鵠沼人=��瀬弥一 　 渡部　瞭（会員）

１．実業家��瀬弥一の出発 　《遊行寺》の通称で知られる時宗総本山藤澤山(とうたくさん)無量光院(むりょうこういん)清淨光寺(しょうじょうこうじ)は、藤沢市西富に市内最大の伽藍(がらん)を展開する名刹である。その本堂の真裏に回ってみると、そこは「直檀(じきだん)」と呼ばれる本山直属の檀家の墓地になっている。 　その直檀墓地の中でも図抜けて大きな間口４間、奥行き５間、面積20坪という敷地を有し、ピンク系御影石の巨大な墓石と２基の石灯籠が見られるのが��瀬家の墓である。棹石の正面には〈五三の桐〉の家紋と「��瀬家累代之墓」、右面には��瀬賢二と��瀬三郎・��瀬キク夫妻の墓誌、左面には��瀬弥一・��瀬つる夫妻の墓誌、裏面には「大正六年三月建之　施主　��瀬弥一」と彫られている。中台裏面には工事に携わった職人の名もある。��瀬賢二とは、今回この墓誌を見て初めて知った名であるが、「義吽速得芳賢童子」という戒名から、生まれて間もなく亡くなったと思われる。明治30年３月22日に死亡しているから、賢二という名前から見ても、三女=喜美と四女=松誕生の中間に生まれた三郎の二男であろう。 　右脇には現在の施主である二男=逸男氏が建てた黒御影石の墓誌があり、二人の記名がある。一人は生まれて間もなく起きた関東大震災で圧死した弥一の二女=��瀬美枝子であり、もう一人は三郎の三女で弥一の妹=��瀬喜美である。 　��瀬三郎が胃癌のため享年57歳を以て死去したのは、1916(大正5)年も押し詰まった12月20日のことであった。 　父=��瀬三郎の死を期に、嫡男であった��瀬弥一は家督と事業を継ぐことになったと思われるが、事業の方、すなわち1904(明治37)年に横浜南仲通5丁目に三郎が創設した《��瀬合資会社》は、早々に処分してしまったのではなかろうか。 　弥一は鵠沼から動かずにできる仕事を選んだと見られる。 　父の死から１年を経ず、本郷の学生下宿の娘だった阿川つると結婚する。後に「コスモス夫人」と渾名される楚々とした美人であった。三女=八重子氏のお話では、その前に短期間結婚生活を送った女性があったのだという。子をなす前に離婚したらしい。 　1917(大正 6)年秋には長女=笑子が誕生し、家庭人としての責任が増した。 　 ２．川袋��瀬邸への移転 　鵠沼の歴史をひもとくと、北西部のいわゆる「本村」は千年以上の歴史を有する半農半漁村であったのに対し、南東部は明治中期以降に別荘地開発が行われた。つまり百年余りの歴史しかもたない地域であることがわかる。そして両者の中間には江戸時代中期以降新田開発がなされたが、集落は北部に数軒見られたのみで、クロマツの生えた砂丘と単なる畑地・果樹園が分布する無人地帯が細長く展開していた。この無人地帯の中央に、後に小田急江ノ島線が敷設されることになるのだが、弥一が家督を継いだ大正初期にはそのうわさはまだ立っていなかったと思われる。まだまだ鵠沼の交通機関は、東の縁をかすめるように走る江ノ電と人力車の時代だった。 　��瀬弥一が先ず手がけた事業は、《鵠沼御殿》の建つ約２万坪の土地を銀座の豪商《徳力》に売却し、その売り上げで上記無人地帯にほぼ同面積の土地を購入。江ノ電高砂停留所(現石上駅)にほど近い南向き斜面に５千坪の自宅用地を確保し、残りの土地を分譲するというものだった。 　この一連の作業は1918(大正７)年から1919年にかけてあわただしく行われたらしく、藤ヶ谷��瀬邸内に居住していた安倍能成、和辻哲郎・照夫妻、阿部次郎らも相前後して鵠沼から去った。また長男=弥太郎が誕生した。 　��瀬家が川袋の新しい邸宅に転籍したのは1920(大正９)年９月10日ということになっている。この純和風数寄屋造りの新邸については、次章で吉川八重子氏が詳述されているが、柱も細く、全体に華奢な造りだったという。 　この年はまた、鵠沼海岸別荘地開発の大立者=伊東将行が７月に他界し、その功績を顕彰する『鵠沼海岸別荘地開発記念碑』が、賀来神社境内に建設された年でもある(別碑『建碑賛助者』の中に���P彌一の名もある)。このことは、鵠沼東部の宅地開発が新しい段階に転換した象徴的な出来事といえるのではなかろうか。