鵠沼の生き物あれこれ

―ゆかりの生物と外来生物―
 
会員 渡部 瞭
 
はじめに
 会誌『鵠沼』のバックナンバーを見ると、郷土史を中心テーマに掲げるサークルの会誌でありながら、生物に関する記事がかなり含まれるのに気づく。
 主立ったものを列挙してみると、
 001b 松露と防風/昭和18〜20年頃の鵠沼の花々……………………… 伊藤 昌
 002d 鴨のくる池 ………………………………………………………… 伊藤 昌
 008b 鵠沼の野草(その1) 堀川デルタ地帯 ……………………… 伊藤節堂
 008c 鵠沼の野草(その2) 海岸砂丘(引地川―辻堂境)………… 伊藤節堂
 009b 鵠沼の野草(その3) 引地川左岸(国鉄鉄橋から鵠沼橋まで) 伊藤節堂
 012d 鵠沼の「クグヒ」 ………………………………………………… 伊藤節堂
 013a 「鵠」について …………………………………………………… 富士 山
 016b 夜明けのカナカナ ………………………………………………… 伊藤節堂
 016c 幻の「くげぬまらん」を探して ………………………………… 塩沢 務
 020b 桜貝と浜木綿について 防風、初茸、松露、しばたけ ……… 富士 山
 021b 幻のツキミソウ …………………………………………………… 伊藤節堂
 024a 鶴について ………………………………………………………… 富士 山
 027b 幻のハマボウフウを育てる ……………………………………… 伊藤節堂
 057a 古老に聴く鵠沼の昔日  “松露”と“はつ竹”そして“ぼうふ”
 077j 「クゲヌマエンシス」と呼ばれる小さなエビの話  ………… 伊藤 聖
 078e 「クゲヌマエンシス」補遺 ……………………………………… 伊藤 聖
 084j 大きく拡がったメダカの輪 ……………………………………… 渡部 瞭
 085a 川袋低湿地形成と蓮池の変遷(序説) …………………………… 渡部 瞭
 088a クゲヌマランの初出について …………………………………… 伊藤 聖
 088b 鵠沼海岸の桜貝 …………………………………………………… 松岡 喬
 093b01 幻の鵠沼蘭は生きていた ……………………………………… 番場定孝
 093b02 近年、鵠沼に住みついた蝶 …………………………………… 竹内広弥
 098b はす池 断想 ……………………………………………………… 吉田敏平
 098c 「湘南アカウミガメ物語」 ……………………………………… 宮戸 光
 行頭のコードのうち、はじめの3桁の数字は号数を表す。これで見ると、初期の30号までの間、健筆をふるった伊藤 昌、伊藤節堂、富士 山(たかし)の3氏は生物にも大いに興味・関心を示していたことがわかる。さらに塩沢 務氏が加わり、幻のクゲヌマラン再発見に力を尽くした。
 30号以降しばらくの間、なぜか生物を題材にした記事が見られなくなる。
 会誌『鵠沼』が現在のスタイル、すなわちワープロ原版の数十ページのものを年2回発行という形に定着するのは、日本を代表する名エディター、鈴木三男吉氏が編集長に着任した75号以来のことだが、そこに元朝日新聞科学部記者、伊藤 聖氏が加わり、一段と格調高く変化に富んだ記事が掲載されるようになった。
 まだまだ、鵠沼の生物に関する話題は尽きない。今回筆者は、これまでの先輩諸氏の記事となるべく重複しないように気をつけながら、いくつかの短文に分けて鵠沼の生物相の特色を採り上げてみようと思う。
 
更級日記と倭瞿麥(やまとなでしこ) ナデシコ
 鵠沼を含む湘南砂丘地帯が文学作品に登場するのは、菅原孝標(たかすえ)(のむすめ)によって平安時代中ごろに書かれた『更級日記(さらしなのにき)』が嚆矢だといわれている。そこには、「にしとみといふ所の山、繪よく書きたらむ屏風を立て並べたらむやうなり。片つ方は海、濱の樣も寄返る浪の景色も、いみじくおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く。夏は倭瞿麥(やまとなでしこ)の濃く薄く、錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬといふに、なほ所々はうちこぼれつゝ、あはれげに咲きわたれり。もろこしが原に倭瞿麥の咲きけむこそなど、人々をかしがる。と出てくる。
 「にしとみといふ所」が現在の藤沢市西富(遊行寺周辺)を指すのかは異論もあるようだが、いずれにせよここから山と離れて浜辺の砂道を進むこととなる。いくら少女の足でも「二三日行く」はちとかかりすぎと思うが、この日記は中年に達してから思い出を綴ったものだから、正確さは期待できない。
 「もろこしが原といふ所」とは平塚のことだと平塚の方々は信じておられる。大磯には高麗山がそびえ、その麓には高麗神社が祀られていて、渡来人が多く住んだと伝えられているから、もろこしが原と呼ばれても不思議はない。
 「倭瞿麥」とは現在の標準和名ナデシコ(学名:Dianthus superbus L. var. longicalycinus)のことで、漢字では撫子と書き、カワラナデシコの別名もある。
 ちなみに平塚市の市の花は、このナデシコである。
