長谷川路可 生誕110周年、没後40周年記念特集

長谷川路可伝〔中〕
 
 渡 部 瞭(会員)
 
 
目白時代  長谷川一家が鵠沼から目白に居を移した翌年=1938(昭和13)年は、路可にとってつらく悲しい出来事が立て続けに起こった年であった。
 先ず、正月から愛妻=登茂が結核のため中野区江古田にあった東京市療養所(通称=中野療養所)に入院した。自転車で毎日のように見舞いに来た路可は、一躍病棟の有名人になったという。
 続いて3月2日、恩師=松岡映丘が58歳で他界した。前年に《帝国美術院》から改組された《帝国芸術院》(《日本芸術院》の前身)の会員になったばかりの働き盛りの死であった。
 また、老齢で既に病身だった母=たかのために、急遽、母屋部分を増築し、母と、その面倒をみていたお手伝いさんを鵠沼から呼び寄せた。その甲斐もなく、9月7日、母=たかは亡くなった。永らく親一人子一人の関係であっただけに、大きな打撃であったに違いない。母の墓は、路可の手で鵠沼の夢想山本眞寺墓地の妹=ゑいの墓に隣り合って建てられた。五輪塔の墓には、現在路可の分骨も収められている。
 さらに、12月19日には、母=たかの独身時代からの知己とも伝えられる実業界の大物=藤山雷太(1863-1938)が世を去った。歌舞伎座の経営や帝劇の創設にも関わり、文化に理解が深かった雷太は、生前路可の作品を多数買い上げ、いわばパトロンであった。この段階では、《藤山コンツェルン》の経営権は実子=藤山愛一郎(1897-1985)に譲っていたが、そのけじめのためか、大震災復興期に建てた《藤山工業図書館》の改修を翌年の1939(昭和14)年に企画していた。その内壁を飾る壁画を路可に依頼していたのである。路可は遺志を受けて『啓示と創造』/『科学と芸術』と題するフレスコ壁画を完成させる。
 《藤山工業図書館》は、1943年12月藤山愛一郎から慶應義塾に寄贈され、1957年には千代田生命保険会社に売却されて図書館としての役割を終えた。その際、建物解体により壁画も遺失した。
 この1938(昭和13)年における特筆すべき仕事に、尾張徳川家納骨堂“崇徳廟”(愛知県瀬戸市定光寺)にフレスコ壁画を制作したことが挙げられる。
 廟は儒式で、祭文殿その他の建築は、尾張初代藩主徳川義直公の知遇を受けた帰化明人陳元贇(ちんげんぴん)の設計になるものと伝えられ、本堂とともに重要文化財に指定されている。
 2層の祭文殿の基壇をなす1階部分は石垣に囲まれ、この内部に長谷川路可が描いたフレスコ壁画があるのだが、一般には公開されていない。こうした暗閉所はフレスコ画にとって好もしい環境ではない。描いた路可自身もそれが心配だったようで、イタリアから帰国後、弟子のF.M壁画集団の学生たちと久しぶりにここを訪れ、壁画が無事であることを確認し、安堵したという。
 後にテレビ撮影に同行した原田氏の撮影された写真によれば、納骨室の正面には石造の阿弥陀如来倚坐像が安置され、その背後に路可による極彩色の壁画が描かれている。ことに左右の日光菩薩・月光(がつこう)菩薩立像(りゆうぞう)は、石像と併せて三尊像を形成し、石像背後には三基の仏殿と飛天などが描かれ、西域の石窟を彷彿とさせる。左右には金箔を貼った納骨棚があり、天井を支える円柱にも三色を基調とする装飾が施されている。勿論これらの制作には滞欧時代の壁画模写の経験が大いに役立ったに違いない。
 この年にはまた、勤務先の東京文化服装学院大講堂の大黒板の左右に『西洋服装史』と題する1対のフレスコ壁画を描いている。これは1945(昭和20)年5月25〜26日の第三次東京大空襲で焼失し、モノクロームの写真しか遺っていない。それによれば、各時代の服を装った十数人の男女が描かれている。壁画はひときわ異彩を放って全ての人々に強い印象を与えたという(文化服装学院40年の歩み)。
 一方でこの年路可は、東京美術學校日本畫科の同窓生=遠藤教三(1897-1970)・狩野光雅(1897-1953)と3人で《三人展》を開催した。以後、この展覧会は1941(昭和16)年に《翔鳥会》展と改称して毎年開催され、少なくとも1943(昭和18)年の第6回までの記録が残っている。
 
