっしゃる、そういう家でございます。私は、堅固、堅太郎と続くその下の世代ということになります。ところがこんなところには絶対出て来ないのですけれど、もう一人非常に重大な人物がおりまして、それは堅固の母の菊、「お菊さん」というおばあさんです。「お菊さん」は生れたのは安政4年、10年ばかり江戸時代の人間です。彼女は熊本生れで、村川家というのは細川藩、このあいだ首相になられた細川護煕さんの細川藩士の家でございました。「お菊おばあさん」は父村川舟水の三女として生れました。代々村川の家というのは女の子ばかり生れる家のようで、お位牌を見るとご養子さんがやたらと多くて、現に私もついにご養子さんをいただく身になってしまったのですが、「お菊さん」はご養子をいただいて後を継ぎました。長女、次女ではなくて三番目が後を継いだということでそうとうなしっかりものであったようです。
 ところが不幸なことに、ご養子さんをいただいていくらも経たないうちにそのご養子さんがまだ若いのに急に亡くなられ、幸い堅固さんは生れたものの母一人子一人で、女手一つで育てられることになりました。「お菊おばあさん」は大変長命な方で98才で鵠沼で亡くなられています。ですから非常に長い間お一人でおられたわけです。生来のしっかりものに加えて、そういった境遇もあったせいなのか、良く言えばしっかりものだけれど、ちょっと底意地悪いようなところもおありになったようで、私の父なども「おっかないおばあさん」とよくいつており、通称「おっかないおばあさん」で誰にでも通じるようになっていました。この「お菊さん」はおっかないにはおっかなかったのでしょうが、堅太郎は四人兄弟で弟妹がおりましたから、「お菊おばあさん」に抱かれて寝るようなこともあったようで、「竪太郎の足はこんにゃくのように冷たいとおっかないおばあさんによく言われたよ」とも言っておりました。その様におばあさん子だった面もあるようで、堅太郎はずいぶん「お菊さん」から影響を受けたのではないかと思います。昔の方はどなたも今の方に比べはるかに親孝行でありましたでしょうけれども、墜太郎は、ギリシャ史などを専攻しているのに、日本的に、あるいは儒教的に親孝行であった部分もあるような気がします。

       猫を抱く「お菊さん」を中心に、左堅固氏、右に堅太郎氏

 堅固が生れたのは明治8年ですが、明治10年には熊本は西南戦争の舞台になりました。熊本城下は火が放たれて薬園町というところにあった村川の家も焼け落ちました。焼け出されの身でその跡に小さな家を建てて住んだようですけれども、この小さな家に住んだという記憶が堅固の中でよほどいやなものであったようで、大きくなってから「やはりある程度大きな家に住まなくちゃいけない。しかも家には大きな木がなくちゃいけない。」こういうことを言うようになったようです。
 大きな木のある庭ということになりますと、半然ある程度大きな敷地になってきます。今思うと東京の郊外の屋敷林というようなイメージだったのかなと想像するんですが、それで堅固は後に「住食衣主義を提唱す」という論文をどこかに公表したこともあるそうです。住食衣主義というのは耳だけで聞いたのではとても分からない言葉ですが、目で見ていただくと衣食住という通常の日本語をひっくり返していることがお分かりいただけると思います。私はこの「住食衣主義を提唱す」という論文をなんとか読んでみたいと思って、昨年家の中をひっくり返して捜しました。でも結局見つかりませんで、家からあまり遠くないところに国会図書館がありますので、国会図書館でも捜しましたけれど見つかりませんでした。復刻を専門にしている出版社の方にお尋ねしましたら、「そんなに簡単に見つかるもんではなくて、こういうのはあなた一生がかりの仕事ですよ」と言われて、いまだにこれを読むことはできません。こういうことに関心の深い方が昔のものをいろいろお持ちで、もしお目に留まるようなことがあればご一報いただければ大変幸せと思います。そういう訳で「住食衣主義を提唱す」は読むことは出来なかったのですが、昨年叔母が家に来た時に、叔母に「『住食衣主義を提唱す』という論文をお出しになったようだけれども、そんなものをご存知ありませんか」と尋ねましたところ、「論文を外に書いたかどうかは知らないけれども、それはうちの、あなたたちの堅固おじいちゃまの夕食のいつもの話題よ」という話でございました。堅固おじいちゃまは「衣食住という言葉は間違っている。まず住むこと、住が根本だ。住が一番だ。」といつもおっしゃていたそうです。それが夕食の話題だったくらいですから堅太郎も半然専攻のギリシャ史と共に、「住食衣主義」、家はある程度大きくしかも屋敷には大きな木がなくてはいけないという「住食衣主義」が身体の中に染み込んでいったように思われます。
 現に村川の家では明治43年に現在私が住んでいる家、目白台の本宅を建て、その後大正中頃に千葉県の我孫子市にやはり別荘を作りました。そのどちらもがもちろん鵠沼のように1800坪というような広さではありませんが、それでも「住食衣主義」を具現するかのような趣を持っています。おかげで今私は今日的尺度を越えた家に住まわせてもらっていますが、その有難さと共に維持の難しさも日々痛感しています。そういうことで「住食衣主義」というものが堅太郎にとって親父の精神だったということをまず頭においていただきたいと思います。その上で具体的な年月を追ってみたいと思います。

