講演記録  少年の頃の鵠沼
講師 葉山 峻氏

講演会場 鵠沼公民館

講演日 1999年9月23日

葉山峻
 
 国会開催中は私は高輪のプリンスの隣が衆議院の宿舎になっておりまして、そちらのほうに行っておりまして、ご無沙汰を続けておるわけでございます。今休会中でございますし、有田さんのほうから「鵠沼を語る会」で何か話してほしい、特に海岸のほうは大分やったから、本村(ほんそん)のほうを中心として話してほしいというお話がございましたので、快くお引き受けさせていただきました。今日はお忙しい中をお集まりいただきまして、大変懐かしい皆様のお顔にお目にかかることができた、そしてまたこういう意義ある会においてお話をさせていただきますことを大変うれしく思っております。本当にありがとうございます。
 郷土史の話と申しますが、私は郷土史研究家でもございませんし、しかも記憶はもう随分前のこと、戦争が始まる前の頃からの話でございますから、大分記憶違いなどもあるのではないか、そういう点はまたいろいろこれからこういう会を通じることによって間違いを正し、鵠沼の歴史を正しく豊富にしていくということのお役の一環を担わしていただければ大変うれしく思います。私のお話は大変つたない話でございますのでこれからの時間、多少「つまんないな」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、その辺はお許しを頂きたいと思います。

鵠沼小学校時代のこと

 今日の話の中心は私の小学校時代の話、特に学び舎は鵠沼小学校でございまして、そこでちょうど戦争が始まり空襲も激しくなり、終戦を迎えるという昭和15年から20年の6年間に小学校生活を送ったわけでございまして、その頃の鵠沼の話をさせていただきたい、こういうふうに思っております。
 ご承知の通り私が小学校一年になりましたのは昭和15年、西暦で言うと1940年、その入学した年がまさに皇紀2600年、今の人にはわからないかもしれませんが、「紀元は2600年」という歌が毎日ラジオから流れていたときであります。私と同じ年配の方は覚えておられると思いますが......。その歌を歌ってみます。金鵄勲章という立派な勲章がありましたけれど、「金鵄」という煙草もあったんです、いまでいう「ゴールデンバット」です。その金鵄輝くという歌詞から始まる歌であります。
 
金鵄輝く日本の
栄えある光身に受けて
よくこそ来たれこの朝(あした)
紀元は二千六百年
ああ一億の胸は鳴る
 
というような歌でありました。しかし子供というのはどういうわけかそういったきちんとした歌よりも、面白い歌を覚えるものでございまして、どこからどう流行って来たのかは私にはわかりませんが、これをお囃子みたいに子供たちがみんな歌ったもじった替え歌がございます。何も私が親から教わったわけではございませんで、どっからか流れてきて覚えた歌であります。ちょうどその年だか、前の年だか知りませんけれども、煙草の値上げというものがあったようですね。それで「金鵄」という今でいう「ゴールデンバット」これは安くて15銭。そして「光」というのがありました。ちょっとニコチンが強い煙草でありまして、これはこの間まで売っていましたがそれが20銭。それから鳳翼(ほうよく)というきざみ煙草、煙管で吸うやつですが、これが25銭。そして「みのる」というのがやはりきざみでありまして、これは高くて1円。そういうような時でありまして、それをもじった歌でありますが、庶民の煙草好きの人の「値上げはいやだなあ」という思いが、今から考えるとこもっている歌であります。
 
「金鵄」輝く15銭
栄えある「光」20銭
よくこそ「鳳翼」25銭
「みのる」はあがって1円だ
ああ、煙草の値は上がる
 
 失礼しました。まあそういう年だったんです。それが昭和15年という年で私が鵠沼小学校、当時は鵠沼尋常小学校といいましたが、そこの一年に入学したわけです。その年は紀元 2600 年だけではなくて、我が藤沢町が藤沢市になった、そういう市政施行の記念すべき年でもありました。そういう行事もあったように覚えております。きちんとした校服を着て、青い上っ張りを着て、校門を入っていきました。校門を入りますと、鵠沼小学校というのは北側に向かってちょうど「コの字型」に校舎が建っていました。講堂などというのはもちろんありませんから三教室をぶち抜いて講堂の代わりにしていました。校門を入ってすぐ左のところに奉安殿というのがありました。式典とかお祝いというときには、校長先生がその奉安殿の中からうやうやしく箱に入った、桐の箱だったと思いますが、奉書を取り出して、紫の袱紗を取りましてそして「朕思うに我が皇祖皇宗国を始むること高遠に......」「父母に孝に、兄弟に友に.....。」という教育勅語を朗読されて、ということでありました。したがって生徒は一年生の時から校門を入ると「奉安殿に最敬礼」と言って最敬礼をしてから各自のクラスに入っていく、そういう学校でありました。
 1年生は3クラスありまして、桜組、桃組、梅組というふうになっていました。これが地域編成みたいな形になっていました。桜組というのは海岸ですね、東海岸、西海岸といろいろあったんですが、当時は「お別荘」といわれていた地域、そこが桜組だったと思います。私も親戚が海岸にいたものですから、その斎藤秀彦ちゃんの隣がいい、などという話もあって桜組になりましした。桃組というのは苅田とか中東とか鵠沼でいえば中間の地域でした。そして梅組というのは宮ノ前とか上村というところの生徒、そういう三つの地域別の編成になっておりました。私たちの桜組の先生は当時の鵠沼小学校で女子の先生も受け持ちはこの方だけだったんですが、今辻堂にお住まいの森せつ先生でした。もう大分ご高齢ですがお元気だそうです。この森先生は大変やさしい、よい先生で、この方が1年の受け持ちでした。そして2年の年は池田良助先生で、その後藤沢市の教育委員会の学校教育課長を長く勤められた方でありまして、大変達筆の方でありました。私が今でも大したものだと思うのは、ちょうど「川上の本屋さん」から新しい教科書が届きますと、それに筆で葉山峻なら葉山峻と、今度受け持ちになる生徒の名前を教科書の裏表紙にクラス全員に書いてくださったものでした。まあ、立派ないい字だなあと思ったものです。先生としてはこれから受け持ちになる生徒はちゃんと覚えておこう、という必要はあったと思いますが、それほど心配りのあるいい先生だったなあ、と今でもその見事な字とともに思い出します。その池田先生のときの12月8日に真珠湾攻撃があり太平洋戦争が始まった年でした。その時ちょうどそのクラスは朝、芋掘りに行ってたんです。当時鵠沼小学校の北側はずっと芋畑になっていまして、今は日本精工の塀の中になってしまいましたが、そこに土俵があったのを覚えています。そこに芋掘りに行っていたわけですが、リヤカーに芋を積んで学校へ帰ってきたら、朝礼みたいなものがあって校長先生が集まるようにということでお話があって「真珠湾を攻撃して戦争が始まった」という話があったことを今でも記憶しております。