片瀬教会  鵠沼時代の路可は、鎌倉の天主公教会大町教会(現=カトリック由比ガ浜教会)に所属し、片瀬の山本家の仮聖堂でのミサにも出席した記録がある。
 1891(明治24)年の夏、片瀬の旧家の当主で鎌倉郡の郡長であった山本庄太郎が避暑に訪れたカトリック・マリア会のヘンリック神父と出会い、宿を提供する。神父が暁星学園を創始して間もない頃のことであった。これがきっかけで二男の信次郎が暁星中学校の4期生(5人のうちの一人)として入学することになり、在学中にカトリックに入信する。続いて三男の三郎も暁星に入学し、カトリックに入信した(彼のことは〔上〕の「ボン・サマリタン」の箇所で若干触れておいた)。
 信次郎は暁星から海軍兵学校(第26期)に進み、フランス語に堪能でクリスチャンという異色な帝国海軍軍人として国際的にも活躍し、また皇太子時代の昭和天皇の外国語教育掛となり、少将にまで昇官する。一方で公教青年会の会長として会を全国組織化し、1923年に創刊した『公教青年時報』(現在の『カトリック新聞』)などカトリックの出版や研究を支える基礎を築いた。
 山本家は代々片瀬の名刹本蓮寺(日蓮宗)の檀家総代を務めていた。このためもあって庄太郎は信次郎・三郎を暁星に入学させたものの彼らのカトリック入信には難色を示したという。しかし、1919(大正8)年、病床にあった庄太郎はカトリックに入信し、間もなく天に召された。これを機に信次郎と三郎は山本家の一室に仮聖堂を設け、ミサが捧げられるようにした。これがカトリック片瀬教会のスタートとされる。路可の鵠沼時代は、この仮聖堂の時代だった。
 1936(昭和11)年、片瀬海岸の山本家所有地が提供され、シャルトル聖パウロ修道女会により《片瀬乃木幼稚園》が設置され、翌1937年には《片瀬乃木小学校》が、さらに1938年、《乃木高等女学校》が設置された。これが戦後に《湘南白百合学園》と改称され、今日に至るのである。
 この「乃木」というのは、日露戦争で活躍し、明治天皇に殉死した乃木希典(まれすけ)陸軍大将に由来することはいうまでもない。乃木大将は退役後学習院院長に就任し、当時片瀬にあった水練場にも毎夏訪れた。その時の宿を提供したのが山本家である。軍事色が強まる昭和10年代、新設の学校名に軍人の名を冠するにあたり、山本家ゆかりの乃木大将が選ばれたのであろう。
 1937(昭和12)年、東京司教区から分離独立して横浜教区が新設された。この際、教区の拡充のために湘南地区に教会が必要になり、仮聖堂でミサが捧げられていた片瀬に新たに教会が建設されることになった。
 山本家は同家の名を冠した「山本橋」の海岸側、《片瀬乃木小学校》と境川(片瀬川)の間の土地を提供し、ここに《カトリック片瀬教会》の聖堂が建てられることになった。
 聖堂の建物は東京大司教の要望で純日本風の建築様式にすることになった。京都・奈良の建築物を参考にして寺社風の聖堂が設計され、大司教の認可後、1939(昭和14)年の「聖ヨゼフの祝日(3月19日)」に献堂された。
 純日本風の建築様式は、外観ばかりでなく、内装にも採り入れられた。現在は椅子式になっているが、建築当初は畳敷きだったそうである。
 正面祭壇の両脇には床の間が設けられ、向かって左の床の間には長谷川路可の描いた『エジプト避行』[日本画]、右側には『聖家族』[日本画]の軸が現在も常掲されている。また、両側は障子を模したやや低めの窓になっており、その上部の壁にはこれも路可の手になる『十字架の道行き』14面の色紙が額装されて掲げられている。
 これらの制作依頼は聖堂建築が企画された1937年段階と考えられるが、献堂された1939年には路可は鵠沼を去り、目白に移っていた。現在片瀬教会のホームページには「祭壇正面の2カ所の床の間を飾る2幅の掛け軸(聖家族、エジプト紀行(ママ))と両側の壁に飾られている「十字架の道行き」は仮聖堂の時からの信者であった当時鵠沼在住の長谷川路可画伯(国内外に数多くの宗教作品を残したカトリック画家)の作品です。」とある。「当時」を「仮聖堂の時」とすればこの記述は正しいが、飾られた時には「鵠沼在住」ではなかったことになる。また、「紀行」は「避行]の誤りであり、右側の軸は当初『ルルドの聖母』[日本画]で、『聖家族』は1946年に描かれた(『長谷川路可画文集』年譜)。
 
教壇  『長谷川路可画文集』の年譜によれば、路可は生涯にわたって10以上の学校の教壇に立っている。しかし、その多くはフランスで修めた西洋服装史に関するもので、美術家として修得した日本画やフレスコ・モザイクといった造形に関する本格的な教育については、戦前の《日本大学専門部芸術科》での経験しか見あたらないのは不思議である。
 主だった学校においてはそれぞれの学校のスタートあるいはリスタートといったエポックに関わっている。これは、旧制では専門学校、新制では短期大学等へ昇格の際、「服装史」が必置科目であるにも係わらず、担当の有資格教員が少なかったからという事情があるとされる。
 これまでに記した学校の他、《共立女子専門学校》(1939年〜)、《東京家政専門学校》(1940年〜)、《恵泉女学園高等部》(1946年〜)、《日本女子大学》(1958年〜)、《昭和女子大学短期大学部》(1959年〜)でいずれも服飾史を担当しているが、《東京家政専門学校》と《日本女子大学》以外は短期間、臨時的なものであったと思われる。
 日本大学が芸術学部の前身である美学科を法文学部内に設置したのは大正10年だが、以後紆余曲折の末、1939(昭和14)年に専門部芸術科として現在の江古田校舎に移転する。その折、専門部芸術科は創作科・演劇科・映画科・美術科・音楽科・商工美術科・写真科・宣伝芸術科の8専攻科に増設された。この段階で路可は美術科に招聘され、日本画・フレスコを担当することになった。
 1941(昭和16)年に路可は日本大学江古田校舎講堂に天平時代の壁画を題材とするフレスコ壁画を制作し(題名不詳。1966年以前に建物解体により遺失)、一方、日大の学生と《日本フレスコ壁画協会》を結成。第1回展を日動画廊で開催している。しかし、やがて始まる太平洋戦争で活動もそれまでだったらしく、以後の記録はない。
 現在も創作活動を続ける田中 岑(たかし)(1921- )は、おそらくそのメンバーと思われ、戦後も路可の壁画制作の助手として活動した。
 戦局の悪化による文部省当局の美術科・創作科の廃止要請に対し、やむなく専門部芸術科は、創作科と宣伝芸術科を合併して宣伝文芸科に、美術科と商工美術科を合併して工作美術科とした。そして1944年には学生募集を停止し、戦時中は芸術教育を工科系の中で担当した。路可の勤務もその頃までと考えられる。
 
日本画  〔上〕で記したように、フランスから帰国後の路可は恩師=松岡映丘率いる《新興大和絵会》に所属したが、1931(昭和6)年に同会は解散した。その後1935(昭和10)年東京美術學校を辞した松岡映丘は、同年9月に《新興大和絵会》メンバーを中心に門下を合わせ《国画院》を結成し、当然路可も加盟した。しかしこれも1937(昭和12)年第一回展を開催したのみで、翌年の映丘の死去により展覧会活動を休止、研究団体として存続し、1943(昭和18)年解散した。
 そこで路可は美校の同窓だった遠藤教三、狩野光雅と3人で《翔鳥会》を組織し、毎年展覧会を開いたことは先述の通りである。
 一方で、《カトリック美術協会》での活動も続けられた。また、《新文展》にも出品している。
 戦後、イタリアに出発するまでの目白時代のこれら展覧会の出品作は、ほとんどが日本画である(屏風、絵巻物を含む)。鵠沼時代《新興大和絵会》の出品作にはフレスコの小品を含むが、目白時代はフレスコは壁画に限られるようである。
 