   

昭和初期の村川別荘(本門の前に立つ堅固氏)


 鵠沼の1800坪の土地はおおよそ3回に分けて取得しております。その第一回目が大正15年で榛葉さんの御一族から分けていただいたようです。村川の家はかって房総の勝浦で夏を過ごしていたのですがある時堅固のお友達で、戦前にありました光風館という出版社社長の上原さん、末裔の方が今鵠沼にお住まいと伺っておりますが、その上原さんが鵠沼に別荘地を求められたということを聞き、両家に共通に出入りしている大工の棟梁がいたこともあり、堅固もそれじゃあ鵠沼にということになって、その大工の棟梁さんと一緒に鵠沼の土地を色々物色したようです。それでその挙げ句に決めたのが現在のこの土地でございます。その時には、敷地のうちの北側、おおよそ三分の一ほどを買っております。こういうところにいらっしゃる方は当然ご存知の事なのですが、鵠沼の別荘というのは大体江の電の鵠沼のあたりから発達しています、,ここは江の電の鵠沼までは歩けば20分もかかるところで、通常では絶対別荘にはしたい場所です。それなのになぜこういう所に買ったかと言いますと、例の「住食衣主義を提唱す」で、大きな松がたくさんあったことが一つの理由です。もう一つはこの大正15年という年は、大正12年の関東大震災の直後なので、川筋よりもこのあたりが地盤がいいのではないかということです。実は本当に買いましたのはもう少し多ございまして、現在のお宮さんのちょっと手前のところまでのようです。それを堅固の大親友でありました宇野哲人(てつと)先生、うちでは「宇野てつじん先生」と言ってましたけれど、宇野先生と隣り合わせの別荘に住みたいということでこちら側をお分けしました。宇野先生は祖父と同じく明治8年熊本御出身で、堅固とは熊本の五高時代からの大親友で、しかも我家が西洋史なのに対しあちらは御長男の精一氏ともども中国哲学専攻の学者さんのお宅でした。物納は更地が原則ですからもう取り壊してしまいましたが、かつての私の家すなわち村川別荘をご存知の方はちょっと想像していただきたいのですが、この敷地の三分の一というのは家のあったところから南に1メートルばかりぐらいの所までだったそうです。あとは陽がささない北側の斜面で、そういう土地の買い方というのは今考えても、昔でもおかしいので「ずいぶん変な事をする人だ」と言われたそうです、。
 さすがにそれはちょっと具合が悪いので、昭和4年にこんどは帯のように、こういう面積を買いました。こちら宇野先生の方も同じように求められました。この上地はこの間まで市長でいらした葉山峻さんのおじいさまから買っているようです。昨年たまたまの偶然で公民館祭りのおりこの鵠沼を語る会の発表を見ていましたら、トレーナー姿の当時国会議員になられたばかりの葉山さんがいらっしゃいましてびっくりしましたのですが「お分かりになるかなあ」と思って「村川です」とご挨拶しましたところ、非常にここの事はよくご存知で「ああじいさんから買ったんだ」とおっしゃっておられましたので間違いないだろうと思います。
 今、かつての別荘というお話をしましたけれども、レジュメに家と書いて「田の字」という字を書きました。その別荘のしいて特色というと、昭和初年の頃ははやりだったそうですが、使われている屋根はセメント瓦です、三州瓦ではありません。「田の字」といいますのは昔の農家の造りを思いうかべていただきたいのですが、大部屋を障子で田の字のように仕切るということで、我が家の場合は(右の図のように)T字に建てた障子で三部屋に使ったこともあるようです。けれども夏別荘として利用する時に障子をすっかり取り払ってしまうと中の柱一本を残して実にせいせいとした21畳の座敷になります。祖父は柱のまわりに学生を車座に集めて講義をしたこともあったと聞いております。ただし今日の住居としては大変住み心地の悪い家で苦労がありました。
 次に今度は思いがけず昭和9年にまた葉山さんのお家から桃畑だったところが売りに出ました。これは総面積の半分強だと思いますが、900坪という土地です。ここに他の方の建物が建つことを考えるとやはり南側の眺望は大事ですから、買えるものなら買いたい。しかし当時であっても900坪の十地というのは大変な買物なわけです。そこで家族会議になりまして評定をしましたところ、ここで先程お話をしました「おっかないおばあさん」が登場します。「おっかないおばあさん」は明治維新も西南戦争も経験しているいわば人生経験の大変豊かな方で「将来兄弟して芋を作るような御時勢が来るかもしれないから買えるものならぱ買っておけばいい」という事でありまして、大変思い切った買物をすることになって今の形が残ったわけです。
 さて昭和12年になりますと堅太郎と妻の操がここに定住することになります。堅太郎は昭和10年に結婚しましたが、なにぶん本宅の方には「おっかないおばあさん」始め上の世代の方がたくさんいらっしゃいますので、それなら空いている鵠沼に住んだ方がよかろうということになったようで、昭和12年から昭和27年まで住んでおります。そう見れば分かるように昭和12年から27年という戦争に突入してそして戦後という日本の国民誰しもが一番困難だった時期を鵠沼で過ごしたことになります。父が話した鵠沼の話は、例えば実際に戦地に赴かれた方とか空襲に遭われた方から見れば、どれほどという戦争体験ではないかもしれませんが、私のような戦後の生れの者にとっては非常に驚くべき体験だったと言えます。それを晩酌の時に、まあいろんな晩酌の話題があるのですけれど、とどの詰まりは戦争の話になるわけでずいぶん聞かされました。
 ところがこの話をうまく皆さんにお伝えしようと思うと、当人の語り口というものがあってうまくいきませんので、ここは思い切って父が残した随筆集の中から引用させていただくことにします。昭和12年という時についてここに書いてある通りに読みます。

