千葉県我孫子市と鵠沼の不思議な縁
渡部 瞭(会員)
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はじめに
千葉県我孫子(あびこ)市は、千葉県の北部、手賀沼の北岸に展開する都市で、市内には先土器時代以来の考古遺跡や、平将門(たいらのまさかど)伝説も残り、江戸時代には水戸(みと)街道と利根(とね)水運の結節点として発展した。明治・大正期から静かな水郷の雰囲気が文人たちに愛されたため、「北の鎌倉」を自認している。この地ゆかりの人々を見ると、鎌倉よりもむしろ鵠沼との縁が深く、それが多方面に及ぶことに驚かされる。我孫子市では、これら文人の旧居などを文化財として保存したり、私財を投じて文学館を建設する人がいたりと、大切に扱っている。
一方、手賀沼には多くの水鳥が見られ、昭和59年に山階(やましな)鳥類研究所が渋谷から移転し、平成2年には隣接地に我孫子市が「鳥の博物館」を開設するなど、自然科学の面でも見るべきところが多い。
@白樺文学館と志賀直哉・武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ)旧居
明治40年10月、志賀直哉・武者小路実篤が鵠沼の東屋旅館に滞在し、この時の話し合いが「白樺派」誕生のきっかけとなった。文芸誌『白樺』は、明治43年4月に創刊、大正3年から5年まで鵠沼(納屋(なんや))に住んだ小泉 鐵(まがね)がその編集にあたった。小泉はその頃藤ヶ谷瀬邸に住んだ和辻哲郎と一高・帝大の同期。
志賀直哉は鵠沼に住むことはなかったが、明治末年には家族共々東屋に滞在し、小品『鵠沼行』を著している。その後、大正4年9月には我孫子に居住、大正12年3月までをここで過ごした。旧居跡は昭和55年に我孫子市が買収、当時の書斎を復元した。
武者小路実篤も大正3年暮れに東屋で越年、以後佐藤別荘・川元別荘に短期間住んだ。4年9月には鵠沼を離れるが、その後も東屋にはしばしば宿泊し、東屋廃業(昭和14年)後にも無理をいって泊まった記録がある。志賀の勧めで武者小路が我孫子に居を構えたのは大正5年12月。以来「新しき村」を発会し、大正7年には我孫子を去るが、志賀や柳
宗悦(むねよし)らとともに白樺派の隆盛期を迎えた。
白樺派を記念し、平成13年1月にIT企業=日本オラクル会長=佐野 力氏が《白樺文学館》を開設した。
A松岡邸
いわゆる「松岡五兄弟」は、兵庫県神崎郡福崎町の漢学者松岡 操の子として、「日本一小さな家」と柳田國男が自嘲的に語る家で生まれ育った。長男=松岡 鼎は、はじめ師範学校に入り、郷里の小学校長となったが後に東京帝大で学び、医師となり千葉県布佐(我孫子市)に住み、父の死を期に母と弟たちを呼び寄せた。
鼎は後に千葉県郡会議員、医師会長、布佐町長等となり、地方自治に大きく貢献した。昭和9年76歳で没。五兄弟とは、長男=鼎の他、三男=井上通泰(みちやす)(眼科医・国史学者・歌人・宮中顧問官・貴族院議員・芸術院会員)、六男=柳田國男(「日本民俗学の父」と呼ばれる民俗学者・詩人、昭和26年文化勲章受賞)、七男=静雄(海軍軍令部参謀・戦史編集委員長・外国駐在武官・大佐・退役後は言語学者)、八男=輝夫(日本画家:松岡映丘、東京美術学校教授)を指す。次男=俊次・四男=芳江・五男=友治は、共に夭折。
布佐は柳田國男にとって青春の町だったし、静雄・輝夫にとっては少年期を過ごした町である。
松岡静雄は、海軍退役後の後半生を鵠沼に「神楽舎(ささらのや)」と名付けた小庵を結び、言語学・民族学の研究に没頭した。鵠沼を語る会の会員、野口ゆくえ氏は二女(野口喜久子氏)の長男(元氏)の嫁、先日他界された松岡喬氏は長男(松岡磐木=法政大学名誉教授)の長男にあたる。また、松岡映丘は画家=長谷川路可(ろか)の生涯にわたる恩師で、鵠沼に住む兄=静雄を訪問した折りなど、東屋の隣にあった路可宅にもしばしば立ち寄っている。
B 旧村川別荘
村川堅固(1875-1946、東京帝国大学教授・西洋史)は、1918(大正7)年に我孫子に土地を購入し、1921(大正10)年 旧我孫子本陣邸内の離れ屋が取り壊される際に移築した。1925(大正14)年に朝鮮旅行し、その印象の下に設計したユニークな外観の銅版葺き、床は寄木細工による新館を1928(昭和3年)に建てた。大正15年には鵠沼にも土地を購入し、同年に別荘を建てた。二つの別荘は、後に子息の堅太郎(1907-1991、東大教授・西洋史)に受け継がれたが、氏の没後、両別荘とも大蔵省の所管に移り、我孫子別荘は我孫子市の社会教育施設として、鵠沼別荘は氏の遺志により松の緑濃い「鵠沼松が岡公園」として生まれ変わった。
C その他
我孫子に住んだ記録のある鵠沼ゆかりの人物には、他に小説家=中 勘助、画家=硲(はざま)伊之助がある。 (わたなべ りょう)
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