すなわち伊東将行型から��瀬弥一型、あるいは別荘型から定住住宅地型、または人力車型から自動車型への転換とでもいおうか。 　川袋の新邸に移った1920〜21年にかけても、二男=��瀬逸男が誕生したり、妹=松が矢代幸雄と離婚し、兵藤憲二と再婚したり、身辺はあわただしかった。 　1922(大正11)年にはいると、末妹の芳が林　達夫と結婚、現在の鵠沼松が岡３丁目にあった四軒別荘(36�nの地図参照)に新居を構え、川袋��瀬邸は弥一の家族と母=キクという世帯になった(もちろん、数人の使用人は同居していたが)。おそらく弥一一家の最も安定していた時期と思われる。 　そして、この年６月に行われた藤沢町会議員第４期改選で��瀬弥一は当選し、町会議員となった。名実共に鵠沼に土着した観がある。 　前々章の17�nで伊藤　聖会員が紹介している大正13年の一高卒業生名簿における弥一の職業欄は、「地主」という実に素っ気ないものである。弥一は藤沢町会議員という立場をあまり重視していなかったように思われる。また、不動産売買にしても、個人的な立場で行われたらしく、法人設立の記録が見あたらない。 　1922年秋から、弥一は自宅門前に通ずる２本の自動車道路建設に取りかかる。その一つは旧江之島道から江ノ電高砂(現石上)停留所脇を通り、��瀬家敷地の北辺に至る《高瀬通り》であり、もう一つは東海道本線藤沢駅南口と��瀬家正門を結ぶ《橘通り》である。この２本の道路は、��瀬家正門付近で丁字路となっていた。現在は旧��瀬邸中央を南下する道路と交差する十字路になっている。 　高瀬通りを挟んで北側、「高砂」と呼ばれた小高い砂丘の麓一帯は《��瀬住宅地》という名の分譲地として売り出された。これまでの鵠沼東部における宅地開発は、別荘地として開発されたのだが、弥一の開発ははじめから定住の住宅地を念頭に行われたと考えられる。従って１筆の面積もせいぜい数百坪で、京浜方面への通勤に便利なところ、すなわち藤沢駅へ出やすい場所が選ばれた。ここを購入した人々には海軍軍人が目立つ。 　 ３．関東大震災前後 　1923(大正12)年、��瀬家では７月５日に二女の美枝子が誕生し、嬉しい夏になった。 　９月１日は長女=笑子の誕生日だった。藤沢小学校１年生の笑子が２学期の始業式を終えて帰宅すると、台所にはケーキが焼け、赤飯が炊きあがっていた。そこへ相模湾沖を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が襲ったのである。細い柱の上に三州瓦を載せた数寄屋造りの家はひとたまりもなく潰れた。生後間もない美枝子は亡くなり、笑子は老女に庇われて一命は取りとめたが、老女は梁に打たれて絶命した。『ゆく河の流れ』(25�n)にはその模様が描かれている。 　関東大震災は、震源地に直面する湘南海岸東部一帯に大きな被害を与えた。東京のように大規模な火災こそ起こらなかったが、多くの家屋が倒壊し、海岸には津波が押し寄せ、砂地の液状化現象によって井戸や庭池からは噴水のように砂混じりの水が噴き上げたという。 　ここで災害の詳細を書き連ねるゆとりはないが、藤沢町当局及び町議会の動きについて『現在の藤澤』は次のように記す。 　震災に処する善後策を研究し町の財政を考慮し町の趨勢を詳悉し、その復興発展を期すると共に救済応援を求むるを目的として、善後策委員会を組織せり。委員には町会議員と有志にて38名に嘱託しこれを　１，土木並びに衛生科　２，教育科　３，勧業並びに社会科の各分科に分担し益々その実績を挙げつつある。 として、善後策委員連名の筆頭に���P彌一（市と誤る）の名がある。 　弥一は愛児を失った悲しみを乗り越え、自宅の改築もそこそこに、復興対策のリーダーとして活躍せざるを得なかった。また、翌年には三男=三郎が生まれた。 　 ４．鵠沼新道線２０５号（通称高瀬通り） 　関東大震災は、南関東の生活様式を人口分布、建築様式、インフラ整備、防災思想などさまざまな方面から大きく変貌させた。 　ことに特筆すべきは自動車の普及で、きっかけは震災による路面電車車輌・路線の復旧に手間取ったことや〈Ｔ型フォード〉で一躍自動車の大衆化に成功したフォード自動車が、震災後間もなく横浜に工場を建てて日本に進出したこととされる。