福永陽一郎と
【下】
会員 渡部 瞭 |
藤沢市民オペラ『椿姫』(1988) |
藤沢音楽事情
「音楽の三要素とはメロディー(旋律)・リズム(拍子、律動)・ハーモニー(和音、和声)である」ということは、義務教育段階でしっかり叩き込まれる。しかしこれは、西洋音楽から出発した楽理であって、日本を含む東アジアの伝統音楽には、ハーモニーという要素は薄い。日本の南に展開する太平洋諸島の人々の歌声には、素晴らしい合唱が聴かれるが、この影響はせいぜい台湾の山地民族までしか届いていなかった。そういうわけで、日本音楽にハーモニーという要素が広く普及したのは、幕末の開国後ということになる。それは、開港場にやってきた宣教師によってもたらされた。彼らは布教活動より先に医療などの奉仕活動から日本人との接触を試みた。こうした活動の第一人者は、James(ジェイムズ) Curtis(カーティス) HEPBURN(ヘバーン)
(1815-1911)である。この姓は、現在ヘプバーンと読まれることが多いが、当時はヘボンと呼ばれた。もともと眼科医だった彼は、当初神奈川宿の寺院に診療所を開き、1862年に現在の山下町に移って、診療のほか『和英語林集成』の出版、第一長老教会の設立などに努め、一方、夫人は英学塾を開いた。これが後にフェリス女学院や明治学院大学に発展する。
横浜では仏和学校(1866)、フェリス女学院(1870)、共立学園(1871)が開校し、続いて1875年に美会神学校(後に東京に移り東京英和学校→青山学院)、1880年代に入ると成美学園(1880)、捜真(そうしん)女学校(1886)と、プロテスタント系ミッション=スクールの開校が相次いだ。県立の中等教育機関は、師範学校を別にすると1898(明治30)年の神奈川県中学校(→第一中学校→横浜第一中学校→希望ヶ丘高校)、1901(明治34)年の神奈川県高等女学校(→横浜第一高等女学校→横浜第一女子高校→横浜平沼高校)まで待たなければならなかったから、私立先行である。これは、他の開港場でも同様だった。陽一郎の父=福永盾雄が神戸の関西学院で、母=津義は長崎の活水女学校で学んだということを思い出していただきたい。
こうしたミッション=スクールでは、チャペルでの礼拝における会衆讃美や聖歌隊の育成といった必要性から、合唱教育が重視されたし、その伴奏には簡単に和音が演奏できる鍵盤楽器が多用された。このようにして、元来の日本音楽になかったハーモニーという要素が導入されたのである。後発の公立中学や女学校での音楽指導者は、先発のミッション=スクール卒業者が少なくなかったであろう。
かくして、港町=ヨコハマは、わが国における合唱音楽の先駆的中心地になっていった。この間の事情および今日に至る神奈川県の合唱音楽の発展については、畏友=宗行(むねゆき)紀子の著書『ヨコハマ・神奈川合唱(コーラス)事情』(近代文藝社・1995)に詳しい。興味ある方には一読をお薦めする。
さて、湘南地域における中等教育はどうであったか。早くも1872(明治5)年から25年間、小笠原東陽による《耕余塾(こうよじゅく)》が羽鳥村に開かれ、多くの有用な人材を世に送り出したことが知られるが、音楽教育はなされていない。
1903(明治36)年に逗子開成中学校、翌年に鎌倉女学校(→鎌倉女学院)が開校した。この両校の関係で有名なエピソードは、1910(明治43)年1月に起きた逗子開成中学校のボート遭難事故を悼み、鎌倉女学校の数学教師=三角(みすみ)錫子が一晩で書き上げた『七里ヶ浜の哀歌(ましろきふじのね)』を、Jeremy(ジェレミー) INGALLS(インガルス) (米)編の讃美歌※のメロディーに乗せて、遭難者合同慰霊祭の際、女生徒たちとともに合唱したというものである。 ※さらにその原曲は『立小便』という英国の民俗舞曲とか。