 3年生、昭和17年になりますが、今度は男と女の子は「男女席を同じうせず」ということで分離されまして、男組(だんぐみ)、男女組、女組(じょぐみ)と分かれまして、残念ながら私は男組になりました。その時の受け持ちの先生は関根正典先生という、鵠沼神明社の神主さんでした。その後鵠洋小学校の校長先生などをお勤めになった方です。今はお宅におられます。その先生はなかなかひょうきんな、おもしろい先生で年中唱歌ばっかりでした。あのころは音楽と呼ぶような授業はなくて、オルガンは鵠小あたりでは確か一台しかなかったように思います。そのオルガンを生徒が運びに行ってそして先生の前に据える、そうすると“たんき、ぽんき、たんころりん”とかおもしろい歌をひょうきんに弾いてくださいます。生徒はそれが面白くて、歌ばっかり、学校へ行くのは歌ばっかり、まさに歌を唱えるという唱歌、これで楽しい授業を送りました。私などは当時級長をさせられていたのでありますが、お調子者でありますから、机のふたを取って“たんき、ぽんき、たんころりん”と始まると机のふたで拍子を取っておりまして、そしたらそのうちクラスがシーンとなってしまうんですね。何だと思って気が付くと後ろに怖い校長先生が立っておられて、いきなりつまみ出されて校長室のところに立たされた、などということもありました。ともあれ、非常に楽しい先生でした。それともう一つ先生は鵠沼の元ともいえる、神主さんだったこともあり郷士史には関心の深い方でした。教室の後ろに先生の書いてくださった絵がありました。そこで「鵠沼というのは昔は沼が多くて白鳥がすいすいと泳いでいる」という絵を上手に描いてくださいました。「くぐいぬま」と呼ばれていたということ、この「鵠沼を語る会」でも鵠沼論議がよく出ているようでありますが、「くぐい」というのは今で言う白鳥なんでしょうが、まあこのごろは飛んできませんが、同じような名前は石川県とか日本の各地にそういう名前が残っているということが記録されています。そういうことを初めて教えていただいたのは関根正典先生だったと思います。
 4年生は富沢先生で、この先生もいい先生でした。その後結婚されて原先生と名前が変わられました。私が国会に行ってからこの藤沢の北の大和のほうから選出された、地主さんで富沢さんという人から「その先生は叔父さんなんだ」という話を立ち話で伺いました。埼玉のほうの方と結婚されて原先生と名前が変わりまして、途中で出征されまして、私たちはいい先生だったので悲しくって仕方ない毎日を送ったものでした。この先生は今でもご存命で、何年か前に私が市長時代に訪ねて来られまして、いろいろ昔話をして非常に懐かしかったわけであります。この先生が4年と5年の途中まで、そして先生が出征されたので、当時男の先生はどんどん出征したのです。そして代用教員といいまして、中学とか藤沢女学校ですか、そういう方々が代わりに小学校の教員に来てくださったのです。竹村先生、今は本宮先生という方は非常に美しい、それに歩くときも非常に嬉しそうにスプリングのように弾む足取りで歩かれる颯爽とした先生で、みんなの憧れの的、生徒もそうだったし、恐らく職員室の若い先生にとっても憧れの的だったんじゃないかと想像しております。富沢先生の代わりには大沼先生という、湘南高校の先輩でそちらから来られた先生、この先生は地図がすごくうまかったです。湘南中学時代から高校にかけて香川幹一先生という地理の先生がおられて、私たちも中学1年か2年頃まで授業を受けたのですが、この先生はそらで地図をすらすらと上手に描くかたで、その先生の教育、薫陶を受けたせいか、大沼先生は地図が上手でした。今でも思い出すのは、例えば関東地方などというのもちゃんと描き方を教えてくれました。こういうふうにして(黒板に描く)これが相模湾で......。あまりうまくいきませんでした、失礼しました。そういうのを丹念に教えてくださった先生だったと記憶に残っています。
 6年になりますと、というより5年生くらいの時から空襲が始まりました。私が初めて警戒警報というサイレンを聞いたり、空襲があったということを聞いたのは昭和17年の秋のことでした。私の家のお手伝いさんでおさよさんという人がいまして、この方は津軽の奥の方で太宰治の金木というところの奥の農村で生まれた方でしたが、不幸なことに当時農村が大変疲弊しておりまして、藤沢に来ておられました。その方をとこばの亀ちゃんという床屋さんが見初めまして、一緒にうちの屋敷の中に住まわれていて、私の子供の頃抱いてくれたり、いろいろ面倒を見てくれたのがそのおさよさんでした。非常に几帳面なおばさんでした。そのおさよさんの故郷である津軽へ行こう、りんごが食えるからということになりました。ちょうど東北線の白河の関のあたりで空襲警報が鳴って汽車が長い間ストップしました。あとで聞いたんですがその時にアメリカの爆撃機が東京を飛んで、初めて爆撃をして、その後中国へ飛んでいって着陸したそうでありますが、それが本土への最初の空襲であったわけです。その時小学校3年生でしたが、青森まで行ってりんごと、そのころご飯のことをしゃりと言ったんですがその白米はその頃では食べられなくて、全部まぜご飯であったわけですから、お腹いっぱい銀しゃりを食べたこと、そして津軽の田舎で秋を過ごしたことは今でも懐かしい思い出であります。
 その前はもみちゃんというお手伝いさんがおりまして、その人は宮城県の石巻の人で、そこに夏休みに行ってひと夏、入り江で泳いで遊んだ記憶があります。それも楽しい思い出でありますが、私は子供はやはり田舎で育てた方がいいな、という思いが強くありますのは鵠沼をふくめてそういう時の記憶によるものだと思います。田舎というのはさまざまなことがあって、ロマンがありますから子供がそこで伸び伸び育つということはどんなに幸せだろうと今でも思っております。