昭和にはいるとダットサンなど国産大衆車の開発が本格化し、円タクが走り始める。人力車と大八車からタクシーとトラックの時代に転換したのである。 　弥一は先述の《高瀬通り》《橘通り》を南西に延伸し、序章の冒頭に紹介した《こまわりくん》の走るルート建設に取り組んだ。これは今日《鵠沼新道線205号》という市道になっているが、実は��瀬弥一の提案により、数人の地主の協力によって私道として敷設された。道路は土地提供者の名を冠して《上郎(新二)通り》《宮崎(寛愛)町》《��松通り》《小川町》《熊倉通り》などと名付けられた。土地提供を渋る所有者からは、弥一が自費で買い上げた。 　自動車交通を念頭に置いた道路には、道幅の広さと屈曲の少なさが要求される。公共事業として敷設される計画道路なら、法的な措置もあり、強制的にでも道幅と直線コースが確保できる。また、《鵠沼海岸別荘地》のように、何もない砂原に道路を通すなら、それも可能であった。 　しかし悲しいかな、無人地帯とはいえ、砂丘列の間の細分された畑地や果樹園の農道を繋いで拡幅する作業である。どうしても屈曲が多くならざるを得ない。 　加藤徳右衛門は『現在の藤澤』の中で「地価も反当千円は難かりしも、一度道路の開通乗合自動車は爆音を立てて往来する状態となりて忽ち地価は暴騰し、沿道は坪当たり二十円台を呼ぶに至ると、日に月に別荘たり住宅たるもの建設さるは余りに道路の効果の顕著たるに驚嘆さる」と記している。 　かくして1925(大正14)年５月、全長2970mの鵠沼新道は開通した。年末には東海道線、東京−国府津間の電化が完成し、交通アクセスの便が増した。 　その翌年、東屋とその貸別荘で暮らした芥川龍之介の死後発表された『歯車』の冒頭に、「僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた。」とある。その道である。 　やがて昭和の初めごろにはこの道を通ってバスが藤沢駅と鵠沼海岸海水浴場や海岸通り大曲を結ぶようになった。(69�n参照) 　 ５．江之島水道 　大正が終わり、昭和が始まろうとしていた1926年12月14日、江の島の島民は待望の上水道開通の喜びに沸いていた。「江之島に水が出た時の父のうれしそうな顔は、今でも忘れられない。」と、笑子氏も書いておられる。 　江の島は、地質構造上極めて水が得にくい。その上、人口集中地は明治以降の埋立地である。定住人口は少ないが、旅館街になっていたため、外来人口は多い。そういうわけで、恒常的に水不足に悩まされてきた。また水質も悪かった。島民は天秤棒を担いで桟橋を渡ったり、小舟を漕いだりして対岸の片瀬から水を運んでいた。この様子に心動かされた弥一は、資本金125,000円を以て《江之島水道株式会社》を創設し、自宅の敷地に井戸を掘り、旧江之島道に鉄管を埋設して、江の島に飲料水を供給する事業に着手した。 　すなわち、当初は江の島への給水が主目的で、途中の片瀬地区にも分配しようとする程度だったが、次第に事業を拡大した。井戸も自邸のものでは間に合わなくなり、江ノ電の東側、石上地区に新たに内径２尺鉄筋コンクリート集水管延長61間を地下15尺以下の個所に埋設した。1928(昭和３)年２月には《玉川水道株式会社》系と提携して新たに《湘南水道株式会社》とし、翌々年には村岡村奥田の伏流水を水源に、鎌倉町への給水を計画。内務省に許可申請する。 　 ６．町会議員��瀬弥一と政争 　『藤沢市史』第六巻の第四章『市制施行前後の藤沢』の冒頭に、12�n余り(614〜626�n)を割いて『藤沢町政の変動と政争』が述べられている。要約すると次のようなことらしい。 　1925(大正14)年３月の普通選挙法成立に続き、翌年１月には地方自治においても従来の納税要件と経済要件が撤廃され、25歳以上の男子で２年以上当該市町村に居住する者には選挙権・被選挙権が付与されることになった。さらに首長の権限や国の監督権が大幅に緩和されるなど、いわば大正デモクラシーの総仕上げともいうべき地方自治の改変がなされたのである。