大正にはいると、1916(大正5)年に藤嶺中学校(→藤沢中学校→藤嶺学園藤沢中高校)が開校し、1922(大正11)年には鎌倉中学校(→鎌倉学園中高校)ができるが、いずれも仏教系の男子校で、しっかりした合唱教育が行われたか疑わしい。公立学校は、1921(大正10)年の県立湘南中学校(→湘南高校)と県立平塚高等女学校(→平塚江南高校)開校を待たねばならなかった。明治後半から大正一桁までは、藤沢あたりの少年少女は、汽車で横浜の中学校や女学校に通学していたのだ。
横浜においては、戦前から継続する音楽団体がいくつも存在するが、藤沢市における一般市民の音楽活動が活発化するのは、戦後になってのことである。それは先ず、合唱からスタートしたといえよう。筆者の記憶するところでは、《さより会》というグループがあった。これは塚本智子(ちえこ)が指導する混声合唱団で、後に《湘南市民コール》の主要メンバーになったらしい。続いて横浜第一高女(平沼)出身者が中心になって1950(昭和25)年に結成された女声合唱団《湘南コール(→コール=グリューン)》が現在も活発に活動している。そして1952(昭和27)年、湘南・藤沢両高校合唱部卒業生が混声合唱団《湘南市民コール》を結成する。
藤沢時代 陽ちゃんと峻ちゃんの出会い
1959年のある春の朝、陽一郎は、東京の仕事先に向かうべく、藤沢駅で上り電車を待っていた。折からの地方選挙で、駅前広場では選挙カーが入れ替わり立ち替わり街頭演説の騒音を撒き散らしている。陽一郎の耳に若々しい候補者の声が届き、「文化センターを!」というその内容に共感を覚えて思わず耳を傾けた。被選挙権を得たばかりの、全国最年少市議会議員候補者=葉山 峻の演説である。
多趣味な葉山が、選挙公報などにも記す趣味に〈オペラ鑑賞〉がある。めでたく全国最年少の市会議員となった彼は、6月に《二期会》の『フィガロの結婚』を鑑賞し、そのオーケストラが《京都市交響楽団》であることに刺激を受けた。「地方都市のオーケストラでも、こうして一流のオペラに出演できるんだ! こういうオーケストラを持つ都市が真の文化都市と呼べる」
その夏、湘南高校時代の仲間とキャンプに出かけた彼は、弦楽部やブラスバンド部の出身者に、熱っぽく語りかけた。「おい、藤沢にも市民オーケストラをつくってみないか!」各大学でもそれぞれの音楽団体に所属して活動したメンバーが多かったが、社会人になってからの活動場所が得られた者は少なかった。「やれるかなぁ」「やってみようか」話は煮詰まっていった。
葉山は、近所に住んでいた《二期会》のマネージャーに意見を訊いてみた。彼は指揮者の重要性を説いた。「藤沢には《藤原歌劇団》の福永陽一郎がいる」
早速葉山は、湘南高校OBの代表者を伴って片瀬山の福永家を訪問し、誠心誠意市民オーケストラの立ち上げへの協力を要請した。この当時の陽一郎は、本業の《藤原歌劇団》常任指揮者の仕事の他に、NHKのイタリア=オペラに日本側指揮者として初めて参加し、楽譜集『グリークラブ=アルバム』を編纂・出版し、《法政大学混声合唱団》と《西南学院グリークラブ》の指揮者を引き受けたばっかりだった。断ろうと思えば、いくらでも理由を数え上げることができたはずだ。藤沢に住んで7年目だったが、そこは自分にとって寝に帰るだけの場所に過ぎない。しかし、地元のために一肌脱ぐというのも悪くはない。陽一郎は若き市会議員の熱気に押された。何よりも彼の人柄に惚れ込んだ。ほどなく〈峻ちゃん〉〈陽ちゃん〉と互いに呼び合う仲が生まれ、生涯続くことになる。
かくして、夏の終わりには福永陽一郎率いる《藤沢市民交響楽団》が誕生する。生まれたばかりの不揃いな寄せ集めオーケストラは、秩父宮体育館の会議室や鵠沼公民館を稽古場に練習を重ね、11月22日、J.シュトラウス『皇帝円舞曲』とハイドン『交響曲第94番』で旗揚げ公演をした。まさに〈驚愕〉である。