 しかし、「もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く」ということは、湘南砂丘地帯全体をもろこしが原といったとも読み取れる。平安時代の海岸線は、現在よりも3km程度内陸、すなわち東海道本線のあたりにあったと考えられている。国道1号に沿う茅ヶ崎市本村4丁目には1591(天正19)年の創建といわれる「海前寺」という寺号を持つ曹洞宗寺院があり、16世紀頃までは間近に海を望む位置であったことが想像される。
 ナデシコは比較的乾燥を好む植物で、砂丘地帯でもよく自生する。都市化が進む1960年代までは鵠沼でも随所に自生が見られたが、現在はめっきり減少した。
 会誌『鵠沼』第3号に川上清康氏が寄せた「私と鵠沼」の中に次の一節がある。
 「その頃(※震災前)の海は、真に椅麗で片瀬迄は砂丘と松林が続き、辻堂に近い方では防風が一ぱい採れたものである。又松林には松露を採りに行き、到る処撫子や月見草が咲き、赤い蟹が庭先や台所口をはい廻っていた。」
 今日、「やまとなでしこ」というと日本人女性への賛辞を意味し、特に古来美徳とされた、清楚で凛とし、慎ましやかで男性に尽くす甲斐甲斐しい女性像を指す。これは植物としてのナデシコの可憐なピンク色の花の美しさと、ひ弱に見えながら荒れ地でも育つ逞しさからきているのだろう。
 
歌に詠まれた砥上が原の生物相 クズ、シカ、シギ、フジバカマ
 鎌倉時代になると、幕府のある鎌倉の上方(かみがた)側にある鵠沼を通過する旅人や、鎌倉から遊山にくる武将なども増えた。当時の湘南砂丘地帯は砥上ヶ原と呼ばれる寂しい砂地の荒野だった。この寂しさが歌人の心をとらえ、歌枕となった。
 最もよく知られているのは西行が『山家集』に載せている
 「芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて 砥上ヶ原に 牡鹿鳴くな里」
であろう。ここにはシバ、クズ、シカの3種の生物が読み込まれている。もっとも最初のシバは芝と書かれているが芝生のシバではなく、柴、すなわち藪をなす小さな木を指すと思われる。「お爺さんは山へ柴刈りに」のシバである。従って「藪を覆うクズの陰に牝鹿を隠し、寂しい砥上ヶ原に牡鹿の求愛の鳴き声が響いているよ」ほどの意味になろうか。今でも丹沢の山々が紅葉で彩られる頃、この声を聞くとができる。百人一首にも選ばれた猿丸太夫の「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき」さながらの風情である。砥上ヶ原のニホンジカ(学名:Cervus nippon)はとうの昔に絶滅したと思われるが、近年、丹沢のニホンジカは増えすぎて問題化している。一昨年、そのうちの1頭が藤沢市域に現れて「殺処分」された。
 この西行の歌の碑は茅ヶ崎市文化資料館前と辻堂の熊の森神社にあるが、鵠沼にはない。文学マニアの間では茅ヶ崎や辻堂が砥上ヶ原であるとの認識がこれらの碑の存在のために広まりつつあることが、いくつかのブログなどで読み取れる。
 熊の森神社の碑文は「柴松のくずのしげみに妻こめて となみが原に小鹿鳴くなり」となっているが、何を原典にしたかは不明である。
 クズといえば、鎌倉に住んでいた冷泉為相(れいぜいためすけ)が砥上ヶ原に遊び、次の歌を詠んで、『為相百首』に載せている。
 「立帰る名残ハ春に結びけん 砥上が原の葛の冬枯」
 こうしてみると、鎌倉時代の歌人の目に映った砥上ヶ原の植生は、クズが代表的だったと思われる。クズは現在でも鵠沼でわずかに自生が見られる。
 クズ(学名:Pueraria lobata (Willd.) Ohwi)は秋の七草に数えられるほどよく知られたマメ科のつる性の多年草。根からは良質の澱粉、葛粉が生産され、漢方の風邪薬として有名な葛根湯(かつこんとう)が作られる(原料の一部に過ぎないが)他、蔓を細工物に用いて篭などが編まれたり葛布(くずふ)が織られたりした。しかし、荒れ地にもよく繁茂し、他の植物を覆い被すマントル植物なので、きわめてやっかいな雑草として認識されている。元来東アジアから東南アジアが原産だが、欧米に持ち込まれて猛烈にはびこり、世界の侵略的外来種ワースト100 (IUCN, 2000) 選定種の一つとなっているほどだ。
 従って、クズの生い茂った土地というのは荒れ地であって、決して豊かな土地とはいえない。少なくとも鎌倉時代の鵠沼は貧しい荒れ野だったといえよう。
 西行没後の1186(文治2)年に編まれた『西行物語』には、西行が鎌倉に旅する途中砥上が原を通過、「芝まとふ…」の歌を詠んだその夕刻に次の歌を詠んだことになっている。但し、初出の「山家集」からは何処で詠んだ歌か推測できない。
 「こころなき身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮」
 寂蓮法師の「さびしさは…」、藤原定家の「見わたせば…」と共に『新古今和歌集』の「三夕(さんせき)」に選ばれる西行の代表作として知られる。
 この歌は大磯で詠まれたと信じて疑わない向きが案外多い。その根拠とされるのが17世紀の中頃に小田原の俳人崇雪(透頂香(とおちんこう)で知られる薬商外郎(ういらう)家主人)が五智如来の石仏を運んで草庵を結び「鴫立沢」の碑を立てたことによる。この「鴫立庵(でんりゆうあん)」には1765年に芭蕉の友人、大淀三千風(みちかぜ)が入庵して俳諧道場となった。
 しかし、この庵は西行没後500年を経て建てられたものだし、西行自身はどこで詠んだかを書き残していないので、明治時代、近代国文学が体系化されると、多くの国文学者の関心を引き、巷間でも様々な噂が飛び交った。
