講演記録 「『女學世界』に咲いた花 〜内藤千代子について〜」

 講 師 森山 敬子      

講演日 1999年1月30日 

会 場 鵠沼公民館      

司会 皆様こんにちは。今日は「鵠沼を語る会」の公開講座においでいただきましてありがとうございます。「鵠沼を語る会」は月に一回定例会を持ちまして、ここ鵠沼に関する歴史などを調べております。時々こうして講師の先生をお招きいたしまして、会員だけでなく関心をお持ちの地域の方にもお声を掛けて参加をいただきまして公開講座という形で開催させていただいております。

 今日は「内藤千代子を知る」と題しまして公開講座を開きます。今日会場にお見えになった方の中にも内藤千代子という女流作家、かなり有名な流行作家がここ鵠沼に住んでいたということをご存知の方は本当に少ないのではないかと思います。実は私も10年前に「語る会」の定例会でそのことを知りまして本当にびっくりいたしました。全く知らなかったのですね。それから私の頭の片隅に気になる存在として内藤千代子がいつもいたのですが、いつかは詳しく彼女のことを知りたいと思い続けておりました。今日は森山さんをお迎えしまして詳しく内藤千代子について知ることができることで本当に喜んでおります。

 森山さんを紹介させていただきます。森山さんは江の島にあります県立かながわ女性センターで「(ふみ)の会」という神奈川の県内の女性史を熱心に研究しているグループのメンバーのお一人です。この会は女性センターの出版物であります神奈川県の女性の歩みをまとめました二冊の本、戦前編が『夜明けの航跡』戦後編が『共生への航路』と申しましてこれらは女性センターの代表的な出版物になっております。新聞を丁寧に追っていったり聞き書きをしたりして本当にこまめな作業を積み重ねて二冊の本になったわけですが、それを中心にまとめられたのが「史の会」です。

 「史の会」は研究誌を出しておられ、今3号まで出ているのですがその中で森山さんが内藤千代子について研究論文を発表されました。私はそれを見る機会がありまして、ぜひ鵠沼でお話しいただきたいと申し上げましたらお忙しい中こうして時間を割いて来てくださって、嬉しい気持ちでいっぱいです。

 それともう一つあちらに内藤千代子に関する資料をたくさん展示いたしました。これは大変貴重なもので内藤千代子に関してこれだけの資料を一堂に集めるということはまずできないことだと思います。この資料は私たちの「語る会」の元の会長であられました塩沢務さんが熱心に時間をかけて収集なさったものなのです。塩沢さんは残念ながら昨年亡くなられ、今日はここにおいでいただいている奥様のご好意とご協力をいただきまして、ここに皆様にご覧いただくことができたことに改めて感謝申し上げます。

 それでは公開講座「内藤千代子を知る」と題しまして森山さんに講演をお願いいたします。

 森山 ただいまご紹介いただきました森山でございます。よろしくお願いします。

 (ここで内藤千代子の住んでいた場所について故塩沢氏が作られた地図をもとに「語る会」佐藤会員より説明。)

佐藤 現在の鵠沼の商店街を江の島方向に歩いて、有田商店の角を左に入りまして踏切を越えますと最近までそこに榊原さんという大きなお宅がありました。今は細分化されて同じような色のお宅が何軒か建っています。そこを通り過ぎた一角に内藤千代子が住んでいたと私が教えられたところがあります。ちょうどその手前の駐車場のところに、かって岸田劉生が3ヶ月ほど住みました「佐藤別荘」があります。近くに劉生の作品「村娘」のモデルになりました川戸マツさんもこの近くに住んでおられ、麗子の友達になり有名なあの絵のモデルになったわけです。そのおマツさんから直接お話をうかがった時にも内藤千代子の家はすぐ近くだったとおっしゃっておられました。

森山 一言お断りをしたいのですが、私は藤沢に来ましてもう大体35年位になりますが、この鵠沼という街を詳しく存じません。むしろ今日は私のほうが皆様にいろいろ教えていただきたいと、そういう気持ちでここに参りましたのでどうぞよろしくお願いいたします。それからこういうところから皆様にお話をするということにはあまり慣れておりませんので、お聞き苦しいところもあるかもしれませんが、その点はご容赦ください。

 

 まず最初に私が内藤千代子について論文を出したというのはこの『史の会研究誌』でございます。たまたまこれを江の島の女性センターの図書館に寄贈しましたのでお目に留まったものと思います。

 私が内藤千代子に出会ったというのもここにありますご本、小山文雄さんの書かれました『個性きらめく〜藤沢近代の文士たち』、あのご本によって私は千代子の存在というものを初めて知りました。この本は市政50周年記念の藤沢文学展「個性きらめく〜人と作品」の時に同時発行の形で出されたご本ということです。私はその文学展にはたまたま風邪を引いてまして伺えなかったのです。それが自分自身本当に残念で後でこのご本を買いまして見ましたところがそこに千代子が存在していたということです。

 内藤千代子という名前、これは今でも通じるような大変ナウい名前と思うんですが、私はそれを全く知りませんで、見ていましたところ今井達夫さんの文章などが出てきまして「吉屋信子に匹敵するような」という言葉がありました。吉屋信子といいますとちょうど私などは女学校に入った年代でございますから、もう学校の授業そっちのけで机の下で隠しながらみんなで回し読みしたのが一番は吉屋信子さんなのです。そのようなわけで「吉屋信子に匹敵」というのにちょっと驚きまして、しかもその人がこの鵠沼という土地の文人の草分け的存在ではないかという、そのことにもまた驚きました。しかもどうして吉屋さんのような作家でいらした方の作品が全然耳にも目にも伝わってこないのかそのへんの不思議さにまず捕らわれたのです。

 そこで女性人名辞典であるとか古い新聞であるとか繰っていきましたところが、そこに出てくる言葉がみんな謎めいているといいますか「もう消えてしまってない」とか、それから作品にしましても駒場の近代文学館まで行ってみましたけれども何冊もないのです。国会図書館でも二冊くらいしかない、駒場でも二冊くらいしかない、神奈川の近代文学館では全くございませんでした。『女學世界』は欠号はあるものの神奈川の近代文学館にもございます。そういう風で非常に不思議な存在、しかも出てくる写真で見ますとここにもありますけれど、大変な美人なんです。

 なぜこういう人が消えてしまったのか、しかも年齢が31歳、これは今満年齢で申し上げていますけれども、で亡くなった、どうも家族中で結核を患っていたという感じがあるのです。それでも母親だけは健康を保っていたようで千代子が亡くなった後も母親は8年か9年は元気でいたようです。そのように面影からもそして名前からも色々な点で不思議な存在でどうしても調べたくなったとそういうことなのです。それが出会いでございます。

