鵠沼を語る会2006年度史跡見学ミニ解説
鵠沼の西縁を歩く 〜引地川緑道を河口から引地橋まで〜
案内:渡部 瞭(会員)
 6月例会日の6月13日(火)、薄曇り、暑からず寒からずの好天に恵まれて2006年度史跡見学が行われた。以下、当日配られたミニ解説のプリント内容に若干の手を加えて報告する。丸数字は主要見学箇所である。
@ 鵠沼公民館 例会の中で多少の事前説明を行ってから出発。
 裏門から右折し、鵠沼最古の旅館「鵠沼館」の跡地に建てられた「オーシャンプロムナード(養護老人ホーム)」の脇を左折、肥上道(こえあげみち)(かつて辻堂村の農業組合が片瀬・江の島の旅館街の屎尿汲み取り権を獲得し、下肥を運ぶために利用したことからこのように呼ばれるようになったと伝える。江戸時代の引地川本流跡であり、堀川田の農業排水路=古川が脇を流れていたが、1964(昭和39)に暗渠化し、道路が拡幅されたため高層建築が可能になった)から渚橋をくぐり片帆橋を渡る。
A 聶耳記念広場 鵠沼海岸2-18
聶耳(ニェアール)(1912/02/15昆明〜1935/07/17神奈川)は中国の若手作曲家。代表作の映画主題歌〈義勇軍進行曲〉は後に中華人民共和国の国歌となった。
 1935年、当局の弾圧を逃れ日本に亡命した彼は、1935年7月17日、鵠沼海岸で遊泳中に水死した。中華人民共和国建国時の1949年に藤沢市民有志により聶耳を記念する運動が起こり、1954年に山口文象(建築家)制作の耳の字をかたどった記念碑が建てられ、11月1日に中国の紅十字会長、李徳全女史を迎え、除幕式が行われた。これが藤沢市と昆明市が姉妹都市関係を結ぶきっかけとなった。
 1958年、狩野川台風の高波により破壊されたが、1965年に記念碑保存会により、記念碑の再建運動が始まり、同年9月に再建された。
 1986年、聶耳没後50周年記念事業として、藤沢市民と関係者の浄財で聶耳のレリーフ(菅沼五郎作)を建立するとともに、神奈川県や藤沢市の協力を得て、記念碑とその周辺を整備し、現在の聶耳記念広場となった。
 聶耳広場には記念碑以外にもいくつもの有名人の筆跡がある。
※鵠沼橋脇に1969(昭和44)年6月に完成した県下初のスロープ式横断歩道橋で、国道134号(湘南遊歩道路)を渡る。
B (引地川改修)紀功碑 鵠沼海岸2-17地先
 昭和7年から9年(1932〜34年)にかけて、神奈川県と藤沢町の手により行われた下流部の改修工事のことが、当時の町長一木與十郎の書で刻まれている。
※この碑は一時引地川に転落し、行方不明になっていたが、鵠沼を語る会元会長塩澤務氏が発見、引き上げ、再建したという。
C (鵠沼耕地整理事業完成)記念碑 鵠沼海岸4-8地先
 1986(昭和61)年の建立。この耕地整理事業は、県による河川改修事業実施の前年、昭和6年に開始されたが、途中第二次大戦や、鵠沼海岸地区の宅地化の進展のため、なかなかまとまらず、やっと昭和末期の61年になって事業の完成を見た。
D 堀川(引地川)改修堤防築造碑 鵠沼海岸4-21-8地先
 1786(天明6)年及び1803(享和3)年の2回にわたり引地川が氾濫し、この付近に大きな被害をもたらしたこと、堀川の浅場家が、私財を投げうって堤防を改修したことなどが刻まれている。この碑は遠く江戸時代の1808(文化5)年、浅場太郎左衛門により建立されたものを、引地川改修時の1932(昭和7)年、子孫の浅場虎吉が再建したもの。
※ここで浅場会員が碑面の文章をプリントしたものを用意され、克明な解説を加えてくださった。
E 大平橋の由来碑 引地川左岸大平橋橋詰
 鵠沼以外の地点、辻堂太平台にある。地名は太平台(たいへいだい)だが橋の名は大平橋(たいへいばし)。テンのあるなしで違う。橋の名の由来がわかりやすく書かれている。
F 鵠沼堰跡 本鵠沼4-10地先
 昭和初期の引地川改修の際に建造された農業用水取り入れ水門。これにより「堀川田」とも「八部(はっぺ)の田圃」とも呼ばれた水田地帯が整備された。
 水田の消滅とともに御用済みとなり、取り壊された。
 かつては毎年6月初めに堰き止め、9月には水を落とした。堰開けの日には魚を獲るために多くの人が集まり、鵠沼の年中行事だった。
 この右岸にはかつて「辻堂山」と呼ばれるクロマツの生えた小高い砂丘があった。子どもの遊び場であり、松葉掻き(燃料用の松葉を熊手で集める)の場所でもあった。戦時中まではノウサギも見られたそうだ。
 このすぐ上流側に1969(昭和44)年3月に竣工した歩行者専用橋「長久保みどり橋」は、鵠沼地区の引地川では最も新しく架けられた橋である。
G 藤沢市長久保公園 都市緑化植物園 辻堂太平台2-13-35
 長久保公園都市緑化植物園は、自然とのふれ合いを回復し、都市における緑化推進の拠点として、災害時の広域避難場所として、また広く市民が利用できる施設として、1975(昭和50年)に開園した。