 明治大正期、鵠沼で活躍した小説家内藤千代子は、友人に「あ、西行てばねエ兄様、大磯に鴫立つ庵と云ふのが御座いますわねけれどほんとの鴫立つ澤は、この鵠沼のあたりだつたんですつて、屹度あの片瀬川の辺でヾもあつたのよ。昔はこゝらは大きな沼でね、その時分鵠の鳥つて鶴に似た大きな鳥が澤山おりてね、それで鵠沼といふんですとさ、現に池袋なんてとこがありますと。あら、松岡さんに聞いたのよ、事實さう言はれると大磯よりか此方の方が本場らしいわ。こんなに茫々したーねェ何百年か以前はきつとそんな沼だつたんでせうね。」と語っている。 池袋は川袋の勘違いだろう。
 また、大正末から昭和初期、鵠沼に住んだ一高校長で歌人・国文学者の杉 敏介は、筋向かいに住む教え子のP彌一と交流し、P家の下の沼沢地にシギが降り立つことを聞いて次の歌を詠んだ。
 P彌一君より今も砥上の川袋に鴫あまた降り立つ由を聞きて、西行の跡なめりと思ひて
 「砥上原いまも鴫立つ澤をおきて いづくに古き跡をたづねむ」
 この歌を紹介したP彌一の長女笑子氏は、「父はこの歌の碑を建てたかったのだろう」と述べておられる。
 内藤千代子も杉 敏介も、よりどころは『西行物語』と思われる。先述のように、これは西行没後に編まれたものだから、確証とする根拠には乏しい。
 「芝まとふ…」は砥上ヶ原とい具体的な地名が詠み込まれている。砥上ヶ原とはどの範囲かには諸説があるが、辻堂は八松(やつまつ)ヶ原(八的ヶ原とも)という呼び名があり、『源平盛衰記』や『平家物語』には砥上ヶ原と並記されているので、砥上ヶ原とは鵠沼、すなわち境川と引地川に挟まれた原野と考えたい。
 鎌倉時代の砥上ヶ原は、単なる砂原だけでなく、両側の河川の自由蛇行による湿原や三日月湖(河跡湖)が点在していたと思われる。万福寺の寺伝では、開基荒木源海上人は、鵠(くぐひ)の棲む池の一角を埋めて一宇を建てたとされるから、万福寺のあたりにも引地川の河跡湖があったことが想像できる。
 『鵠沼』85号の拙稿「川袋低湿地形成と蓮池の変遷(序説)」で考察しておいたように、湘南砂丘地帯形成史の上で最も陸化が遅れたのは、川袋低湿地と名付けておいた鵠沼藤が谷4丁目一帯である。『西行物語』の記述を信じるならば、このときの西行は鎌倉に向かっているわけだから、砥上ヶ原の歌を詠んだその夕刻に次の歌を詠んだということは、砥上ヶ原の鎌倉方向に半日行程のあたり、すなわち川袋低湿地で鴫立沢の歌を詠んだと筆者は睨んでいる。
 鴫というのは一種の生物ではなく、チドリ目シギ科の鳥の総称である。タシギ・イソシギ・ヤマシギ・アオシギなど種類が多いが、いずれも嘴・脚・趾などが長く、水辺に棲み、水棲の小動物を餌としている。西行が出会ったのは何という種の鴫かは特定できないが、出会った場所は沼沢地と考えるのが自然である。
 「沢」という漢字には丹沢の沢登りなどに使われるように山地の小流を指す用例と、沼沢地のように低湿地を指す用例とがある。鴫が群れたつのは無論後者である。大磯の鴫立庵付近には前者はあるが後者はない。
 鴫立庵に住んだ大淀三千風には次の歌がある。
 「鴫立ちし沢辺の庵をふきかへて、こころなき身の思ひ出にせん」
 この歌に詠み込まれた「沢」は、明らかに前者の用例である。鴫立庵は沢辺にあるが、海岸にもほど近く、浜辺に群れたつシギ科の鳥もあるから、大磯で詠まれたことは絶対にあり得ないとはいいきれないが、かなり不自然である。
 さて、これまで紹介した鎌倉時代の歌人が砥上ヶ原を詠んだ歌では無人の荒野しか連想できないが、多少なりとも人の姿が想像される歌が一首ある。
 鎌倉三代将軍源 實朝が1213(建保元)年編んだ『金槐和歌集』に
 鳥狩しに、砥上が原といふ所に出で侍りし時、荒れたる庵の前に蘭咲けるを見てよめる
 「秋風になに匂ふらむ藤袴 主はふりにし宿と知らずや」
 とあるのがそれだ。「蘭」というとカトレアやクゲヌマランを連想するが、鎌倉時代の蘭はフジバカマ(学名:Eupatorium fortunei)を指したらしい。庵の前に咲いているのだから、野生ではなく人為的に植栽されたものかもしれないが、いずれにせよ余り派手な花ではない。かつては鵠沼にも自生が見られたのだろうが、『鵠沼』1号の伊藤 昌氏の「昭和18〜20年頃の鵠沼の花々」にも、8〜9号の伊藤節堂氏の「鵠沼の野草(その1〜3)」にもフジバカマの記録はない。筆者の記憶も不明確である(拙宅にはプランターに植栽してあるが)。少なくとも現在の鵠沼では顕著な分布は認められない。
 これまで見てきたように、鎌倉時代の歌人に詠まれた砥上ヶ原の歌は、残念ながらここ鵠沼に歌碑などが建てられた形跡がない。先述のように鵠沼以外の場所には歌碑が建てられている。そのため、歌碑のある場所でその歌が詠まれという誤った認識が広まっていることは、問題といわざるを得ない。
 筆者の夢は、砥上ヶ原の名残が忍ばれる一角にクズとフジバカマを植えた小公園を造り、そこにこれらの歌(杉 敏介の歌を含んで)を刻んだ歌碑と解説板を建てることである。それにふさわしい場所としては、「第一蓮池」の西に隣接する一角を推薦したい。もっとも、クズが外にはびこらない工夫が必要だが。
 
鵠沼の風物詩となった外来種  オオマツヨイグサ オオキンケイギク
 先に紹介した会誌『鵠沼』第3号に川上清康氏が寄せた「私と鵠沼」の中にもすでに月見草が紹介されている。
