鵠沼海岸別荘地開發記念碑と登場人物
 内藤喜嗣・渡部 瞭(会員)
 
はじめに
 江ノ電鵠沼駅前の賀来神社境内中央に、巨大な石碑が建っている。『鵠沼海岸別荘地開發記念碑』とあり、鵠沼海岸別荘地の開発の経緯を知る上で、極めて重要な手がかりを与えてくれる。これまでも、藤沢市史(第6巻)をはじめ、何人かの人々が解説を加えている。碑文は漢文で、若干解読が面倒だが、さほど難解な文章ではない。彫りもしっかりしており、今のところ欠落の恐れはない。市史では全文は紹介されておらず、他の2例についても若干の読み落としがある。今回、改めて読みの正確を期した。当碑は「開發記念碑」とあるが、むしろ、鵠沼海岸別荘地の開発の功労者、伊東将行の彰徳碑として企画されたことが、次n中段の大正9年3月25日付け『横浜貿易新報』記事からも読みとれる。ところが、その途中に将行は死去した(下段記事参照)。
 伊東将行の何たるかは、かなり謎に包まれている。その出自について、この碑では武州(埼玉県)川越の人とあるのみで、それ以上のことは読みとれない。最後の孫に当たる右近氏によれば、信州出身の士族で、上野の彰義隊で生き残り、川越に隠遁したのだということが右近家には伝えられているという。これは、右近家の祖先と混同している可能性もある。信州の士族といっても、信州には6万石の松本藩から1万石の須坂藩まで、11もの藩があったわけで、漠然としている。ここでは伊東将行の人となりを記す目的ではないので、別の機会に譲りたい。
 本稿では、碑文に記された人物について、できるかぎり調査した結果を述べることとする。碑面には合計30名に及ぶ人物が登場する。藤沢市史では「職業不明者6名省略」とあるが、今回極力詳細に調査して、その穴を埋める努力を試みた。他に裏面には発起人として9名が連名しており、別碑『建碑賛助者』には50名が名を連ねるが、むしろこちら側に不明なものが多い。
   
  
1919(大正8)年11月16日/1920(大正9)年3月25日/7月31日の横浜貿易新報記事
 
 
 
A.記念碑表面に登場する人々(碑文順)
【鵠沼海岸別荘地開發功労者】
A 1.伊 東 將 行 (1861-1920.7.29) 埼玉県川越市より転入
鵠沼海岸別荘地開発功労者。鵠沼館・東屋経営。大給子爵家の土地開発 ・分譲で鵠沼南東部紹介の先駆けをした。
【鵠沼館創設者】
A 2.三 觜 直 吉 生没不明 出身:羽鳥村(?)
鵠沼舘を将行と協力して創設したことしか判明していない。
【武相倶樂部建設メンバー】
A 3.今 a@元(げん) 穎(えい) 生没不明 出身:中新田村(海老名市)
第2代高座郡長、神奈川県会議員、国会開設運動に熱心に取り組んだ。
A 4.三觜八郎右衛門 生没不明 出身:羽鳥村
旧羽鳥村名主、羽鳥村初代村長。明治5年鵠沼村戸長を務める。
A 5.金 子 小左衛門 生没不明 出身:大庭村
旧大庭村名主、大庭村村長、藤沢町会議員、神奈川県会議員(自由党)
2代目藤沢町長金子角之助の養父
A 6.田 中 平 八 生没不明 住所:東京麹町区内幸町1
本名:北村菊次郎。相場師=田中平八(天下の糸平)の長女=登羅の婿で
三代目平八を継ぐ。糸平不動産・田中鉱山を興す。
A 7.齋 藤 六左衛門 生没不明 出身:鵠沼村苅田
旧鵠沼村名主(大齋藤)、鵠沼村会議員・藤沢町会議員、鵠沼新場(生糸 市場・地引き網)の取締役、大地主。
【鵠沼海岸別荘地開發関係者】
A 8.中 野 武() 營(えい) (1848.1.3-1918) 出身:香川県 本郷元町1-5住
香川県官吏→農商務省書記官→東京株式取引所副頭取、東京市会議員、
衆議院議員。小田原電気鉄道社長、東京商工会議所会頭
A 9.中 島 行(ゆき) 孝(たか) (1934.8.21-?) 出身:東京 牛込区南山伏町2
東京株式取引所理事長、農工貯蓄銀行頭取。東京市議(議長)・東京府議
衆議院議員など
A10.伊 藤 幹 一 (1844.11-) 出身:東京 住所:麹町区下二番町
