「クゲヌマエンシス」と呼ばれる小さなエビの話
伊 藤  聖  
(元朝日新聞科学部記者 鵠沼在住)
 まだ高度成長が始まる以前の昭和31年(1956年)の夏、鵠沼海岸3-6のN邸の池で発生した小さなエビの名を尋ねられたことがあった。「毎年いまごろになると、たくさん生まれるんですけど、なんというエビなのでしょうか」と、そのN邸のお嬢さんから、エビの入ったビンを預かった。
 当時、勤めていた平塚江南高校に持ち込み、生物学の五十嵐耕(ゆずる)先生にお尋ねすると「ああ、これはホウネンエビです。日本のどこの田圃にでもいますよ。これが多い年は豊年になるという言い伝えがあるので、そういう名前がついたようです」と明快な答えが返ってきた。
 二、三日して、五十嵐先生が「ホウネンエビのことですが、あれには<クゲヌマエンシス>という学名がついていました。命名者はイシカワとなっていますが、このイシカワというのは東大の石川千代松博士のことでしょう。石川博士が鵠沼で最初に発見されて、クゲヌマエンシスという学名をつけられたのではないでしようか」といわれた。
 それから間もなく、私は高校教師をやめて新聞社に入ってしまったので、五十嵐先生にお会いする機会もなく、そのうちに先生が亡くなられて、このホウネンエビのことも、忘れるとはなしに忘れていた。最近になって、N邸が分譲され、ホウネンエビの池も埋め立てられたことを聞き、鵠沼ゆかりのエビのことを書いておこうと思った。
 
 明治25年に石川博士が鵠沼で発見
 ホウネンエビの学名は「Branchinella kugenumaensis (ISHIKAEA) 」といい、石川博士が命名されたことは分かったが、最初に発表されたのが何時、何という雑誌なのか分からない。いろいろ調べた結果、慶応大学の磯野直秀教授にお尋ねして、それが百年以上も前の『動物学雑誌』第7巻(1895年)に英文で記載されていることを教えていただいた。(以下敬称略)
 それによると、ホウネンエビは明治25年(1892年)7月から8月にかけて鵠招の海岸の砂地に、雨で一時的に出来た水溜まり(Small pools formed by rainwate)で、同じ仲間のミスジヒメカイエビと一緒に発見された。また同じ夏、東京の吉原田圃でもタマカイエビとともに発見されている。吉原田圃というのは、あの吉原遊廓の裏手に広がっていた田圃のことであろう。当時はまだ一面の水田だったようだ。
 石川は明治11年、東大理学部に入学、動物学科に進学する以前から、モース博士のもとで指導をうけた。モースは大森貝塚の発見者で、江の島臨海実験所の開設でも有名であるが、東大動物学科の初代教授としてその基礎を築いた。石川が動物学科2年に進学した同12年にはモースは離日して、後任のホイットマンが第2代の教授になっていた。     
 ホイットマンは石川に「沼エビの発生」を研究課題として与えたが、これは後々までも石川の専門分野となった。ホイットマンは沼エビを「シュリンプ」といい、学期末試験の忙しいときでも、顕微鏡でシュリンプをのぞいていないと機嫌が悪かったという(『石川千代松全集』第4巻)。
 石川は明治 15年に東大卒業、翌年に助教授になるが、同 18年ドイツ留学、帰国した翌 23 年には東大(農科大学)の教授になった。したがってホウネンエビの発見は、その後のことであるが、ホイットマンが与えた研究テーマの延長上の仕事であることは、いうまでもない。
 吉原田圃はともかく、どうして石川が鵠沼を研究フィールドにしたのか分からないが、モースゆかりの江の島に近いこともあって、この辺りのことはよく知っていたものと思われる。しかし『動物学雑誌』には、鵠沼海岸のどこでホウネンエビが採集されたのか、その正確な場所の記録はない。
 