 鵠沼は開港地ヨコハマから近いために、外来種がはびこるスピードが速い場所だが、砂地という養分が少なく保水力のない場所で、塩害を受けやすいこともあり、そこで繁殖できる生物の種には制限がある。そういった悪条件に打ち勝って繁殖する種は、ある意味でやっかいな種でもある。
 月見草というのは、ツキミソウ(学名:Oenothera tetraptera)という標準和名の種(滅多に見られない)ではなく、オオマツヨイグサ(学名:Oenothera erythrosepala)を指す場合が多い。大正時代、竹久夢二が作詞した『宵待草』(作曲:多 忠亮)が流行し、ヨイマチグサの別名も生まれた。昭和に入ると『月見草の花』という童謡(作詞:山川 清、作曲:山本雅之)が作られ、鵠沼在住の井口小夜子によりレコード化された。
 マツヨイグサとはアカバナ科マツヨイグサ属(学名:Oenothera)全体を指す場合と同属に含まれるマツヨイグサ(学名:Oenothera stricta)という種を指す場合とがある。いずれもアメリカ大陸原産の外来種である。種としてのマツヨイグサも月見草と呼ばれることがあるが、やはりオオマツヨイグサを指すと考えたい。
 オオマツヨイグサは人の背丈ほどにもなる大型の草で、レモンイエローの径約7cmの大きな花を日が落ちてから咲かせる。花は一晩でしおれるが、次々に咲くので長期間楽しめる。独特の芳香があり、開花の時にかすかな音を立てる。
 砂丘や河原のような乾燥の激しい場所でも良く生育し、目立つので、鵠沼の風物詩として文学作品にも登場した。
 ところが、このオオマツヨイグサの姿を近頃鵠沼ではとんと見かけない。種としてのマツヨイグサも同様である。これは全国的な傾向のようで、インターネットで検索すると、理学部や農学部の学生が卒業論文のテーマに採り上げている例が複数見つかった。拙宅の庭でもいつの間にか絶滅し、これに代わってメマツヨイグサ(別名:アレチマツヨイグサ、学名:Oenothera biennis)が出現した。
 マツヨイグサ属で健在なのがコマツヨイグサ(学名:Oenothera laciniata)である。名のように小さいだけでなく茎は地上を匍匐する。潮風にも強いらしく、浜辺近くの砂防林の外側でも、ハマヒルガオ(学名:Calystegia soldanella (L.) Roem. et Schult.)やコウボウムギ(学名:Carex kobomugi)と肩を並べて繁茂している。
 近年鵠沼でも園芸種として一般化し、逸出して野生化しているのが白花で縁が赤っぽくなるヒルザキツキミソウ(学名:Oenothera speciosa)だ。名のごとく夜咲くのではなく、昼間でも開花している。
 健在の外来種で鵠沼の風物詩といえそうなのがキク科のオオキンケイギク(学名:Coreopsis lanceolata)である。明治時代に鑑賞目的で北米から導入されたが、繁殖力が強く、たちまち野生化した。
 鵠沼でも至る所で見かけるが、最も分布が顕著なのが小田急線沿い、ことに鵠沼海岸1丁目付近である。
 このオオキンケイギクは、強い繁殖力で在来植物を駆逐してしまうため、日本の生態系に重大な影響を及ぼすおそれがあるとして、2006年2月1日より特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律(外来生物法)の指定第二次指定種に指定され、栽培や運搬、販売などが禁止されるようになった。違反すると処罰されるので要注意。
 1978(昭和53)年夏、鵠沼海岸4丁目から辻堂東海岸にかけての自転車道路沿いで外来寄生植物のアメリカネナシカズラ(学名:Cuscuta campestris Yuncker)が繁殖。9月22日の神奈川新聞「私の意見」欄に鵠沼を語る会の伊藤節堂会員が投稿して話題になった。鮮やかな黄色の蔓だけで葉はなく、海岸に生えたハマヒルガオやハマエンドウ(学名:Lathyrus japonicus)に絡みついて寄生する黄色い蔓で、ヒルガオ科だが、とてもヒルガオとは思えない小さな花をつける。海岸の乏しい生態系にダメージを与えるため、早速処分されて、現在はほとんど見かけない。
 
鵠沼といえば松 クロマツ ショウロ クゲヌマラン ハマボウフウ
 郷土資料展示室の仕事をしていると、小学校から老人会まで様々な団体に鵠沼について解説する機会がある。ある時「太陽の家」の目の不自由な方々にお話をする機会があった。目の不自由な方は鵠沼をどのように感じるのだろうか。解説の準備のためいろいろ思い巡らしているとき、ふとあることに気づいた。いわゆる「五感」のうち視覚に障害がある場合、他の「四感」をフル稼働して障害を補うことだろう。中でも聴覚は最も重要ではなかろうか。鵠沼の特色を聴覚で知る場合、何が最も適切か。鵠沼らしい音、それは何だろう。
 大正時代、鵠沼に住んだ小説家島田清次郎が詠んだ次の歌がある。
 「鵠沼は淋しい海辺 松風と 波の音ばかり 訪ふ人もなし」
 この歌を紹介しようと思って、「松風」という言葉はあるが、他の植物の名に風の字を加えた二字熟語はなかなか見当たらないと気づいたのである。「松風」の語はすでに『万葉集』にも詠まれ、『源氏物語』の段にも用いられているし、能にも『松風』がある。もっともこれは女性の名だが。
 大正初期に鵠沼に住んだ哲学者、和辻哲郎の随筆集に『松風の音』がある。
 また、芥川龍之介が鵠沼に幽棲する谷崎潤一郎を訪ねたときの句に
 「松風や 紅提燈も 秋隣」