 私が市長になりましてから、全国でも例のない「緑の広場」という制度を作りました。まあ市もお金がないですから結局借受制度になったわけですが、市内で百数十個所そういう「緑の広場」というのを作ったのは、そういう原っぱ、子供の遊び場、そこで夕暮れまで遊んで帰ってくるとお母さんから怒られるという、そのように子供は伸び伸びとそういう原っぱで遊ぶことがいいことだという思いがありまして、何とかこういう土地開発の中でも確保したいということで「緑の広場制度」という施策を行ったわけです。以前この場所で村川堅太郎先生のお嬢さんの村川夏子さんが「我が家の緑はなぜ残ったか」というお話をされたようでありますが、あれなども村川先生のお屋敷をそういうかたちで松を残し、古い桃畑を残し、そういう形で現在も残っているということであります。少子化ということで子供の数も少なくなるなかで、またパソコンとかいろいろ子供が一人の部屋に閉じこもりがちであるというようなことで子供同士の遊びの形が時代とともに大きく変わってしまったこともあり、その遊び場を利用するという形にどこまでなっているかということはなかなか問題があろうかと思います。
 とにかく私自身あまり勉強はしなかった方で、勉強というのはそもそも学校でするものだと思っていました。ですから家に帰ったらほとんど遊びだけですね。それはもう鬼ごっこをしたりいろいろな遊びをしたものです。後ほど詳しく申し上げますが、季節とともにたくさんの遊びがありました。その中での子供の交流というかそういうものがありました、今の子供の遊び仲間というのは、私の子供たちは鵠南小学校でしたがその子供たちにも言えることですが、その学年だけですね。ですが昔は縦社会というか、上まで友達の範囲が広がっておりました。その頃つくづく思ったんですが、私の子供の頃にあった ”ガキ大将世界” といいますか、そういう世界は崩壊したんだなあ、と思ったわけです。先ほどのお話に戻りまして、結論を申しますと、やはり子供は田舎のほうがうまが合っているように思えまして、そこで育てるのが一番いいんじゃないかなと今でも思っております。友達もすごく豊富になるのですね。私事で恐縮なんですが、娘が生まれ、その後に長男が生まれ、それがいざ小学校へ行こうという段階になりまして私は初めて家内と本格的な夫婦喧嘩というものをいたしました。それというのは家内は東京のある有名な私立高校の附属を受けさせてそこに入れたいと言っていました。家内としてはそこを本当にいい学校と思っていたようでして、そこに家の子供を行かせたいという思いがあったのだと思います。私は「バカ言うな」と、やはり子供は地域で育てて地域の小学校べ行って、そこでの友達が大工さんの息子であったり、左官屋さんの息子であったり、農家の息子であったり、いろいろな友達がいてそういう中で子供が育った方がいいんだと、私自身、今でもそのことで人生が幸せだと思っていますが、何も混んだ電車に乗って東京まで通わせる必要がないということでかなり深刻な夫婦喧嘩をしたことがございました。ともあれ私自身がこの鵠沼で小学校に通った思いでとともに、子供が自然との共存の中で、地域社会の子供たちとみんなと交わりながら育っていくのがいいのではないかと思っております。こちらの会誌「鵠沼」に時々書かれている、私の家の隣にお住まいだった若尾肇さん、このかたのお話は「昔の鵠沼というのは最高によかった」とおっしゃられていて、確かにそのとおりなのですが、なかなか時代というのはそうもいきませんから、いろいろな工夫をして子供たちが自然との共存の中でどのように育っていくかということについては、これからの大人がもっともっと考えていきたいと思うわけです。このようなことが鵠沼小学校時代6年間の思い出でございます。
 6年の時には空襲がものすごくなりまして、毎日警戒警報が朝、それもちゃんと8時でしたかにぴたっと鳴り始めるのです。サイレンが鳴るんですが、今でも火事や何かでサイレンの音を聞きますと私は何か不気味な思いがするわけであります。それは私が子供の聞いた警戒警報発令、空襲警報というのはサイレンなんて鳴らなかったです、毎日来ましたから。警戒警報でサイレンが鳴ります、大体子供というのはぎりぎりまで学校に行きません。私の家にはおじいさんが植えた椎の木が3千本くらいありました。自分の子供が外交官にでもなったら、この椎の木を一本ずつ売っていっても一生食えるといって植えた、という話が伝わっております。まあ実際にはそういう話にはならなかったわけでありますが。ともあれ我が家は堀川というか、鵠沼中の子供たちの別天地みたいなところであったわけです。そこで椎の実をとったり、登校前にはターザン遊びとか、藤のつるを吊るして木から木へ渡り歩く、いろいろの遊びを学校が始まる直前までやっていました。そろそろ時間だということになって、学校へ向かいます。空襲の時代ですから、クラスの中で各地域別に「何分団の何班」というように地域的に編成されました。こういう吹き流しのような旗、竿が付いていまして、富士山の絵がかいてあり、当時鵠沼小学校は藤沢第三でしたから三と書いてあり、これで3分団6班ということであります。上級生から下級生までこの旗で登校します。集団で登校して校門へ行くと門衛が立っています。そこへ行くと「歩調揃え」と言って敬礼をするわけです。私もその門衛をやったことがありまして、同級生でインキョ屋(隠居屋)という屋号の渡辺君と二人で立っています。「よし」と言いますと校門を通れるわけです。渡辺君はかけっこの大変早い男でしたが、6年生くらいになりますと多少女の子を意識しはじめまして、ちょっと好きな子がいたんですね。私も茶目っ気がありますから、彼がその子を好きだったと知っていますから、女の子の集団が来ましてその子なんかがいますと、「やりなおし」と言うので入れないんです。いけなかったとは思うんですが...。鵠沼小学校を入ってくるところで二三回「やりなおし」と言うんです。今では塀がありますけれども、そのころは植え込みがあって、ちょっと高くなっているところがら自由にみんな入れるんですよ、学校へ行くのに。私は今どうしてああいうふうにコンクリートの塀で囲ってしまったのか、昔の鵠沼小学校のようなのがいい、と思うわけでありますけれど。そのすきまから女の子たちは入っていって米田先生という女の子をかわいがってる先生がおられまして、そこへ言いつけ口をした、そこで私たちはまた怒られた、とこういう思い出があります。