 エビというよりミジンコの仲間
 石川が記載した学名は最初「Branchipus Kugenumaensis」だったが、その後「Branchinella Kugenumaensis」と属名が変更された。この属名変更が何時、だれによって行われたかは、いまのところ分からない。属名の「Branchinella」は「鰓脚(さいきゃく)類の」という意味で、このホウネンエビが「鰓(えら)状の脚」をもっていることを示している。というより、脚のようにみえるのは実は鰓で、背を下に腹を上にして、これを動かして、呼吸しながら巧みに遊泳する。体長は2センチ前後、無色半透明であるが、ときに美しい緑色を帯びることがある。
 したがって「エビ」の名はついているが、ほんとうのエビではない。なお以前は「ホウネンギョ(魚)」 「ホウネンムシ(虫)」とも呼ばれていた。

       実物の大きさ。図は約9倍に拡大してある)
 
 『動物学雑誌』に、ホウネンエビと一緒に記載されているミスジヒメカイエビ、タマカイエビも、石川によって発見された鰓脚類であるが、ほかにも岐阜市の名和昆虫研究所の設立者、名和靖が採集して、石川が「Estheria gifuensis」と命名した「カイエビ」という鰓脚類がある。現在の学名は「Caenesthriella gifuensis(ISHIKAWA)」。一見、二枚貝のような殻で体が覆われているので「カイエビ」というが、これも最初の発見地の岐阜にちなんで「ギフエンシス」の種小名がついている。
 鰓脚類にはミジンコの仲間も含まれ、卵から幼生期(ノウプリウス)、さらに成体にかけて、複雑な変態をとげるものが少なくない。また無性生殖と有性生殖を繰り返すなど、興味深い性質をもっている。ホイットマンが発生学の生きた教科書として、石川の研究課題に選んだのもうなずける。
 
 卵が鳥の脚に着いて移動
 かっての鵠沼では、500坪から 1000 坪程度の邸宅は普通だった。その庭には大抵、松林の隅の小暗い木陰に自然の沼があったり、池がつくられたりしていた。砂地だから水が溜まらないだろうと思われがちだが、地下水が比較的高いところまできているので、ちょっと掘ると池が出来たものである。
 また砂丘と砂丘の間も割合湿っていて、その低湿地には田圃が作られたりしていた。私が住んでいる松が岡砂丘と熊倉山砂丘(と私は勝手に呼んでいるが)の間にも、大正年代までは「岡田」と呼ばれる水田があったと古老はいう。現在の鵠洋小学校の北側(鵠沼桜が岡3-14)で、小学校の建設が始まった昭和 19 年ごろまでは、校庭の中央に農業用排水のための水路が残っていた。いまは暗渠となっているが、セリやヨモギがたくさん生えていた。
 そんな池沼や水田には生物の種類も多く、ホウネンエビ、ミスジヒメカイエビなどが棲んでいた。そして雨水で出来た小さな水溜まりにさえ、そのような小動物の姿がみられた。それも一か所でなかったことは、石川がpools と複数で記録している通りである。
 ホウネンエビは短期間で卵から幼生を経て成体になるので、雨水で出来た水溜まりが干上がるまでに、次世代に卵を残すことが十分に可能である。その卵は乾燥に強く、風で飛ばされたり、鳥などの脚に付着したりして、別の池沼、水田に分布していく。こうして、かっては日本中の池沼や水田にホウネンエビがみられ、それが豊年のシンボルになっていたのであろう。
 
 本当の意味での「自然公園」を
 昨年、鵠沼桜が岡2-5のI氏宅の池で、奇跡的に生き延びていた「フジサワメダカ」のことが報道されたが(1997年3月 22 日付朝日新聞湘南版)、このメダカは境川の固有種で、絶滅したと考えられていた。I氏は40年前、自宅近くの蓮池で採ってきたものを飼育しつづけていたという。その後、江の島水族館でも繁殖に成功、現在では稚魚も増え、飼育、観察を希望する小中学校や市民にも配布されているようだ。
 しかし、メダカにかぎらず、こういう生物は淡水生物全体の生態系のなかで、自然の状態で保護されるべきだろう。そのためには、引地川上流にある大庭遊水池のような、人工の手を加えない環境が必要だと思われる。そうすれぱ水生動物ぱかりではく、それらとともに生きるホタル、トンボの姿も見られるに違いない。その意味では、現在の蓮池公園は失格である。
 長久保公園のように、花のある公園も悪くはないが、一切の人工を排した本当の意味での「自然公園」として引池川の周辺が保護され、またホウネンエビが見られるようにと思っている。
『鵠沼』第77号