大給子爵家こぼればなし
家紋=丸に釘抜 
 渡部 瞭(会員)
はじめに  我が国初の別荘分譲地である鵠沼海岸別荘地開発について調べてみると、大給(おぎゅう)子爵家が所有した25万坪ともいわれる広大な砂原からそれは出発したと出てくる。この土地がなかったら、鵠沼海岸別荘地はなかった。
 会誌『鵠沼』で大給家について触れた文は、12,56,62,73,74,75,76,77,80,88,90の各号に見られる。それだけ多くの諸先輩が大給家に関心を持ち、調査・研究をしてこられたのである。にもかかわらず、大給家については謎に包まれていて、幾つかの点について明快な解答が得られていない。
 先ず、大給家という、それまで鵠沼にはほとんど関わりのなかった旧大名が、どういう理由で広大な旧鉄炮場の砂原を25万坪も入手したのか。
 次に、それは有償だったのか、無償だったのか。有償だったとしたら、いくらぐらいだったのか。無償だとしたら、いかなる経緯によるものか。
 また、入手した時点はいつ頃か。
 さらに、大給家お抱え大工の棟梁木下利吉・利次父子はともかく、伊東将行なる人物がどのような経緯で大給家所有地の別荘地分譲の中心人物になったのか。
 そして、その伊東将行の顕彰碑ともいえる「鵠沼海岸別荘地開發記念碑」が、大給家ゆかりの賀来(かく)神社境内に建てられているにもかかわらず、碑文に大給家について全く記されていないのは何故か。
 などの諸点である。
 
大給家の土地入手  この問題に関して、かなり正面から取り組んでいるのが、会誌『鵠沼』73号所載の牧田知子氏による「近代住空間の形成─ 鵠沼を例とする別荘型住空間 ─」という論文である。氏は日本建築学会の正会員で、当該論文は1995年8月に学会での学術講演に発表した論文の概要を故高木和男会員が提供したものである。
 これによれば、大給家は鉄砲訓練の責任者であったため鵠沼との関係が生じ、先ず3,000坪程(現在の藤が谷3丁目辺り)を世襲財産として入手した。次に維新後は宮内省に勤務したことから、明治20年代に御用邸誘致の構想のもと新たに鵠沼の土地を購入し、御用邸の候補地として別荘全体の水準を上げるため当時の名士、財閥に買うよう奨めた。ところが御用邸は土方(ひじかた)伯爵の推奨により明治27年、葉山に決定したため大給子爵の構想は中断し、土地を開発・分譲して資金を回収する必要が生じた。これ以降大給子爵による土地分譲は本格化した。また、伊東将行との関係については、どちらも旧幕勢力であることから師弟関係にも似たつながりが生じたのであろうと推論している。
 他の諸先輩の文でも、これを否定する、あるいは補足する記述は余り見られない。いずれも大同小異である。
 ただ、牧田知子氏の記述に(現在の藤が谷3丁目辺り)とあるのは、有田裕一会長により鵠沼松が岡4丁目とすべきであることが判明した。
 一方、藤沢市史では、鵠沼海岸別荘地開發記念碑の記述を根拠にしているため、当然のことながら大給家については実に素っ気ない。
 なお同碑文にはないが、「横浜貿易新報」(大正3・4・1)によると、地主の大給子爵家が東屋旅館付近の土地について貸与・分譲を実施したことが、「鵠沼の大発展」を促したといわれ、また同月26日の記事は、当時、久松子爵家が同海岸に数千坪の土地を購入して、伊東将行の監督下に別荘の工事中であったことを報道している。いずれも華族による土地の開発が、明治20年前後から、北海道などを中心とするかれらの全国的な地主化の進展に対応して、伊東将行の事業の周辺で進行していた点で興味深い。(藤沢市史第七巻535n)
 この記述では、かろうじて大給家が地主であることに触れているものの、その土地を購入した久松子爵家と並列して取り扱われているが、開発の主人公は、あくまでも伊東将行なのである。
 