 それからもうひとつ、レジュメにもありますが、映画と講演の会として「近代鵠沼の文士たち」というタイトルでこれも小山文雄先生なのですけれども、この会場で講演をなさいました。私も千代子をやろうという気があったものですからそこに参加いたしました。千代子はその講演のほとんどもう終わりの頃に登場してきたわけです。その会場にたまたま小山先生がおっしゃるには「千代子の研究家としてはこの人を措いてはないとう感じの塩沢さんがこの会場にいらっしゃいます」ということで、塩沢さんはちょっとお立ち下さってご紹介があったわけです。私は塩沢さんからはちょっと離れた位置におりましたが、その際よくお顔をインプットしておき、その会が終わった時に飛んでいきまして、名刺も何も持っておりません、しかたなくノートを破ってそこに名前などを書いて「こういうものなのですが、実は内藤千代子を調べたくて」ということを早口で申し上げました。私の不躾にもかかわらず気持ち良くその話を聞き届けていただきまして、それから一週間くらい後の日曜日をお約束しましてお宅に伺ったわけです。非常にたくさん資料をお持ちだということもその時にうかがったものですから、もう小躍りするような気持ちで伺いました。

 そこで本を見せていただいたりお話をお聞きしたりすることができたのです。私が塩沢さんから教えていただいたのはその日一日だけではございません。それからも二、三回、全部で四回くらいお伺いした記憶がございます。非常にご親切にいろいろ教えていただきました。それで何とかかんとかまとめられたのがここに書いてある論文だったのです。これ等が千代子と私の出会いでございます。

 次にレジュメに付けている「千代子の略年譜」にしたがいまして説明したいと思います。

 千代子は1893年、明治の26年になりますが12月9日内藤広蔵、いくの長女として東京下谷西町、現在の台東区東上野に生まれました。兄が三人いたらしいのですが全部幼児期に病没しているという、これが全部結核系の病気であった様子です。父は象牙の彫刻師で士族出身、この彫刻師というのが象牙であれ金属であれ没落士族といいますか、そういう方達のなりわいとしては非常に多かったようです。あと同じような職業に彫金師とかもあったようです。父、広蔵はその一人であったということです。そういう身分でありましたから千代子のお父さんは自分自信が漢籍の素養もあって、かなり教養の高い人であったと言えるようです。

 鵠沼には一家をあげて知人の別荘に東京から移ってきました。その別荘から翌年、本村の農家の離れを借りて移ったとあります。そしてここにしばらくおりました。千代子が5歳の時(明治31年)妹かめが誕生しました。このかめという名前、千代子とはちょっと違いますよね。なぜかと申しますと千代子がずっと小さい頃から可愛がっていたお人形が「つるちゃん」という名前の付いたお人形だったそうです。だからもし妹なり弟なりが生まれたらこの「かめ」の字を付けてくれと、それが千代子の願いだったと『生ひ立ちの記』に書いてあります。というわけでかめということになりました。

 この年から先程申し上げました父親の手で千代子の教育が始められました。不思議なことに千代子はこの後学校教育というものを全く無縁に過ごしているのです。ただの一度も学校というものに行っていないということです。当時はまだそれでも許されたということかとも思いますが、父親が大体若い頃から身体が弱かった、それで男兄弟が三人ともみな死んでしまった。そしてやっと生れた千代子、その千代子も決して強い性質ではない。そういうこともあって、この本村から小学校、現在の鵠沼小学校であると書いてありますが、そこまで行くことが今で言う2キロですか、半里の余と書いてありますから、そのくらいの距離があるので小さい子にはとても無理ではないのかと親が思った、そしてまた千代子はものすごく物覚えのいい子でこの五つの時から勉強を始めて学校へ行く、満年齢で言うと6歳でしょうか、その頃には小学校二年位の過程を全部マスターしてしまっていたというのです。だから今更行っても仕方がない、むしろ親としては自分の手元で何とかしたいという気がどうもあったようで、行かなかったという事です。

 ところが千代子にしてみるともう近所の子供達と同じように自分も学校に行きたいという思いが積もり積もってそれで心が鬱々していたけれども、親の言う事というのは絶対命令みたいなもので、当時としては我が侭を言う事はできなかった。そのことが千代子にとってはずっと自分の胸の中で鬱積してあとでは「袴と御被布そういうものは自分にとっては生涯のあこがれでございました」というような文章になって現れてくる、そんなこともあります。

 そして明治34年8歳になった千代子は新築成った自宅に移る、これが今ご説明をいただいた鵠沼松が岡3丁目であるということなのです。実は私もそれをまだ確かめに行っておりません。一度行ってみたのですけれど、全然土地感のない私にはどこが何やらさっぱりわからずに帰ってまいりました。ですから今度はもう一回ちゃんと行ってみたいと思います。

 この住居がもう千代子にとっては一生涯そこに住み続けた住居になるということなのです。13歳の時にこの父親が肺結核で亡くなります。7月に亡くなって9月、もうお父さんの目もなくなった、それで教育を施すものもいないということで妹かめは村の小学校に入学しました。そのとき千代子はどうしていたかというと、お裁縫を習いに近所へ行っていたらしいのです。母親としては父親がもう寝たり起きたりの生活で、仕事は彫刻師でそれほどの収入があるわけではないこともあり内職を一生懸命励んでいました。それに少しでも手伝いになったらという気持ちもあって、裁縫を習いに出していたとこういうことのようです。一度はこの父親は、亡くなるちょっと前ですけれど、養鶏に手を出しています。しかしそれも素人の悲しさで、設備の不十分などから鶏に病気をいっぱい発生させてしまってその仕事は駄目になってしまいました。千代子はそこで一つの役割を受け持っていて、それは卵を毎朝別荘のお家を回って売るという仕事をしていました。

 ところがそれが千代子はいやでいやで仕方がなかったので、鶏の世話は大好きだけれども、むしろ駄目になって自分はほっとしたということも『生ひ立ちの記』の中にでてきます。

 このお裁縫の稽古、これは千代子にとって本当にやりたくないことだったようです。すでにこの頃には大変な読書熱というのですか、それに浮かされていまして父親の目をかすめて読む、もう父親が亡くなってからはおおっぴらに宿題が出ようが、何しようがそれはさておいて本にのめり込んでいたようです。

 その頃に『女學世界』の『閨秀文壇』という号が出まして、それは増刊号だったらしいのですが、その中で「我と思わんものは書いてみないか」という誘いの文があって、これだ、という気持ちがあってそこで自分も何か物が書けるのではないかという気になって少しずつなにかを書き溜めていきました。