旧幕臣=伊藤幸之助の長男。戊申戦役従軍。教育界→欧米の取引所研究
東京株式取引所書記長→支配人→常務理事。東京市議(小石川区)
【別荘地を購入した貴紳富豪】
A11.蜂須賀茂(もち)韶(承(つぐ)?) (1848.8.8-1918) 出身:徳島市
侯爵。旧阿波徳島藩主斉祐卿の男。東京府知事、文部大臣、貴族院議員
A12.益 田   孝 (1847.11.17-1938.12.28) 出身:佐渡 住所:北品川宿
男爵・勲三等。井上馨の千収会社→三井物産→三井合名を組織。三井財 閥最高経営者・財界の重鎮。鈍翁(どんのう)と号し、茶人・古美術収集でも著名。 小田原が別邸で鵠沼別荘は愛妾邸。次男=信世氏が跡を預かる
A13.藤 堂  紹(つぐ) (1884.7.27-) 出身:三重県津市 住所:本所横網
伯爵。旧津藩主=藤堂潔の長男。学習院卒後ケンブリッジ大に留学、 外務省政務局→通訳・式部官。伊日辞典(鳳鳴堂)刊行。娘=千賀子は朝 香宮妃。在英時代の友人=田中銀之助より赤別荘の地を分譲された
A14.久 松 定(さだ) 謨(こと) (1867.9.9-1943) 出身:愛媛県松山市
伯爵。静岡藩士族=松平勝氏の次男。伊豫松山藩主=久松定昭卿の跡を嗣 ぐ。1884年仏国に留学、帰国後陸軍に入隊、歩兵大佐→中将
A15.馬() 越(ごし) 恭 平 (1844.10-1933) 出身:岡山県 住所:芝桜川13
家代々医を業とするが、商を目指し大阪の巨商=鴻池から井上馨の千収 会社にて益田孝と苦楽を共にする。三井物産、三井呉服店理事を経て日 本・札幌・大阪合同成立の大日本麦酒且ミ長。商工会議所初期より10期 理事。衆議院議員
A16. 瀬 三 郎 (1859-1916) 出身:鎌倉十二所 横浜より移住
旧十二所村名主=山口義高の次男として生まれ、1883年高瀬家を嗣ぐ。 横浜貿易・高瀬商店設立、一代で財を成す。破産時中藤ヶ谷に2万坪余 の土地を長男=彌一名義で購入、豪邸を構え、再起を期す[鵠沼89号]
A17.郷   誠之助 (1865.1.8-1942.1.12) 出身:東京 住所:麹町上二番町
男爵。岐阜出身の正二位勲一等=男爵=郷純造の次男。1884年独国に留学、 経済学を学ぶ。哲学の博士号を得て帰国。農商務省の嘱託を経て実業界 入り。東京株式取引所理事長、帝國商工銀行頭取、商工会議所会頭。貴 族院議員
A18.廣 岡 助五郎 (1882.10.31-?) 出身:東京 住所:京橋区四日市2-3
都下屈指の清酒問屋[加島屋]先代助五郎の長男。1888.1家督相続。商売 を拡大させ、加島屋貯蓄銀行取締役を兼任するも後辞任。鵠沼に隠居し、 鵠沼郵便局2代目局長・自警団顧問
A19.山 口 寅之輔 生没不明 出身:鎌倉十二所
高瀬三郎の甥(弟とも)。山口高重(喜左衛門)の子=高久。不動産業。後 に松島苑住宅地を開発[鵠沼89号]
A20.佐 藤 長四郎 生没不明 住所:麹町区
代々薬種問屋の家に生まれる。
A21.吉 田 嘉 助 (1890.4.28-?) 出身:東京 住所:京橋区元数寄屋2-4
紙商=吉田嘉平の次男。開発初期に海岸商店街の一角を先代が入手
A22.宮 ア 寛(ひろ) 愛(ちか) 生没・出身不明
北海道開拓史にその名を留める。大正初期に川袋(宮崎町)に広大な屋敷 を構える。昭和10年代初め旧満州に渡り、屋敷は以後安斉氏に売却。
[鵠沼86号]墓所:遊行寺
A23.千 葉 恒次郎 生没不明 出身:東京 住所:麻布区新龍土町
千葉忠三郎の次男。長兄=清(肥料部)と三井物産に入り、石油部門の取 締役。兄弟で鵠沼に別荘を持ち、後に常住
A24.小田柿 捨次郎 (1865.11.6-?) 出身:滋賀県 住所:芝高輪南30
小田垣彦内の三男。東京高等商業学校卒。三井物産海外部の取締役。上 海・香港など中国、米国(桑港)、朝鮮などの支店長を歴任
A25.田 中 銀之助 (1873.1.20-1935) 出身:東京 住所:麻布区市兵衛町