というのがある。しかし、鵠沼に住むようになると龍之介にとって松風が恐ろしい存在になった。『鵠沼雑記』に次の件(くだり)がある。
 「僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴は何ともない。僕はをととひも二三匹の犬が吠え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団をかぶるか、妻のゐる次の間へ避難してしまふ。」
 一方、鵠沼の松をこよなく愛した人物に歌人與謝野晶子がいる。
 「鵠沼の松の間に来てあそぶ 波かと見ゆる春の雪かな」1920.3 東家にて
 「鵠沼の碧瀾荘をおとずれて 松とある日の春の夕かぜ」1930.4 碧瀾荘にて
 「たそがれの露台に立てば悲しくも 海より深き松原の見ゆ」同上
 「三月や墨紫の松原の 十四五町のよひやみのいろ」1939.3 鵠沼ホテルにて
 「鵠沼はひろく豊かに松林 伏し春の海下にとどろく」1939.3 鵠沼海岸にて
 「春の夜の星より高くさしかはす 松の枝がちの浜の宿かな」同上
 「鵠沼の花もあらざる満目の 松の間にうぐいすの啼く」同上
 このときのウグイスの声は、死の半年前、晶子の病床に届くのである。
 「鵠沼の松の敷波ながめつつ 我は師走の鶯を聞く」1941.12 病床にて
 晶子の愛した鵠沼の松は、おそらく明治後半になってから鵠沼海岸別荘地の開発によって植栽されたもので、歴史は浅い。1882(明治15)年に測量された地形図を読むと、砂丘上にしか松林(針葉樹林記号)は見られない。現在「鵠沼松が岡」などという住居表示がつけられた一帯は、ほとんど不毛の砂原で無人地帯だったのである。
 しかし、「本村」と呼ばれた鵠沼北西部では、松林は屋敷林としても一般的だった。『鵠沼』98号の拙文で紹介した森 志げ女が『青鞜』創刊号に寄稿した『死の家』には、「松の木の多い鵠沼村でも、此松は優れて大きく高いので、乳母は自慢してゐたのである。」と出てくる。
 海岸沿いのクロマツ砂防林は、大正関東地震の際に起こったフィリピン海プレートの跳ね上がりによる鵠沼海岸で90cm程度の地盤隆起に伴う海退で砂浜の面積が拡がり、飛砂の害が増えたことによる。1928(昭和3)年の神奈川県による昭和天皇御大典記念事業の一つとして大規模な魚附海岸砂防林造成が行われた。その後、湘南遊歩道路(県道片瀬大磯線→国道134号)が敷設され、観光地開発が進められた。ところが、戦時中にクロマツが資源として注目され、松根油(しようこんゆ)採取のための伐根、燃料用の盗伐が行われ、飛砂の堆積により湘南遊歩道路が通行不能になるほどだった。この状態は敗戦後間もなく駐留米海軍の重機を用いた作業により短期間で復旧し、県は茅ヶ崎にあった海岸砂防事務所を鵠沼に移し、湘南砂防事務所と改名して活動を再開した。
 1959(昭和34)年には皇太子殿下御成婚記念植樹も加えられたが1961(昭和36)年の第2室戸台風、1966(昭和41)年の26号台風による強風や潮風、さらにこの間の異常乾燥やマツノザイセンチュウ(学名:Bursaphelenchus xylophilus (Steiner & Buhrer) Nickle)によって、国道の南側を中心に壊滅的な被害を受けた。
 鵠沼に見られる松(二葉松)はクロマツ(学名:Pinus thunbergii)である。本州に分布する二葉松には他にアカマツ(学名:Pinus densiflora)があるが、海岸から20km程度内陸に入らないと自生が見られない。クロマツは1970(昭和45)年10月1日藤沢市の市の木に制定された。また、湘南海岸は日本の松の緑を守る会から1987(昭和62)年「日本の白砂青松100選」に選ばれ、湘南海岸のマツ林は神奈川県環境農政部森林課から1989(平成元)年「かながわの美林50選」に選ばれている。
 戦後もしばらくは、篭を背負い熊手を持って松林に松葉掻きに行く光景が見られた。竈や風呂の燃料にするのである。松葉は油分が多く、火力はあるが煤がつきやすいのでやっかいだった。都市ガスの普及と共に松葉掻きの光景は消えた。松葉掻きの光景が消えたことによって消えたのがショウロ(学名:Rhizopogon rubescens)である。腹菌亜綱イグチ目ショウロ科に属するキノコで、小さいジャガイモのような子実体は春と秋、海岸などのクロマツ林の幹から少し離れた地上に、環状に砂に埋もれた状態で発生する。松の枝先から落ちた露から生じたように見えることから松露と名付けられたという説がある。独特の芳香があり、高級食材として珍重された。拙宅の庭でも、1950年までは採集できた記憶がある。この年に東京に一時転居し、3年半後に戻ったら消えていた。湘南砂丘地帯の特産物として、辻堂駅の開業当時、ハマボウフウ(学名:Glehnia littoralis)と共にホームで売られたと聞く。ハマボウフウも一時姿を消し、1979(昭和54)年4月17日に伊藤節堂会員が鵠沼海岸のサイクリング道路で再発見したことが『鵠沼』9号に紹介されている。現在、辻堂の愛好者団体「湘南みちくさクラブ」が復活に熱心に取り組み、成果を得ている。藤沢宿の老舗和菓子店「豊島屋本店」では、銘菓「浜防風」が参勤交代の土産として有名で、ショウロの香りを生かした「松露羊羹」は、1914(大正3)年の大正博覧会や1922(大正11)年の平和博覧会などで金牌を獲得、葉山御用邸御用達となった。これらは現在でも製造販売されている(「浜防風」は注文生産)。