大給子爵家の出自  そもそも大給子爵家とはいかなる家柄なのだろうか。
 この問題に関しては、有田裕一会長の詳細な解説が会誌『鵠沼』第88号に掲載されているので参照されたい。
 同家は江戸時代には松平姓を名乗っており、大分県大分市の府内城の城主であった。幕末の頃、寺社奉行から若年寄に昇格したが、1868(慶応4)年2月6日に府内藩主松平近説(ちかよし)は、願って若年寄を免ぜられ、京都へ上り、「大給」に復する旨を京都の弁事御伝達所に届け出ている。
 松平家は室町時代には三河の豪族であったが、一族繁栄のために分家に支城を管理させ、宗家は、家康の時代に徳川姓を名乗ることになる。
 この分家は18系統あったといわれる。経歴の明確なものが14系統あって、これを十四松平、諸書によって異動のある松平家4家を含めたものを十八松平という。
 すなわち松平家とは徳川将軍家の親類筋ということになるが、実は論功行賞的に松平姓を与えた場合が他にも多く、いわば十八松平は“由緒正しき松平”ということになろう。原則的に譜代大名になるが、旗本だったりする家もある。
 大給(おぎゅう)家とは大給松平家のことで、松平宗家の4代目の親忠の次男の乗元を祖とする。乗元が東加茂郡の大給(荻生とも。現愛知県豊田市)地方の主だったため、この地名を採った。早くから家康に仕えて信任が篤かった。以後も本家、一族で大名や高級旗本になった者も多い。歴代の老中も5人が務めている。幕末まで続いた譜代大名は次の4系統で、版籍奉還後いずれも子爵に列した。
西尾大給松平家 60,000石 三河国大給→出羽国山形藩→三河国西尾藩
岩村大給松平家 30,000石 美濃国岩村藩
龍岡大給松平家 16,000石 三河・信濃国奥殿藩→信濃国田野口(龍岡)藩
府内大給松平家 21,200石 三河国西尾藩→丹波国亀山藩→豊後国府内藩
 府内藩を最初に統治したのは、竹中家で、二代続き、その後を日根野家の吉明が統治した。彼には子がなかったので、幕府管理の後、松平(大給)分家の成重(なりしげ)の子忠昭(ただあき)が1658(万治元)年に豊後高松より大分県大分市の豊後府内城に入り、以来幕末までをA近陳(ちかのぶ)・B近禎(ちかよし)・C近貞(ちかさだ)・D近形(ちかのり)・E近儔(ちかとも)・F近義(ちかよし)・G近訓(ちかくに)・H近信(ちかのぶ)・I近説(ちかよし)と、松平(大給)家が10代継ぐことになる。竹中・日根野両家はいずれも外様(とざま)大名で20,000石だったが、松平(大給)家は譜代大名で22,200石だった。もっとも、二代近陳(ちかのぶ)の時に弟に1,000石を分与し、以来21,200石となった。
 
府内城  豊後府内城は、安土桃山時代末期の慶長年間に福原直高によって築城され、大分城、荷揚(にあげ)城 白雉(はくち)城とも呼ばれる。大分市の中心部荷揚町に位置し、北方に海を臨む典型的な平城(ひらじろ)である。直高は石田三成の妹婿で豊臣秀吉とも近く、石高は12万石であったため、府内城はその石高にふさわしい規模で築城されたという。江戸時代に入り、竹中家の手で天守閣が造営され、築城が完成した。
 大給松平家が城主になったときには城はできあがっていたわけである。
 1743(寛保3)年城下の下柳町から出火した大火事により天守閣以下ほとんどの建物が焼失した。以後これらの諸櫓は再建されず、天守閣を欠く城となった。
 現在城趾は城址公園となっているが、濠の他、江戸時代から遺る建物は本丸の人質櫓と二の丸の宗門櫓のみで、多聞櫓門以下は1965(昭和40)年に再建された。

