森 志げ女『死の家』に見る鵠沼村
 
会員 渡部 瞭
 
 『青鞜』創刊号表紙
装幀:長沼智恵子(後の高村智恵子)
 『青鞜(せいとう)』は、平塚雷鳥(らいてう)(1886〜1971)が主宰する「青鞜社」が刊行した明治末から大正前期の「唯一の女流文學雜誌」(同誌宣伝文)として知られる。
 その創刊号に掲げられた平塚雷鳥の「元始、女性は實に太陽であつた。眞心の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝き、病人のやうな蒼白い顔の月である。」の名文は、今も教科書に掲載されるほどである。
 創刊号が発行されたのは、1911(明治44)年9月のことだったが、この創刊号に掲載された『死の家』という短編小説がある。作者は森 志げ女。
 森 志げ女(1880.5.3〜1936.4.18)とは、後の筆名は森 志げ、本名は森 茂子で旧姓は荒木。旧肥前佐賀藩士族の大審院判事=荒木博臣(ひろおみ)の長女にして文豪=森 鴎外(1862〜1922)の再婚相手(本人も再婚)である。1902(明治35)年1月4日、茂子21歳、鴎外40歳の時であった。鴎外との間には翌年長女=茉莉(まり)、1907年二男=不律(ふりつ)(翌年2月死亡)、1909年二女=(小堀)杏奴(あんぬ)、1911年三男=類(るゐ)が生まれた。鴎外には離別した先妻=登志子との間に長男=於菟(をと)がいた。
 志げこと茂子は、「好イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ」と鴎外が記すほどの美人だったが、芝居好きでヒステリー持ちだったし、無愛想だったため、姑=峰との仲は次第に険悪になる。2人は生活する場を分け、絶対に同じ食卓で食事をとらなくなる。さらに家計を仕切っていた峰は茂子にだけ小遣いを渡さず、茂子は子供を峰の部屋に遊びに行かせなかった。このため「悪妻」の見本のように評価されることもある。間に立った鴎外は困り果てたという。
 『青鞜』創刊号が発行された1911(明治44)年は、彼女にとって子育てに追われていた時期に当たるはずである。この時期に彼女は青鞜社賛助員となる。賛助員には他に長谷川時雨[(1879〜1941)劇作家・小説家。後に小説家=三上於菟吉と結ばれ生涯別姓で添い遂げた]、岡田八千代[(1883〜1962)劇作家。夫は西洋画家の大家の岡田三郎助、実兄は劇作家=小山内 薫]、與謝野晶子[(1878〜1942)歌人・詩人。夫は歌人=與謝野 寛(與謝野鉄幹)]、國木田治子[(1879〜1962)小説家。小説家・詩人=國木田獨歩の後妻]、小金井喜美子[(1870〜1956)翻訳家・小説家・随筆家・歌人。東京帝大教授・医師=小金井良精(よしきよ)の妻]などという錚々たる顔触れが揃っていた。
 最後に挙げた小金井喜美子は鴎外の妹だから、志げの年上の義妹ということになる。創刊号発行の段階で喜美子だけは30歳代に入っていたが、あとのメンバーは平塚雷鳥を含めてみな20歳代である。
 前置きが大分長くなってしまった。そろそろ本題に入ろう。
 『死の家』のあらすじはこうである。
 縁談話が舞い込んでくる年頃の弓子は、梅雨が明けた日曜日に、執事の山尾を連れて、新橋から汽車で藤沢に向かう。長年自分を育ててくれた乳母が、丁度七年程前に結婚し、婚家で肺結核を患い、生まれた男の子を連れて鵠沼の実家で療養生活に入り、医者にも見限られる状態になったと聞き、見舞いに行くのである。当日朝の支度から、汽車の中の様子、藤沢から鵠沼までの行程、乳母の病状や実家の環境、見舞いが終わって帰途につくまでが描かれている。
 これが志げ自身の実体験に基づく私小説かどうかは判断しがたい。主人公=弓子は乳母や執事に囲まれて育っている。志げの実家は大審院判事だったから、その程度の生活は当然していたであろう。描写の細かさから見て、少なくとも志げは鵠沼を訪れたことは確かなようである。それがどの時点であったかは明確ではないが、大まかに見て明治30年代後半と考えられる。
 この時代の鵠沼は、1908(明治41)年4月1日に高座郡藤沢大坂町・明治村と合併し、鵠沼村から藤沢町鵠沼になる直前である。