 そういうふうに3分団6班ということで入っていったわけです。ところが毎日空襲ですから、今日も空襲だろう、警戒警報のサイレンが鳴るだろうと思って遊んでると、どうもなかなか鳴らない、「それじゃ行こう」ということになり、皆で木登りをやめて途中の「火車のお墓」というところ、昔は水力でなくて電気で精米や麦の脱穀をする宮崎さんという精米所があって、そちらのお墓が通り道でした。そのあたりまでいくと「ウーウー」とサイレンが鳴る音、「鳴ったー」ということで「今日は学校休みだ」と皆散るようにしてまた椎の木に登る、というのが戦争末期の姿でありました。先生も最後は生徒が学校に来られないということで、私のところやそういうところにほうぼう集まって上級生に教えさせるようにさせていました。それとクラスがあふれてしまいましたね。戦争末期になると東京や横浜の方から鵠沼の親戚を頼って皆さんが縁故疎開して来られて、その子供たちがあふれかえってしまいました。いま40人以下学級とか言っておりますが、100人以上で一クラスというようなものでした。それも男の先生は皆出征してしまって女性の先生ばかりになってしまいました。ですからあのころの先生も大変だったと思います。そういうことが5年、6年の時代でした。
 8月15日に終戦になりました。ちょうど一と月前くらいに艦載機というのが毎日来ていました。私の家がこんもり森になっているように上から見えたので、何かあるなと思ったんでしょうか、なぜかよくわかりませんが、私の家だけ海の方へ向かっている艦載機でしたが、7月30日の日に爆弾を落とされました。家の屋敷の中に30人以上の人がいたのですが、死者はもちろんほとんど怪我人も、爆風で割れたガラスでかすり傷を受けた人はいましたけれども、出なかったということは幸いなことでした。それから間もなく終戦ということになります。
 「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え....」という玉音放送がありました。我が家のこわれたラジオで聞いたわけです。最初は何のことやらわかりません。すると親父が「戦争はもう負けたんだよ」とポッツリ言いました。それからマッカーサーが藤沢の北側にある厚木の飛行場にパイプを持って降り立って、それから横浜に行くと新聞に載っていました。私の記憶としては、その頃「機動部隊が来たぞー」と言うのですっとんで海岸に行きまして、鵠沼橋のもうちょっと向こうの砂山から見ました。航空母艦とか、戦艦、駆逐艦、巡洋艦とか、さしもの広い相模湾を覆い隠すように敵機動部隊が並んでいるんです。それはもう圧倒するような姿でありました。そして夜はイルミネーションが輝いて、一つの大きなデモンストレーションだったと思いますが、そういうことがすごく印象的でした。阿部昭さんの表現によれば「血なまぐさい船体をさらして」江ノ島のほうから伊豆半島まで、圧倒的に相模湾を埋め尽くしていた、というそれが強烈な印象であります。
 それからしばらくのことですが、砂というのはすごいですね、砂山が移動しちゃうんです。遊歩道路、今の134号線、あれは今は大磯の方まで通じておりますが、あのころ辻堂の演習場のところは昭和25年頃まで日本に返還されませんでした。ですからいったん浜見山のほうへまわって茅ヶ崎に出なければいけなかったわけです。とにかくその遊歩道路が砂の山になってしまいました。車なんかは通れないです。「これはなんとかしなければいけない」ということで、子供らしい正義感でしょうか3分団6班を集めて「みんなスコップを持ってこい、これをどけんべ」と言って、皆で一生懸命砂山を横の松林のほうに片づけて、かろうじてコンクリートが見えるようにしました。翌日「どうなったかな」と思って自転車を飛ばして行ってみると一夜のうちに砂山になってしまっていました。はかない子供たちの努力でありました。この頃は言うなれば無政府状態になっていましたから、どこの家も薪(たきぎ)には困っていたのです。そういうところから防砂林という松林を切っちゃって薪にしちゃったんです。それであっという間に砂山が移動してくるのです。砂の力はすごいものだなあと思いました。それからしばらくして占領軍が来まして、あっという間にブルドーザーできれいにしてしまい、「やあアメリカというのはすごいなあ」と子供心にに思ったものでした。これも小学校6年の時でした。
 そういう時期でも「受験はしなきゃいけない」と先生がいいまして、クラスの子供たちを幾つかに編成しまして子供同士で勉強させる、ということで中学の受験勉強に入っていきました。あのころの中学はそんなに難しくなかったんでしょうね、私たちは志望者全員が入れました。今ならとても私なども入れないと思いますけれども、あまり勉強しないで中学に入れたというのが6年生の思い出でございます。
 そういう6年間ですが、懐かしい、楽しい思い出を作ることができました。
鵠沼というのはいいところで子供たちには別天地でした。烏森、皇太神宮これが鵠沼の中心です。北側の集落、これが引地(ひきぢ)です。そして上村(かむら)です。そして宮ノ前、これが皇太神宮の真ん前です。それから宿庭、清水、苅田、原、堀川というふうになっています。東の方では大東、仲東それから新田、花沢町、石上それから鵠沼海岸、これは西海岸と東海岸とありまして、これらが鵠沼小学校の学区でありました。
 私が小学校に入りました頃、北部の宮ノ前や上村の友達の話を聞きますと、その頃引地川改修工事が進んでおりまして、改修工事をするたびに大きな鯉がとれたとか聞いておりまして、その頃までこの工事が続いていたように思います。引地川の蛇行というか、流れが変わっていったんです。今大平橋というのがありますがそこのあたりから急に西に折れ曲がっておりました。今ヴィラ・ウィスタリアという新しいマンションが砂山の上に建っておりますが、その辺まで曲がっていたわけです。そして今の辻堂小学校のあたりから伏見稲荷の裏手、日の出橋のところまで来まして、今の雅叙園の近所から海へ出ていました。それは今でも片帆橋などもあり、かすかにその名残があるわけです。そこでは古い川のあとは下水になり、それだけ道が広がって変わってしまいました。