         

桃畑に立つ堅太郎氏(昭和15年頃)


 「12年の末にここに移った頃には人家が増えたとはいえ今から思えばここはまだ勤め人の住む所というというよりも病人の静養の地であった。私共が移り住んだについても家族に病人があるためと解した人もあったし、私を直接知らぬ人は私自身が蒲柳の質と早合点したものもあった。都会的な享楽から一切遠ざかった私は家が松林と畑との一軒家なので幼時に飼った犬と散歩したり、草花を作ったりするのを楽しみにした。」
 お回ししているアルバムに犬とシクラメンが出ている写真があると思いますがその他にも犬は沢山出ていると思います。犬は二代にわたって飼いまして一匹目はアルテミス、二匹目はローランという誠に西洋史的な名前で、大変可愛がっていたそうです。
愛犬アルテミスと堅太郎氏
「何事にもちょっと凝り性な私は花を作る以上一年中絶対に花を絶やさぬようにと心がけ、さりとて温室を備える身分でもないのでフレームだけでできてしかも厳寒の中に続々と清楚な花を付けるシクラメンの栽培に熱中した。夏はメキシコが原産とかいう妖艶きわまりない花を開くグロキシニア、黄菊や白菊に閑寂の趣を味わうにはまだ若すぎた私はそのような西洋渡来の草花の丹精を慰めにしていた。」 とこう書いてあります。
 「その問にも大陸での戦争は舞台ぱかり広がっていつ果てる見込みもなかった。次第に配給制度が強化されていった時私は...」
 この本はいつの時点で書いている随筆かといいますと、昭和21年に書いて22年の頭に出版されています。題は「晴耕雨読の記」というものです。これをまずご説明しておきます。ですから引用したものはその時点から考えてということになります。
 「一昨年から昨年のようになるとは予想しなかったが、きっと目本は食料で行き詰まると考えて草花いじりをさっぱりやめて畑作に転向した。麦作りも芋作りももう5、6年になるから所謂家庭園芸では早い方かもしれない。ほんのおしるしではあるが麦の供出もしたから骨を折って育てた穀物を供出するものの気持ちも都会のインテリよりはわかっているつもりである。」
 というふうに書いてあります。昭和12年というのは日華事変が起こった時で戦後生れの私の低空飛行の歴史の知識では、日華事変と真珠湾攻撃という年号だけ覚えて、日華事変から大陸での戦争が拡大していつ果てるともしれない状況を実感をもって理解できないのですが、これを読むとそういうことのようです。
 昭和15年から16年頃、まだ真珠湾攻撃が始まる前からどうも先はあやしいということで麦作りや芋作りを始めていたようです。
 先程私が東京のお友達といっしょにこの公園の中を通り抜けて来たおり「どこが畑だったの」と尋ねられました。ようするに南半分の原っぱだった部分、松林以外がことごとく畑になったわけです。そもそもここは葉山さんの時から桃畑であったようですがそれをどうやって区分けしたのかさまざまなものを栽培していたようです。
 この「晴耕雨読の記」というのはかなりの長丁場にわたって子細に書いてある随筆でしか相当専門的で難しい部分もあります。、専門的な知識がよっぽどある方以外は私がいつもやっているようにわかる所だけを飛ばして読むのが一番いいかとも思います。そこですっ飛ばして読んだ結果どういうものを作っていたかと申しますと、穀物では小麦、さつま芋、じゃが芋、おそば、果物では主に桃、例えばりんごやみかんなどというものも試したようですが、これはいかにも合わないということでクビになりまして、最終的に残るのは鵠沼ではなんといっても桃になります。桃も水蜜の系統、山桃、黄桃いろいろ試みてみたようです。
 それからにわとりを飼い山羊を飼いました。最後には蜂を飼って蜂蜜も採りました。そんなことをいろいろやってみたようです。いろいろ書いてありますがその中でどのような仕掛けで農業をしていたかというところを読んでみます。これは麦の部分です。
 「ところでこの小麦のパンであるが自分で作った麦を村の製粉所で製粉して純白な粉に仕上げた以卜、何とかして昔を忍ぶ真っ白な食パンを自家製造したくなるのは人情であろう。『麦は下で作る』と言われるように11月のやかましい適期の間に夕闇の迫るまでかかって蒔き付け農学上砂上(さど)、すなつちといわれる土気のない畑に夏から刈り集めた草で作ったたい肥を人一倍入れ、追肥と中耕を重ねて、強い陽光にさらされながら刈り入れる。梅雨時に際しての脱穀から干し上げまでの労苦はこれまた野菜作りしかせぬ人には口で言ったところで到底分からないだろう。重曹臭い蒸しパンに飽き足らずに・・・」
 あとはイーストに関する説明が延々と続くわけです。例えば桃の場合はどうかと言いますと、桃というのはあまり地味がいいと生育ばかりして実をあまり付けないのだそうですね。ということで 「この片瀬以西、大磯に至るまでの湘南の海岸は同じような砂浜で育つ木といえば松と桃との他には何もない。畑の適作は西瓜、南京豆といったところで戦争中白眼視されたものばかりである。主食増産のために一昨年この地帯の桃畑が全部掘り返されたのはやむをえぬ措置ではあったが、陽春の候、三、四寸の麦の緑に桃の花の相映じた美しさの当分見られないのはちょっと寂しい気がせぬでもない。菓子が乏しくなってから甘味自給のためにと私は桃を主体としてさまざまな果樹の苗を植えてみた。」
 ということで、実際この湘南地区では食料増産のために桃畑は畑に作り替えさせられたようです。ただ、うちの場合は桃は隠れて作っていたのかどうか、この桃を御近所に差し上げて喜ばれたそうで「御近所には御奉公したよ」とよく申しておりました。父が亡くなりました時新聞に名前が出たものですから、随分お花を頂戴しましてその中にお一方ぜんぜん私の知らないお名前の方があったものですから、お尋ねしましたところ「私は以前鵠沼に住んでおりました辻直四郎の娘です」とおっしやいました。辻直四郎先生は印度哲学でいらしたか、その先生のお嬢様だそうです。その方からまたお手紙を頂戴しまして、その中に「村川先生の記憶は点のようにあります。戦争中桃を持ってきて下さった村川先生は子供の私にとって文字通り”甘い思い出”でした」という文章がありました。その当時の桃の甘さというのは本当においしいものだったようです。
 そしてにわとりも飼いました、山羊も飼いました、こういうと今日では有機農法みたいで優雅なようにも聞こえるのですが、にわとりを飼う、と一口に言いましても、ものを飼うためにはまずエサが要るわけです。それでにわとりを一羽飼って卵を産ませるにはどれだけの畑が要るかなどと勘定しているうちに、にわとりも盗まれてしまって、今度はエサの心配はなくなったと書いてありました。エサの心配と言えば、当時は人間が食糧難ですから当然といえば当然なのですが飼っていたローランという犬も、栄養失調のために死んでしまいました。その話の頃になるとちょっと目元があやしいかなという感じになってきたものです。当然ながら犬も死ぬという世の中にお隣の宇野さんの別荘の番人をしてた方も急にポックリ亡くなって、さりとて身内の方が駆けつけられる世の中でなし、隣組で遊行寺を上がったところで火葬したというようなこともあったようです。