文筆  長谷川路可は画家にしては珍しいぐらい筆の立つ人物といえよう。
 没後、遺族を中心に編まれた路可の記録も「画集」ではなく「画文集」と名付けられるほど多くの文章が盛り込まれている。
 初期の頃はカトリック関係や勤務先の学校関係の冊子へ寄稿するのが中心だったが、1939年には『サンデー毎日』、翌年には『週刊朝日』といった一般向けの週刊誌からも絵と文章を依頼されるようになった。
 著作といえるものは、共著を含めて6冊ほどで、いずれも服飾史関係のものである。フレスコ・モザイクに関する技術書のようなものが見あたらないのは不思議だし、残念にも思う。
 雑誌や新聞への寄稿は100編を越すと思われ、うち24編が『長谷川路可画文集』に再録されている。主にエッセイだが、その題材は専門の美術、服飾ばかりでなく、映画から食文化まで多岐にわたる。
 
暗い時代へ  1940(昭和15)年11月22日、東京市療養所に入院していた登茂夫人は、まだまだ幼い3人の愛嬢を残して天に召された。その直前、路可は夫人をモデルに「東京療養所にて」と題するデッサンを描いた。感染を恐れて面会が許されなかった愛嬢のためと思われ、今も遺族が愛蔵している。
 一家にとって暗く悲しい日々が続いたと思われる。日本全体も軍国主義とナショナリズムに覆われ、日中戦争は泥沼化し、国際的に孤立した日本は、ドイツ・イタリアと共に枢軸国を形成して第二次世界大戦に突き進んでいく。ことにキリスト教徒にとっては厳しい受難の時代であった。
 こうした時代の中で芸術家は、とりわけ国画派の画家は戦意高揚のための制作を余儀なくされた。路可も例外たり得ない。
 太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年における第4回《翔鳥会展》の出品作品の題名は、『天国と地獄』[六曲一双屏風]、『肖像』[日本画]、『関八州十二勝景連作』[日本画]等であったものが、翌年の第5回《翔鳥会展》では、『南十字星』/『ミンダナオの朝』/『更紗描き』[日本画]、『椰子樹』[十曲半双]等と、当時「大東亜」戦争と呼ばれたこの戦争が、欧米の植民地として虐げられている東南アジアの人々を解放するための「聖戦」であると国民に信じ込ませようとした軍部の意図に沿うような題材が選ばれている。さらに次の年の第6回《翔鳥会展》の出品作には『醜(しこ)の御盾(みたて)』[日本画]という、当時軍部のプロパガンダに好んで利用された万葉集の一節が用いられたりしている。この変化に注目したい。
 また、依頼されて制作した作品は、なおのことである。
 1942(昭和17)年、『星港陥落記念』と題するフレスコ壁画を描いている。これがどこに描かれ、その後どうなったかは判然としない。モノクロームの写真が残るのみである。星港とはシンガポールの中国語表記(新嘉坡、新加坡、星加坡とも)で、日本軍占領後は「昭南島」と命名された。同年2月15日にパーシヴァル率いる英極東軍が陥落したことを記念する壁画である。写真で見る限り南国風の花鳥画を背景として3人の男女が描かれている。戦争の血なまぐささを全く感じさせない平和な情景である。
 また同年、東京府養生館国史絵画館のために2作品を描いている。
 東京都港区麻布南西部は、その昔南部藩邸があったことから麻布盛岡町と呼ばれていた。旧南部氏邸跡は明治中期から有栖川宮邸地となり、その後高松宮家所有地となったが、東京市に下賜され、大部分が有栖川宮記念公園となり、北部は東京府の少国民精神修養道場=養正館となった。戦後は公園地はそのままだが、養正館の地は都立教育研究所、テニスコート、区営運動場などになった。1933(昭和8)年の皇太子(今上天皇)生誕を記念して多くの画家により、日本の歴史を描いた「国史絵画」が制作され、路可も『旭日冨嶽圖』[フレスコ壁画]の他、『和気(わけの)清麻呂(きよまろ)』[日本画]を担当した。養正館は終戦で閉鎖され、『和気清麻呂』は現在は伊勢神宮の《神宮徴古館》に収蔵されている。
 『旭日冨嶽圖』は戦後もかなり長期間壁面に残されていたが、《F.M壁画集団》によりストラッポされた。しかし、現在に至るも修復されていない。
 このような作品は、路可にとって決して唯々諾々と生み出されたものではないと思われる。キリスト教の信仰と時代の風潮の狭間にあって、大きな葛藤の中で心理的合理化が行われた結果であろう。
 カトリックの雑誌『声』の1943年10月号に路可は「大東亜戦争とカトリック美術―日本的とカトリック的との結合の問題」と題する一文を寄せている。残念ながら原文を読んでいないが、題名から察するに上述の合理化の過程が当局から睨まれない程度に記されているのではないだろうか。
 こうした時代の流れの中で、1942(昭和17)年9月11日、路可は金子ヨシノと再婚する。
 そして1944年8月24日、待望の長男に恵まれ、巌と命名された。イエス=キリストは最初の弟子であるシモンをペトロと改名し、地上の全権を託した。新約聖書の原典はギリシャ語で書かれたが、ペトロとはギリシャ語で岩を意味する。このことから巌という名は、日本のクリスチャンが好んでつける名である。
 1945(昭和20)年になると、完全に制空権を失った日本本土は、米軍機の来襲に脅かされるようになった。4月13日の空襲では、目白界隈では徳川邸の樹林が類焼を防いだだけでなく、町内会の防空体制に普段は積極的でなかった路可が、逆に独り家に留まり近隣に落下した焼夷弾を消火して隣組の人々から見直され感謝もされた逸話が残っている。
 目白の家は奇跡的に被災から免れたが、路可は5月にヨシノ夫人の実家のある山形に疎開した。目白に戻ったのは敗戦後の9月である。
 