これにより有権者は一挙に４倍となり、1928(昭和３)年２月の最初の普通選挙では、当時の２大政党であった政友会と民政党をはじめとする各政党は、支持者獲得活動を活発化させた。 　この総選挙の結果は、政友=218：民政=216(他無所属=24・無産政党=8)と、両派の勢力は伯仲していた。高座郡の属する神奈川３区では２：２だったし、高座郡出身候補者だけに絞っても１：１の同数が当選した。ところが、藤沢町における得票数を見ると、民政党の岡崎久次郎の1657に対し、政友会の胎中(たいなか)楠右衛門は814と、民政党支持者は政友会支持者の倍いるという数字が示されたのである。 　この民政党の岡崎久次郎を強力に支持したのが、後に“鵠沼派”と呼ばれる町会議員��松良夫(仲東)・加藤徳右衛門(引地)らであった。彼らはこれに勢いを得て、同年の６月に行われた神奈川県会議員選挙に元憲政会前議員の広瀬善治(民政党・小出村)を担ぎ出した。藤沢町からは無所属の葉山繁造(堀川)が立ち、藤沢町においては広瀬・葉山の得票争いが争点になると予想されていた。ところが、立候補締切直前の５月28日、金子角之助町長の推薦で政友会の上郎(こうろう)新二(川袋)が立ち、金子は町長を辞職してかなり強引な選挙運動を展開した。その一翼を担ったのが弥一で、加藤徳右衛門は「結果はどうなったかというと、高座郡選挙区定員４のところ、１位=岩本信行(政友)・２位=磯崎貞序(民政)・３位=高下才助(政友)・４位=上郎新二(政友)というもので、次点が小林輿次右衛門(民政)、広瀬=６位・葉山=７位と敗れ去ったのである。 　前回選挙までは高座郡の定員は３だったが、政友：憲政(後に統合して民政)の比率は１：２だったものが、定員４に増えて３：１という結果になったわけで、その原因は町政を抛り出してまで土壇場で上郎を担ぎ出した金子角之助にあるとする藤沢町民の批判が集中した。町長再選に金子を担ごうとする政友会議員に対し、民政党が真っ向から対立、“鵠沼派”の町会議員��松良夫・加藤徳右衛門らが中心となって“町政刷新運動”を展開した。この時、刷新運動に対立し、金子擁護の中心になったのが誰あろう、��瀬弥一なのである。 　ここで、時代を20年ばかり遡って藤沢町政の概略を見よう。 　1908(明治41)年４月１日、高座郡藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併、藤沢町となり、６月８日には等級選挙を実施、１・２級議員合計各12名が選出された。その14日に招集された第１回藤沢町会で町会会議細則が可決され、初代藤沢町長に鵠沼村出身の��松良夫が選出されたのである。��松家は仲東にある鵠沼きっての旧家で、平安時代末に土着した法印と称する修験者の末裔と伝えられる。 　1912(明治45)年６月19日、第２代藤沢町長として金子角之助が選出され、上述の上郎候補担ぎ出しで辞任するまで、４期16年間の長期政権の座に着いた。つまり、大正時代はそっくり金子町政時代だったのだ。この間、1921(大正10)年には全国町村会を結成し初代会長に就任して、軍事費を削り取ってまでの義務教育費国庫負担増額期成同盟を作ってその目的を果たした。 　金子家は旧大庭村の名主を務めた家柄で、先代の金子小左衛門は、神奈川県自由党壮士として、板垣退助等の講演を積極的に推進した人物である。角之助は、1866（慶応２)年12月25日、高座郡綾瀬本蓼川の農民=武藤卯左衛門の三男に生まれた。羽鳥村に小笠原東陽が開いた耕余塾に学んだ後、14歳の時小学校の教師となり、18歳で南多摩郡の小学校長代理になる。その後教職を辞任して東京に出、自由党の文武館として建設された有一館(ゆういつかん) に寄宿し、自由民権運動の活動家として甲申事変の後に外患罪で逮捕されたりもした。その活動が金子小左衛門に見込まれ、金子家の養子になったのである。 　川袋の��瀬家と上郎家は隣同士だった。これは決してたまたまそうだったというわけではなさそうである。上郎というかなり珍しい姓を神奈川県近現代史の中から探ってみると、次のようなことが判る。 　