15歳の時に「田舎住ひの處女日記』、これが『女學世界』のやはり増刊号ですが、懸賞日記文を募集した、それに出してみて3等に入ったわけなのです。そうすると賞金も10円もらえました。当時の10円、私にはちょっと分かりませんが大変なものだったようです。1等が30円、2等が2O円でこの3等が1O円、そしてこの10円が大変家計の足しになったとも書いています。じつはこの「田舎住ひの處女日記」を出すちょっと前にもう一つ、これは佳作になった、何というのですか投稿欄みたいなものが『女學世界』にありましてそこに出した「或る夜」という作品があるのです。

「或る夜 (「女學世界」8巻14号)

 病苦疲れに、母君はよく寝入り給ひぬ。そと、御寝顔、うかがひて我にもあらず太息つけば、湯と蒸す玉の、ホロホロと膝にこぼるる、あヽ父君失ひし身には、天にも地にも只ひとり頼の母君を、三月越のこの御病気、妾は畳の上に得たへぬまで、あやしき胸さわぎを、おぼゆるなりき。あヽ世の中にかかる別れのなくもがな、蝉の聲、身にしみつ、思わず袷かき合わせて、二分心の心かき立つれぱ、ぱっと壁にうつる我が影の、髪も何の形かわかぬまでに、乱れたる、あはれ、小櫛取る間もなく、看護の間間に人の衣縫うに、虫は小やみなくつづれさせぞと、うながすなる。

 こういう文章を書いているのです。これまだ15歳ですよ、すごいものです。

 『生ひ立ちの記』の中で千代子が自分は泉鏡花が好きだ、だから鏡花に似せて書く、ということを書いているのです。そのとおりに美文調の擬古文といいますかそういうもので、これがどうもかえって当時の続者の心を掻き乱したというか、握ったといいますかまるでローレライの怪しき歌声みたいにどうも人の心を掴む魔力があったようなのです。

 次をご覧くださいこれがその3等に入賞しデピュー作となつた『田舎住ひの處女日記』です。

『田舎住ひの處女日記 (「女學世界」8巻18号)』

 何の縁あってか此の相州の片田舎に十年余り住みなれて、花やかな都にあこがれ女學生さん達を羨んでいる妾。まだ戀と言ふ物も知らねぱ筒井筒振り分け髪の床しと慕ふぺき君も持たぬが、これも亦一興とその一節を左に。

 これはもう全く冒頭の部分だけです。これから裏の畑に出て瑠璃色の茄子を取ってそれを朝のお味噌汁にしてというところから一日のことが始まって、お昼頃になって近所からかるた会のお誘いがあって、もう午後はそのかるた会のことで頭がいっぱいで、何を着ていこう、何の帯を締めよう、この間自分が縫ったあれはどうか、などといろいろ考えて、夕方になって御風呂に入ってきれいに磨き上げて、もうこの頃から水白粉と申しますか、水で溶いたおしろいをはけで首から上を真っ白に塗って、きれいになってそのかるた会に出掛けたという事が書いてあるのです。

 その文への編集部の寸評みたいなものがありますので読ませていただきます。

(『田舎住ひの處女日記に対する編集部の寸評)

 平々凡々の事を書いてこれほどに読ますは尋常の業にあらず、彼の秋涛は描き易く春月は寫し難しのたとへ、その原稿を見れぱ手蹟の不つつかなる、小學校の生徒さへかくまでは拙なからずと思はるほどなるに、其の文の堂々たるは詞壇老将も舌を巻くべきところあり、これが田舎に埋もれたる無名の女子かと思へば、眞に悼ましい心地す、描寫は細に入り天眞流露して筆に同情多し。

 この時の編集部に『冒険世界』の方から移ってきました河岡潮風、これは号ですが、という人物がいました。まだ若い人なのですが、早稲田大学を出まして大隈重信さんに大変目を掛けられていて、書生ではないのですが自由にその自宅に出入りをしていたというようなことが彼自身の作品に出てきています。このひとが内部の人事異動で『冒険世界』から『女學世界』に移ってきている、潮風が『女學世界』の編集を初めて手掛けた頃だったのです。そこにこの内藤千代子が応募したものが来たということです。「筆に同情多し」と書いていますが、その同情心の固まりみたいになった潮風はこれから千代子にものすごくアタックすることになります。それは「何とか自分の手であなたを育てたいんだ」という心情の表れみたいな形で出てきます。外からみますと週末になると必ず鵠沼に潮風の姿が見えて、夕暮れ時になると潮風を送った千代子の姿がまた駅にいると、そういうのを見ると皆さんはそれを恋人同士というように噂をした、ところが千代子自身は「私はあくまでも處女主義である」と「そういった男と女の関係などは私は持たない、持ちたくもない」というようなことを綿々と書いているような文があるのです。ですからそれはどっちかよくは分かりません。

 ここでもって潮風と出会うわけなのですが、千代子のデビュー、それに続いてすぐ今度は2等を取るのです。年表をご覧ください。1909年(明治4年)です、16歳の千代子は「嫁に行かぬ人」これで2等入選で、この時は1等が50円、2等は30円という大分高い額になりまして、それを獲得したということがあります。

 この「嫁に行かぬ人」を千代子が書いた時の『女學世界』の増刊号のタイトルは何と「嫁に行く人」だったのです。ちょっとひねくれている感じはするのですがこれがいわゆる千代子の「自分は絶対生涯處女主義を貫く」という主張の表れだったようです。

 次に17歳のときには「思ひ出多き函根の湖畔」これを書きましてとうとう念願の1等を取ります。賞金は50円。1等を取ってこれからは『女學世界』の毎号に作品が掲載されてきます。これらの作品については千代子は内藤千代子あるいは内藤千代という本名を使って登場してきています。そして大変な寵児になっていくわけです。

 私はここで不思議な事に気がついたのですが、千代子はものすごくたくさんのペンネームを使っています。レジュメに書きましただけでも萩香、金子百合子、神田千鶴子、松槇晴子、山百合、まだまだあるのです実は、玉露であるとか初雁であるとか、でもそれは私自身がしかと千代子であるという証拠をつかんではおりませんので、つかんだものだけでも前に述べたようなものがこれだけございます。なぜこんなにたくさんのぺンネームを持たなければいけなかったのかというのも、疑問視しなくてはならないとこかなと思いますので、皆様頭の隅に留めといていただきたいと思います。また後でこの話が出てまいります。