 文中には「鵠沼村」という記述が出てくる。しかし、合併直後には旧来の呼称が習慣的に使われていただろうし、都会人から見れば農村地帯はみな「村」であろうから、これをもって時代特定の根拠にはしがたい。
 ただ、乳母の子が7歳以前であり、「後に乳母が亡くなつてから、此子は京橋で待合を出してゐる、父親の妹の内へ引き取られた。」と、その後のことまでが記されているから、鵠沼訪問直後に書かれたものではなさそうである。
 明治期の鵠沼農村部を描いた文学作品は、徳冨蘆花(1868〜1927)の『思出の記』が知られる。『思出の記』は、1900(明治33)年9月から翌年3月まで國民新聞に連載されたもので、『死の家』より10年前、明治20年代の鵠沼を描写している。
 また、内藤千代子(1893〜1925)の『田舎住ひの處女日記』が『女學世界』8巻15号の懸賞日記文に3等入選、賞金10円を獲得して文壇デビューのきっかけを作ったのが1908(明治41)年11月のことだったから、『死の家』は、『思出の記』と『田舎住ひの處女日記』との中間期の作品ということになる。
 小文は、この『死の家』の記述の中から、今から百年ほど前の鵠沼農村部の姿を読み取ろうとする試みである。
 明治末期の鵠沼は、海岸部に3軒の旅館が並び、鵠沼海岸別荘地の分譲も始まっていたが、人口比は農村部の方がまだまだ勝っていた。別荘地分譲が本格化するのは、1902(明治35)年の江ノ電開通がきっかけである。大正にはいると別荘地も次第に整ってくるが、数百〜数千坪という敷地に住居が点在する別荘地帯の人口密度は極めて低かった。江ノ電開通以前の海水浴客は、旅館滞在の他に、農家の離れを夏の間間借りするというケースもよく見られたようである。
 本文に「乳母は、弓子の家を下がる時貰つた一時金と、それ迄の貯金とを合せて、二階建ての家を立(ママ)てた。その頃乳母の云ふには、不断は兄に貸して置きますが、海水浴にお出(いで)になる時には、婆あやの内へお出下さいと云ふことであつた。」とあるから、これは普通のことだったのだろう。この建物は、結局乳母の療養所に、そして「死の家」になってしまった。
 本文に沿って見ていこう。冒頭から3分の1までは当日朝の支度の様子と汽車の中の様子が描かれている。ここは鵠沼と直接関係ない記述なので割愛する。
 「九時十分新橋發の汽車で」「藤澤に着いたのは十一時少し過ぎであつた。」とあるから、当時の新橋〜藤沢間は2時間弱かかったことが判る。
 続いて「停車場前の茶屋で休んで、弓子は東京から持つて來たサンドヰツチや西洋菓子や果物を取り出して食べて、山尾にも分けて遣つた。結核の病人のゐる所で、物を食べない用心をして、こゝでいろんな物を食べたのである。」とある。当時流行していた結核の病人に対する心得が読み取れる。
 「そこで車を倩(やと)つて、道のでこぼこした田舎道をがたがたゆられて出掛けた。線路を通り越して横へ曲ると、まだ餘程遠いのに、乳母の家の大きな松の木が見える。弓子は子供の頃兩親に連れられて乳母の家へ來たことがある。松の木の多い鵠沼村(くげぬまむら)でも、此松は優れて大きく高いので、乳母は自慢してゐたのである。傍に少し背の低いのが二本並んでゐてそれに注連縄(しめなは)が張つてあつた。」
 ここで、乳母の実家は鵠沼の何処にあったかを推理したい。
 先ず「線路を通り越して」とあるから、東海道線より南側と判断できる。線路を通り越したのはおそらく一本松踏切であろう。あるいは学校前踏切も考えられる。そこから「横へ曲」り、「餘程遠いのに、乳母の家の大きな松の木が見える」その「松の木の多い鵠沼村(くげぬまむら)でも、此松は優れて大きく高いので、乳
 
苅田の火の見櫓から仲東方面(松家の松)
1965年頃、撮影:山上敏夫
母は自慢してゐた」松を目指して車(人力車)を走らせるのである。「松の木は目の前に見えてゐても、がたがた車が乳母の家に着くまでには、かなり時が立(ママ)つた。」