 そうして農業に忙しい毎日であったのですが、実は堅太郎の本当の悩みというのは農業だけではありませんでした。何が最大の悩みかと言いますと、堅太郎の本業は学者なんです、戦争中といえども、当然大学は動いております。それが最大の悩みだったのです。その部分を読んでみます。
 「もちろん水田耕作の経験は皆無だから日本の農業の本当の姿は私には未知の世界と言った方がよかろう。けれども農繁期の「猫の手も借りたい」という農家の忙しさは、農家の耕地に比べたらままごと程度の私の畑でも身に沁みるほど味わわされた。5月、6月、10月、11月の春秋の忙しさは水田を作らずとも同じ事で、それがまたちょうど授業の真っ最中ときているから学問と農耕との間に挟まって本職の百姓にはない精神的苦悩に責められるのである。自分は能う限り闇の品は買わないのだ、そのための農耕だと考えて畑におりる。しばらくすると、自分がこうやって麦蒔きの下地を作っている間にも机に向って学問に沈潜している人があるのだ。学問するためなら闇買いに不足を補うほうが正しい道ではないか、こんな問答が頭の中に幾度も繰り返される。この間のことである、戦災以来移られたO博士が通り掛かって、O博士というのは美学の大類先生のことですが、『あなたのは労働の部ですね、晴耕雨読というのは結局虻蜂取らずですよ』と言って笑われた。」これがまあ、最大の悩みだったわけです,,
 でもどうも「虻蜂取らず」でもなかった、という気がする記事をある時新聞の中で発見しましたので読ませていただきます。これは父が亡くなった半年後平成4年の7月の朝日新聞夕刊の「出会いの風景」という小さな記事に永原慶二さんとおっしゃる日本史の方が書かれた文です。
 「戦時下東大国史科の講義にはほとんど心を動かされなかった。そうした中で西洋古代史の村川堅太郎先生の講義は学徒動員で徴兵されるまでの2年問休まず出席した。先生は当時まだ30代後半の助教授だった。(中略)先生はこよなく几帳面で毎回完壁なノートを作ってこられ、それを2時問近い時間いっぱい読み上げられた。学生もひたすらノートをとるだけで相当に苦痛だった。しかし私はそこで歴史研究の本格的手続きを学んだ。(中略)戦争が苛烈さを加えてゆく中で村川先生がどのような問題意識を持ってこうしたテーマに情熱を燃やしておられるのか充分には分からなかった。しかし先生の学問的、人間的誠実さは自ずからに軍国主義への抵抗に通じて学生の胸にもひしひしと伝わってきて、聴講者は少数であったが休むものはほとんどなかった。」
 と書いてあります。その時どういうテーマに情熱を燃やしていたかと言いますとローマ人の大土地所有という竪太郎としては当時最新の問題で、鵠沼での農耕という実体験をふまえながら専門的な研究もやっていたようです。この「ローマ大土地所有制」という論文は戦後の昭和23年に発表されました。