《藤沢市民交響楽団》が発足した1959(昭和34)年は、2月に鵠沼公民館が落成し、その春《湘南市民コール》が関屋 晋(しん)という優れた指揮者を迎え、《辻堂かっこうコーラス》が磯部 俶(とし)を指揮者に迎えて《クール=クロア》として再スタートした年でもあった。様々な意味で、藤沢の市民音楽活動の一つのエポックといえよう。鵠沼公民館は、まだできたばかりの施設だったが、鵠沼海岸駅からほど近く、商店街に隣接するという地の利から、多くのサークルが利用していた。音楽団体としては、磯部 俶率いる女声合唱団《湘南コール》が先輩格であり、こうした音楽団体は、お互いの演奏会に賛助出演するなどして交流を深めながら切磋琢磨し合ったのである。
《藤沢市民交響楽団》発足を待っていたかのように『第1回藤沢市民音楽祭』が開催された。すなわち、11月22日の鵠沼公民館での旗揚げ公演の翌日11月23日に、秩父宮(ちちぶのみや)記念体育館に会場を移し、前日と同じ曲目を引っさげて参加したのである。そしてここに福永陽一郎というオーケストラ指導者と磯部 俶・関屋 晋という合唱指導者の指導を受ける団体が一堂に会するという、一地方都市の市民音楽祭としてはなんとも贅沢な顔合わせが実現した。
この翌年、鵠沼公民館で〈聶耳(ニェアル)没後25周年記念音楽祭〉を開くこととなり、峻ちゃんは陽ちゃんに編曲と指揮を依頼した。もちろん陽ちゃんは快く引き受けるのだが、これが後にとんでもないハプニングを引き起こす。彼は当時《藤原歌劇団》の全米公演に参加し、この公演は当時米国統治下だった沖縄でも予定されていた。ところが、陽一郎の沖縄入域は米軍に阻止されたのである。「中華人民共和国国歌作曲者に関わる行動」が咎められたに違いない。時代は〈60年安保〉という政治の季節であった。陽一郎自身がこのことにいかなる感想を持ったかは、どこにも記した形跡がない。葉山は1995年7月16日鵠沼公民館で開かれた『聶耳記念碑建設から藤沢昆明友好提携へ』と題する講演会で、このことの経緯に触れ、「申し訳ないことをしてしまった」と語っている。
さて、鵠沼公民館といい、秩父宮記念体育館といい、音楽公演には全く似つかわしくない〈小屋〉だった。これは演奏団体のみならず、当時活発になりつつあった劇団や舞踊団にしても同様な悩みだった。もっとふさわしい稽古場と公演場所がほしい。これら団体が中心となってネットが組まれ、署名集めや陳情行動がすすめられた。その仲介者として青年市議=葉山が活躍した。
この間の事情は、藤沢市民オペラ10周年を記念して宮原昭夫を中心に編まれた『カーテンコールをもう一度[藤沢市民オペラ物語]』(藤沢市 1985)に詳しい。
その、待望の〈藤沢市民会館〉がオープンするのは、葉山が「図書館の再建と文化センターの設立」を公約に初当選し、第1回藤沢市民音楽祭が開催されてから9年を経た1968(昭和43)年のことだった。
そしてこの9年間は、陽一郎自身にとっても、人生の大きな転換点だったといえるかも知れない。1964(昭和39)年に《藤原歌劇団》を退団する。この間の事情は、『演奏ひとすじの道』にも余り詳しくは記されていない。その後、1967年に第5回NHKイタリアオペラ公演に日本側指揮者として参加して以来、陽一郎はプロのオペラを振った記録がないのである。
では、陽一郎の音楽生活はヒマになったのかというと、決してそんなことはない。大学合唱団や市民合唱団とのつきあいの幅はさらに拡がったし、それらを振って、日本の合唱音楽のスタンダードといわれる多くのレコードの録音を手がけている。それらは後にCD化され、現在でも合唱団の唱法のお手本として活用されている。また、作曲・作詞・編曲も多く手がけているし、音楽誌やパンフレット類への音楽評論家としての執筆、著作活動も盛んに行った。