明治26年の記録に上郎幸八・吉田　茂の共同名義で(大磯町)切通418番地木造板葺２階家41.5坪外２棟、同29年の記録に吉田　茂が切通424番地の今村角太郎名義の木造板葺２階家１棟26.5坪を買取ったことが記されている。すなわち“大磯の吉田御殿”の元である。もちろんここに出てくる吉田　茂とは、戦後長期政権を誇る“ワンマン宰相”のことだ。茂は旧土佐藩士で自由民権運動の闘士=竹内　綱の五男として明治11年に生まれたが、幼少時を横浜で過ごした(太田小学校で学んだとあるから、��瀬弥一の９期先輩にあたる)。明治20年に９歳で横浜の貿易商=吉田健三の養子となり、以来、別邸のある西小磯で育った。 　まだしっかり調べがついていないけれど、上郎家は大磯町西部の西小磯における有力者だったようだ。 　続いて、上郎清助という人物が政友会から神奈川県会議員選挙の横浜選挙区で立候補し、1911(明治44)年・1915(大正４)年・1919(大正８)年の３期連続で当選している。すなわち、上郎清助が県会議員だった期間と、金子角之助が藤沢町長だった期間とはほとんど重なる。同じ政友会系の地方政治家である。当然出会いの機会も多かったと思われる。 　上郎清助は、横浜信託会社社長で、貴族院多額納税議員だったこともある。現在の横浜市営地下鉄《伊勢佐木長者町駅》付近一帯は、震災前はほとんどが上郎の地所だったという。現在も長者町に《上郎ビル》が存在する。 　そして、この上郎清助の弟が上郎新二なのである。 　上郎新二に関する調査が極めて不充分なので断定的なことはいえないが、��瀬弥一と上郎新二の出会いは相当古いのではなかろうか。それは神中あるいは太田小学校あたりまで遡ることさえ充分考えられる。この両家の境遇を比べてみると、驚くほど一致点が多い。先祖は片や鎌倉、片や大磯の街外れの旧家であった。明治期に開港地ヨコハマに出て巨万の富を得た。また、この二人はお互いに極めて広い趣味を持っている。《趣味人》とでもいうべき人柄である。まさに肝胆相照らす親友だったとしても不思議はない。 　弥一は中藤ヶ谷から川袋に移った際、隣接地を新二のために用意して呼び入れたのではないかと筆者は睨んでいる。 　従って、藤沢町政の変動と政争における弥一の態度は、金子支持というよりも上郎新二支持の立場から生まれたものと考えられる。 　上郎新二の当選直後、��瀬家では三女=八重子が誕生した。 　金子町長再選問題は、長期間にわたる政争をもたらし、以後の藤沢町政を不安定なものとした。すったもんだの経緯をここで説明するゆとりはないので『藤沢市史』第六巻の614〜626�nに譲るとして、昭和になってからの藤沢町長は、湯原直平(地方官僚　1929.1〜)、隈川　基(海軍予備役軍医少将　1930.3〜)、一木與十郎(陸軍予備役少将　1931.10〜)、大野守衛(外交官　1934.5〜)と、短命(大野は町長・市長を継続して８年務めたが)で、かつての地元旧家出身の政治家でなく、鵠沼・辻堂の新興住宅地に移り住んだ官僚・軍人・外交官が、政争に関係なく無難だとして妥協案で担ぎ出された形であることを指摘しておく。これは、この政争が如何に厳しいものであったかを物語っている。 　��瀬弥一は、この政争に嫌気がさしたのか、２期で町会議員を終わらせている。上郎新二もまた、県会議員は１期のみであった。 　 ７．実業家��瀬弥一の挫折 　1929(昭和4)年４月１日、小田急江ノ島線が開通した。また、この昭和１桁の時期、鵠沼では鉄道省海の家や県営(後に町営)鵠沼プールの開設、引地川の河川改修、片瀬県道(現国道467号線)や湘南遊歩道路(現国道134号線)の敷設など大型公共投資が相次いでいた。これらによって鵠沼中央部の定住住宅地開発と海岸の観光開発には拍車がかかるはずだった。しかし、折からの世界恐慌は、日本経済に大きな打撃を与え、消費は急速に冷え込んでいった。いきおい分譲地は売れ行きが悪くなり、その収入を当てにした新規事業も思うに任せなくなってきた。 　しかし、この段階までは弥一はかなり優雅な生活を楽しんでいた。狩猟や囲碁では番付に載るほどの腕前だったし、筋向かいともいうべき近所に移住してきた一高の恩師=杉　敏介など文人との交流も盛んだった。 　