 ここで千代子がデビューを果たしました『女學世界』という雑誌についてお話ししたいと思います。この『女學世界』といいますのは博文館、今では日記や手帳でしょうか、そういうものを作っていて今も残っていると思いますが、当時は大変な隆盛を誇っておりまして月刊誌もかなり出しておりました。この『女學世界』というのは当時の博文館の中でトップを行く雑誌になった時期もありました。

 数字がちょっとわかりましたので申し上げますが、普通の月刊誌というのはまあ2千から3千、よく売れるものでせいぜい7千から8千部だったというのです。その時に『女學世界』の一番売れ行きの良かった時期は7万から8万を売ったというのです。だからいかに大変なものだったかお分かりいただけると思います。

 その7万、8万売ったという時に活躍していたのが千代子なんです。しかも一号の中に本名で堂々と二つくらい出して、あとはぺンネームでもってまた出している。だから一人で作品が四つも五つも並ぶということもあるのです。このことも私にとっては非常に不思議なことでした。

 『女學世界』は1901年(明治34年)ちょうど年号が都合がいいのですね、1901年に創刊号を出したということですから、何巻の何号という何巻といいますとそれがこの年号とぴったり合うということなのです。そして終刊は1925年ですから大正14年、この時に終わっています。これが終わるというのには時代の流れというものが出てまいります。

 千代子が一躍アイドルになったというところまでお話ししましたけれども、レジュメに「誌友倶楽部」というのが書いてあります。この「誌友倶楽部」というのは『女學世界』の“仲良しクラブ”のようなものですね。何か小説なり何なり自分が気に入ったものがあるとすぐにそれに対して投書をして寄越す、そういう人がいっぱいいたわけなのです。今みたいに情報もありませんし、楽しみもないですから、当然このような結果になると思います。しかも若い女性、この『女學世界』という名前からのイメージは何となく女学生を相手にするように思いますが実はそうではありません。もうちょっと年齢は上かと思います。ちょうど結婚適齢期あるいは結婚したての女の人たち、そういうような人がどうも対象となっていたようです。ですから千代子の書くような本当にホットなホットな熱い男女の仲みたいなことを書かれるとそれが非常に良かった、と同時に虐げられた女の生活その女の生活を慰めるということにプラスアルファーでそこに愛というものを加えると読む人の心の大きな慰めとなるという、その感じが千代子が読者のアイドルになったその大きな理由のように思います。そしてこの「誌友倶楽部」にはちょっとした特徴があります。いろいろ書いてきて、本当に恋文まがいの『ああ、お懐かしき千代子様...」で始まりまして、必ず最後には「お振ひあそばせ」という言葉でだれもが終わるわけです。『お振ひあそばせ」とは「筆をお振るいあそばせ」という意味なのです。この言葉はなかなか力があるんだなあと感心して読んだことでした。

 もう一つの資料をご覧ください。「誌友倶楽部」からのご紹介なのですがこういった調子で出てくるのです。

「誌友倶楽部」より(『女學世界』11巻1O号)

 「青葉の蔭」 (千代子の作品→講演者注)なつかしう拝見致しました。「上京してすでに二ヶ月、思へばわづらひ多き人生にさふらふかな…」とある初めを読んだゞけで、私はもう何とも言はれぬ感に打たれました(中略)どうぞ来月もお振ひあそぱせね。郷士柳子

 とこうくるわけですよね。ですから千代子のこの文章に惚れて惚れてという人たちも出てくるし、また逆に批判の「誌友倶楽部」の便りがなかったわけではありません。「千代子様あなたはどうしてこういつも甘いのでしょう、私はもうちょっと塩辛いのが好きよ...」などというのもあります。ですが大体は本当にラブレターまがいのものが多かったと、そういう感じなのです。

 そして今度は周辺の人々のことに移ろうかと思います。

 まず先程ちょっと出しました河岡潮風、本名は河岡英男といいます。『五五の春』という本を五五=二十五でちょうど自分の25歳の誕生日を記念してこの本を出しました。その本がそこに展示してあります。『五五の春』漢数字の五が二つ並んでおります。どうぞ後でご覧ください。

 そのなかに潮風が自分で頼んで撮ってもらったという写真があります。この人は宿痾のように脊髄カリエスを抱えているのです。ですからすっかり背骨が曲りまして、頭から上半身を撮りますとS字型になっている、その写真を裸でもってわざわざ撮ってこれに載せております。その身体にコルセットを巻きまして、それでずっと博文館の編修部へ仕事に来ていました。ですから千代子の恋人といい条、はたしてそういう男女の関係が持たれたかどうかということもちょっとクウェスチョンが付くかなとも思います。この『五五の春』を出してもう何ヶ月も生きてないのです。その脊髄カリエスに脳膜炎を併発しまして、併発してからはもうすぐに亡くなります。ですから潮風は25歳で亡くなったことになります。もう一つ潮風について述べますが、大変な論客であったようです。早稲田の弁論部に籍を置いたりしておりまして、できることならぱ政界に打って出たいくらいの気概は持っていたようです。しかし自分の身体がもう言うことを聞かなかったということです。彼はそういった方面ではかなり高く買われた人間でもあったようです。

 次に書いております松平鏡子、この人の本名は北川千代または北川千代子、結婚しまして江口千代子となります。江口千代という名前でお気づきの方もあるかもしれませんが江口渙の妻です。

 少女小説『絹糸の草履』というのをお読みになった方もあるかと思いますが、大変暖かい目で貧しい人たちを見るという作品でした。ですから登場してくる主人公も決してそんなお金持のお嬢さんが主人公になるわけでも、うんと美人の女の子が主人公になるわけでもありません。むしろ反対にどちらかと言えば日の当たらない女の子達が主人公になっていく、そういう小説を書いた人です。

 そして後には「赤瀾会」女の社会主義グループとしては始めての「赤瀾会」にも参加しています。これは江口渙の影響もあると思われます。

 この人がなぜ千代子の周辺の人々の中に入るかと言いますと、もともとはこの松平鏡子、松平千代子という名前でもって『少女世界』に書いておりました。この『少女世界』というのは沼田笠峰という主筆がおりまして、この沼田笠峰が大変な教育者で、このひとの奥さんも大変な教育者でした。御夫婦で当時いろいろ投稿したり、なにかを『少女世界』に書いたりしている、そういう人たちを育てようという姿勢があった。彼等は「たかね会」を主催してそこで子供達を育てていた。そのメンバーにこの松平鏡子、そしてその次に書きました森田たまも入っているわけです。

 これも一つの出会いかとも思いますが千代が入ったほうは『女學世界』で、ちょっと年齢が上でどちらかというと恋、あこがれ、そういうものをメインにして書くことをよしとした。千代子はそれが得意ですからまあ売れに売れたわけですが、自分を育てるという機会にはここでまた恵まれなかったということが言えるのではないかと思います。