カトリック画家として  敗戦は日本人にとって、極度の物資不足、未曾有のインフレーションといった経済上の混乱もさることながら、精神面でも180度転換を迫るものであった。書店では新しい価値観を求めて「共産党宣言」と「聖書」が飛ぶように売れたという。国外追放されていた外国人聖職者も次々に戻ってきたし、新しい宣教師も送り込まれ、各地で伝道活動や教会の設立も進められた。
 戦後5年間の長谷川路可の活動を見ると、《文化服装学院》での教壇生活に加えて1946(昭和21)年4月から《恵泉女学園高等部》に勤務、服飾史を担当している。また、『服装の美學 デザインの仕方』(東京生活社1947年)と『図解服装史』(草美社1948年)を刊行した。
 この時期の路可の作品は壁画のような大型のものは見あたらず。日本画に限られる。しかもその題材はほとんどがカトリックに関連する。GHQの指導により、時代劇映画の制作が禁止されるような時代だったから、国画派が得意とする歴史画は制限を受けていたのかも知れない。
 1946年には第8回《カトリック美術協会展》に『降誕』[日本画]、『受胎告知』[日本画]を出品した他、カトリック片瀬教会のために『聖家族』[日本画]を制作した。この作品は現在も同教会の祭壇右側の床の間に常掲されている。
 1947年の第9回《カトリック美術協会展》には『踏絵』[日本画]、『高山右近』[日本画]を出品している。
 第10回《カトリック美術協会展》は1年おいた1949年に開催された。路可はこれに『受胎告知』[日本画]、『細川ガラシア』[日本画]、『長崎のアンジェラス』[日本画]を出品した。
 《新文展》は戦後《日展》と名を変えて再出発した。1949年の第5回《日展》に路可は『聖母子』[日本画]を出品している。
 1908(明治41)年に建てられた日本最初の本格的な石造りの《鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂》は、1945年4月8日、ミサの直後空襲のため焼失した。この聖堂が1949年にザビエル渡来400年を記念して木造で再建されるのに際し、壁画として『臨終の聖フランシスコ=ザビエル』/『少女ベルナデッタに御出現のルルドのマリア』/『聖ザビエル日本布教図』という3点の日本画を制作した。
 この木造聖堂は、その後50年の星霜に耐え、1999(平成11)年ザビエル日本渡来450年を記念し、近代的なコンクリート聖堂に建て替えられた。現在、路可の3点の日本画は、この新しい聖堂の壁面を飾っている。
 このように、戦後の5年間は徹底してカトリックを題材にした日本画を描き続けた路可だが、記録で知り得る唯一の例外がある。
 それは1950(昭和25)年、母=長谷川たかの13回忌に際して墓所の夢想山本眞寺の本堂、本尊後部の板壁背部に『歩む釈迦像』[水墨板絵]を描いたことである。
 岩山の坂道を下る釈迦の姿をリアルに描いたものだが、一見して仏教絵画という印象を与えない。頭の上に光輪でもあれば、そのままキリスト教絵画といえそうな雰囲気を持っている。半世紀を過ぎた今、だいぶ色もあせてきている。
 また、これとは別に掛け軸とスイスの風景を描いた扇面を寺に奉納している。
 この間、1948年2月13日次男が誕生、雅号の1字を採り路夫と名付けた。
 1947(昭和22)年に学校教育法が施行されて、いわゆる六三制の単線型学校体系に統一された。1950年には、短期大学が開学することになるが、財団法人並木学園でも《文化服装学院》に加えて《文化女子短期大学》(1964年《文化女子大学短期大学部》となる)を開学し、「服装科」を設置した。この短大開学にあたり、初代学長に徳川義親を招聘するなど、長谷川路可の功績は並々ならぬものがあったと、当時の学園関係者は語っている。
 
イタリアへ  カトリック独特の風習に「聖年」というのがある。ローマ巡礼者に特別の赦しを与える、とした年である。
 1950年の聖年にあたり、描き上げたばかりの『切支丹絵巻』[3巻、日本画]を携えた路可は、サイゴン経由でヨーロッパへ向かうフランス船の船客となった。
 マルセイユに到着すると、途中ニースのHenri(アンリ) Matisse(マティス)のアトリエを訪問し、ローマに向かった。(この頃旧友=硲伊之助がマティス邸に滞在していた)
 イタリアに到着した路可はヴァチカンを訪れ、教皇=Pius(ピウス) XII(12世)(在位:1939-1958)に拝謁、『切支丹絵巻』を献呈することができた。
 この時路可はヴァチカン駐在の金山政英代理公使(1909-1997)に面会し、彼から重要な任務を依頼された。「ローマの外港であるチヴィタヴェッキアある《日本聖殉教者教会》が改修されるのに際し、その内装を引き受けてもらえまいか」というのである。この依頼が路可の出発前から打診されていたのか、それともヴァチカンを訪れてから急に依頼されたのかについては諸説がある。
 金山政英は、カトリック信徒の外交官として1941年3月(当時は参事官)から1952年6月までの11年間を家族と共にヴァチカンで過ごした。この間、ローマ教皇を通じて終戦工作に努めたり、イタリアを訪問する日本の財界人があれば、手厚く遇した。後に韓国大使を務め、日韓関係の修復のために尽くした。
 カトリックの信徒であった彼は、路可の業績についても周知しており、また、交渉に説得力があった。
 この依頼がなされたのは1951年1月といわれている。路可は快諾を即答したのか、あるいは逡巡の末承諾したのかは詳らかでないが、いずれにせよそのままローマに滞在し、2月から構想に取りかかった。そして7月にはチヴィタヴェッキアのフランシスコ会修道院に起居するようになり、8月に聖壇後陣正面のフレスコ壁画制作に着手したのである。
 