 有田さんからのお電話で「明治館の話をしてほしい」とのことでありました。明治館というのは今の大平橋のたもとのほうにあったようです。これには説がいろいろあるようですが。相沢君という私の同級生がいますが、関東特殊に勤めておられますが、この相沢君の曾おじいさんが明治館の管理みたいなことをして鳶をやっていたんだという話をおととい、にわか勉強ですが、話を聞いたんです。そういうようないきさつもあって、堀川の人々は明治館というと相沢、相沢の屋号みたいなものになっていました。屋号というのがあります。私のところは「又兵衛さん」だし、堀川でも「あらや」だとか「にいや」だとか浅場さんの関係はそういう屋号で呼びます。それから「けろさま」とかいう屋号もあって屋号で呼び合うわけですが、相沢君のところは「明治館」と呼んでいます。どこにあったんだ、という話ですが、大平橋という橋があります。そこから坂を上がっていくわけですが、そこに八百屋さんがあります。その近所が相沢君の家ですが、「川は俺のところを通っていた、それで砂山の方へ行っていた」と。それで明治館というのは今の八百屋さんあたりだったとのことです。これにはいろいろ説があるようで先ほど川上会長さんから伺ったところによると「もっと山の上のほうだった」と。とにかくここは有名な旅館でした。東屋ができる前、この明治館と鵠沼館というのがあったようです。年代などにつきましてはこれからさらに「鵠沼を語る会」で研究されることと思います。かなり有名な方もいつも、泊まられた旅館だったそうで、相沢君の兄さんなどは明治天皇の菊のご紋章のついた盃を持っているという話などもありました。稲沢雌君の親父さんは鳶の職人さんでしんその大平橋の上に堰といって堀川田を潤すために川をせき止める堰があり、板を二枚ずつドーンドーンと流れに落としてせき止めていたんです。私が市会議員をやっていたときに川上会長のお兄さんからご本を頂いて、明治館の話が出ておったと記憶しております。こちらに伺う前に本箱を探したんですが見つかりませんので、今度川上さんにそういうお話をしていただいたら明治館のこともわかってくるのではないかと思います。

鵠沼の子どもたちの生活と遊び

 それではこれから鵠沼の子供たちの生活について話をさせていただきます。最初は暮れからお正月にかけてなのですか、よく他の地区の話などを聞くと「お正月のたこあげ」などといいますが、私たちはお正月にたこあげをした記憶がありません。風の向きが海の方から吹いてくるのが5月なんじゃないですか。だからたこあげというと5月、という印象があります。ですから暮れからお正月というと、だいたい独楽(こま)です。独楽を当てっこするんです。しかし都会の子供たちがよくベーゴマ、ベーゴマと言いますが「ベーゴマ遊び」というのをしていたようです。この間堀川の人とお話したときだれもが「できない」というんですね。私もできません。都会は狭いからああいう金だらいなどを使うようなそういう遊びが発達したのではないかと思います。我々の場合は「大山独楽」といわれるもので、白と赤と青で同心円状に塗られたかなり大きいものでした。あるいは手作りみたいな感じで、よくおこづかいを握って「片瀬独楽」これは龍口寺の近所、片瀬の通町(とおりちょう)あたりで屋台みたいなかたちで工場があり、そこに買いに行きました。「おじさん、これで作ってくれ」と言って作ってもらいます。それを持っているとかっこいいんですね。それでまた心棒がけやきやなんかだと、大庭の方まで探しに行ってかしの木の枝を切ってきて自分で心棒をけずって作ります。最後はガラスを使い、ペーパーを使って、なかなかこの心棒を出すのが難しかったのです。それでまた、かしの芯だというとまたかっこうよかったんです。そのように独楽を暮れからお正月にかけては特に暮れですが、よくやったように思います。それは農家が例えば板橋さん、板橋さんのところなどは筵(むしろ)を使っていろいろなものを干したり、農作業するのに屋敷の中に広い広場があったんです。ですからそこで独楽を回しました。これはあまりいい話ではないのですか、誰かがびかびかの独楽を買ってくると皆でそれを目の敵にしまして、それで「がんにゅう」というのがありまして、独楽をぶつけるんです。置いてある独楽に思い切り当てていくんです。当たればOKということになるのです。農家の隅に物置みたいのがあって、トイレがあるんです。トイレなどというと聞こえがいいですが「肥っため」と僕らは呼んでいました。それの周りは囲いがないんです、かめがいけてあるだけです。そこに独楽を落とすんです。新しい独楽を落とされた子は泣いちゃうとかね。そういう遊びをよくやりました。がんにゅうをして独楽がころころと止まってしまったら負けですし、それで最後まで打ち勝ってしかも寿命が、回っている寿命が長いのが勝ち、というのが独楽回しです。これはよくやりました。
 それからお正月に我が家でよくやったのはトランプとか花札とか「出たか坊主」などと言ってこれは親父のほうが得意でした。ときどきいんちきをやられまして、子供が悔しがるのを楽しんでいたようなところもありました、おふくろの方は京都というか関西の出だったので少し品がよくて百人一首なんかをやっていて、小学校のころから「むすめふさほせ」などという百人一首をやりました。おふくろの兄弟のところもやっていました。
 お正月が明ける頃、楽しかったのは15日の日に「どんど焼き」というのがあります。宮中の行事では左義長(さぎちょう)と言うのですか。結局集落のはずれみたいなところに「どうろくじんさま」というのがありまして、多分隣との境に道祖神というのがあったんでしょう。私たちの町内の場合は今の「太陽の家入口」から大平橋の方に行きますと、上流の堰というのがあって、そこから堀っこが伏見稲荷の方へ堀川田に水を供給している、その堀っことの交点のところに「どうろくじんさま」とよんでいた道祖神が立っていました。そこへみんな書き初めとか、しめ縄とか、門松とかそういうお正月のものを持っていって焼きます。その時お米の粉を餅にして団子にしてそれを木の枝に刺して火にかざして焼きます。それを食べると一年間病気をしないという、それが1月15日の行事でありまして、子供も非常に楽しかったということでございます。
 2月になりますと稲荷講というのがありました。私の家の中にも、今はちょっと外へ出ておりますが、お稲荷さんがありました。稲荷講ということで、ちょうど農閑期ですから皆その時集まるんです。大人たちはそこでぬたを作ったりしながら、いろいろ話し合って夜を過します。昔の人は子供たちのことをよく考えていたんですね。だから紅白のおむすびを必ず麹蓋(こうじぶた)にいっぱい作りまして、それを子供たちに配ったりキャラメルを配った、それが子供たちにとって大変楽しいものでした。それでお稲荷さんに油揚げをあげたりという稲荷講というのがありました。大体町内の選挙というのは、町内会長とか消防担当とか一年の役を大体その稲荷講の場で決めるというならわしであったと思います。