菩提寺  府内大給松平家は浄土宗信徒で、菩提寺は大分府内城の北西に隣接する浄安寺である。歴代藩主のうち、浄安寺に葬られたのは3人のみで、残り7人の墓は東京都文京区小石川の伝通院の塔頭(たっちゅう)見樹院にある。見樹院は1675(延宝3)年に大給忠昭が、父の見樹院殿霊位の追善供養のため、伝通院山内に大給松平成重を開基とし、諦誉(たいよ)直絃(じきげん)上人を開山上人として迎え別院を建立、見樹院と称した。
 ここに眠る7人は、参勤交代で江戸詰の時に亡くなったと思われる。七代近義は参勤交代途中に駿河の岡部で急死し、見樹院に葬られた。
 
府内藩江戸屋敷  昨年秋に刊行された芥川賞作家 辻原 登 の新作『夢からの手紙』(新潮社)には、府内藩江戸屋敷勘定方(かんじようかた)を務める片岡孝介なる人物が主人公として登場する。国許の大分に残した妻の便りから物語は展開する。
 1687(貞享4)年以降、豊後府内藩の江戸屋敷は、江戸城の北東方向にあたる駿河台にあった。ここは現在の神田淡路町1丁目一帯で、地下鉄新御茶ノ水と小川町の間にあたり、5600坪というものであった。この広さは、周囲の大名屋敷の規模と石高と比較して破格のものだと判るだろう。善神王宮とあるのは賀来神社の基となった神社である(鵠沼賀来神社に善神王宮の石碑が祀られている)。
幕末、近説時代の江戸屋敷  
現在の旧江戸屋敷付近
維新後の大給子爵家  松平改め大給近説(ちかよし)は、版籍奉還後は府内藩知事に任命され、明治17年7月8日子爵に列せられたが、廃藩置県直前に東京移転を命じられ、廃藩とともに知事職も解任された。隠居の後1886(明治19)年没する。
 近説(ちかよし)の跡を継いだのは、八代藩主松平近訓(ちかくに)の孫に当たる近道であった(九代近信(ちかのぶ)・十代近説(ちかよし)は共に養子)。大給家は1872(明治5)年、神田淡路町の本邸邸地を開放し、本郷駒込千駄木坂下町の旗本小笠原順三郎邸跡に移る。現在の千駄木3丁目13番地あたりである。
 
 明治時代の子爵大給近道邸付近  現代の文京区千駄木三丁目
 面白いのは、明治時代の地図(左)に水田から大給邸に至る細道が「大給坂」と名付けられていることである。この名は現在も残り、文京区教育委員会の解説板が立つ。文面は次の通り。
   大 給 坂(おぎゅうざか)
 かって、坂上に大給豊後守の屋敷があったことから、大給坂と名づけられた。
 大給氏は、戦国時代に三河国(いまの愛知県)賀茂郡大給を本拠とした豪族で、後に徳川家康に仕え、明和元年(1764)、三河西尾に移封された一族である。
 現在残っている大銀杏
(いちょう)は、大給屋敷の中にあったものである。この辺りの高台を、千駄木山といい、近くに住んだ夏目漱石は、次のようによんでいる。
 "初冬や 竹きる山の なたの音"
            (漱石1867〜1916)
  文京区教育委員会 平成3年3月
 大給坂
(急な坂で積雪時危険とか)
 
 ここまで小文をお読みいただいた方はこの文面の誤りにお気付きだろう。
 大給豊後守とは大名の称号であるが、大給家がここに屋敷を構えたのは明治になってからであり、歴代の豊後府内藩主大給松平家に豊後守を名乗ったものは見あたらないし、他の大給松平家にもなさそうだ(他の松平家には数人の豊後守がいる)。だからこの文面にある「大給豊後守」は「旧豊後府内藩主だった大給家」と訂正すべきである。また、大給氏に関する解説は松平家であることが抜けており、後にもおかしい。第一坂の上に屋敷を構えた大給家の解説となっていない。
最近の情報では、「大給豊後守」の部分が「子爵大給家」と訂正されたようである。しかし、それ以降の文が訂正されなければ、中途半端な訂正といわざるを得ない。
 