3代目田中平八(A 6)の長男、糸平の孫。慶應義塾→ケンブリッジ大卒、 藤堂紹(つぐ)(A13)と親交。日本にラグビーを導入。田中銀行・田中鉱業・ 日本製鋼所各取締役。鵠沼の別荘は「赤別荘」と呼ばれた。
【來遊し、伊東將行を世に紹介した】
A26.寺 尾   亨(とおる) (1859.2.1-1925.9.15) 住所:赤坂
国際法学者。東京天文台の初代台長=寺尾寿の弟。頭山滿(A29)の隣人
【後継者】
A27.伊 東 將 治 (?-1998) 出身:鵠沼
伊東将行の一人娘=政子の婿=右近辰太郎の次男。将行の養子となる。
1950年、鵠沼ホテル跡に割烹料亭「東家」を開く。1995.12.31廃業
A28.長谷川 欽 一 (1900.9-1985.6.24) 出身:東京 住所:鵠沼村6642
東屋初代女将=長谷川榮の弟=長谷川繁蔵の長男。父の死により1902年数 え3歳で長谷川家の家督を継ぎ、名目上東屋の経営者となる。2代目女 将=多嘉(B 2)の死後実質的に東屋を経営するが1939年9月廃業
【鵠沼海岸別荘地開發碑記載者】
A29.頭(とう) 山(やま)   滿 (1855.4.12-1944.10.5) 出身:福岡県 住所:赤坂
大亜細亜主義の立場で運動を行った国家主義運動家。政治結社《玄洋社》 を創設、日本亡命中の孫文・ボースらを庇護した。
A30.牧 野 随 吉 生没不明 出身:高座郡綾瀬村
自由民権運動家。《真友会》会員。書家。著書に『震災余禄』がある
 
B.記念碑裏面に連名する発起人(町長外イロハ順)
B 1.金子角之助 (1866.12.25-) 出身:綾瀬村蓼川
蓼川の武藤家の三男。耕余塾卒業後教職につき、自由民権運動に参加。
金子正左衛門(A 5)の養子となる。町会議員を経て2代目藤沢町長4期
B 2.長谷川多()() (1866.10.13-1958.9.7) 出身:牛込区
東屋2代目女将。初代=榮の姉。画家=長谷川路可の母。墓所:本眞寺
B 3.萩原 輝 生没・出身不明 
長谷川欽一の後見人
B 4.加藤徳右ヱ門 (1875.9.8-?) 出身・住所:鵠沼村引地
引地の酒・醤油醸造業、黄金飴製造に成功し飴専業となる。一代前より 鵠沼の宅地開発を手がけ、藤沢町会議員。後に『現代の藤澤』を編著
B 5.松良夫 (1864.6.21-?) 出身・住所:鵠沼村仲東
鵠沼きっての旧家。高座郡会議員を経て藤沢町初代町長。建碑時は町会 議員。墓所:鵠沼墓地
B 6.右近辰太郎 生没不明 出身:東京日本橋
伊東将行(A 1)の一人娘=政子の婿。伊東将治(A27)の実父で後見人
B 7.福田良平 (1877.8-?) 出身:埼玉県吹上 東屋の隣で開業
伊東将行が呼び寄せた医師。東屋の隣に《鵠沼海浜病院》を開設、医院 長。東屋の女将=多嘉(B 2)の妹=長谷川蝶と結婚。藤沢町会議員。後に 藤沢の乗合自動車会社を統合した《藤沢自動車梶tの社長
B 8.齋藤正五郎 生没不明 出身・住所:鵠沼村苅田
齋藤六左衛門(A 7))の長男。藤沢町会議員2期、学務委員を務める
B 9.關根芳五郎 生没不明 出身・住所:鵠沼村
鵠沼の《安場》を経営。藤沢の土建業の元締め大親分
 
C.別碑『建碑賛助者』に記された人々(イロハ順)
C 1.伊藤幹一 (A10)参照
C 2.伊藤 清 生没不明 出身:東京府 住所:日本橋区茅場町
茅場町の呉服商。岸上由蔵(C40)の隣に居住
C 3.岩田正道 生没・出身不明 明治43年獨協中卒、医博、三井厚生病院長
C 4.岩垂邦彦 (1857.8.15-) 出身:福岡県 住所:芝区三田1-4
士族=喜田村脩蔵の次男に生まれ、1864年先代=岩垂茂七の養子となる。
理科大卒。電気事業の可能性を研究し同士と工場設立。日本電気叶齧ア
C 5.長谷川欽一 (A28)参照
C 6.藤堂紹 (A13)参照
C 7.千葉恒次郎 (A23)参照 ※碑に恒三郎とあるは誤りか?