日本聖殉教者  ここで、カトリック信徒以外には耳慣れない「日本聖殉教者」あるいは「二十六聖人」について、また、その記念聖堂がなぜチヴィタヴェッキアという港町にあるのかについて若干の説明を加える必要があろう。
 キリスト教は1549(天文18)年、反宗教改革を推進したイエズス会の宣教師=フランシスコ=ザビエルによって日本にもたらされた。戦国乱世の時代である。
 ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、円滑に布教を進めるために大名自身に対する布教も行った。後続の宣教師たちもこれに倣ったため、大村純忠・大友宗麟をはじめ延べ30人を越す大名が入信した。また、一般人の入信者も続出し、ある研究者の試算によれば最盛期には当時の日本人口の約4%が切支丹(キリシタン)(クリスチャンの当時の呼び名)になったという。これは、信教の自由を保障された現在の日本のクリスチャンが、1%前後に過ぎないことを考え合わせると、驚異的な数字といえる。
 これに脅威を感じた豊臣秀吉は、1587(天正15)年に「伴天連(ばてれん)追放令」を発布し、キリスト教布教を弾圧した。この「伴天連追放令」の対象は宣教活動や大名の活動で、一般信徒の信仰を縛るものではなかった。また、鎖国ではなく、対外貿易などの商業活動はむしろ奨励された。イエズス会側も表だった宣教活動を控えた。
 秀吉は朝鮮出兵に相前後して周辺アジア各国に対しても服属を要求する使節を派遣した。当時スペイン支配下の呂宋(ルソン)と呼ばれたフィリピンには1591(天正19)年に原田孫四郎が派遣された。スペインのフィリピン総督はこれに驚き、外交交渉によって問題を解決しようと、3回にわたる使節を日本に派遣した。朝鮮出兵の基地として名護屋城が築かれ、軍勢が集結しているというニュースは、呂宋にも伝わっていたのである。
 この2回目の使節団に同行したのがフランシスコ会の宣教師ペトロ=バウチスタ神父である。彼はフィリピン総督の返答を待つ間、人質として日本に滞留することを秀吉に願い許可される。「伴天連追放令」の事情をわきまえない彼は、熱心に宣教活動を行い、その結果多くの日本人信徒が生まれた。
 1596(文禄5)年10月19日、フィリピンのカビテ港を出港してメキシコに向かうスペイン船サン=フェリペ号が折からの台風に押し流されて土佐の浦戸に漂着した。この事件が二十六聖人殉教の引き金になったと日本キリシタン史研究者=片岡千鶴子(1937- )純心女子大学学長は指摘している。
 それには二つの理由が考えられると片岡氏は分析する。一つはこの事件の報告を受けた秀吉は、五奉行の一人である増田長盛を土佐に派遣して積み荷の没収を謀った。調査の段階で長盛は同船の航海士からスペインの植民地支配の方法を聞き出し、先ず宣教師を派遣して改宗させ、その後、侵入して武力で国を奪うという答えを秀吉に伝えたというものである。もう一つは、積み荷の没収を正当化するためにサン=フェリペ号が日本の法「伴天連追放令」に背いていたという理由を主張した。これは同船に7人の修道士が便乗していたのを指していた。そして同時に「伴天連追放令」が実際に施行されているという証拠として、国内のキリシタンの捕縛が命令されたというものである。
 いずれにせよ、1596(10月末から慶長に改元)年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。そして、フランシスコ会の活発な活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じたのである。
 石田三成は、京都及び大阪で先述のペトロ=バウチスタ神父をはじめとするフランシスコ会の外国人司祭・修道士6人と日本人(父親が中国人という1人、朝鮮出兵の時に連行され、帰化した朝鮮人3人を含む)信徒15人、イエズス会信徒3人の24人を捕縛し、堀川通り一条戻り橋で左の耳を切り落とし、市中引き回しの上、長崎に連行した。その途中、世話のために同行した2人も自ら進んで捕らえられ、計26人が1597(慶長2)年2月5日、長崎西坂の丘(現在のJR長崎駅前)の刑場で十字架刑に処せられたのである。その模様は多くの見物人によって見届けられ、数々のエピソードが残されている。また、イエズス会宣教師Luis(ルイス) Frois(フロイス)(1532-1597)によってヨーロッパへもつぶさに伝えられた。
 彼らの遺骸は死後、多くの人の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けたという。
 関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が1603(慶長8)年に江戸幕府を開く。同年フランシスコ会宣教師=Luis(ルイス) Sotelo(ソテロ) がフィリピン総督の書簡を携えて来日し家康や秀忠に謁見、日本での布教を開始した。その後仙台藩主=伊達(だて)政宗(まさむね)との知遇を得、東北にも布教するが、1612(慶長17)年には幕領で、翌年には日本全土に禁教令が出され、ソテロも捕縛される。しかし、政宗の助命嘆願によって赦された。
 1613(慶長18)年9月15日(旧10月28日)、伊達政宗の命を受け、ソテロを正使、支倉常長(はせくらつねなが)を副使とする通商交渉を目的とする遣欧使節団が派遣される。一行はメキシコ、スペインを経由して1615(元和元)年10月18日(旧8月26日)、イタリアのチヴィタヴェッキア港に上陸し、ローマに向かった。
 すなわちチヴィタヴェッキアは、遣欧使節団が初めてイタリアに足跡を印した地なのである。
 これが縁で、遣欧使節団出発地である宮城県石巻市とチヴィタヴェッキア市は1971(昭和46)年10月12日、姉妹都市関係を締結し、仙台に古くからあった支倉常長像がイタリア美術監督局の手で修復された。1993(平成5)年6月、チヴィタヴェッキアに支倉常長の銅像と併せて遣欧使節団の航路図碑が建てられている。
 常長は1620(元和6)年8月24日に帰国。通商交渉の失敗を報告し、政宗はその日の内に領内でのキリシタン禁止に踏み切った。
 江戸幕府も1624(寛永元)年のスペインとの国交を断絶、来航を禁止したのを手始めに次々に鎖国令を出した。しかしこれは、カトリック国であるスペイン・ポルトガルを排除するのが目的で、プロテスタント国である英国(相手側が平戸商館を閉鎖して引き上げ)・オランダとは通商を続けたし、近隣の中国(明→清)・朝鮮・琉球・蝦夷との交易も行われていたから完全な鎖国ではない。
 1637〜1638年の島原の乱を経て切支丹弾圧は強化され、以来表立ったキリスト教徒の活動は見られなくなっていった。
 1853(嘉永6)年、黒船が浦賀に来航して翌年には日米和親条約が締結された。そして、1858(安政5)年の日米修好通商条約の締結によって200年を超える鎖国は幕を閉じたのである。
 日本が開国して間もない1862(文久2)年6月8日、教皇=Pius(ピウス) \(9)世は、1597(慶長2)年2月5日、長崎西坂の十字架上で殉教した26人を聖人に列した(列聖という)のである。
 そして、支倉常長ゆかりのチヴィタヴェッキアにあるフランシスコ会修道院の聖堂を《日本聖殉教者教会(CHIESA DEI SANTI MARTIRI GIAPPONESI)》と名付けて改修し、1864年に献堂した。
 この時の改修は、現地の職人の手で行われた。26聖人の姿が描かれていたというが、開国後間もない日本の状況はまだイタリアには届いていなかったためか、風体や服装は中国人とほとんど変わらない無国籍のものだったという。ここを訪れた日本人は、これを見て落胆した。金山政英もその一人だったであろう。
 第二次世界大戦の時、チヴィタヴェッキア港はナチス=ドイツの潜水艦基地になった。大戦末期、連合軍の艦砲射撃を受けて市街は徹底的に破壊された。港に面する《日本聖殉教者教会》の建物も勿論例外ではなかった。
 戦後の混乱がようやく収まりかけた1950(昭和25)年、聖堂復興が話し合われた。そこへたまたま日本を代表するカトリックのフレスコ画家=長谷川路可が聖年を機に訪れたのである。金山代理公使は天の配剤と喜んだに違いない。
 