 鵠沼のクロマツ林に生える食用キノコとしては、ハツタケ(学名: Lactarius hatsudake)、アカハツ(学名: Lactarius akahatsu)も記録されているが、筆者は認識していない。マツタケ(学名:Tricholoma matsutakeS.Ito et Imai Sing.)は主にアカマツ林に生えるため、残念ながら鵠沼にはない。
 クロマツ林の生態系は、かなり様々な制約が加わるため下草は貧弱で種類も限られる。そうした中でラン科ではハマカキラン(学名:Epipactis papillosa var. sayekiana )とクゲヌマラン(学名:Cephalanthera erecta var.shizuoi )がほぼ同様の環境下で生育する。ことにクゲヌマランは、標準和名に鵠沼がついた唯一の生物なので、鵠沼を語る会の諸先輩が熱心に取り組んでこられた。会誌『鵠沼』の16、88、93の各号に詳細な成果が掲載されている。塩澤、諏訪、番場各氏による「再発見」は辻堂地区だったが、現在は鵠沼地区内でも自生が確認されている。
 1989(平成元)年に架け替え工事が完成した境川「境橋」(江ノ電鵠沼駅東方)の欄干にはクゲヌマランのレリーフが飾られている。
 
源海上人とぐみ アキグミ
 北原白秋作詞による名歌(中山晋平と山田耕筰が曲をつけている)に『砂山』がある。「向こうは佐渡よ」の歌詞で判るように、旧信濃川河口付近の寄居砂丘の風景を詠ったものだ。3番の歌詞に「かへろかへろよ、茱萸(ぐみ)原わけて」と出てくる。グミ科グミ属には国内に自生する種が16種(亜種を含めると26種)報告されているが、海岸砂丘に自生する種としてはアキグミ(学名:Elaeagnus umbellata)が考えられる。寄居砂丘では明治初期に砂防のためにアキグミを植栽したとあるから、茱萸原わけてと詠むほど繁茂していたのであろう。
 鵠沼をはじめとする湘南砂丘地帯では、茱萸原わけてという風景は見られなかった。あまりアキグミの自生も記憶に残るほどのものはないようだ。さほど気にするようなことではないが、先日万福寺の荒木良正老師(語る会会員)が『藤沢史談』第十号に寄せた「万福寺をめぐる伝説」の中に次の文があるのに出会った。
 「源海上人とぐみの木―源海上人が師命を奉じ、高田の専空上人と共に、立川流の邪義を破すべく、奥州に下向した時、砥上ヶ原でぐみの木の枝で目を突き刺し、ひどく悩んだことがあった。後に上人は、「わが門徒たらん者は、忘れてもぐみの木を植えるな」と誡めたので、鵠沼付近ではぐみの木を植える者はなく、また、植えても育たないそうだ。」
 源海上人とは、前項でも若干触れた万福寺の開基荒木源海のことである。源海は藤原鎌足の末孫で俗姓日野真夏11世安藤駿河守隆光と称する武蔵国豊島郡荒木村(現・埼玉県行田市)を領する鎌倉時代の坂東武者で、武州児玉党の随一といわれていた。隆光は二児が同時に死去したのに落胆し出家し、常陸笠間の稲田の草庵に親鸞を訪ねて、直弟子となったという。1245(寛元3)年故郷へと志したとき、聖人の形見として、聖徳太子自作といわれる太子像(木像)を譲られた。帰りの途中江の島の岩屋に参篭し、夜の波間に浮遊する光るものを取り上げ、立像の阿弥陀如来を感得したとされる。霊場をもとめて砥上ヶ原にきた源海は、鵠(クグヒ・白鳥)の棲む沼地の一方を埋めて、一宇を創立し鵠沼山万福寺と号し、かの尊像阿弥陀如来を安置し、開基創建したと語り継がれている。後に関東六老僧の一人に算えられた。
 さて、前項でも触れたように1960年代湘南海岸のクロマツ砂防林は、度重なる台風、異常乾燥や虫害によりかなりのダメージを受けた。1983(昭和58)年から神奈川県藤沢土木事務所は、横浜国大宮脇教授の指導により常緑広葉樹をクロマツの下や南側、混交密植を開始し、全国初の例として成功した。これに用いられた常緑広葉樹がアキグミ、ウバメガシ、スダジイ、モチノキ、タブノキ、ヒメユズリハ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、ヤマモモ、カクレミノ、ネズミモチ、トベラ、マサキ、シャリンバイの計15種である。源海上人はこれをどう見るだろうか。
 
蓮池の絶滅危惧種と外来種 ウシガエル アメリカザリガニ デンジソウ アゾラ
 川袋低湿地と蓮池の形成史については、『鵠沼』85号の拙稿で述べたが、生物相について若干補足しておきたい。
 ここは、今や砂丘地帯の中の水辺の自然を垣間見ることができる貴重な場所である。高度経済成長期に入る頃、一時粗大ゴミ捨て場状態になり、これに心を傷めた方々は、定期的に池の清掃を行うと共に、市当局に公園の開設を働きかけた。この間の事情は『鵠沼』85号に桑原玲子会員が報告されているし、その後の事情は『鵠沼』98号に吉田敏平氏が述べられている。吉田敏平氏はこの運動を終始リードされ、現在も「ハス池の自然を愛する会」の代表者として活躍しておられる。この時のお話を機に鵠沼を語る会にも加わられた。
 さて、蓮池を訪れると、ウシガエルの不気味な鳴き声に驚かされることがある。子どもたちがマッカチン(アメリカザリガニ)採りに興じる姿もよく見かける。しかし、ウシガエルもアメリカザリガニも北米生まれの外来種である。これらがこの池に出現した歴史は案外古い。
 それは1938(昭和13)年7月に遡る。一般的に知られる経緯は次のようなものだ。