 松平鏡子も森田たまもこの沼田笠峰のもとでかなりの修行を経てきたというわけです。

 潮風は先程申しましたように早々と亡くなります。そうすると潮風しか千代子の面倒を見る人がいなかったわけなのです。だいたい学校教育というものを受けていません。千代子が師としたのは自分が選んで勝手に読んだ本とそれから父親と、そしてこの潮風とこれだけしかいなかったわけです。ですから潮風死後の千代子というのは非常に可哀相というのか、悲劇の道を歩くしかなかったように思われます。

 略歴の方をご覧ください。1911年(明治44年)千代子18歳の9月初の単行本『スヰートホーム』が出ていますが、ここの発行人に河岡勝で刊行と書いてあります。この河岡勝さん、発行人の住所もみな書いてありまして、それを調べましたところ、間違いなく河岡英男イコール潮風ということになりました。『生ひ立ちの記の中にK先生というかたちで出てくるのがこの潮風です。ともかく自分の手で育てたいと綿々と訴えたその潮風の心に打たれて千代子は「お任せします」と書います。母親はもちろんのこともう願ったり叶ったりという感じなものですから...。そしてこれまで親戚が20円というお金を毎月千代子の家に出していたのですね。親戚一同でもってです。父親がいませんし、働き手といっては母親と千代子、そしてまだ小さな妹がいます。ですから収入が足りないので親戚が面倒を見ていた、その面倒見を潮風が肩代わりしているのです。千代子としてはそれに対して何も言うことはできないし、自分は鵠沼というところにひっそりと生きていたので、何も知らないわけなのです。帝国劇場も行ったことがなければ、その時どういうものがあるか、東京にはどういう図書館があるのか、そんなことも一切しらない、それを全部手取り足取り教えてくれたのがこの潮風であったわけです。だから千代子にとっては潮風はもう太陽のような存在でありました。ですから潮風の死が千代子にとってどれだけの打撃であったかお分かりいただけると思います。

 タイトルが『スヰートホーム』であるとか『ホネムーン』であるとかちょっと今風な片仮名書きなんですね。さきほどちょっと読みましたが、千代子のああいった流麗な感じの文章、そしてタイトルがちょっとモダンでしかもなにか口触りのいいような、そういうものが千代子がどんどんとアイドルになって行く要素であったかと思われます。

 そして19歳の時です、1912年(明治45年)ですね、潮風の死のちょっと後です。大阪毎日新聞から「千代子の取材をしたい」という申し込みがありました。

 その取材というのがそこに書いてあります「謎の少女〜鵠沼の千代子訪問記〜」ということなのです。実はこの訪問記は千代子一人ではありませんで、その当時新しい女の集まりとして世の中を騒がせました『青鞜』、平塚らいてうの「原始女性は太陽であった」というあの『青鞜』の尾竹紅吉、この人は女性です。身の丈が5尺6寸、目方が16貫500あったと言われますから大変大きなパワー十分の、誰が見ても美少年という感じの面影だったようです。その人と二人並べまして「謎の少女」ということになってこの取材が来ているのです。この二人を描きましたものがちょっと面白いのでご紹介してみます。

 『青鞜』の尾竹紅吉と『女學世界』の内藤千代子、最初は紅吉のほうを訪問し後で千代子のほうに来たようです。

 最初に断り書きがあります。「東京の女流文士界に謎の少女が二人ある。一人はこの春から女流純文芸雑誌と銘打った『青鞜』の社中に現れて、最年少の暴れ者とうたわれている尾竹紅吉、一人は両三年来、雑誌『女學世界』の愛読者という女学生達にやんやと称えられている妙齢の内藤千代子である。」とこういうふうに書き出しています。

 そして千代子のことは大変な誉めかたなのです。紅吉のほうは美しくない女であると断言しています。ところが千代子のほうは大変に美しい女である。お化粧もきれいにしている。紅吉のほうは何もお化粧をしないでただざぶざぶと顔を洗ったばかりのような状態であると。紅吉は何でもしゃべってしまう、千代子は本当に寡黙でろくに口も開かない感じがする。だから非常に謎めいて感じるのはどうしても千代子に分があるのではないか、そういうようなことを書いています。

 またこの訪問記の中で実は千代子がちょっと大変な発言をしているのです。

「謎の少女〜鵠沼の千代子訪問記〜」 (大阪毎日新聞1912.11.25)

 青春の恋をなぜ唯一の材料にするかとおっしゃるのでご座居ますか、他に材料がないからなのでご座居ます。これはうそも隠しも致しません所で、妾等の境遇では何を描こうと申しても致し方がご座居ませんからあんなやうなものを描く、それももう描きやうがなくなって仕まい近いうちに筆をすてなければなりますまいかと思っております。

 こういうふうに言っているのです。これには千代子自身も結核がありますので身体もしんどかったのかもしれません。ですが潮風の生前に「いかにもあなたは限界が狭すぎる。経験が浅いからだ。今のうちに早く方向を変えないと読者に飽かれます」ということをきつく言われております。そのことも自分の頭にしかと入っていたかと思います。

 これからいよいよ千代子が独り歩きを始めるところにいきます。1913年(大正2年)千代子は二十歳になっています。ここで「一身の革命」というタイトルで『女學世界』に書いています。「一身の革命」いかにも自分の庇護者であった潮風がいなくなってこれから自分はこういう決心で動くのだぞ、というものがしっかりとここに表れています。

 この「一身の革命」が2月ですが、この年の5月になんと『女學世界』は発禁処分を受けています。この発禁処分はなぜかといいますと、家族制度を破壊し、また風俗壊乱により発禁処分とすると、こういう理由で処分を受けたのです。風俗壊乱などと言われましたら千代子の作品はもうともかくラブラブラブですよね、恋を謳歌するという作品なものですからもうとんでもないということになります。

 これは大正期に入りましてみんなの気持ちが、モダンボーイやモダンガール、ああいうこともありまして華やかになりすぎたということへの締め付けであるということもありますし、それから女性が『青鞜』を通したりしまして、「新しき女」という意識を持ってそれも謳歌されてきたということがあります。ちょうどこれと同じ時期に平塚らいてうが書いた『円窓より』、それも発禁処分になっているのです。らいてうさんは強い人ですから発禁処分を受けても黙っていません。すぐに悪いと言われたところをちゃっちゃと消してまたすぐに発刊します。それは何とか認められた。ちゃんと言葉の言い回しを気を付けてなぜ発刊禁止になったかというようなこともちゃんと書いています。こういう時代の流れがどんどん押し寄せてきています。