 そうしてる間にも戦争は刻々と進みまして、終戦直前のことを父はよく怒りを持ってこう語っていました。「県木(神奈川県木材株式会杜)が来て松の木を切りやがって、ひでえもんだ」なにしろ晩酌の最中の話ですから、大分その頃になるとお酒も廻ってきまして日本語が少々乱れて「ひでえもんだ」「ひでえもんだ」と繰り返していました。「県木が来て松の木を切りやがって」と言うのを何度か聞いた後に私は「それは何のために使う松なの」と聞きました。そうしたら父がこう申しました、私はそれを聞いて仰天したのですが、「敵の相模湾上陸に備えてお伊勢山あたりに塹壕を掘った。その土止めのための松なんだ」とこういう話なのです。それはもう終戦直前の、新型爆弾が落ちる寸前に日本はそういう事をやっていたのかと思った時に、私は始めて今度の戦争ってどんなものか身体で感じたような気がしました。
 さて3月10日の空襲の後にそれまで東京におりました、祖父の堅固、「おっかないおばあさん」、堅固の奥さんの三人はつてを求めて兵庫県、姫路の北の方に疎開しておりました。それからは鵠沼と疎開先の兵庫県の溝口の間でたくさん手紙のやり取りがありまして、その往復書簡が残っております。それもその頃の記録だと思いますので往復書簡の一部を読ませてもらいます。これは昭和20年6月14日付堅太郎から堅固への手紙で勤労動員に駆り出された時の話です。
 「咋日は国民義勇隊の出動で藤沢飛行揚内の壕掘りに出動させられ重いぐちゃぐちゃの粘土を掘って運ぶという生れてから一番ひどい労働をさせられました。朝七時に出て夕方六時半帰宅、しかも私の相棒だった人が粘士に足を滑らせで骨折して入院するという始末、一週に一回くらいこれがあり勤めを休んでも出ねばならぬというので閉口です。それよりさらに心配なのはかかる壕に使う松材のために軍隊が鵠沼でも過日伐木を行っており、宇野さんの先の宮の森も裸になりました。明日にも宅に来やせぬかとびくびくものです。」
 とこう書いてあります。宮の森まで来れぱ家はもうすぐですから次の25日付けの鵠沼から溝口への手紙ではついに切られてしまっています。
 「松の伐木は総数120本ばかりですが、家の周囲だけは助かりました。これでも40本くらいは残ると思います。門や東屋はだいたいむきだしとお考え下されば相違ありません。ごく細い木だけがところどころ残ります。但し焼けた人たち、家族を失った人のことを思えば松ぐらいは物の数に人らぬと思います。」
 等々書いてあります。こういうような時局の中でいかに「住食衣主義」で大きな松があるところと別荘地を求めても、120本の松はあえなく切られてしまったのでした。

 こうして終戦を迎えそしてその翌年の昭和21年1月には祖父の堅固が疎開先の溝口で亡くなりました。祖父はその半年くらい前からもう長い事はないだろうといわれていたようで、堅太郎は自分が丹精した蜂蜜を秋には溝口まで届けてこともあったようですがいかんせん当時の結核ですから蜂蜜があってもとても助かるものではありませんでした。それで死期を悟った堅固が堅太郎に「これから何とか目白台の本宅と鵠沼と我孫子の別荘を維持していって欲しい」と頼んだそうです。ところが戦後すぐの時で物はない、インフレはどんどん進む、先はどうなるかわからないという時ですから堅太郎は正直に「こんな時にとてもそんなことはできない」と答えたそうです。ところがそれが大変に堅固を嘆かせたそうです。「おとっつあんを嘆かせてしまった」このことが堅太郎の大きな後悔となって、この後悔は結局お墓の中にまで持って行ったと思います。「私も若かった。結局考えてみるとその後45年も持ちこたえてきた。目白も我孫子も鵠沼もこうして持ちこたえてきた。
 今なら私はおとっつぁんにこんなことは言わない。だけどあの頃は若かった」という話の繰り返しでこれはもう本格的に目元がうるんできます、八十過ぎてもそんなありさまでした、三つの土地の維持が出来ないと言って、いまわの際のおとっつぁんを嘆かせてしまった後悔が一生きえなかった。その後悔こそが後々つい最近まで東京、鵠沼、我孫子の三つを持ちこたえて来た原動力になったというふうに私は考えています。