 2月から3月にかけては、雪が降ったときですね。雪だ、というと子供たちはうれしい気分になりますが、親父なんかも昔から雪のときは「雪だ」と思うんでしょう。雪が降りますとお父さんが「峻坊早く“きんちゃんみせ”へ行ってこい」と言います。“きんちゃんみせ”というのは鵠沼小学校の側にあったのです。竹内酒屋さんのもうちょっと先に今でも酒屋さんがありますけれど、そこでたこなんかも昔は売っていたようですが、そこでとりもちを売っていました。「それを買ってこい」というんですも親父は裏の竹薮で竹を切りまして、それをひごにする、小刀で割いてひごを作っています。とりもちを買ってくるとそのとりもちを、鵠沼言葉で「なびる」とあまり品のいい言葉ではありませんが、ひごになびりまして田圃に出かけます。田圃に広い畦があります。その雪をどけてそこにとりもちを仕掛けるんです。すると上の方て雪でえさがないもんですから鳥が群がっているんです。ひよどりだとかスズメだとか。それで黄色いものを見つけるとばあっと降りてきて、それをかたっぱしから捕まえます。それで首をひねって、鳥をむしゃむしゃ食べるというのが楽しいものでした。まあ鳥に関して言うと、もうひとつ楽しかったのは、藤沢の魚万の前あたりに武蔵屋という小鳥屋さんがありました。そこでかすみあみを買ってきまして田圃の畦の縁にかすみあみを掛けたり、最後はずぼらをして私の家の屋敷の中の木立からぱっと鳥が飛び出る、そこを捕まえたりしました。ひよどりを捕まえたりうぐいすとか目白とかそういうのを捕まえました。それを飼うわけです。ときには朝鮮雉という「でんぽぶい、でんぽぶい」と鳴く鳥が親子でやってきて捕まって、だけどあれは大きいから、かすみあみを破って大きな穴が開いちゃったんです。そのようにかすみあみというのも思い出がございます。鳥はずいぶんいました。今でも時々いろいろな鳥がやってきますけれど、昔はずいぶんいたなあと思っております。
 春になりますと僕たち子供には別天地のようなすばらしいところがありました。それがさつき言った砂山というところです。今では片瀬川も引地川もまっすぐになっていますが、このころは今の大平橋のあたりまで引地川が来ましたあと、ぐっと西に流れていました。ですからさきほども出ました明治館というのは堀川田の東側にあったといわれています。そして相沢君の今の家のあたりを通って西に蛇行して山すそを流れていました。その蛇行の突端のあたりだと思いますが、そこに砂山があったんです。そこには木が生えていません。ですから上の平らの頂上、今ヴィラ・ウィステリアというのが建っているあたりから、砂山をごろごろごろごろ転がりながら下の小川のところまで下りてくる、これは楽しかったです。そこで鬼ごっこをしたり、大平台というのは我々の遊び場だったんです。そこには昔は大きな井戸がありまして、それは深い井戸だったんです。おととい相沢君は「100メートル以上あったんじゃないか」と言っていましたが、ともかく石を投げてもどぼんという音が帰るまでけっこう時間がありましたからかなり深い井戸でした。それでへりがないんです。松林の中にその井戸だけ残っているんです。だからそこへ行って落ちちゃったら大変だというのが我々の子供の頃の心配だったのです。そういう砂山がありました、その下から清水が湧いていました。これがすごくいい清水で、春先になりますと芹とかはこべとかそういうものがいっぱい取れました、一年中取れたと言ってもよいでしょう。砂山からきれいな小川が流れていて、それが絶好な遊び場になっていました。川が随所に池を作っておりました。堀川の古い人は池なのに「ああ、ふるっかわ、ふるっかわ」と言っていて、なんで「ふるっかわ」と言うのかと思いましたら「古い川」という意味のようです。伏見稲荷から雅叙園まで今は下水になって下にもぐってしまいましたが、あそこも「ふるっかわ、ふるっかわ」と呼んでいまして、それが古い川だったんですね。池として特に大きかったのは今の辻堂小学校あたり、それが一番大きい池でした。その頃鴨撃ちの名人といえば有田さんのお父さんで、私の親父の小学校、中学時代の友達ですから「有田のよっちゃん」と呼んでいて、子供まで「よっちゃん、よっちゃん」と呼ぶようになってしまっているのですが…。「峻ちゃんいるか」と鉄砲下げて良夫さんが見えられて、その後をくっついていくんです。そこで行くのが「ふるっかわの池」なんです。そこに鴨がいっぱい来るから、それをドーンと撃つんです。それから猟犬を使って獲りに行くんですが、私は有田さんが鴨を落としたところを見たことはありませんが、とにかく面白かったですよ。なにしろ名人だったとの評判です。
 あと魚取りの名人というのがいまして、一人は私の家の隣の若尾さんの親戚なんですが、やはり土佐の生まれの人で高崎さん、この人は魚取りの名人でした。引地川の土手をこう歩いていて「あ、いた」と、鯉の背鰭がさっと見えると、昔の引地川の土手というのは今ほど急じゃないんでとんとんと駆け下りて行きます。そこにどぼんと飛び込んでさっと網で捕まえる、ちょっと言うと嘘じゃないかと思われるかもしれませんが、60センチ以上はあろうかという鯉をその高崎さんという人は捕まえるんです、名人でしたね。それと私の同級生で武田善平君「ぜんちゃん、ぜんちゃん」と呼んでいました、今でも近所におられますが、彼は棒杭のところへ行って鯉だとか鯰だとか素手で掴んじゃうんです。それは名人でした。魚取りでもそういううまい人がいるんです。そういうわけで引地川もまたかっこうの遊び場でした。
 引地川の今の河口のところ小田急のプールガーデンのところ、あそこに昭和10年頃に県営プールを県が作って、すぐ市に管理を渡して市営プールになりました。今では市内の小中学校全部にプールができております。あのころは各学校にプールというのは湘南高校べ行くしか他には学校にプールはなかったんです。ですから夏休み前には市営プールまでみんな行列して海水パンツを持って赤帽というのがありまして、赤帽をしていないと目印にならないということなのでしょう、それで鵠沼小学校からプールまで歩いて行きまして、そこで練習をしましてお昼に帰ります。帰りがまた楽しくて、シャワーを浴びて海水パンツを脱ぎますが、それを赤帽の中にお団子みたいに丸めて入れて、それをぶら下げて引地川の鵠沼橋のところから川に下りてじゃぶじゃぶと竜宮橋、日の出橋、作橋、それから大平橋くらいまで来て帰ってくるのです。その帰りが楽しいんです。引地川には潮が引くと浅くなって中州ができます。じゃぶじゃぶと歩いてくると中州がありまして、そこらあたりに手長エビと言って、けっこう手の長いエビがいるんです。それを捕まえて帰ってくるとか、それから棒杭がずっと川の中にありますから、そこのところで水晶エビという涼しい感じの、おいしいですよこれはてんぷらなんかにすると、それを獲って帰った来たりしたものであります。