むしろ、こうした多忙さから、次第に睡眠薬に頼るようになり、薬物中毒の傾向すら現れるに至った。また、自宅を片瀬山から本鵠沼に移したのもこの時期だ。
市民交響楽団や合唱団が心から待望し、設立のために努力してきた〈藤沢市民会館〉がいよいよオープンする。そのこけら落としには、『第九』ほどふさわしい演目はない。9月のオープンを目指して1月から稽古がはじめられた。かくして、独唱者に笠原博子・藤田みどり・宮本 正・平田栄寿を迎え、藤沢市民合同合唱団(湘南市民コールと湘南コールが中心に編成)・藤沢市民交響楽団、指揮:福永陽一郎、合唱指揮:関屋 晋によるベートーヴェン作曲、交響曲 第9番 ニ短調 作品125『合唱付』の歓喜の歌声は、1968年9月28日(土)、新装成った藤沢市民会館大ホールに鳴り響いたのである。
そしてその翌日には、藤沢市民によるミュージカル『詩と音楽でつづる「子供の四季」』が陽一郎の指揮で演じられている。これは、湘南市民コール、湘南コール、山武(やまたけ)ハネウェル混声合唱団、善行団地(ぜんぎょうだんち)コーラス、辻堂かっこうコーラス、藤沢山岳会コーラス部、鵠沼小学校PTAコーラス、いすゞ自動車コーラス部、藤沢市民交響楽団、湘南マンドリンクラブ、そして劇団蓬生(よもぎう)の会の朗読・構成という、文字通り藤沢市民による音楽会だった。
この市民会館オープンの頃から体調をますます崩した陽一郎は、翌年2月の藤沢市民交響楽団第11回定期演奏会でメンデルスゾーンを振った後、3月上旬の演奏旅行でひいた風邪をこじらせ、熱が下がらないので検査を受けた結果、4月には横浜の国立結核療養所に入院する。病室までは〈峻ちゃん〉が軽々と抱いて運んでくれた。肺結核との診断だった。熱の方はすぐに下がったが、結局9月まで退院の許しは下りなかった。
退院した陽一郎は、10月10日に開かれた第11回藤沢市民音楽祭には現場復帰している。そして翌1970年には『ベートーヴェン生誕200年記念・藤沢市民交響楽団創立10周年記念』と銘打って、5回の『ベートーヴェン=チクルス』を精力的にこなし、〈藤沢市文化功労者〉として表彰を受けた。
1972年春の統一地方選で、葉山 峻が38歳の若さで藤沢市長に初当選した。早速〈藤沢市民会館文化担当参与〉という職務を設け、陽一郎を任命する。
陽一郎の方は、自宅を本鵠沼から閑静な鵠沼藤が谷に移した。
文化担当参与時代 『藤沢市民オペラ』誕生
〈文化担当参与〉などというと、地元名士の名誉職みたいなものを連想しがちだが、陽一郎の場合は違った。というか、破格だった。
彼自身「私は、長い間、演奏畑一本でやってきた人間で、行政という場所で自分自身に何ができるか、よくわかりませんでした。私も戸惑いましたし、役所の方々も戸惑われたと思います。私は、役所の中の構造とか前例や習慣、ものごとを進める順序などまるで無知でありましたが、その無知を武器にして飛び込んでゆきました。(藤沢市民オペラのおいたち)」と語っている。
先ず、度肝を抜いたのが、市民会館主催の演(だ)し物の絢爛豪華(けんらんごうか)さである。その当時、人口30万規模の地方都市が呼べる出演者の常識を遙かに越えた超一流のアーティストを藤沢に招き、それを、市の負担で破格の入場料で提供した。かくして、I
MUSICI(イ=ムジチ)合奏団、Sviatoslav RICHTER(スヴィヤトスラフ=リヒテル)(ピアノ)、Isaac STERN(アイザック=スターン)(ヴァイオリン)、Elisabeth SCHWARZKOPF(エリザベート=シュワルツコップ)(ソプラノ) 、小澤征爾(せいじ)率いるサンフランシスコ交響楽団、Martha ARGERICH(マルタ=アルゲリッチ)(ピアノ) 、そしてCount BASIE(カウント=ベイシー)、Pat BOONE(パット=ブーン) といった大御所の公演が打たれ、いずれも黒字興業だったのである。