C 8.千葉 清 (1878.8.22-?) 出身:東京府 住所:麻布区新龍土町12
千葉忠三郎の長男、恒次郎(A23)の兄。東京高等商業学校(一橋)卒。
三井物産の綿布部を経て肥料部。推進取締役
C 9.岡田福壽 生没不明 出身:東京 住所:淺草須賀町 他詳細不明
C10.小澤ヒサ 生没不明 出身・住所:横浜市野毛1丁目 他詳細不明
C11.加藤為二郎 生没不明 出身・住所:神田区中猿楽町 石炭商
C12.川元姉妹 生没不明 出身:東京府 鵠沼常住。貸別荘「川元別荘」所有
C13.梶川儀隆 生没・出身不明 その他も詳細不明
C14.各務(かがみ)幸一郎 (1861.10.24-?) 出身:東京府 住所:麹町区富士見2丁目
各務省三の長男。日本郵船褐o理取締役。書生に後の歌人=山口茂吉
C15.金杉英五郎 (1865.7.13-1942.1.26) 出身:千葉県 住所:神田駿河台
金杉與右衛門の三男、姻戚恒の養子に。ドイツ留学、医学博士。
耳鼻咽喉科金杉医院設立。慈恵医大設立に尽力。建碑当時衆議院議員
C16.横井忠吉 (1883.2-?) 出身:大分県 住所:牛込区矢来町3
横井忠直の長男。能楽シテ方、宝生流家元=宝生九郎。鵠沼は愛妾別荘。
次男はバレエ振り付け師=横井 茂
C17.濱源藏 生没・出身不明 その他も詳細不明
C18.瀬彌一 (1887.7.28-1954.10.5) 出身:横浜市 住所:建碑時は川袋
瀬三郎(A16)の長男。不動産業。後に藤沢町議2期。詳細は[鵠沼89号]
C19.田中常徳 (1860.1.8-?) 出身:東京府 住所:麹町区中六番町
日本郵船を経て麒麟麦酒・帝国劇場・日本共同製茶各取締役
C20.田中 安 (1851.12-?) 出身:東京市 住所:四谷区北伊賀町4丁目
田中倉吉の長男。鵠沼別荘前の対江館(待潮館)を購入、中屋旅館として
営業。土地を広く購入して貸店舗・貸別荘・貸家を手広く経営。後に石 油元売り田安商事鰍創業。長男=耕太郎。次男=上村元嗣→安一郎(鵠 生園)
C21.玉置孝兵衛 生没不明 出身:東京府 住所:日本橋区堀江町4丁目
砂糖商
C22.佃 一豫 生没不明 出身:東京府豊多摩郡 住所:原宿
日本興業銀行副総裁・南満州鉄道総裁
C23.辻 一郎 生没不明 出身:東京府 住所:麻布区東町 会社役員
C24.内藤彦一 (1865.7.6-1933.11.17) 出身:山梨県 住所:京橋区尾張町
内藤朝政の長男。米国で商業・経済学を学び、メーシー百貨店(ニューヨーク) で研鑽。鶴や呉服店(横浜)に入り、東京に進出、松屋呉服店→松屋百貨 店。支配人→専務。商工会議所理事。銀座菊水煙草店店主。玄洋社
建碑当時、米国から輸入した日本最古の組立家屋を建築[鵠沼79号]
C25.中丸一平 (1870.4.25-?) 出身:東京市
山口藩士=中丸照一の長男。法科大学卒、三井物産門司支店長→本社営 業部長→取締役
C26.名塚源太郎 生没・出身不明 その他も詳細不明
C27.山田松三郎 生没不明 出身:岡山県 住所:芝高輪南町
製糸合名会社代表社員
C28.松本直祐 (1858.6.4-?) 出身:東京市 住所:日本橋区通油町
平井庄次郎の長男。松本家を嗣ぐ。木綿布織販売業。鵠沼では貸別荘= 《松本陽松園》(建碑当時画家=岸田劉生も住む)を経営[鵠沼86号]