 魚に関して言うと、一番いいのは堰がありまして、今の長久保と森井鉄工所の間くらいのところにその堰がありました。言うなればコンクリートの欄干のない橋がかかっていまして、その下に板を張って田植えのとき5月末くらいに堰止めるのです。そして9月10日頃、二百廿日のころそれをいっぺんにおっぱなすんです。相沢君の親父さんが請け負ってましたから、木の槌でもってボーンボーンと何枚も止めてある板を一挙に外すわけです。引地や石川の方から溜まっている引地川の水がドーンと流れるんです。そうすると下にはいろいろと淀みがありますから、それがいっぺんにかき回されたようにどっと流れるんです。すると魚がみな酔っ払ったようになってぷかぷか浮いてくるのです。最初に浮いてくるのが鮎とかうぐいとか、そういう魚は弱いですからが最初に浮いてきます。我々は大平橋の上のところでぷかぷか浮いてくるのを掬って捕まえます。二弾目が鯉とか鯰とか鮒とかそういうのが来ますからそれをまた竹箕(たけみ)という、農具で穀物をあおったりするもの、その竹箕か網また籠を使う人もいますが、それで受けて捕まえます。鯉と言ったって「こんな」(1メートルを超えるしぐさで)のが来ますから、これが鵠沼の行事としましては最大の行事で皆楽しみにしていました。鵠沼だけでなく最後の方は藤沢中から来てたのではないかと思うほど、あの土手にずっと人が並んでしまうほどの大賑わいでした。これが堰を放つということです。秋の稲の取り入れ前の堀川田へ流していた用水を空にするということで、その用水は今の緑橋の近辺から大平橋から来た道祖神のところを通り伏見稲荷のところまで堀川田を潤していたのです。その小川を「ほりっこ」と呼んでいました。
 それとさっきの砂山のところからはきれいな清水が流れていました。今の作橋のところ高島屋か何かの寮のところの裏を通り、今の県営住宅のところ作橋の下のところに水は落ちていました。本当にきれいな水でそこにはいろんな魚がいっぱいいました、しじみもいっぱいいました。島根のしじみほど大きくはないのですが、たくさん獲れました。
 私の鵠小時代の先生で鈴木助晴先生、鵠沼小学校の校長などをされた方ですが、その先生が結婚したばかりで「峻ちゃんうちの女房が黄疸になつちゃった。しじみが良いって言うんだけどどっかないか」「うんあるよ」ということで武田の善ちゃんと二人で先生の奥さんのために「ほりっこ」へ行って「そのかわり先生も取るんだよ」と言って一緒によく獲りに行きました。しじみが黄疸にいいという話がありました。
 先ほど話をしました「ふるっかわ」の先の鴨打ちに行った池には「もくたがに」というのがよく獲れました。もくたがにを獲るために蟹網という簡単な網を仕掛けました。するとごそごそごそと掛かってこれが美味いんです。皆様ご存知だと思うんですがもくたがには「もくぞうがに」とも呼びますが、このへんではもくたがにと呼んでいました。親指のところが毛むくじゃらで、北は津軽半島から南は高知や熊本の方までいます。おそらくそれが東シナ海を通って上海あたりまでつながっているのではないかと思います。今横浜の中華街あたりで上海蟹というのが名物になっておりまして、確か10月1日が解禁でそれから麻糸で縛って空輸してくるのです。横浜の中華街で食べるより上海で食べる方が値が上がって高いです。私の感じではあれは日本で言うもくたがにの仲間じゃないかなあと思っています。これがいっぱい獲れまして特にそこの「ふるっかわ」のところとか、片瀬川の河口でよく蟹網を掛けました。そして海岸にお餅を搗くときに使う大釜を用意しまして、塩水をぐらぐら沸かしてその中に取った蟹を全部ザバッと入れてゆでるわけです。そしてそれを肴に浜で浜風に吹かれて一杯やる、というのが昔の楽しみだったのです。実によく獲れました。
 あと「ぼさ」というのがありました。私の家には椎の木が一杯あったものですから、片瀬川の川魚(かわな)商がときどき「うちはうなぎややってるんだけど、椎の枝をもらいたい」と言ってぼそっと切り落として持っていきました。椎の枝をまとめてぐるぐると巻いてそれに棒杭を付けて片瀬川の中に下げておきます。椎の枝のにおいが好ぎなんでしょうか、そこにうなぎが入ったり、もくたがにが入ったりします。それを上げて「ぼさ」からぼそぼそっとうなぎやなんかを落として、そのうなぎを割いて売りました。黒川の銀ちゃんという「うなぎ屋さん」もいましたが、そういう川魚商の一人がこの「ぼさ漁」をやっていました。私が一年一回ほどは行っている六郷の川魚を食べさせる店、てんぷら屋さん、があります。ここでは汽水域といって海と川の混ざっているところではやはり「ぼさ」で獲っているといっていました。
 もう一つ「もじり」というのがありました。これはうなぎを獲るわなですね。竹で編んであり端を縛ってあり、入り口のところに返しが付いていて入った魚が逃げられないようになっています。どじょう用というのは返しのところが一重でいいのですが、うなぎ用は二重に出られないように関門がありました。この中に「くさぼっこ」を入れまして、僕なんかは田螺がいっぱいいましたから、田螺を大平橋のコンクリートのところなどで欠きまして最初はそれをぶち込んでいました。しかし田螺よりは地引でとれたあじやなんかの茹でたやつを入れておくと、そのにおいでうなぎなんかが引き寄せられて入ってきます。もじりはここらへんでは売っていないんです。浅場いさお君、みさお君、僕の同級生にはこの二人と竹内七ちゃん、八ちゃんという双子が二組おりましたが、その浅場兄弟が「峻ちゃん、もじりが秦野にあるから行くべえ」というので、小遣いだけ握って小田急でわざわざ相模大野に行って、秦野へ行って、僕は5本買ってきまして、満員電車でまた帰ってきたという思い出があります。それで翌朝からどこへしかけるかというと、大平橋の真下、そこは石でごろごろしていますが、深みがあるんです。そこへ少し長いひもを先っぽに付けて流していくように仕掛けます。そのようにして次々仕掛けます。夕方仕掛けて朝5時頃起きてこれを上げに行きます。するとだいたいこの深みのとごろでは、ちょうどいい食べごろというのでしょうか親指か中指くらいの太さのうなぎが一つに一本くらい入っています。そのうちに考えまして、子供というのは考えるもので、大平橋の下に石がいっぱいあります。私はその石をどけましてそこに仕掛けました。そのへんにはよくうなぎがいましたから。それで翌朝行きまして、仕掛けを上げて橋の上で開けてみましたら、にょろにょろにょろと25匹ぐらい入っているんです。ただ太さはちょっと細かったです。ともかくそういうのも楽しみの一つでありました。