1931(昭和６)年３月、四女=由美子が誕生した。この出産には困難がともない、つるはすっかり健康を害してしまった。 　昭和７年多額納税議員互選資格調査に基づく『藤澤町長者番付』では、弥一は22,150円で西方前頭５枚目となっている。（因みに東方大関は1,037,442円の上郎新二）この頃まではまだ長者番付に名前が載るほどだったのだが、昭和も２桁になると、かなり厳しい状態が訪れる。 　本来公共事業として行うべき事業を先取りするような形で、弥一は独力で行おうとした。すなわち先述の道路と上水道である。これにはやはり無理があった。道路の方は、藤沢町に提供を申し出たが、受け入れて貰えなかった。その理由が何であるかは諸説があるが、結果として多額の固定資産税を納入せざるを得ず、これが弥一の財力を奪ったとされる。この道路はいわば私道である。従って、少なくともこれを利用するバス・タクシーなどから利用料を徴収すれば、若干の収益があげられたはずである。初めから道を町に寄贈する気でいた弥一には、そんなことは念頭になかったと見える。この後開通する湘南遊歩道路では、建設者である神奈川県が、道路開通後に沿線235�b以内の地主から受益者負担金を強制的に徴収するという乱暴な手段を用いた。もちろん、私道では不可能であろう。 　水道事業は水道条例の規定では市町村営が原則とされており、企業が工場などに供給する場合などを除き、せいぜい個人的な引水が普通だった。弥一が経営した《江之島水道�梶t→《湘南水道�梶tなどはかなり例外的なものである。そこへ、これまた例外的に神奈川県が県営水道の開発を試みた。県営水道の嚆矢とされる。この計画は既存の横浜・川崎・横須賀の市営水道以外の水道未供給地に水道を敷設しようというもので、最初に大磯町から葉山町にかけての相模湾岸の市町村が企画された。その中間地帯に弥一の《湘南水道�梶tが挟まれるわけで、県は買収に乗り出した。当初は渋っていた弥一だが、ついに折れた。もちろん、買収だから幾ばくかの一時金は入ったが、将来に向けての収入源は絶たれた。 　このあたりから弥一の経済的状況は目に見えて悪化したようである。 　1936(昭和11)年３月14日、母=キクが他界した。それから１週間も経ず、20日には愛妻=つるがまだまだ幼い子どもたちを残してあの世へ旅立った。この出来事は、弥一に大きな精神的ダメージを与えたと思われる。長女=笑子氏は折角入学した津田塾を１年で中途退学し、家事と弟妹の世話をすることになった。 　翌々年の７月、集中豪雨により氾濫した片瀬川の水は、川袋の低湿地に大量に流れ込んだ。下の池畔の隠居所にいた八重子と由美子は、浮き上がる畳により鴨居に達して、ようやく最悪の事態を免れた(59�n参照)。これにより、隠居所に置いてあった愛蔵の書画の類は、ことごとく水に浸かった。 　さらに翌々年には、川袋高瀬邸は人手に渡り、花沢町に300坪ほどの土地を得て、旧邸の離れを移築して住んだが、それも２年で、ついには片瀬町の西片に借家して終戦を迎えた。この間、アルコール依存症が進行し、悲惨な状況から立ち上がれないまま、長男=弥太郎の世話で仙台の東北大学病院で寂しく息を引き取ったという。時に1954(昭和29)年10月５日。67年の波乱に満ちた生涯であった。 　 ８．おわりに 「父さんは、東大の文科を出ているんだから、自叙伝でも書いてみたら？」 三男=三郎氏をはじめ子どもたちは何回となく薦めたという。しかし弥一は言を左右にして応じなかった。おかげで、この実に魅力的な人物の人間像は、長女=��瀬笑子氏の『鵠沼断想』(武蔵野書房1998：私家版)と『ゆく河の流れ』(武蔵野書房2002)にまとまって書かれている他には、加藤徳右衛門著:『現在の藤澤』(1933)と『藤沢市史』(第３巻1976・第６巻1977)から断片的に拾い集めるしかなかった。他、松沢正『神奈川県における水資源の開発と利用』(私家版1994)や神奈川県近現代史、横浜市史に関するホームページを参照した。��瀬三郎氏、吉川八重子氏からはお話を伺うと共に資料の提供をいただいた。篤く御礼申し上げる。 　文中、物故者と未成年者の敬称は略させていただいた。 　（わたなべ　りょう）