大給家と錦坊学校  1874(明治7)年、神田錦町にあった久松学校を猿楽町2丁目(現神保町1-30)に移転して錦坊学校を新築した時、近道は近隣に屋敷があった旧大名の華族と共に相当額の寄付をしている。この錦坊学校で漱石が学んだ。
 錦坊学校は後に錦華尋常高等小学校と改名し、戦後は千代田区立錦華小学校として知られていたが、1993(平成5)年4月1日、学校設置条例の改正にともない、小川小学校・西神田小学校と合わせて千代田区立お茶の水小学校となった。
 
大給家と大分  大給家は大名道具を賀来神社に寄進し、今も大名行列に使用される。近道は1887(明治20)年に第二十三国立銀行(大分銀行の前身)の取締役に加わったり、近孝は大分で開かれた菓子博覧会の総裁を務めたり旧領地に貢献した。
 
大給家と黒田清輝  前ページの明治の地図からは外れるが、すぐ南側に團子坂(だんござか)があり、大給家のある一帯も團子坂と呼ばれることがあったらしい。大給家は黒田清輝画伯(1866-1924)と親交があったようで、画伯の日記には1914(大正3)年夏に鎌倉で静養中の画伯を鵠沼から大給子爵が訪ねたことと、1917(大正6)年4月に画伯が美術学校から自動車で團子坂大給家へ行ったことが出てくる。
 四月十九日 木 晴 少シク風アリ
 午前十一時頃宮内省ヨリ襲爵被仰付ニツキ明二十日午前十時親族ノ内出頭ス可シトノ通知ヲ受ケタレバ電話ニテ大給子爵ニ〓ム 午後一時ヨリ自動車ニテ外出 先ヅ美術學校ニ到リ校長ニ面會シ御前揮毫ノ事ヲ語リ團子坂大給家ヘ〓ハル 子爵モ夫人モ不在
 四月二十日 金 曇
 大給子爵代リテ辭令ヲ受ケ歸途入來交付セラル 午餐ノ〓應ヲナス 近清君モ見ユ 大給子爵去リテ後島津邸ヘ赴キ長谷寺 笄邸ヘ〓ル 板谷氏等ト島津邸ニ會合シ樂燒ニ關スル打合ヲナセリ   ※笄邸=麻布笄町(あざぶこうがいちょう)の黒田邸
 「襲爵被仰付」とは次のような事情と思われる。
 黒田清輝は1866(慶応2)年6月29日、島津藩士黒田清兼の子として鹿児島に生まれたが、5歳の時、伯父黒田清綱の養嗣子となった。清綱は幕末国事に奔走、1868(明治元)年山陰道鎮撫総督府参謀、翌年、鹿児島藩参政を経て教部少輔、元老院議官などを歴任、1887(明治20)年5月24日子爵に列した。のち貴族院議員、枢密院顧問官となり宮内省御用掛を兼ねる人物である。和歌をよくし、明治大正両天皇のお歌所の一人として活躍した。
 清綱は1917(大正6)年3月23日他界し、勲一等旭日桐花大綬章を受けている。養嗣子の清輝はそれにより子爵を継ぐことになり、4月19日11時に宮内省から翌20日の午前10時に親族でもよいから出頭せよとの連絡を受けた。ところがあいにく誰も都合がつかず、代理を大給(おそらく近孝)子爵に頼んだわけである。大給子爵はこれを引き受け、代理として辞令を受け、その日のうちに届けた。清輝は謝礼として昼飯をご馳走したというわけだ。
 こういうかなり無茶なことができたのは、清綱が宮内省に関係していたことの他に、牧田知子氏のいう「大給子爵は維新後は宮内省に勤務した」ことの裏付けになるのかも知れない。
 この時、近清君という人物が同行している。黒田日記にはその前後に大給近清が黒田家を3回ほど訪れた記録もある。大給近清は、大正13年になって国民美術1巻9号に『黒田先生の嗜好』なる一文を寄せている。近道は1902(明治35)年に他界しているから、嗣子近孝の弟か子息と思われる。大給子爵家はその跡は近孝→近憲→近達(ちかさと)と継いだ。すなわち、子爵家を継いだ人物に近清の名はない。
 最後の大給子爵近達(ちかさと)氏は文化人類学者。兵庫県にお住まいと聞く。
 