 21歳の時に『生ひ立ちの記』を書きます。この『生ひ立ちの記』もそちらに展示してあります。『生ひ立ちの記』は千代子が生まれた時からの半生の自伝で、この本には鵠沼の風物もよく描かれております。このことは小山先生も確かおっしゃっていたと思います。

 それから22歳の時に『惜春賦』を出します。このとき『女學世界』の15巻の8号から「毒蛇」の掲載がいよいよ始まりました。この「毒蛇」はちょっと措きまして次に『冷炎』が出ます。この本もそこにございます。この『冷炎』のなかには日本アルプス、穂高岳に登ったという記述があります。どの辺まで本当に登ったのかはちょっと分かりませんけれども、もしその登頂が本当であれば、これも女として穂高岳にこの時期に登ったということであれば、大変画期的なことではなかったかと思われます。

 そして26歳で『春雨』が出ます。そして「毒蛇」なんですがこの「毒蛇」に描かれる世界もこれまでの『女學世界』に書かれていたものといっこうに変わりませんで、女性を描く、その女性が全部自分の身の回りの人物、母親だったり妹であったりしたり、お裁縫の友達だったりその人たちがモデルなのです。それにからんでくる男性は必ずと言っていいほど一高あるいは帝大の学生、でそこに華族階級の人がちょっと加わって来る。もうこのパターンはワンパターンなんですね。「誌友倶楽部」の中でもかなり「もう私飽きましたわ」などという表現が見えてきたりしています。

 どういう理由かはっきりとは分かりませんが、時代の流れということも大いにあったとおもいますし、なにしろ病弱な千代子でしたから病気が重くなったのかもしれない、ともかく『女學世界』での「毒蛇」は未完のままに終わっています。

 「毒蛇」の掲載が始まる前には、もう大変な宣伝だったのですが、ところがこれが終わるという通知は一切無いのです。私はかなり丹念に『女學世界』を繰ってみたのですけれど全くありません。そしていきなり他の方の「家庭小説」と銘打ったものが出てきています。

 『春雨』の最後の部分をご覧いただくと分かるのですが、蛇にかまれて主人公、ヒロインが亡くなるのです。そのあとで『毒蛇』が三徳社というところから、多少増えまして、未完のものは37章で終わっていたのですが、この本はちょっと変形のA5判という本でございますが、それで60ページ分足しまして43章で完結として単行本が出ております。その中でも千代子のこと、まあ幸代という主人公ですがこれはもう全く千代子自身と思ってもよいと思いますが、その幸代はともかくメデュサみたいな、ギリシャ神話でいうメズッサですよね、蛇の化身みたいな女だと、だから彼女に関わったら全部それが取り殺されるというようなことが書かれていたりします。そして千代子自身が書いているのに「自分は巳年である、そして非常にしつこい性格なのだ」とこういう記述もあります。そしてクレオパトラのことをたびたび書いています。クレオパトラも毒蛇に自分の手首を噛ませて死んだ。だから何か蛇というものにあこがれを持っていたのかなと、よくは分かりませんがこの『春雨』と言い『毒蛇』と言い、千代子の干支と言い、クレオパトラと言い全部蛇、蛇、蛇で来るのです。

 この三徳社から出た単行本の『毒蛇』これをもって千代子は社会的な場所から全く消えてしまいます。全然もう何も書いておりません。かなりの冊数の本を出している、二十歳のときにすでに3冊も出している。こういう人は当時としてはごく稀であったと、森田たまの『随筆貞女』という作品の中に書かれています。

 この頃森田たまも北海道のほうに結婚した相手を残して上京してきてしまって、もう自分はそこに帰りたくないなどという思いがあったりで、「もしかして私は死んでしまおうかしら」などと思っていたそうです。たまたまお茶の水の方の橋の上に二人立って、千代子と交流があったものですから、繊妍と流れる川の音を耳にしながらいろいろ話し合った時に「私は死にたい」ということを森田たまさんが言うと、「私は絶対石にかじりついても生きて行く」ということを千代子がはっきりと言ったということです。

 その「石にかじりついても生きて行く」という言葉を『生ひ立ちの記』で書いているのがちょうど潮風の告別式から帰ってきたときです。千代子は世間からああだこうだ、読売新聞にはいろいろと潮風の告別式の事が書いてあり、そこに展示もされていますが、いろいろ言われた時期でありました。そういうものに対する「世間への挑戦」の発言だと思います。

 それを森田たまが聞いて、もし千代子がそこで「私も死にたい」と言ったら、あるいは死の方向へ動いたかもしれない、だけれど幸いに相手が「石にかじりついても生きる」というしっかりした信念を持った人、「生活派」という言葉を使っていますが、であったおかげで私も死なないですんだ、というようなことがこの『随筆貞女』に書かれております。

 いよいよ最後のところになるのですが、大正12年24歳双生児の姉妹を出産。

 出産ということは千代子がどこかで結婚しているわけなのですが、その結婚に対する記述は全然見つかりませんでした。実は早春(そうしゅん)という長男もいるのです。これは私が千代子の墓に行ってみまして、そこに長男早春と書いてあります。ですから千代子がそこに収めたということなのですから早春の誕生前に結婚をしているはずなのですけれども、それがちょっと調べられません。

 高木先生(「語る会」会長→編修部注)の著書の中にS博士、佐伯さんとおっしゃって栄養学校のほうの先生であった博士号を持った方ですが、その方のむしろ二号さんのような存在になってしまったとあります。千代子は知らずに結婚したのだけれども、結婚してから相手に奥さんがいることが分かってとうとう入籍はしないままで終わったというように書かれておりました。

 この姉妹についてもわりとその後大きくなった頃が書かれていて、お姉さんは大変な美人であったと、琴がものすごく上手でお家で琴などを教えていらっしゃったという話もあります。二人とも藤沢高女、今の藤沢高校ですよね、あそこの出身であるというように書いてあります。妹さんは割と長くご健在であったんではないですか。塩沢さんはお手紙をお持ちでした。

会場から発言(秦さん〜内藤千代子の次女の友人)

 お姉さんは学校卒業してからじきに亡くなりました。妹の光子さんは35か6で結婚されて3人のお子さんがありました。前に住んでいた家を売って鵠沼海岸の羽坂耳鼻科医院のすぐそばに住まわれていました。今はお子さんと一緒に東京にお住まいで健在と思います。今お話を伺うとその妹さん、光子さんと千代子は性格も良く似ています。