 私は昭和27年頃から幼稚園のあいだを鵠沼で過ごしました。私の記憶は知ってらっしゃる方には言うほどのこともないでしょうが、私の家にはまだ桃畑があって出来た桃は鵠沼海岸の外れの肉屋さんの向かいの八百屋さんに売ってました。桃畑があったのは我家ばかりではなくてまだ他にもたくさん残っていましたし、私は麦畑の穂の間を見え隠れしながら幼稚園に通ったそうです、、誠に変な話ですがこの家の畑のど真ん中には肥溜めもしっかりありましたし、いちじくかんちょうやら落とし紙のあるような砂の中で私はころげまわって遊んでました、これは私の中で最も楽しい記億の一つです。今日東京からいらした方などにはとても想像がつかないと思いますが、本鵠沼から私の家まで来る間に人家がほとんどない、数えるほどでした。こうして鵠沼時代を過ごした私でしたが、昭和30年小学校に上がるため私は東京に戻りました。
 するとここは誰も住まない所になってしまうわけですが、幸いに敷地内に二軒の家がありましてお隣につい最近まで管理人を務めて下さいました関根秀道さんご夫妻がお住まいでそれ以後ずっとここを守って下さることになりました、関根秀道さんご夫妻はこの広い土地の清掃はもちろんのこと、大変植物を可愛がられて特に会社を退かれた後は家の北側の柾木の生け垣がをまるで自分の孫子をいつくしむように大切にされ誠に見事な生け垣に造り上げられました。
 平成5年の「藤沢市緑と花いっぱい推進のつどい」でこの生け垣が銅賞をいただきました、私は金賞をあげたいくらいだったのですが本当に銅賞をいただけてよかったと思います。柾木の生け垣を記憶しておられる方も多いと思いますが、残念なことですが今度公園になるに当たって見通しがきかないということで生け垣はなくなりました。なんといっても大変長い間ここの場所をきれいにしていただけたということが今日まで持ってこられた大きな理由の一つだと思いますので私は関根さんご夫妻、私にとっては「関根さんのおじさん、おばさん」という感じなのですが、関根さんには大変感謝しております。
 東京に引っ越してからの鵠沼の記憶は夏毎の点のようになりますが、何と言っても驚くべきは来るたびに人家が増えてゆくことでした。本鵠沼まで数えるばとだった家が増えてやがて人家と畑の割合が逆転して行き、しかも東京オリンピックの時には敷地の北から西側に流れていたどぶも暗渠になって道路幅が二倍、つまり今の広さに拡張されかつての面影がどんどん薄くなってゆきました。人家が増えるという事はとりもなおさず地価も上がってゆき、地価が上がるとういことは固定資産税も上がるということで、これだけの土地の固定資産税を払い続けるのが難しい世の中になってきました。その状態を察知して藤沢市で昭和47年からだと思いますが、保存樹林という制度が導入されまして、我が家はいち早くこの制度の適用を受ける事になりました。家のある辺りを除いて松林の大部分が保存樹林の指定を受けその部分の固定資産税が減免になりました。これは大変ありがたいことであったわけです。

         

関根さんお手入れの「生け垣」


 その後昭和51年に私たちが結婚して鵠沼に住む事になりました。その前あたりからだったと思いますが、松喰い虫が出てくるようになって、なんだか松の葉が茶色いなと思っていると、2週間もしないうちにあれあれという間に一木まっ茶色に枯れてしまうという大変手の付けられないものでした。藤沢市ではかなり早い時期から松喰い虫で枯れた松は防除のためには切って焼却するほかないということで市のお金で切って下さいました。これは大変手厚いありがたいことで、なぜかと申しますと我孫子の松枯れの場合は個人持ちでしたので、一本切って何とかというと十万近く掛ってしまい大きな負担でしたので藤沢市でやって下さったという事は我が家にとっては大変ありがたいことでした。
 昭和53年になりますと、これは私の長女がちょうど1歳になったころですが、思いがけない事が起こりました。 それは宇野さんのご地所のことで、その前少しあたりに宇野哲人先生が亡くなりになられ、その相続税のために土地が売りに出されて開発されることになりました。宇野先生は祖父と同じ時にお生れになり百歳ちょっとまでご長寿でいらっしゃったと思います。共に別荘を作り宇野家も地続きの松林でしたけれども、この松が切られる事になったのです。不覚なことにこの木が切られた日私は娘から「はしか」をうつされて寝ておりチェーンソーの鳴る音を一日聞いておりました。起きられるようになって見に行ってみますと、大きなくすの木が切り倒されてあたりに樟脳の匂いがただよっておりました。なんとも言えない気持ちがしました。
 切り倒されたのは序の口で今度は小高い砂丘がブルドーザーで切り崩されて地ならしされました。この振動というのもたまらないもので、なにしろ古家ですから、今にもこっちがどうにかなるんじゃないかと思う日々を経て多分700坪くらいの土地に十数軒のお家が建つことになりました。お家が建ったという事は実は私にとって歳の近い隣人が増えたということでもあり、お友達が増えてその後の生活が大変楽しくなりました。子供達にとっても良い思い出が沢山出来ましたので、この事を悪かったと言うつもりはありませんが、ほとんど同じような変遷を辿ってきた宇野別荘の方が開発されたということを目の当たりにして、いつかは村川の家でも相続が来るだろうけれども家はいったいどうするんだろうかというのが私の胸から片時も離れない忘れられない問題になりました。
 さらに私がショックを受けた事はその次の年実家に帰りました時に母が「この間固定資産税を全納したものだから貯金通帳がすっからかんになっちゃったわ」と言いまして、私は生い育ちの中で多少の苫労はありましたけれど経済的な問題で苦労したことがなく、家庭を持ってにっちもさっちもいかないと悟った時期に、固定資庫税を払うのは大変らしいとは思ってはいたものの、そこまで行き詰まっているとは思わなかった、実家の方でも貯金通帳がすっからかんになっている事を聞いて大変な事だと初めて認識しました。母の方は毎年毎年そんな事を繰り返しているもので私ほど青ざめてはいないのだけれども、何とかしなくてはいけない時期がもう来ているのだという事がその時分かりました。
 ところが捨てる神もあれば拾う神もあるようで、それからいくらもしたいうちに藤沢市の広報の中に「みどりの広場を求めます」という小さな記事を見付けました。みどりの広場と言う制度をご存知かどうか分かりませんが、これは藤沢市のみどり課の管轄の事業で、家庭菜園や子供の遊び場などの方法がありますが、いずれにしても藤沢市の借り上げにより固定資産税が減免になります。これを目白の父に話をし、父も「もう固定資産税はたまらん」ということで藤沢市に申し込んだところ、大変喜んで下さりそちそも桃畑だったところを「子供の遊び場」という形で提供する事になりました。それで私は自分の二人の子供もこのみどりの広場で遊ばせながら、よそのお子さんが遊ばれることも毎日見ながら暮らす事になりました。