今も遺る芳林閣  千駄木には大給近孝子爵の寄付により、1926(大正15)年地元青年団のために文武道場として建てられた「芳林閣」という和風平屋建てが現存する。大給家から現在は財務省の管理となり、町会が賃貸費を払い、会合などに使用しているという。
 
銀杏の木のこと  当時の地番では駒込林町105番地にあった大給邸は、昭和に入って三木証券株式会社創業者の鈴木三樹之助に譲られた。その際大給家は、「何があっても銀杏の木だけは残して欲しい。」と伝えたという話が遺っている。
 終戦直後の1945(昭和20)年9月下旬、5月25日の第二次東京大空襲で牛込区若宮町31の自宅が全焼、世田谷区烏山の借家に身を寄せていた娘の志げ子一家が実家に転がり込んできた。この志げ子の夫が、当時大蔵省主計局に勤務していた大平正芳(1910-1980)である。香川県出身の彼は、1952(昭和27)年の第25回総選挙で自由党公認候補として香川選挙区から立候補し、衆議院議員に初当選した。
 1960(昭和35)年12月27日、義父鈴木三樹之助が75歳で死去。以来大平正芳がこの家の主となった。やがて彼は池田内閣の外相に就任したりする。
 1966(昭和41)年11月5日、大平家は世田谷区玉川瀬田町873-2(現瀬田1-28-3)へ転居するのだが、銀杏の木の立つ場所は文京区に寄付し、千駄木第二児童遊園として残った。そういうわけでこの公園の別名は“大平公園”。この銀杏を“大平いちょう”と呼ぶという。のち正芳は首相となり、二期目の途中で他界した。
 
2軒の大給子爵家  先に触れたように大給松平家は4系統あり、いずれも子爵となった。このうち2系統は幕末に官軍に恭順を示すためか松平姓を捨てて大給姓を名乗る。府内大給松平家の近説(ちかよし)と龍岡大給松平家の乗謨(のりかた)である。
 乗謨は、1863(文久3)年藩治を奥殿から信濃国佐久郡田野口(龍岡)に移した。この年大番頭より若年寄となり、翌々年陸軍奉行に転じ、幕府の兵制を改め、その翌年老中格に進み、陸軍総裁を兼ねた。牧田知子氏の指摘されている大給家は鉄砲訓練の責任者であったというのは、このことを誤解された可能性もある。
 乗謨は改姓後大給 恒(ゆずる)と改名し、西南戦争が起こると博愛社を創立、これが日本赤十字社に発展した。賞勲局総裁を務め、1896(明治29)年6月30日勲一等旭日大綬章を受賞した。さらに1907(明治40)年9月23日、伯に陞爵(しょうしゃく)(功績により爵位がランクアップすること)している。こちらの方がずっと有名人だった。
 大給 恒が伯爵となるまでは大給子爵家が2軒あったわけで、これがまたさまざまな誤解を呼ぶことになる。
 全くの余談だが、東屋二代目女将長谷川多嘉の別れた夫、すなわち長谷川路可の実父である杉村清吉(1855-1916) は、『大給屋公傳』に「綬の織目に水紋を織り出したのは、杉村清吉氏の発明によるもので、わが国の勲章は大給恒・平田春行・杉村清吉の3人の合作ということになっている。」と出てくる。
 
おわりに  このように、大給子爵家についてあれこれ調べてみたものの、冒頭に列挙したいくつかの疑問点に対する解答は、何一つ得られなかった。
 牧田知子氏の指摘されている大給家は鉄砲訓練の責任者であったことも、維新後は宮内省に勤務したことも、明確な裏付けをとれなかった。ただ、松平近説が安政年間より洋式調練を行い、農兵隊を編成するなど軍備充実に努めたとあるが、これは国許でのことであって、鵠沼の鉄炮場とは関係なさそうである。
 筆者は大政奉還後、旧幕府領の処分を考えた明治新政府が、版籍奉還した旧大名に下げ渡したのではないかと睨んでいる。                        (わたなべ りょう)