壁画制作  1951(昭和26)年8月からフレスコ壁画の制作が始められた。聖堂正面最奥部の半円形の平面を持つ後陣(アプス)の高さ5bの壁面を3つに区切り、先ず中央の壁面から取りかかった。漆喰塗装のために櫓が組まれ、塗装は現地の左官に手伝わせたが画面は路可一人で描いた。中央壁面は真ん中に聖ペトロ・バウチスタ神父の十字架が正面を向いてひときわ大きく描かれ、右側には最年少の12歳で殉教した聖ルドビコ茨木少年が十字架上で安らかな顔で目を閉じている。左側は殉教者たちの指導者であった聖フランシスコ・ブランコ(スペイン出身の若い神父)の十字架が3人の執行人によって立てられつつある様子が描かれている。
 この中央壁面が完成したのは12月といわれる。
 中央の左右両隣は刑場の様子がほぼシンメトリーの構図で描かれているから、後陣から先に描かれたと思われる。
 先ず右側は、上部にすでに立てられた5本の十字架上に左から聖パウロ鈴木、聖パウロ三木、聖ガブリエル、聖フランシスコ(医師)、聖ディエゴ喜斉といういずれも日本人の殉教者が左、すなわち中央に顔を向けている。名前のカタカナは洗礼名である。いずれも白い和装で描かれているが、刑衣なのであろう。内側3面の刑場の画面では、日本人殉教者は白衣、外国人聖職者は茶色がかった灰色の丸首の衣服を着ている。
 右画面の下部には、右にまだ地面に横たえられている十字架に聖ゴンザロ・ガルシアというインド出身の修道士がまさに縛り付けられようとしている。左には聖マルチノ・デ・ラ・アセンシオンというスペイン人の神父が十字架の脇に立たされており、3人の執行人が作業をしている姿が描かれている。
 中央左側の画面は、右側と同じく上部にすでに立てられた5本の十字架があり、左から聖コスメ竹屋、聖ヨハネ絹屋、聖ヨアキム榊原、聖ヨハネ五島という4人の日本人殉教者と聖フィリッポ・デ・ヘススというメキシコ出身の修道士が右を向いて描かれている。彼の顔は浅黒く、顔つきもメキシコ先住民との混血(メスティソ)に見える。路可の細かい配慮が窺える。
 画面下右側には、横たえられた十字架の脇に跪かされた聖フランシスコ・デ・サン・ミゲルというスペイン人修道士が描かれ、こちらも3人の執行人が描かれている。そのうちの一人はサン・ミゲルの背後から拳を振り上げて殴りかかろうとしている。
 この画面で興味深いのは、画面左下に5人の女性が刑の様子を見守っている姿が描かれていることである。
 内陣両側の壁面は向かい合う平行面で、刑場ではなく、連行される途中のエピソードが描かれている。
 先ず右側は現在の岡山市にあたる住吉在枝川の堤の茶店の脇のシーンである。左側に荷車の上に縛られた4人の人物が描かれている。左から聖ミカエル小崎、聖ボナベントゥラ、聖トマス小崎、聖レオン烏丸である。4人とも白衣を着せられている。中央の紺色の作業着を着た人物が聖フランシスコ吉で、京都の大工。長崎に曳かれて行く途中の切支丹の後を追いかけ、自分も仲間に加えて欲しいと嘆願する。その様子を見る5人の男女も描かれている。
 左側の壁面は上部に中国船の浮かぶ海面が描かれ、岸には家並みが見られる。彼杵(そのぎ)の浦(現在の長崎県東彼杵町)であろう。京都大阪を1月9日に発ち、極寒の中約850kmを歩かされ、手を縛られたまま、この彼杵の浦から三艘の船に乗り、最期の地長崎へ向かったのである。家並みの手前に縛られた4人が小さめに描かれている。左から聖マチアス、聖パウロ茨木、聖ペトロ助四郎、聖トマス(談義者)である。手前には右手を陣笠をかぶった武士に掴まれた縞柄の服を着た少年が描かれている。少年の左手は天を指さしている。「信仰を捨てて俺の小姓になれ」と言われた彼は、天を指し、「地上において出世するよりも、天上において天主に仕えることこそ望むもの」といって殉教したというエピソードに基づくものである。13歳の中国系少年聖アントニオとされているが、実はこのエピソードは聖ルドビコの話だということが後に片岡瑠美子氏の指摘で判明した。路可の勘違いということになる。左には立派な白馬に跨った武士の後ろ姿の他、7人の陣笠姿の武士が見られる。そして、左手前には正面を向いて合掌する長谷川路可の自画像が描かれている。これがサイン代わりであり、ルネサンス絵画に見られた風習という。
 1954(昭和29)年2月には祭壇後ろの5画面が完了し、次に聖壇の天井画にかかった。
 天井は後陣が半ドーム型、内陣がアーチ型をなし、全体に鮮やかなコバルトブルーが背景に塗られている。内陣と後陣の境界は、薄青色の2種類の家紋が交互に描かれた白い2本の帯で区切られている。家紋は久留子(くるす)紋と伊達政宗が豊臣秀吉から賜った桐紋である。
 後陣の半ドームの正面には、桃山時代の正装をした聖母マリアが、右手の指を天に向け、左手で鳩を抱えた袴姿の幼子イエスを抱いた聖母子立像で、極めて清楚な印象を与える。
 聖母子像の左右には、少し離れて聖人の立像が描かれている。左は日本にキリスト教を伝えたイエズス会の聖フランシスコ=ザビエル、右はフランシスコ会の創始者、アッシジの聖フランシスコである。
 ドームの頂点近くには三位一体を表す三角形の中に中心=神を表す眼が描かれている。これを「天の眼」という。
 内陣のアーチ型の天井には、両袖に立像が描かれている。右側がチヴィタヴェッキアの守護聖人、聖フェルミナ、左側が慶長遣欧使節団の副使としてチヴィタヴェッキアに初めて足跡を残した日本人、支倉常長である。
 後陣の天井と壁面の境界部は金色の正方形の板が帯状に並べられており、正面には「日本聖殉教者」の6文字の漢字が右横書きで書かれている。その両側には左右に3つずつの家紋が描かれている。左から瓜葉(うりは)(少年使節を送った大村純忠の大村家の紋、庵に(いおり)木瓜(もつこう)(二十六聖人の一人伊東マンショの伊東家の紋)、杏葉(ぎようよう)(少年使節を送った大友宗麟の大友家の紋、細川九曜(ほそかわくよう)(細川ガラシャの細川家の紋)、有馬立ち沢潟(おもだか)(少年使節を送った有馬晴信の有馬家の紋、久留子(くるす)(切支丹大名の島津家の紋)である。
  