    

「みどりの広場」になる直前の姿

もうその頃になりますとこの鵠沼でも子供が安心して遊べる場所と言うのは実に少なくなってきて、みどりの広場になる前からあっちこっちからお子さんが家の中に入ってきていることがしばしばありました。なにしろ広いし空いているからと思って大体は遊ぶのを見ているのですが時にはあんまりかなと思って外に出ていって「ここおばちゃんの家なんだけど」と申しますと、そのお子さんが「ここはおばちゃんのうちじゃない」と言うんですね、「どうして」と聞くと「だって広過ぎるもん」こういう漫才みたいな時代が来ていましたので、これがみどりの広場になったのはまあ時期を得た事だったと思ってます。
 広場で遊ぶお子さん達を見ていますと、あそこは何も遊具がないところですから、なかなか遊び出しはむっかしいのですが、いったん遊ぴ始めてしまうと私たちの頃にはやらなかった「氷鬼」などに夢中で子供が活性化されると言うのでしょうか体温が上がるように生き生きとして遊んで、夕暮れになってお母さんがお迎えに来ても「帰るのがいやだ」と言って広場の注意書きの看板に隠れたりすることがよくありました。しみじみと子供にはこういう遊び場が本当に必要なんだと思いました。そのころも今日ほどではないとしても子供の様々な問題が新聞をにぎわしており、そういう言い方が適切かどうか分かりませんが、大人の諸事情によって子供が遊ぶ場所を取り上げてしまったのではないか、何としてもこの遊び場が続いて欲しいもんだと思うようになりました。ここにいらっしゃる何人かの方にお世話になって大変楽しい鵠沼生活でありましたが、残念な事に昭和62年に母が具合が悪くなりまして東京に戻る事になりました。東京に戻るに当たっては母の病気ももちろん心配でしたし、これから始まる三世代一緒の生活というのも心配でしたけれども、私にとって非常に心残りだったのはこのまま引っ越して行ったあと鵠沼はどうなるのだろうかということでした。
 これからは鵠沼を離れて東京の話になりますが、東京に戻りましてからもなかなか落ち着いた生活は出来ませんでした。お手元の資料に平成元年”平静ならざる”と書いたわけですが、この平成元年の5月6月には私の目白の家の近辺ではいろいろ問題がありました。問題は大きくいうと二つあったのですが、まず一つめは私の家の南隣、これは昔菊池寛も住んだ事があるという土地なのですが、ここの300坪ほどの空き地がある時駐車場にしますからという事で、一木一草残らず全部切り取られてしまったのです。私はまたもやチェーンソーの音を聞くことになってしまったのですが、これが駐車場になるのだと思っていたらしばらくたって文京区の方がお見えになって「ここは文京区が買い上げまして、五つの目的を持った目白台総合センターにします」というお話でした。3階建てで屋上の付いた建物という事で、ところが私たちは東京にあっても閑静というかのんきなところに住んでいたものですから、どうも3階建てで屋上の付いた建物というのになじめなくて、そうこうしているうちにその建物に対して意見を申す地域住民団体の代表村川堅太郎ということになってしまいました,そんな事で家でお集まりがあって父は「平静ならざる平成元年だ」と毎日嘆いておりました。しかしこれも何としても解決しなくてはならない問題で、ここのところの話は大分省略するのですが、私はある事を思い付いて藤沢市の社会教育課に電話をしました。それは目白台総合センター問題を解決するヒントが藤沢市社会教育課が管轄する「子f供の家」というのにあるのではないかと思ったからなのですが、電話はいつのまにか脱線して、藤沢市の杜会教育課での方は子供の家の用地を求めている、私の方では鵠沼に土地を持っているという、情報交換をする事になりました。その情報交換の結果翌年の平成二年に社会教育課の方からここの土地を予供の家にどうかという打診がありました。私は先々の事を考えればそれはいい方向なのではないかと思ったのですが、ところが父が大変怒りました。「もちろん藤沢市に将来残してもらえるのはありがたい、けれども私の目の黒いうちは何としても動かさない」とこう占うわけです。その時に「ああ、この人にはやはり昭和20年代の映像が頭の中に焼き付いているのだなあ」と思わざるをえませんでした。しかしその時に社会教育課の方が「その土地のことは藤沢市の助役もよく存じておりますから」と何度かおっしゃいました。私はその時は意味がよく分からなかったのですが、あとになってどうやらそれが活きたらしいと分かる時が来ました。