 もう一つは「置き針」というのがあります。作文の課題で「僕の健康法」というのを出されまして、親父に知恵を授けられまして「夕方置き針を仕掛けて、朝獲りに行く、それが僕の健康法である」とかなんとか書きまして提出しましたら、号令台のところで皆の前で読まされた記憶があります。今考えるとへたくそな作文ですが、とにかく1メートル位の竿を作ります、先が細くなっている釣竿ではなく単なる竹の棒です。それの先にてんぐすを結わえ着けます。それになまず針というかうなぎ針というか大きな針を付けて、最初は行きに田圃の中で捕まえてつぶした田螺を付けます。それを30本とか50本とかガサッと用意して持っていきます。大平橋と作橋の間とか、作橋と日の出橋の間とか、大平橋と堰の間とかにずっと仕掛けていきます。さきっぽに田螺を付けたものを水面にちょろちょろとなるように流していきます。それで「流し針」とか「置き針」とか言うんですが…。それで朝5時頃に行きますと、うなぎはまるまる癖がありまして、みち糸の途中のところまでだんごみたいに真ん丸くなっています。ごよんごよんとしていかにも大物という感じで掛かっているのがなまずです。これは上げるのが大変なんで「これは最後に上げよう」とか言ったりして、なまずもよく獲れました。なまずは割と頭がよくて田螺なんかだと、夜えさを求めて来るわけですが、ひれでもってバサッと打つんです。すると田螺なんかははがれやすいから、そのはがれたところをパクッと食べるんです。ですからそういうことがあるといつも上げてみるとカラなんです。いろいろ考えて「田螺じゃ駄目だな」ということでどじょうを捕まえて橋の上でぶつぶつと切って、それだとはがれないですから、そういうものに変えた方が確率がよかったのです。そういうような「もじり」とか「流し針」とか「置き針」とかー年中飽きなかったものです。
 太平台という山がありますが、あそこは横浜の平沼さんが開発されて、当時の町長さんが大野さん、その大野と平沼を取って大平橋となったわけです。今辻堂の図書館のある土地は大野さんから分けていただいたのですが、あそこにお住まいでした。たいへいばしと言うと普通は太平と書くのでしょうが、大野さんに因んでおりますので大平橋と点がないのがあの橋の名前ということです。あそこの山は子供の鬼ごっこの場でありましたが、堰の上の方の山は「けんか山」と言いまして、それぞれけんかをしよう、ということになりますと「けんか山へ行くべえ」生意気なことを言いまして「いっぴきどっこいで行こう」などと言ったものです。ひとりずつでけんかをするんです、そういう「けんか山」などと呼ばれているところもありました。いろいろな遊びの遊び場だったのですが、一番楽しかったのは松露(しょうろ)採りですね。松露と言ってもご存知でない方もおられるかと思いますが、松の露と書いて松露、これが松の根元にあって、6月頃一雨降りますと松の根方を松の落ち葉を掻く「荒(あら)くまで」という熊手、庭を掃除する熊手とはちがうものですが、それで掻くわけです。そうしますと砂の中から丸いきのこがころころといっぱい出てきます。これが松露です。昔は藤沢駅のたもとでもおばあさんが新聞紙を広げてよく売っていたとか、藤沢の和菓子屋さんが「松露」という名前の和菓子を作ったりということがありました。松露というのは非常に香ばしくておいしいきのこでした。朝まず私たちは松露を引っ掻いてそれを採ります。そして太平台の先に辻堂の演習場がありまして、そこに防風(ぼうふう)、浜防風と言って刺し身のつまなどに今でも時々出てきますが、今はここらは採れません。その防風をつまんで「びく」のなか松露と一緒に入れて家に持って帰ると、母親がそれをまぜごはんにしたり、おみおつけの中に入れたり、松露弁当を、これは弁当としてうまかったですね、作ってくれたりしました。松露は当時鵠沼の名物でした。よく早起きして採りに行きました。
 そろそろ時間が来たようです。まだ話したいことはいっぱいあるんですが…。ともあれ小学校時代の鵠沼というのは子供たちにとって別天地であったというお話をしました。これからもいろいろあるでしょうが、なんとか環境を保全して、緑と共存するようなものを作っていくということが大事ではないかと思います。この鵠沼公民館でもよくお目にかかりました、ここにお住まいの黒崎義介先生という絵描きさんがおられました。私が白百合の幼稚園に通っておりましたころ「キンダーブック」で黒崎先生の「にこにこ、ふっくら」の絵を見たのがいまだに忘れられません。黒崎先生のお宅に伺うと「峻ちゃん、庭にたらの木があるんだ。あれがいいんだ、ちょっと行こうか」と言われて庭からたらの芽をつまんでこられます。「これをから揚げにしてさ、塩をちょっと振ってそれでビールでも飲みゃ最高だよ」と言われるんです。私も白馬に友達がいて、そこに行ったときにたらの芽がありましたからその苗というのですか、若木を山小屋で分けてもらいまして我が家に植えました。ちょっととげがあるんですが、たらの木は増えます。ところがこのたらの芽の話をよく聞きますと「たらの芽文化論」というのがありまして、たらの芽というのはいつぱい芽が出るんですがみんな摘んじゃいけない、といいます。最初の芽は摘んでいいけれど、二番目の芽は摘んじゃいけないというひとつの言い伝えがあるんです。二番目の芽を摘んでしまうとたらの木が枯れてしまうと。ですから地元のたらの芽を愛する人たちは野生のたらの芽でも一番目だけ摘んで、翌年もたらの木が残るように摘んでいくということが伝統的に残っています。ですがたまに来る人は枯れようが何しようが構わないからいっぱい持っていってしまうので、木が枯れてからぼうずになってしまうということになります。わたしほ先日モンゴルに緑の木を植えに行った時に「森と緑の中国史」(土田 保氏著)という本を読みましたが、そこにも「たらの芽文化論」ということが書いてありましたが、そういう言い伝え、伝承を大事にしてやっていくということが文化なんだと思います。一方「たらの芽をそうやって摘むものじゃないよ」と言ったときに「それじゃお前の土地か」というように所有権を問題にしたり、あるいは警察権力を利用して入れさせない、などという問題になってくるとこれは文明ということです。ですが元は文化というものが大事で、そういうことでたらの芽というものが保存されていく、食性との付き合いかたもそういうものだと思います。これから人間が自然というものと共存していくときにもそういう文化を大切にしていくことが大事なのだと思います。子供の遊びなどももっとお話をするつもりでしたが、時間の関係でこのへんで終わらせていただきたいと思います。
 

葉山 峻(はやま・しゅん)

1933年 藤沢市鵠沼に生まれる。
1952年 鵠沼小学校を経て湘南高校卒業
1959年 藤沢市会議員
1972年 藤沢市長、以後6期24年間在任
1996年 衆議院議員
主な著書に「都市文化論」(日本評論社)、「洗濯板のサーファー」(毎日新聞社)「語りかける言葉」(有隣堂)
☆この講演会は「鵠沼を語る会」「鵠沼公民館」の共催で実施されました。