 《日本聖殉教者教会(CHIESA DEI SANTI MARTIRI GIAPPONESI)》聖壇壁画 
      
         
チヴィタヴェッキアでの生活  路可のイタリア滞在は足かけ8年に及ぶ。この間、留守宅の生活はどうであったか。3か月の予定の渡伊が何年かかるか判らない長期滞在になってしまったのである。時は戦後の経済混乱が続いていた。日本人全体が飢えていた時代である。路可の勤務先、文化服装学院の対応は寛大だった。イタリアはファッションの先進国である。いわば突然の長期欠勤となった路可を学院の発行する『装苑』、『すみれ』の特派記者という扱いで、定期的に記事を送稿することを条件に、留守宅に給料を届けたのである。
 こうして、とりあえず後顧の憂いなく壁画制作に没頭することができた路可だが、なにしろ清貧を重んじる修道院の中の生活である。
 「朝は未明の鐘とともに起き、スパゲッティの繰り返される貧しい食卓に長い祈りの後のイタリア語の談話に耐え、心おきなく語り合う友人もないただひとりの日本人として、この長い期間を身にしみて異郷にある思いをした。」(朝日新聞昭和32年9月15日)と路可は述懐している。
 路可が壁画制作に取りかかって間もない1951(昭和26)年9月8日にサンフランシスコで署名された「日本国との平和条約」(翌年4月28日発効)により、敗戦国日本は独立国として国際社会に復帰した。「朝鮮特需」をきっかけに工業の復興もめざましかったが、まだまだ経済力は乏しく、海外旅行も自由化されていなかったし、1ドル=360円の固定相場制の時代だった。従ってローマに在住している邦人は数少なかった。それだけに在留邦人間の関係は緊密で、結束は固かったという。彼らの集まりがあると、チヴィタヴェッキアを抜け出してローマに向かった。たまには旨い料理でも食わないと身が持たない。
 修道院に起居しているのだから、最低限の寝食は保証されているが、それ以上の生活のゆとりは全くない。
 最も大変だったのは経済的な問題である。聖堂修復の費用は、基本的にはフランシスコ会が負担しただろうし、約6,000人という信徒の献金もあったと思われるが、路可の理想とする壁画制作のための画材などは最良のものを求めてフランスから取り寄せるなど、当初の予想を遙かに上回ったようだ。
 路可はそれを少しでも補おうと、イタリアを訪れる邦人の観光ガイドを引き受けてアルバイトしたりもした。また彼らをチヴィタヴェッキアの制作現場に案内して、実情を訴えた。こうして多くの人々が路可の仕事を実際に見て感動し、芳名録代わりになっていた下絵にサインを残している(後述)。
 中でも石橋正二郎(1889-1976 ブリヂストンタイヤ創業者。「石橋コレクション」で知られる美術愛好家)は、ブリヂストン美術館のためにポンペイ壁画の模写を依頼した代償に多額の寄付をした。
 これらの模写作品は、《石橋美術館》・《ブリヂストン美術館》に分けて収蔵され、《ブリヂストン美術館》の4作品は、現在館内のティールーム《ジョルジェット》に常掲されている。
 また、澁澤敬三(1896-1963 澁澤榮一の孫。戦前は日銀総裁、戦後は幣原(しではら)内閣の大蔵大臣となり、戦後インフレの収束にあたった。公職追放を受けたが、解除後は国際電信電話(現KDDI)社長、文化放送会長などを歴任するとともに、財界の世話役として活躍した)は帰国後「長谷川路可に金を送る会」を開催し、多くの財界人の賛同を得た。イタリアへの送金の一方、留守宅への配慮も忘れなかったという。
 