 もう一つの問題というのは道路を隔てた西側の方にこちらも民間でなく自治体であるところの長野県東京事務所の職員宿舎がありまして、この建て替えが始まりました。この建て替えというのはある時突然チェーンソーで木が切られる音で始まりました。私は「またチェーンソーか、また木が切られるのか」と思っておりましたところ、父が外へ出てゆく気配がして、その後の話は御近所の方から聞いたもので、私は実際は見たわけではありませんが、父が「このくすの木はチェーンソーなら5分で切れる。けれどここまで育つには80年や90年はかかる。くすの木を切るぐらいならその前に俺を切れ」と言って腕組みして根元に座り込んだのだそうです。まあ歳も歳ですし、そんな事をやりかねない所もありました。その長野県の宿舎の中には大きなくすの木が6本ありました。それを切るというのを良く言えば命を張って止めたことになりますが、その後に父がご近所の方とご相談して長野県にお手紙を書きました。「長野県の妻籠、馬籠の緑も大事だろうが都市における緑がどれほど大事か皆さんご存知か」という手紙で、これを受け入れて長野県から「切る予定だった三本のうち一本はやむを得ないから切るけれども、二本は移植して道路際に植え替えてから建設します」というお返事があって、現在家の向かい側に大きなくすの木が三本並木のように生えています。このころ父も相当歳を取りずいぶん言動がわがままで、私はとても疲れていやになる事もあったのですが、この出来事には目を覚まされる思いがしました。
 その中で私が一番感じた事は「何としても声を出して発言してみないと出来るか出来ないかは分からないのだ」という事でした。父の行動そのちのが私に対する最大のメッセージだというふうに思っています。その後文京区の動き、それから長野県がくすの木を移植したために難工事になったのにもかかわらず緑を大事にして下さった事、等を踏まえましてその後晩酌の話題に「やはり我が家も先の事を考える折りには藤沢市や我孫子市に相談するのがいいだろうね」としばしば父が口にするようになりました。

      

移植作業中のくすの木(左)と現在のくすの木(右)


 そういう思いを我が家の晩酌の話題だけではなくて、平成2年の終わり頃に我孫子の村川別荘で開かれた座談会の席でも話しました。我孫子市というのば鵠沼にお住まいだと随分遠い所に思われてあまり御存じないかもしれませんが、武者小路実篤、志賀直哉などが住んだ所で、市史研究も盛んです。
「我孫子の別荘を語る」というタイトルで「我孫子市史研究」という本に載せる為の座談会に父もお招きいただいたのでした。この座談会の席上では我孫子の別荘という地域史のような、かつ自分史のような様々な面について語る事になりました。とりわけ一番最後のところで「先々のことを考えてこういう世の中の移り変り、つまり万物流転なんだが、できれば現状保存をしたい」という事を話しました。これはかなりプライベートで校正の段階で迷う所はあったようなのですが、やはリ最後の現状保存という部分を全部入れてます。そして私はその事を藤沢市民である方々に聞いていただく機会があればと思っていましたところ、たまたま昨年野口さんにお目に掛かりそれで今日こういう機会を作っていただいたということになります。質問の時間を取った方がいいように伺っておりますので一応このへんで終わらせていただきます。
 どうもありがとうございました。
                          村川堅固氏               村川堅太郎氏
 

鵠沼の歴史的家屋

記録へのご協力を

  私ども「鵠沼を語る会」では、「鵠沼の歴史的家屋の記録」に取り組んでいます。別荘地鵠沼の特徴としてあった大正、昭和初期の大別荘貸別荘も、急速にその姿を消しつつあります。時代流れとしていたしかたないこととは思いつつも、古きよき鵠沼への愛惜は禁じえません。
 鵠沼の歴史としてせめて映像、図面に残して留めたいと考えた次第です。
 手初めとして「松本別荘の記録にとりかかっておりますが、その他にもこれはと思われる建築物、建造物があれば当会までお知らせください。よろしくお願いいたします。