 ウシガエル(学名:Rana catesbeiana 、英名:BulI Frog )は北アメリカ原産の大型のカエルで、高級食材に利用されたため「食用蛙」の別名で知られる。
 これが日本に入ったのは1918(大正7)年4月18日、東京帝大の渡瀬庄三郎教授が米国ルイジアナ州ニューオリンズから12つがい24匹を輸入したのが最初とされる。輸入したウシガエルは芝白金の東京帝大附属伝染病研究所の池に放養し、卵を得た。飼育に携わったのは、河野卯三郎助手らである。翌年秋には数百匹に増え、1920年9月、農商務省菖蒲嘱託からの懇請により、これを茨城県と滋賀県の両水産試験場に分譲した。以来、国指導の副業奨励事業として養蛙が全国的に普及した。
 1920(大正9)年、横浜で七宝焼などの貴金属貿易商を営んでいた河野芳之助が、弟の河野卯三郎助手を通してウシガエルを入手し、卯三郎の県立横浜第一中学校(現、横浜希望ヶ丘高校)の同期生だった鎌倉郡小坂(おさか)村岩瀬(現鎌倉市岩瀬)の素封家・栗田繁芳から水田を借用し、民間初の「鎌倉食用蛙養殖場」を開設した。
 かくして鎌倉養殖場は米国ニューオリンズのSouthern Biological Supply社から種蛙を直接輸入し、国内はもちろんのこと、遠く北米にまでThe Kamakura BulI Frog Farmとして知られるようになった。その分譲した蛙は、北は樺太から南は台湾にいたるまでの全県にわたり養殖されたという。
 だが、生きた昆虫や魚を食べる食用ガエルの餌の確保は難題だった。そんな中、鎌倉食用蛙養殖場を経営する河野芳之助は、1927(昭和2)年3月初旬横浜発の春洋丸で渡米し、ウシガエルの餌としてアメリカザリガニ(学名:Procambarus clarkii 、英名:Red swamp crawfish)が用いられていることを知る。早速、ウシガエルと共にアメリカザリガニ100匹を入手し、ビヤ樽に詰めて1927(昭和2)年5月12日横浜入港の大洋丸で帰国し、早速鎌倉食用蛙養殖場に持ち帰ったが、ザリガニはわずか20匹になっていたという。余談だが、この日本上陸にちなんで5月12日を「ザリガニの日」として登録した団体があるらしい。
 鎌倉食用蛙養殖場で増殖されたウシガエルは、欧米諸国にかなり高値で輸出されたという。国内需要は期待ほどは伸びなかったが、高級料理店などに販売された。ところが1929(昭和4)年に始まる世界恐慌で輸出が急激に落ち込み、さらに日本の軍国化に伴う国際的な経済封鎖により完全に行き詰まった。養殖場の閉鎖が何年かは明確ではないが、その前後から逸出したウシガエルやアメリカザリガニは、養殖場脇を流れる砂押川を経て、下流の大船の水田地帯に拡がった。
※参考・引用文献=酒向 昇:「食用蛙とアメリカザリガニ―その渡来年をめぐって―」『採集と飼育』第49巻第9号
 1938(昭和13)年7月2日、梅雨明けの集中豪雨が神奈川県東部を襲った。鵠沼で育った75歳以上の方ならば記憶に残っているであろう最大の豪雨である。氾濫した境川の水は川袋低湿地全面を覆い尽くした。この氾濫水により大船の水田地帯のウシガエルやアメリカザリガニが柏尾川を経て流れ込み、川袋低湿地に居着いたのである。鵠沼ではこの年からウシガエルの鳴き声を聞くようになった。
 その後、鎌倉食用蛙養殖場跡地はもとの水田に戻ったが、そこに1979(昭和54)年3月12日に「いわせ下関青少年広場」が開設された。一時期「アメリカザリガニ発祥の地」なる看板が立てられていたが、今は見られない。大船の水田地帯をはじめ、柏尾川、境川下流部の水田地帯も1980年頃までに姿を消したため、鎌倉食用蛙養殖場から逸出したウシガエルやアメリカザリガニが生存するのは、川袋低湿地に残る蓮池と呼ばれる二つの池だけになったのである。
 アメリカザリガニは子どもたちの釣りや飼育の対象となったせいか、その後瞬く間に全国に生息範囲が拡大した。DNA鑑定が行われるようになった結果、宮崎県のザリガニが神奈川県から伝来したことが判明したそうである。
 ウシガエルは2006(平成18)年、外来生物法により特定外来生物に指定され、世界の侵略的外来種ワースト100にも指定されている。
 これら2種の外来種が70年以上も生息し続けてきた蓮池の生態系は、かなりアンバランスで不安定なものと考えられる。自動車道路に面するため、単に粗大ゴミ捨て場化したのみならず、様々な生物のゴミ捨て場にもなってきた。ここ数年、ハス池の自然を愛する会、藤沢メダカの学校をつくる会、藤沢市教育文化センター、日本大学生物資源科学部などが生態調査を行ってきたが、きわめて不安定な調査結果が報告されている。これまでにアフリカツメガエル(学名:Xenopus laevis)、グッピー(学名:Poecilia reticulata)、ブルーギル(学名:Lepomis macrochirus)、キンギョ、錦鯉など、思いもよらぬ生物が発見されているが、ウシガエルとアメリカザリガニ以外はいずれも短期間で消滅している。在来種と思われるギンブナ(学名:Carassius langsdorfii)、モツゴ(学名:Pseudorasbora parva)、ドジョウ(学名:Misgurnus anguillicaudatus)、マルタニシ(学名:Cipangopaludina chinensis laeta. )、メダカ(学名:Oryzias latipes)などはかなり変動があるものの年々減り続け、これに代わって近年はミナミヌマエビ(学名:Neocaridina denticulata denticulata )が増加する傾向が見られる。