イタリアでの交流  この時期、日本もイタリアも敗戦の痛手から立ち直る努力をしていた。ことに文化面での活動としては、映画界の進展がめざましく、イタリアでは〈ネオレアリズモ〉の名作が次々に生まれたし、日本では黒澤 明の『羅生門』が1951年のヴェネツィア国際映画祭《金獅子賞(グランプリ)》を受賞し、国際的評価を受けるようになった。
 その試写会がローマで開かれた時、名監督=Vittorio(ヴィツトリオ) de(デ) SICA(シーカ)(1901-1974)と隣席になり、話を交わしたことをきっかけにイタリア映画人との交流が深まった。
 Robert(ロベルト) ROSSERINI(ロツセリーニ)(1906-1977)監督と彼を頼って渡伊したIngrid(イングリツド) BERGMAN(バーグマン)(1915-1982)を、彫刻家イサム・ノグチと結婚したばかりの山口淑子(李香蘭 1920-)とともに訪れたり、チヴィタヴェッキアからほど近いところに居住していたバーグマンから時折パーティーに招かれるなど、その後も交流の機会があった。
 日本からも、1954年9月26日、映画女優=香川京子が切支丹を扱う次回作『青銅の基督』の相談のために渋谷 実監督の紹介で路可の許を訪れ、面談した。
 イタリア美術界との交流も行われた。どういうわけか、彫刻家との交流が目立ち、Pericle(ペリクレ) FAZZINI(ファツツィーニ)(1913-1987)やEmilio(エミリオ) GRECO(グレコ)(1913-1995)などとの親交は生涯続けられた。ファッツィーニとグレコは仲が悪く、路可は交際にかなり気を使ったらしい。
 チヴィタヴェッキアの作業場の足許には下絵が置かれていて、これが今日遺族の許に遺されている。これを見ると、おびただしいサインが書き込まれている。作業場を訪れた見学者の署名である。すなわち、下絵が芳名録になっていたわけだ。漢字で書かれた日本人の名だけを拾い上げてみると、200名を越す。これ以外に60名ほどの横文字のサインが見られるが、筆記体で判読困難なものが多い。
 名前を見ただけで「ああ、あの人も」とわかるケースが少なくなく、そうでなくともインターネット検索などで判明する人が大多数であることに驚かされる。
 カトリック関係者が多いのは当然だが、外交官、政財界人、学者、ジャーナリスト、芸術家などなど、多士済々である。ことに、この時代に活躍した美術評論家が揃っているのはさすがだ。著名な人々を列挙してみよう。
 日付が判読できる中で最も早いものは1951年5月5日の黒川武雄厚生大臣のもので「献身 ローマ金山邸に於て」の記載があり、この下絵が完成して間もない頃と思われる。次いで1951年8月5日、金山政英代理公使夫妻をはじめ7人が列記してある。中に池島信平(1909-1973 文藝春秋新社)の名も見える。カトリック関係者としてまとまって訪れた例としては1956年1月5日という日付で6人列記してある。次いで同年1月26日にも3人がカンツォーネ歌手の荒井基裕夫妻とともに記されている。この中には濱尾文郎(ふみお)(1930-2007)という名が見える。当時は横浜司教区司教だったはずで、後に2003年には日本人で5人目の枢機卿(すうきけい)となり、2005年の教皇選出会議(コンクラーヴェ)にも参加したが、昨年の11月8日に帰天した。その他を含めるとカトリック関係者の名は21人判読できる。
 1951年8月17日には古垣鉄郎会長をはじめとするNHK関係者が4人訪れている。NHKでは他に1954年に藤倉修一、1957年に桜井 健両アナウンサーの名が見える。壁画制作が端緒についた頃、日本の民放各社もスタートしたが、民放関係者の名は見あたらない。他にジャーナリストとしては山崎 功(読売)、渡辺善一郎(毎日)、阿部徹雄(サン写真)の3記者が1952年の別々の日に訪れている。
 美術関係者では、画家の佐藤 敬(けい)、益田義信、神原(かんばら)(たい)、宮本三郎夫妻、島田精治、田淵安一、宮田重雄、田村孝之介夫妻、藤川栄子、中西康子、中川一政夫妻、寺田春弌(しゆんいち)、別府貫一郎の他に服飾デザイナーの田中千代、写真家の田村 豊夫妻の名が見え、評論家・研究者としては船戸 洪(ひとし)、土方定一(ひじかたていいち)、柳 宗玄(むねもと)、矢代幸雄、三輪福松という顔触れが見られる。中川一政とはヴェネツィアに遊び、これが縁で後に路可の弟子たちを《春陽会》に紹介したと一政は語っている。
 案外多いと思われるのが文学関係だ。田村泰次郎、庄野英二、石川達三夫妻、芹澤光治良、平林たい子、藤浦 洸、林 謙一、川口松太郎の面々である。
 川口松太郎は1953年9月7日に夫人の三益愛子、溝口健二、田中絹代、川喜多長政、清水千代太、依田義賢と共に訪れている。日付と顔触れから判断すると、『雨月物語』がヴェネツィア映画祭で《銀獅子賞》を受賞した時に違いない。
 集団で訪れた例としては、1954年8月8日に喜多 実をはじめ12人の能楽関係者が見られる。ヴェネツィアのヴィエンナーレ演劇祭に参加した折で、この公演は能楽の海外初公演だった。
 経済人としては、先述の石橋正二郎、澁澤敬三の他に繊維関係の企業が目立つ。当時の日本は糸偏景気に湧いていたし、イタリアは繊維産業の中心地だった。
 その他の著名人としては谷川徹三、湯川秀樹博士夫妻と徳川夢聲夫妻が目立つ。夢聲は『週刊朝日』の《問答有用》で路可と対談するために訪伊したのだ。
 これらの人々が孤軍奮闘する路可の姿を目の当たりにし、感動し、異口同音に褒め称えている。これほど制作現場を公開した画家は希有であろう。
 
壁画完成  1954年10月に後陣、内陣の殉教図と天井画が一応終了した。この段階でコンスタンティーニ枢機卿を迎えて、壁画完成の祝別式が開催され、チヴィタヴェッキア市名誉市民に列せられたのである。
 殉教画とはいえ、流血シーンは描かれていない。路可は語る。「ぼくの絵では、ヤリをもったり、刀を抜き身にしたりしてるけれども、わき腹を突いたり、首を打ったりしてるとこをかかないのは、血なまぐさい感じを出したくなかったからです。教えのために命を捨てることは、よろこびであり感激のいたりであるという気持ちを、画面にあらわしたくって、暗い色を使わなかったんです。」
 次は礼拝室両側にそれぞれ3箇所ずつ設けられている壁龕(へきがん)の壁画に取りかかった。壁龕の上部はアーチ型になっており、右壁面は聖像の立つ小聖壇を持つ。
 内陣に向かって左側の壁面は、右から二大使徒の聖ペトロと聖パウロ、幼いキリストを抱く聖ヨゼフ、アッシジの聖フランシスコが描かれており、右側の壁面は、左から聖処女マリアの像の背景にマリアを讃美する天使と花々、みこころのキリスト像の背景に王冠・百合の花・シュロの葉・鍵・笏と6人の天使が、幼いキリストを抱く聖アントニオ像の周囲に3面の彼にまつわるエピソードが描かれている。
 さらには石橋正二郎と約束のヴァチカン美術界所蔵のポンペイ壁画やいくつかの名作を模写し、続いて教皇庁立ウルバノ大学(ローマ)でフレスコ壁画『聖ザヴェリオ』三部作を完成させた。
 ここで一応のけりをつけ、1957(昭和32)年8月、聖堂天井画は未完成のまま、大好きな飛行機で帰国することになる。〔つづく〕   (わたなべ りょう)