※ここで昼食をとった。ベンチや芝生もあり、トイレも完備されていて、昼食には最適なところ。
H 清水橋 親水広場 辻堂元町6-7
 清水橋は鵠沼村と辻堂村を結ぶ橋として架けられた意外に歴史の古い橋である。上流側右岸には親水広場があり、その南西端に稲荷の祠がある。これは昭和30年頃清水・苅田付近にキツネが出没し、皆で追いかけて捕らえ、鍋にして食べたところ病人が続出したため、祟りを恐れて建てたと伝えられている。鵠沼の最も新しい「伝説」である。
 ここから上流は冬鳥が集まり、かくれたバードウォッチングの場になっている。また、引地川で最下流の「瀬」であり、ゴールデンウィークの頃、コイのノッコミ(集団産卵行動)が観察できる。
※東海道線の下をくぐったところで右折して空乗寺に向かう予定だったが、先頭の方がズンズン直進されたので、遠回りとなり、見学順序も狂った。
I 金堀山(きんくつざん)空乗寺(くうじょうじ)(浄土真宗高田派) 鵠沼神明3-3-21
 戦国時代の末期(永禄元年と8年の2説あり)、了受の開山、大橋武部卿龍慶の開基により創建と伝えられるが、大橋龍慶はこの時点では生まれていない。江戸時代初期、鵠沼村・大庭村の一部500石を知行した旗本大橋長左衛門重保(引退後剃髪して龍慶)・重政(書道大橋流の祖)父子ゆかりの寺で、本堂は一昨年改築。重政夫妻の墓は鵠沼唯一の市指定史跡(会誌『鵠沼』24・37号参照)。
J 首塚の碑 鵠沼神明3-3-17
 明治12年2月設立の鵠沼地区現存最古の記念碑。金堀塚という小山(古墳?)を掘ったところ、人骨が出てきたことが記されている。題字は県令=野村靖(現在は一部剥落。判読不能。会誌『鵠沼』88号参照)
K 清光山(せいこうざん)(鵠沼山(こうしょうざん))万福寺(まんぷくじ)(浄土真宗) 鵠沼神明3-4-37
 鎌倉時代の寛元 3(1245)年、荒木源海が開基創建したと伝えられる鵠沼きっての古刹(こさつ)。荒木源海とは、俗名を安藤駿河守隆光という現在の埼玉県行田市(ぎょうだし)出の坂東武者の一人。出家して親鸞上人(しんらんしょうにん)の直弟子となった。
 現住職の荒木良正老師は鵠沼を語る会の会員。
 境内には先年完成した太子堂、荒木蕉窓(荒木良正老師の祖父。鵠沼連という俳諧集団を率いた)の句碑、阿部松翁・阿部石年父子(藤沢宿の儒家・書家)の墓、藤沢宿の旅籠(はたご)大磯屋の墓地(猪飼蓬泉句碑つき墓碑・飯盛女の墓を含む)、内藤千代子(会誌『鵠沼』39・41・78号参照)の墓・森銑三夫妻(会誌『鵠沼』79・87号参照)の墓などが見られる。裏門を出たところには荒木老師の手になる日本電気硝子公害闘争の記念碑がある(会誌『鵠沼』90号参照)。
L 鵠沼墓地 鵠沼神明3-4
 日本精工建設用地にあった墓地を集めたもの。筆子塚(ふでこづか)(寺子屋の弟子たちが師匠の供養に建てた墓碑)・鵠沼きっての旧家=高松家墓所などを見る。
M 上村(かむら)宮崎誠一邸 鵠沼神明3-8-26
 一昨年の例会で皇大神宮についてお話を伺った宮崎誠一さんは、氏子総代で日本電気硝子公害闘争のリーダーでもあった(会誌『鵠沼』90号参照)。この地点は明治初期鵠沼村最西端の家だったので、家屋番号1番がつけられた。
N 上村神社・上野森稲荷・双体道祖神 鵠沼神明4-3-3
 同じような社殿が仲良く並んでいる。上村神社(おしゃもじさま)と上野森稲荷である。境内入口には可愛い双体道祖神の祠がある。
O 引地町内会館 鵠沼神明4-11-17
 引地は江戸時代になって東海道が整備されてから街村として発達した集落で、平安〜鎌倉期に大庭御廚(おおばのみくりや)として形成された皇大神宮氏子9集落とは性格が違う。町内会館の前には橋本稲荷の祠と神輿(みこし)庫がある。この神輿は八坂神社(城南5丁目)の祭礼で、旧稲荷村・大庭村の2基の神輿とともに巡行する。
P 鵠沼1番地跡 藤沢5-1-6
 かつての引地橋は鵠沼・稲荷・大庭・羽鳥4か村の接点であり、各村の1番地はここから始まっていた。東橋詰では藤沢宿防御のため鍵の手が設けられていたが、ショートカット工事で北側は鵠沼地区ではなくなってしまった。
※ここで解散。多くの方は路線バスで藤沢駅に向かった。
 今回のコースは、ふとした思いつきで設定したものだが、いろいろな面でかなり優れたものと自負している。市民散歩コースとしても推薦したい。
1.見学箇所(記念碑が多すぎるが)が適当な間隔にあり、飽きがこない。
2.見学目的が@引地川の改修。A鵠沼村の形成に集約できる。
3.歩行専用道路が多く安全であり、極端な急坂などがほとんどない。
4.ちょうど中間点で昼食・トイレに適当な場所がある。
5.若干長めだが、中間点で2分割できる(路線バス利用可)。