 これほどの松は、筆者の記憶する限り仲東の松本家の松しか考えられない。80〜90歳代の古老に訊いても同じである。時代は明治後期であるから、確言はできないが、可能性は大いにあると考えたい。
 松本家を直接調べることは今のところできていないが、周辺の関係方面を当たってみても、『死の家』に述べられているような事情が高松本家に存在していたことを記憶しておられる方は見つかっていない。もちろん、これはあくまでもフィクションなので、数件の事情が複合して話が組み立てられていることも充分考えられる。ここではそれ以上の詮索はしないで置きたい。
 「二階建ての乳母の家」は、「戸口の内は廣い土間である。そこへ這入つて覗き込むと、六畳と八畳との下座敷があつて」という大きさである。乳母の退職一時金と貯金で、当時はこれだけの家を建てることができたのである。
 乳母の子は、「今しがた母屋(おもや)の人達が宿へまゐりますのに附いて行きましたが、もう歸る頃」だとある。「宿」にルビはないが、これが「しゅく」だとすると、当時の鵠沼では藤沢の旧宿場を鉄道時代になってもそう呼んでいたと思われる。
 次に「それでもお薩の新を先程掘らせたのが、ふかしてある」のを「薩摩芋は相變らず結構よ。では御馳走になつて來るわ」「薩摩芋なら皮があるから(結核患者の家のものでも)好い」と判断して食べる。鵠沼におけるサツマイモ栽培は、明治初期に宮ノ前の小林榮蔵(藷榮)が六郷(川崎)から[相州白]という品種を導入したのが最初とされる。それが鉄道が関西にまで延びた段階で、関西を商圏にするほど普及した。
 乳母が弓子を養育していた頃も、里帰りのときの土産として鵠沼名産となったサツマイモを持ち帰ったであろうことは、「薩摩芋は相變らず結構よ。」の言葉から推定できる。
 この文章の冒頭に「今年の梅雨は例年にまして、雨が多かつた。」とあり、「久しぶりで今日は、晴々とした、好い天氣になつた」と続くから、季節は梅雨明けで、7月中旬と考えられる。「お薩の新を先程掘らせた」のは、かなりの早掘りである。
 「山尾に促されて、弓子は歸支度(かへりじたく)を始めた」時、「もう四時近いのである。片蔭がすつかり出來て、一面の青い畑の上を凉しい風が吹いてゐる。」この「一面の青い畑」とは、この季節ならおそらくサツマイモ畑であろう。「凉しい風」は、この時間ではまだ海からの南風である。
 帰り支度も整い、いよいよ車に乗り込もうとするとき、「車の廻りには近所の子供が珍らしさうに集まつて來た。「東京の女は妙だなあ。夏首巻をしてゐらあ」なんぞと顔を見て云ふ。きたない子等の中に乳母の子は別物の様に美しく見えた。」好奇心旺盛で、あけすけな「きたない子等」である。しかし、これが悪意からのものでないことは、「鼻を垂らして、赤いくしやくしやした目をした子供達も聲を合せて「さよなら」と云ふ。」と続けることによって、弓子も認めているのである。彼らが「赤いくしやくしやした目をし」ているのは、当時流行ったトラコーマ(トラホーム)によると思われる。
 最後に、この物語の舞台と比定しておいた松本家について触れておこう。松家は仲東集落の中央に屋敷を構える鵠沼きっての旧家である。
 平安末期、平 景正(鎌倉権五郎)が高座郡の私領を開発し、伊勢神宮に寄進を企図、これが大庭御厨(おおばのみくりや)として国司により正式に認められた1116(永久4)年の前年、法印と称する修験者だった松家初代が没したという記録がある。今に続く鵠沼の姓の初出である。さらに1195(建久6)年、鵠沼毘沙門堂が修験祐範により開基創建された。江戸中期に廃寺となるも再建され、1870年以来屋敷内に現存する。
 1889(明治22)年、村制が施行された鵠沼村初代助役が松祐重であり、長男=松良夫は1897年に村長に就任、1908年4月1日に高座郡藤沢大坂町・明治村・鵠沼村が合併し、藤沢町になった時の初代町長となった。また、鵠沼唯一の病院=松病院を経営するなど、今日に至るまで地元のために多大な貢献をしている。
 最大の疑問は、このような名家の息女が、例え花嫁修業のためと仮定しても東京に乳母として奉公させることがあったのかという点である。
※引用文中のルビは(ママ)以外は原文通り         (わたなべ りょう)