こうして、一流の芸術を市民に提供することが、この試みの第一のねらいであることに違いないが、陽一郎には、もう一つのもくろみがあった。それは、市民芸術団体のレヴェル=アップである。「世界の第一線で活躍する“憧れのあの方”が立ったのと同じ舞台に立てる」この喜びと刺激を、市民芸術団体のメンバーに味あわせたい。そのことによって、舞台を大切にしてほしい。芸術の感性を養い、技術を向上させてほしい。そうした思いがあった。
それだけではなく、一流の芸術家と共演することによって、さらなるレヴェル=アップを図りたい。幸い、陽一郎には《藤原歌劇団》や《東京コラリアーズ》時代に交流した第一線の芸術家たちとの繋がりという財産があった。
これを先ず実現させたのが、1972年クリスマス=イヴという日を選んで公演された藤沢市民交響楽団第20回定期・湘南市民コール創立20周年記念『メサイア』全曲演奏である。《二期会》から瀬山詠子・富樫(とがし)静子・中村博之・工藤 博というソリストを招き、《松原混声合唱団》が賛助出演している。
「私はやはり、オペラの指揮者、オペラ指揮者だと思う。シンフォニー=オーケストラのコンサートも指揮するし、合唱では、合唱の世界では、その部門での指揮者としてのある程度の練達さを、世間的に承認されているかも知れない。しかし、オペラをやっているとき、オペラに関係したことに〈力〉を出しているとき、どうやら私は、ほかの時と違った活力に満ちているらしいのである。」というのが陽一郎の自覚であった。
オペラは総合芸術である。原作者がおり、脚本家がおり、作曲者があって初めて台本ができあがる。それを舞台に乗せるには、それぞれの役を担うソリストたち、合唱団、ときに舞踏集団、そしてオーケストラが必要だし、大がかりな舞台装置、大道具・小道具・衣裳・照明といった舞台美術、効果音、マネージメント、それらの人々の世話をする様々な雑用を担当する人々、そして何よりも観客。こうした多くの人々の協力があってオペラは成り立つ。それらを束ねるのが演出家とオペラ指揮者の立場だ。映画などと違ってやり直しはきかない、一回こっきりの舞台だ。これらを全てやり遂げる能力を持っている人ならば、オペラ指揮者は痛快極まりない仕事だろう。
さはあれ、ここにオペラの大好きな市長がおり、オペラに命をかける指揮者がいても、オペラの公演となると、そうは簡単にことは進まない。宮原昭夫はこうまとめる。「市民オペラ実現のための4つの必要条件とは、〈自前の市民ホール〉〈行政の肩入れ〉のほかに〈市民文化活動の下地〉と〈指導的人物〉である。そして、幸い藤沢ではその条件が4つともそろっていた。」陽一郎は、その方式を企画する時、NHKイタリア=オペラにおける手法を参考にした。すなわち、ソリストは超一流のプロを招き、残りは地元で固めるという方式である。
かくして、〈藤沢市民会館開館5周年記念公演〉は〈藤沢市民オペラ第1回公演〉ということになり、演目はモーツァルト『フィガロの結婚』全4幕に決定した。ソリストは、主に《二期会》からフィガロ:立川清登(すみと)/スザンナ:伊藤京子/アルマヴィーヴァ伯爵:宮本昭太/伯爵夫人:曽我栄子/バシリオ:中村 健/マルチェリーナ:荘 智世恵/ケルビーノ:牧山静江らの錚々(そうそう)たる顔ぶれが招かれた。陽一郎の人脈の層の厚さを物語る。地元側は合唱:湘南コール=グリューン(湘南コールから改称)・日本精工コーラス部・茅ヶ崎高校音楽部/助演:劇団えん・茅ヶ崎高校演劇部が舞台に乗り、オーケストラ=ピットは藤沢市民交響楽団が固めた。音楽監督:畑中良輔/演出:鈴木敬介、そしてチェンバロ・指揮:福永陽一郎。
