物 心 と 戦 争 |
渡 部 瞭(会員) |
物心がつくと、鵠沼にいた。そして、戦争の最中(さなか)だった。そこは、原の地蔵堂の隣り、「鵠沼を語る会」会員の榛葉(はしば)昭市氏の屋敷内にある離れである。
私の生まれは東京で、2歳までは世田谷の太子堂で育った。そして軽度のくる病と診断され、日光の豊かな鵠沼に転地療養したのである。当初は榛葉家の筋向かいにあるT家に間借りし、間もなく榛葉家の離れに移った。どうやら、ここまでは物心はついていなかったようだ。どんな家に住んでいたか記憶にない。榛葉家の離れは現在取り壊され、芝生と四阿(あずまや)になっているが、今でもその離れの間取り図を描けといわれれば描いてみせる自信がある。
昭和19年の秋、3歳の末に弟が生まれた。「産めよふやせよ」の時代である。しかし、栄養価のある食糧は手に入らず、母乳が足りなかった。20年になると頻繁に艦載機が飛んでくるようになった。そうした中、毎日乳母車に一升瓶を載せて少し離れた乳牛を飼っている農家に出かけた。弟のために牛乳を5合購入してくるのである。ある日、途中まで来ると、警戒警報抜きでいきなり空襲警報が鳴った。と、向こうから艦載機が超低空でやってくる。身がすくんでしまい、乳母車の陰に隠れるのがやっとだった。通りがかりの大人が、乳母車ごと長屋門の下に押し込んでくれた。それと同時に目の前を数メートルごとに砂煙が上がり、機銃掃射が通り過ぎた。遠くで男の人が倒れた。死んだと思ったが、貫通銃創で済んだと聞いた。これが私の脳裏に最も鮮やかに残っている戦争の記憶である。
5月の横浜空襲は、殷々たるサイレンが鳴り響く中、B29の大編隊がかなりの時間をかけて東に向かい、やがて北東方向に黒煙が上がり、夜になっても赤々と見えたこと、翌日には大八車やリヤカーに家財を満載した焼け出された人々の列が通ったことを覚えている。
湘南中学生だった榛葉昭市少年は、弟のように私を可愛がり、艦載機が襲来すると、「あれがグラマンだ」などと教えてくれた。
「撃ちてし止まむ」をウテチチヤマンとしかいえなかった幼児には、日本軍が中国やアジア太平洋諸地域で世界史上空前の殺人鬼と化し、朝鮮半島からおびただしい人々を拉致したことなど、知るよしもなかった。 (わたなべ りょう)
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