C29.馬越恭平 (A15)参照
C30.益田信世 生没不明 出身・住所:京橋区築地明石町
益田 孝(A12)の次男。三井物産社員。鵠沼の別荘を引き継ぐ(A12)参照
C31.深江基太郎 生没・出身不明 その他も詳細不明
C32.後藤武夫 (1870.8.18-1933.2.25) 出身:福岡県 住所:京橋区木挽町
久留米藩士=後藤増蔵の長男。 英吉利法律学校(中央大学)→第五高等学 校中退。同志社に学び全国演説旅行。福岡新聞記者を経て上京、帝国興 信所(帝国データバンク)を興す。鵠沼には賢夫人=タマが常住
C33.郷 誠之助 (A17)参照
C34.小城ウタ 生没不明 出身・住所:芝公園20 西洋料理店経営
C35.山祿郎 生没・出身不明
安中電気製作所社長。ダットサンのAの字は彼の姓から
C36.坂田重雄 生没・出身不明 その他も詳細不明
C37.木下利吉 (1882.2.12-?) 出身:東京府 住所:神田区通新石町
代々岡山池田藩抱えの宮大工。江戸に出て維新後宮内省の出入り。鵠沼 には叔父=米三郎(C39)が関わった縁で母親=千賀子(定住)が広大な土地 を購入、貸別荘を営む。賀来神社石囲いの主柱献納者
C38.木下米三郎 (1858-?) 出身:東京市 住所:下谷区池之端七軒町
先代利吉の弟(分家)。鵠沼の初期開発を手がけた。神職の資格を持ち、
賀来神社の遷座を行った。賀来神社石囲い献納者
C39.菊本直次郎 (1870.9.12-1957) 出身:三重県 住所:南青山
津藩主=藤堂家家臣=菊本保有の次男。慶應義塾卒。三井銀行常務取締役 →初代会長[鵠沼87号]
C40.岸上由藏 生没不明 出身:東京市 住所:日本橋区南茅場町
茅場町の商人。伊藤幹一と親交、海岸に広大な土地を購入。別荘なし
C41.三觜舜太郎 生没不明 出身:羽鳥村
三觜八郎右衛門(A 4)の長男。本家当主。第2期藤沢町会議員→学務委員
C42.柴 丑之助 生没・出身不明 その他も詳細不明
C43.柴垣鼎(かね)太郎 生没・出身不明
文部大臣官房建設課長。千葉大医学部本館など、多くの名建築物を設計
C44.慈 教 庵 所在地:鵠沼字下鰯細川邸内
浄土宗寺院。開山=颯田本眞尼。震災で倒壊後、移転して本眞寺となる
伊東将行の葬儀が行われ、本眞寺に墓碑も建つが、日蓮宗で墓所は別
C45.廣岡助五郎 (A18)参照
C46.平井重美 生没・出身不明 その他も詳細不明
C47.平山儀三郎 生没不明 出身:東京府 住所:京橋区本材木町 売薬業
C48.久松定謨 (A14)参照
C49.最上廣胖 生没不明 出身:東京府 住所:麹町区飯田町3丁目
 
(ないとう よしつぐ/わたなべ りょう)
 

「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」登場人物の所有地分布図
原図:二万五千分之一地形図「江ノ島」(大正10年測図)×175% 一部修正
【凡例】○A=碑文登場者 B=発起人 C=建碑賛助者 (小文字)=次代
○網掛け区画地は、大給子爵家を除く開発初期(明治28年以前)に購入 が確認された人(記号に下線がある)の購入したと思われる区画
(明治15年新字・地番設定測量決済図/明治28年 12月に大給近道氏所 有地確認・承認に村長宛提出地図/旧土地登記謄本)による