森山 私が見せていただいたお手紙にはご住所、南青山と書いてありました。

 やはり地域でお話していますとこういうことも伺えて、本当にありがたい事です。

 31歳で1925年、大正14年の3月23日に肺及び咽頭結核で千代子は没します。

 この時に今お話のありました双子の姉妹が2歳です。そしてその子らと、母親と妹と女ばかり残して稼ぎ頭の千代子はここで消えました。鵠沼神明の万福寺に千代子のお墓がございます。これは生前に千代子が建てたものらしくて、初めは横に朱書きでまだ生きているということで千代子と書いてありました。それが現在では朱が消してあります。

 ここからが重要なことなのですが、なぜ早々と亡くなった千代子の後を追うようにして作品まで消えたかということです。これまでの話で大分お気づきかとも思いますが、千代子の作品自体、千代子の限界が狭すぎてそこから発展性がないということ、底の浅い作品であったと言えるかもしれません。恋に恋するようなストーリー、そして流れるような美文、それに酔わせるというのが千代子のお得意とするところだったけれども、その酔いも覚めたということでしょうか。

 そして時代がどんどんと変わっていっております。やがて大正から昭和へ入っていきますが、軍国調のなかでは千代子の生きていきようもなかったかとも思われます。

 そしてもう一つ、欠くことのできないことと思いますのは女子教育のあり方があったと思います。当時同じように女家族でもって生きていた何人かの有名人がいるのです。それがどういう人たちであったかと言いますと日本画家の上村松園、あの人のお母さんとの二人の関係というのはいろいろなところで女だからという理由で松園が苦しかった時にいつも蔭になり日向になりかばっていったのがそのお母さんです。それから女性の最高の頭脳といわれた山川菊栄さん、あの人も母親が大変な博識でお母さんが率先して水戸から東京のほうへ出てきて、さらに横浜まで足を伸ばして「いっしょに勉強しよう」ということで娘を引っ張っていった、というようなこともあります。北川千代にしても森田たまにしても、神奈川の女性の文学者である中里恒子にしても長谷川時雨、野上弥生子全部そうなんですけれどみんな母親でないにしても、結婚してからの夫がそうであったり、あるいは巡り合った編集者の手によって、あるいは作家同士の支え合いによってとか、永井龍男さんなどもかなりたくさんの作家を育てていますし、どうしても当時とあっては女の人は自分一人では教育というところから切り拓いていくということができ難かった、どうしようもなかったのだと思います。それが、学校教育、小学校の教育すら受けていない千代子にとってどれだけひどいことであったか、それを思います。しかも千代子は何しろ身体が弱かった、これで延々と長生きしてくれたらあるいはどこかでまた浮かぶ瀬もあったかと思うのですがそれも出来得なかつた、そういう事が二重三重になって千代子の悲劇になって、千代子の影も作品も消えてしまっていったのではないかと思っています。

 私の話はこれで終わらせていただきます。

司会 どうもありがとうございました。この土地に女性ながらそういう人が住んでいたということを知って、千代子が身近に感じられました。

 それではご質問をお受けしたいと思います。

森山 実は時間がありましたらご紹介したい記事がもう一つあったのです。青鞜の人たちが銀座のプランタンの喫茶店、その一階で千代子が何人かでお茶を飲んでいる時にどやどやと入ってきたのだそうです。そして千代子たちの横にある螺旋階段を羽織の裾を翻して、中の長襦袢のすそまでも翻す感じで上に上がっていったそうです。たまたま一階にいて階段を見上げればそういう光景になるのだろうと思いますが、それを面白く描いたものもありました。千代子という人は当時、自立はしたいという思いはあっても、これが悲しいかなあまり勉強していませんから青鞜の仲間のような知識を持っておりません。ですから青鞜の人たちの生き様に対してやっぱり対極にあったような気がします。ですから千代子と青鞜と、という見方で見直してみるとそこにまた面白いものが出てくるかなとも思っています。

 実はこの『女學世界』を出しました博文館、このことについて私は全然調べが行き届いてないのです。どうも千代子が消えていった大きな理由の一つに博文館が手を引いたということが言えるような気がするのです。千代子を庇っていたのは編修部でも河岡潮風なんです。その潮風が25歳で死んでしまいます。そうすると以後千代子を庇護する人が博文館の中にいなかった。そして発禁騒ぎが起こった。そういった時代の趨勢を見ていく時、もう千代子からは手を引いたほうがいいのじゃないだろうか、そういうような動きがなかったとは言えないような気がするのです。ですから少し博文館の中身が知りたくて芝の大門の近くにある三康図書館、あれは元はといえば大橋図書館(博文館のオーナーであった大橋家の図書館→編集部注)ですが、あそこに行ってみたのですがそれらしき資料を見つけることはできませんでした。もしそうした内面を見せてくれるようなものをご存じの方がいらっしゃいましたら教えていただけるとありがたいと思います。

 もう、ちょっと時間が経ちすぎまして、私がこれ(『史の会研究誌』→編修部注)に書きましたのがもう9年前なんです。その時に塩沢さんのお話で、「実は10年かもうちょっと前に『千代子会』というものがあったのが消滅したんだ」とおっしゃいました。その理由は会員の高齢化だそうです。横浜のほうでお集まりがあって塩沢さんも二回ほど参加なさったそうです。その時に5〜6人の方がいらしたんだけれど全部70歳以上で男性でいらしたそうです。でも本当に熱烈な千代子ファンという感じだったとおっしゃられていました。

 私は女性史に関わっているものですから女性史のほうからいろいろ調ぺてみたいとは思うのですが、本当に一刻一刻が勝負という感じがします。明治生まれの方がどんどんいらっしゃらなくなりまして「ああ、あの時お会いしてお話を伺っていれぱ」という地団太踏むような思いをすることがあります。本当にこの鵠沼という地域は宝の山だと思うんです。だからご近所でいろいろそういうようなことを耳になさったり、眼になさったらどんどん記録をお残しになったらどんなにかいいのじやないかなと思います。私、自分がそれで困ったものですからつくづくそう思います。

鈴木(「語る会」会員) お調べの中で千代子さんの男性関係というのが一切お分かりにならなかったということですか?