 桜小路公園が開設され、植栽の管理が行われると、一時姿を消していた鳥類、昆虫類が戻ってきた。カルガモ(学名:Anas poecilorhyncha)、コサギ(学名:Egretta garzetta)、コヨシキリ(学名:Acrocephalus bistrigiceps)、カワセミ(学名:Alcedo atthis)が姿を見せるようになった。ギンヤンマ(学名:Anax parthenope)、オニヤンマ(学名:Anotogaster sieboldii )も増えた。
 植生の面でも、湘南砂丘地帯でおそらく唯一残された自然形成に起源を持つ(あまりにも人工の手が加えられ過ぎたため、河跡湖とは言い難い)池沼であり、ヨシ(学名:Phragmites communis)やコガマ(学名:Typha latifolia)に加えてタコノアシ(学名:Penthorum chinense)の自生もわずかに認められる。
 デンジソウ(学名:Marsilea quadrifolia L. )は、4枚の小葉が葉柄の先に十字状につく水生のシダ植物で、北海道(極稀)、本州、四国、九州、奄美大島に分布。神奈川県では小田原市・秦野市や中井町の一部を除いて、他の区域では見られなくなっている。1969(昭和44)年、鵠沼藤が谷の蓮池で自生が発見され、湘南砂丘地帯唯一の自生地であるとして話題になった。1995(平成7)年発行の『神奈川県レッドリスト生物調査報告書』に「シダ植物のデンジソウは昭和50年(1975)までは鵠沼女子高校の裏手の湿地に生えていたが、ここも埋め立てられて失われた。」とあり環境省:絶滅危惧II類(VU) 神奈川県:絶滅危惧種(En)に指定されている。蓮池のデンジソウは、絶滅寸前に地元の植物愛好家の手で保護され、現在神奈川県立フラワーセンター大船植物園などで保護・繁殖が続けられている。
 和名は葉の形が漢字の〈田〉の字を連想されるからとされるが、中国でも〈田字草〉であり、中国名が先である可能性もある。シンプルな形は家紋のデザインにも採用されており、この家紋を持つ名家=四条家(公家(くげ))は、明治末期鵠沼に別荘を持っていた。
 環境省:絶滅危惧II類 神奈川県:減少種(X)に指定されたオオアカウキクサ(学名:Azolla japonica Franch. et Savat)は、蓮池をはじめ藤沢市内の水田や池沼ではしばらく見かけなかったが、2006年になって再生が認められたと思われた。Azolla属は世界で数種、日本の在来種は2種報告されているが、いずれも酷似していて素人には同定が難しい。在来種は繁殖力が弱く、絶滅危惧種に指定されるまで減少した。ところが、合鴨を活用したアゾラ農法などで持ち込まれた外来種は繁殖力が強く、たちまち水面を覆い尽くしてしまう。
 2006年には鵠沼高校よりの通称「第一蓮池」だけに見られたが、2008年になって、これが桜小路公園の「第二蓮池」の全面を覆い、新聞にも掲載されるほどになった。専門家の調査により、これは特定外来生物の第二次指定対象種アメリカオオアカウキクサ(アゾラ・クリスタタ 学名:Azolla cristata Kaulf.)だということが判明した。これと前後して全国各地の池沼や城の濠などが赤く染まる現象が次々に報道され問題化した。
 蓮池では「ハス池の自然を愛する会」や「KFP鵠中おやじの会」などがアゾラ除去に熱心に取り組み、かなり減少させることに成功した。
 今年7月24日、ハス池の自然を愛する会と藤沢合唱団の共催で、蓮池の自然を題材にした合唱曲を発表する「はす池・コーラスの集い(2010)」が開催された。
 
鵠沼枝額蟲とは ホウネンエビ
 インターネットの検索エンジンは現代文明の利器である。
 『鵠沼』86号の拙文で、杉原千畝にヴィザを発行されて、無事にイスラエルにたどり着いたユダヤ人2139人のデータベースに「KUGENUMA」という苗字の人物が2組4名もいるという検索結果のサプライズを紹介した。
 筆者は日常的に「鵠沼」をキーワードに検索をする機会が多い。幸いなことに全国を探してみても藤沢市鵠沼地区以外に鵠沼と名のつく地名はない。
 ところが中国および台湾のサイトで鵠沼に出くわして驚かされる。中国では「聶耳終焉の地」を紹介したものが含まれるが、多くは鵠沼枝額蟲を紹介したものである。これはホウネンエビの学名Branchinella kugenumaensisを中国語訳したもので、「學名為Branchinella kugenumaensis,又稱為豐年蝦或仙女蝦,正式名稱為鵠沼枝額蟲。是由石川千代松博士在1895年以發現地神奈川縣鵠沼村來命名發表」などと出てくる。この命名については伊藤 聖氏が『鵠沼』77・78号で報告されているので参照されたい。               
 (わたなべ りょう)
オオキンケイギク
日本への侵入は明治初期という。乾燥した砂地にもよく育ち、庭園にも栽培される。鵠沼海岸一丁目で。 
 二〇〇四年に制定された外来生物法で特定外来生物に指定された生物のうち、鵠沼で問題化した例。 
























 
ウシガエル
巨大なオタマジャクシは容易に見ることができるが、親は鳴き声ばかりで、姿を見つけるのは困難。
アゾラ・クリスタタ
二〇〇八年、蓮池の水面を埋め尽くして人々を驚かせた。熱心に駆除が取り組まれ、ほぼ根絶できた。