一地方都市の市民オペラで、これだけのソリストを揃えることができるのだろうか? ほとんど前例のない試みを、藤沢はやってのけた。また、このソリストのレヴェルの高さは、脇を固める地元側に大きな刺激を与えた。「舞台を飾るこの一流歌手たちに恥をかかせるようなことがあってはならない。」この緊張感が練習に熱を加えた。それこそが陽一郎の狙いでもあった。
この市民オペラの成功は、文化都市=藤沢の存在を天下に高からしめたし、市民の芸術活動のレヴェルを引き上げた。また、楽器演奏・合唱・演劇・舞踏といった舞台芸術各分野の市民団体の横の繋がりを強化した。そしてなによりも、藤沢市民にオペラという芸術の素晴らしさを、破格の入場料で味わう喜びを得させた。一石何鳥もの効果を藤沢市民にもたらしたのである。
以後、〈藤沢市民オペラ〉は、第2回『セヴィリアの理髪師』(1975)/第3回『こうもり』(1977)/第4回『竜恋譜(りゅうれんふ)』(1979)/第5回『夕鶴』(1980)/第6回『カルメン』(1980)/第7回『蝶々夫人』(1982)/第8回『ウィリアム=テル』(1983)/第9回『ヘンゼルとグレーテル』(1984)/第10回『アイーダ』(1985・音楽之友社賞)/第11回『椿姫』(1988)と、ここまでを陽一郎がオーケストラ=ピットに立った(作曲者である團(だん) 伊玖磨(いくま)が指揮した『夕鶴』を除く)。演目には〈歌舞伎十八番〉の如き名作が並んでいるようであるが、よく見ると、市民オペラならではの冒険が見られる。先ず『竜恋譜(りゅうれんふ)』。これは藤沢市民会館10周年を記念して、市民オペラのために原作を公募、それを堂本正樹が脚色し、三枝成章(さえぐさしげあき)が作曲したものである。題材は『江嶋(えのしま)縁起(えんぎ)』にある五頭竜伝説で、この公演が今のところ空前絶後である。次に『ウィリアム=テル』。これは序曲が余りにも有名で、子どもでも知っていることから、意外に思われるかも知れないが、藤沢でのこの公演が本邦初演なのだ(陽一郎の没後に公演された『リエンツィ・最後の護民官』も本邦初演である)。売り上げ第一のプロには真似しにくい。
第1回藤沢市民オペラ成功の翌年、春には同志社グリークラブの世界合唱祭参加に同行し、渡欧したが、その夏から秋にかけて病気が再発、半年ほど入院している。しかし、この入院で睡眠薬依存症を克服することができた。
退院後直ちに活動を開始し、第2回藤沢市民オペラ『セヴィリアの理髪師』の準備をすると同時に、藤沢市民会館の新しい企画として『日本の音楽家シリーズ』と題する連続演奏会を提案し、最初に〈山田一雄の世界〉をスタートさせた。これは、演奏家自身に演目を企画させるユニークな試みだが、赤字も出た。
50歳を迎えた陽一郎の仕事は、大学の合唱団体、藤沢市の仕事、編曲・著作の3点に絞られてきた感がある。
1977年、《湘南コール=グリューン》の常任指揮者を磯部 俶から引き継いで、1980年には《藤沢男声合唱団》を設立、常任指揮者となっている。《藤沢市民交響楽団》を含め、これらいわば福永ファミリーは、鵠沼公民館を主な稽古場に、現在も〈藤沢市民オペラ〉の主要な担い手として、また、それぞれの定期演奏会などの公演に活発な活動を続けている。
1981年、福永の指導で育った福永ファミリーや学生合唱団は一堂に会し、『陽ちゃんといっしょ』と題したコンサートを開催した。陽一郎が還暦を迎えた1986年には、新宿厚生年金会館大ホールを会場に開かれた。
こうした地元の音楽文化高揚への貢献は、各方面から高く評価され、1975年市長表彰、1980年神奈川県民功労者、1987年神奈川県文化賞を受賞した。
また、中央での仕事として、1979年に北村協一と共に《日本(ジャパン)アカデミー合唱団》を主宰し、主に日本人作曲家の合唱曲を多数CDに残している。