森山 分からなかったというよりは私は千代子の言葉を信じたいと思った部分がございました。

鈴木 前に出ました高木さんの本にありますようなことが事実あったのかどうかというようなことは、実際お分かりにならなかったのでしょうか。

森山 それは跡付けておりません。

鈴木 一切文壇から消え去ったということは何かそういうところにも関係があるのではないかとも私は思いますが、いかがでしょうか。

森山 そうですね、それはあるかもしれませんね。その当時でしたら世間に顔向けできないとかそういうようなことがあったかもしれません。

鈴木 先程お子さんがまだいらっしやるという話を承ったのですが、以前どこに住まわれていた何という姓のかたですか。

会場よリ(秦さん) 羽坂医院のそばで、姓は内藤です。

関根(「語る会」会員) 万福寺さんのお話を聞きますと、今の住職さんもJR東海道線のところまで、姉さんといっしょに千代子さんがお墓参りに来られた時に送っていったことを言われております。墓を見ますと千代子ではなく内藤千代と墓名があり、最近ではどなたもお墓参りにいらっしゃらないということで、先日も川上さん(「語る会」会員)たちと見に行った時も、石塔がちょっとかしいでいるかなという感じで寂しい思いがしました。私も近くに住んでいるものですから時々行きますが年々寂しくなる気がします。

 先程おっしゃられたように、当時は軍国主義が関東大震災以降発展してまいりまして、女性と男性の関係は当時厳しくなってきました。藤沢でも戦争中などは女性と一緒に歩いていても駅の回りに警官とか憲兵が居て「おいこら」というようなことを言われたくらいでした。男女の仲はそのように厳しく、しかも家族主義の時代ですからそういうお妾さんなどは世間から疎んじられたものでした。

 また内藤千代子さんはあまり世間を知らないからだまされるようなこともあった方だと聞いています。二三冊の本は万福寺さんにも残っているということですが、写真はないそうです。今日は万福寺さんにも本を持ってここに来ていただくようにお顧いしましたが、ご用事があるということでありました。

 森山 私大切なことを一つ落としていました。そこの展示の一番隅です。『エンゲージ』の出版契約書というものがございます、これは本物ですからお帰りにでもご覧ください。その出版契約書に一割二分という印税のことが書いてあります。

 この一割二分というのが当時としてはものすごい高額ではないかと新聞が書いているのです。

 ところがこれをよく読んでみますと一割二分のうち千代子の手許に渡るのは四分なのです。そしてあとの八分は河岡照恵に渡すとなっています。河岡照恵、この人は潮風のお母さんです。『エンゲージ』というのはまだ潮風の生前に千代子の単行本の3冊目ということで、ぺージ建てから表装まで何から何まですっかり用意して、まるで用意し終わって亡くなったという感じで没しているのです。あまりきちんと用意されているものだから博文館も出さざるを得なくて出したというその経緯も書いてあります。

 ですから決して言われるように売れに売れた、がぼがぽと儲かった作家とは思えないのです。むしろ普通が六分くらいの印税が当たり前だと言われている時にあれだけ売れてわずか四分しか手に渡っていないという、歳がいかないからでしょうか、それとも女だからでしょうかあまりにもひどすぎると感じました。それも私が千代子にのめり込んだ原因の一つでもあります。

司会 森山さん、今日は本当にありがとうございました。

 「鵠沼を語る会」は今後もこういった形で公開講座を開きたいと思っています。

 皆様ぜひまたお越しください。(記録担当 松岡)

《内藤千代子略歴》

1893(明治26) 12月9日 内藤広蔵、いくの長女として東京下谷西町(現、台東区東上野)に生まれる。3人の兄は皆幼児に病没。父は象牙の彫刻師で士族出身。

1896(明治29)3歳 一家をあげて鵠沼の知人の別荘に移転。翌年、本村の農家の離れを借り移る。

1898(明治31)5歳 妹かめ誕生。父の手で千代子の教育始められる。この後学齢期になっても学校には上がらず終生学校教育とは無縁。

1901(明治34)8歳 新築なった自宅に移る(現、鵠沼松が岡3丁目)〜生涯の住居となる。

1906(明治39)13歳 7月 父広蔵肺結核にて没。

9月 妹かめ村の小学校に入学。

1908(明治41)15歳 「田舎住ひの處女日記」、『女學世界』8巻15号の懸賞日記文に応募、

三等入選、賞金10円。

1909(明治42)16歳 「嫁に行かぬ人」同誌9巻15号で二等入選、賞金30円。

1910(明治43)17歳 「思ひ出多き函根の湖畔」同誌10巻2号で一等入選、賞金50円。

                これよりほとんど毎号に作品掲載、寵児となる。

1911(明治44)18歳 9月 初の単行本『スヰートホーム』発行人河岡勝で刊行。

                 10月河岡潮風と対面、以後潮風の指導を受ける。

                 12月 『ホネムーン』同発行人で刊行。

1912(明治45)19歳 7月 潮風死去。

  (大正1)          11月大阪毎日新聞に「謎の少女〜鵠沼の千代子訪問記〜」掲載される。

                 12月 『エンゲージ』博文館より刊行。

1913(大正2)20歳 2月 『―身の革命』を『女學世界』に発表。

1914(大正3)21歳 10月 「生ひ立ちの記』牧民社より刊行。

1915(大正4)22歳 6月 『惜春賦』刊行、発売元誠文堂。「毒蛇」の掲載『女學世界』

                15巻8号より始まる(〜17巻6号未完にて)。

1917(大正6)25議 6月 『冷炎』京橋堂より刊行。

1918(大正7)26歳 7月 『春雨」同所より刊行。

1919(大正8)27歳 10月 『毒蛇』三徳社より刊行。

1923(大正12)29歳 双生児の姉妹出産。

1925(大正14)31歳 3月23日肺及び咽頭結核で没。鵠沼神明の万福寺に眠る。

<展示資料>

 @書籍

 『生ひたちの記』  牧民社

 『冷炎』          高橋堂

 『小説 春雨』    高橋堂

 『エンゲーヂ』    博文館

 『スヰートホーム』        博文館

 『ホネムーン』   博文館

 『五五の春』         博文館

 『個性きらめく』―藤沢近代の文士たち― 藤沢市教育委員会

*コピー 

 『鵠沼日記』

 『内藤千代子集』

 『惜春譜』

 『毒蛇』1・2

 A雑誌

 「女學世界」        17巻5号  博文館

 「女學世界」        8巻17号    博文館

*コピー

 「女學世界」        8巻15号    田舎住居の處女日記

 「女學世界」        9巻15号    嫁にいかぬ人

 「女學世界」        10巻1号  うれしい正月日記

 「女學世界」        10巻2号  マダム振り

 「女學世界」        13巻12号 五人空想図 富土そうなん記

 「女學世界」        15巻10号 日本アルプスへ

 「女學世界」        9巻2号    お正月日記

 B新聞

*コピー

 大阪毎日新聞 大正2年1月4・7・12日/大阪訪問記

 新聞紙名日時不明/内藤千代子の墓

 Cエンゲーヂ出版契約書謄本

 D明治・大正の新聞雑誌記者の名刺