1979年には《早稲田大学グリークラブ》、1982年には《法政大学アカデミー合唱団》を率いてヨーロッパ演奏旅行にでかけた。
著述活動では『演奏の時代』(1978紀伊國屋書店)・『私のレコード棚から』(正1983・続1985 音楽之友社)を上梓し、雑誌等への寄稿も多数こなした。
1983年夏、第8回〈藤沢市民オペラ〉『ウィリアム=テル』本邦初演の準備も追い込みに入った頃、陽一郎は1か月ほど藤沢市民病院に入院する。今度は腎不全というやっかいな病気だった。『ウィリアム=テル』本邦初演には間に合ったが、以後、人工透析を続けなければならない身体になってしまった。自宅も病院に近いみその台に移し、暁子夫人は運転免許を取り、週3回の病院への送迎をすることになった。これにより、行動範囲は大幅に制限されざるを得なくなった。1985年に〈藤沢市民オペラ〉第10回記念公演『アイーダ』という大作が企画されていたからである。幸い『アイーダ』は大成功を収め、音楽之友社賞を受けた。
陽一郎の遺した文章に次の件(くだり)がある。「2月は私の〈別れの月〉なのだろうか。」1946年、音校復学のために、1951年、《藤原歌劇団》入団のために、福岡を後にしたのがいずれも2月だからだ。1990(平成2)年2月10日、〈マエストロ〉よりも〈陽ちゃん〉と呼ばれることを好んだ指揮者は、藤沢市民病院から静かに天国へ旅立った。葬儀は藤沢市斎場で、藤沢バプテスト教会江ヶ崎(えがさき)清臣(きよみ)牧師の司式で執り行われ、全国各地から多くの方々が弔問に集まった。
陽一郎の没後、文化担当参与は、盟友=畑中良輔に引き継がれ、藤沢市の芸術文化活動は1992(平成4)年に結成された(財)藤沢市芸術文化振興財団が担うこととなった。その手で開催される〈藤沢オペラコンクール〉は、今やオペラ歌手を目指す声楽家の登竜門に位置づけられ、その優勝者には〈福永賞〉が授与される。
今日でも、合唱団の公演のプログラムに、あるいは合唱曲を録音したCDのジャケットに、〈編曲:福永陽一郎〉の文字を必ずといって良いほど目にする。
コンサート『陽ちゃんといっしょ』は、その後も5年に1度開かれ、この指揮者が多くの若者たちに慕われ続けていることを証明している。
2001年10月14日に開かれた『陽ちゃんといっしょ in 藤沢』では、一人の若い指揮者が藤沢デビューした。誰あろう、陽一郎の孫=小久保大輔である。彼の振る『フィンランディア』に、福永陽一郎のDNAがしっかり受け継がれていることを感じたのは、筆者一人ではあるまい。
おわりに
2002年秋、われわれ《鵠沼を語る会》は、初めての試みとして市民ギャラリー常設展示室を借りて『華ひらいた鵠沼文化―東屋・劉生・龍之介―』と銘打った展示会を開いた。そのとき、〈鵠沼文化〉とは何かということが話題になった。大正期の鵠沼、ここに華ひらいた東屋を拠点とし、《白樺派》を中心とする文士や画家の文化、そして、藤ヶ谷高瀬邸を拠点とする《大正教養派》と呼ばれる学者たちの文化、これらは互いに影響しあいながら、当時の日本文化発展の象徴的存在だったことは間違いない。しかし、それらは地元に根づき、地元住民を巻き込んだ文化には発展しなかったように思う。
真の市民文化発展の象徴の一つが〈藤沢市民オペラ〉ではなかろうか。そこでそれを軌道に乗せた立て役者=福永陽一郎について紹介してみたいと思い立った。当初は10ページもあれば書き尽くすだろうと考えていたが、倍のページ数になってしまった。下書きの段階から、福永暁子夫人には数々の貴重なご意見を頂戴した。深く感謝申しあげる。文中、敬称はすべて省略させていただいた。ご容赦願いたい。 (わたなべ りょう)
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