鵠沼に居住した著名人(物故者)動静一覧 ■居住地の地図■ | ||||||||
文化人氏名 | 分野 | 生没年 | 動静 | 西暦 | 月 | 日 | 記 事 | 出 典 |
赤木圭一郎 | 映画俳優 | (1939-1962) | 転入 | 1952 | 鵠沼藤が谷4-19-29に居住 | WEBsite | ||
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あかぎ けいいちろう | 転出 | 1959 | 鵠沼藤が谷4-19-29から転出 | WEBsite | |||
日活アクションスター。活躍中にゴーカートの事故で夭折し、日本のジェームズ=ディーンの異名が生まれた。本名 赤塚親弘 ニックネーム、「トニー」。 1952年鎌倉から鵠沼に転居、湘南学園小学校に転校する。栄光学園中学、鎌倉高校を経て成城大学文学部卒。1958年8月、日活第4期ニューフェースとして映画界に入る。1959年4月、「拳銃0号」でデビューを果たす。「35年度新人賞」を受賞。 | 年譜 | |||||||
芥川比呂志 | 新劇俳優 | (1920-1981) | 転入 | 1945 | 冬 | 家族が田端から下鰯5501(鵠沼海岸3-11-5)に疎開(本人は出征中) | WEBsite | |
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あくたがわ ひろし | 転出 | 1949 | ? | 鵠沼海岸3-11-5から東京上目黒に転居 | 鵠沼83号 | ||
俳優・演出家・随筆家。東京生れ。芥川龍之介の長男。慶応義塾大学仏文科卒業。1948(昭和23)文学座に参加。 本人出征中に家族が母の実家に疎開。復員後しばらく鵠沼居住中に林達夫らの主催する湘南アカデミーに協力し、チェーホフの『熊』などを上演している。墓所は巣鴨慈眼寺 |
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芥川也寸志 | 作曲家 | (1925-1989) | 転入 | 1926 | 7 | 20 | 東屋近くの貸家「イ-4号(鵠沼海岸2-7-2」に転居 | |
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あくたがわ やすし | 転出 | 1927 | 4 | 2 | 鵠沼を去り、田端に転居 | ||
転入 | 1945 | 8 | 16 | 鵠沼下鰯5501(鵠沼海岸3-11-5)の母の実家に転居 | WEBsite | |||
転出 | 1948 | 2 | 結婚し、鵠沼を去る? | WEBsite | ||||
戦後活躍した作曲家。1949年東京音楽学校研究科卒業。1953年に、同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨とともに「三人の会」を結成。オーケストラ作品を次々と発表し、戦後の音楽界をリードした。代表作=『交響管絃楽のための音楽』ほか。多くの映画音楽を作曲。芥川龍之介の三男。幼少時に東屋の貸家「イ−4号」に住んだこともある。戦時中に母と共に母の実家に疎開し、結婚を機に鵠沼を去った。墓所は巣鴨慈眼寺 | ||||||||
芥川龍之介 | 小説家 | (1892-1927) | 転入 | 1926 | 7 | 上 | 東屋に滞在。小品『鵠沼雑記』を執筆(没後発表) | 鵠沼82号 |
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あくたがわ りゅうのすけ | 移動 | 1926 | 7 | 20 | 妻と三男也寸志をともなって東屋近くの貸家「イ-4号(鵠沼海岸2-7-2」に転居 | 鵠沼5・15・78・82号 | |
移動 | 1926 | 9 | 20 | 柴さんの二階家(鵠沼海岸2-7-18)に移る[富士山]※10月説も | 鵠沼15・78号 | |||
移動 | 1926 | 12 | 30 | 〜1927/4/2、再び「イ-4号」(鵠沼海岸2-7-2)に戻る | 鵠沼82号 | |||
転出 | 1927 | 4 | 2 | 鵠沼を去り、田端に転居→7/24自殺 | 鵠沼78・82号 | |||
大正時代の小説家。1892(明治25)年3月1日、新原敏三、フクの長男として東京で誕生。辰年辰月辰日辰刻に誕生したため、龍之介と名付けられた。東京帝国大学英文科卒業。妻=文の実家別荘のあった鵠沼にはしばしば訪れ、旅館=東屋に滞在 1926年夏から翌年春にかけて東屋の貸別荘=イ−4号などに住んだ。鵠沼を題材にした作品に「蜃気楼」「歯車」「鵠沼雑記」「死後」がある。墓所は巣鴨慈眼寺 |
年譜 | |||||||
阿部 昭 | 小説家 | (1934-1989) | 転入 | 1935 | 12 | 広島市から下鰯(鵠沼海岸3丁目)に転居 | 鵠沼55・63号 | |
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あべ あきら | 移動 | 1953 | 8 | 鵠沼松が岡5-3-20に転居 | WEBsite | ||
墓所:本眞寺 | 転出 | 1971 | ? | TBSを辞職。鵠沼松が岡5-3-20から辻堂東海岸に転居 | WEBsite | |||
幼少時から鵠沼に住み、乃木女学校(白百合)幼稚園→第一国民学校(藤沢小)→第一中学→湘南高校を経て1959年、東大仏文科を卒業し、ラジオ東京(現在のTBS)に入社。ラジオ、テレビのディレクターとして活躍する一方、創作をつづけ、1962年、「子供部屋」で「文學界」新人賞を受賞し、デビューする。1973年の『千年』で毎日出版文化賞、1976年の『人生の一日』で藝術選奨新人賞を受ける。『鵠沼西海岸』など鵠沼を題材にした作品も多い。 | 年譜 | |||||||
阿部 次郎 | 小説家 | (1883-1959) | 転入 | 1914 | 4 | 30 | 和辻哲郎の斡旋で単身で鵠沼中藤ヶ谷(藤が谷2-4)高瀬邸の離れに居住。出入りを繰り返す | 個性きらめく |
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あべ じろう | 転出 | 1915 | 5 | 鵠沼中藤ヶ谷P邸の離れを去る | 個性きらめく | ||
美学者,哲学者,評論家。山形県生れ。庄内中学→山形中学→京北中学(東京)に転校、一高から東京帝国大学哲学科に入学。ケーベル博士・夏目漱石から深い影響を受け、1914年『三太郎の日記』出版。翌年『三太郎の日記第二』が続き、1918年には『合本・三太郎の日記』が出る。この頃中藤ヶ谷の瀬邸内にしばしば滞在、出入りを繰り返す。安倍能成・和辻哲郎らと親交を結ぶが、和辻夫人照に横恋慕し、和辻と絶交。1922年、文部省在外研究委員としてヨーロッパ留学、帰国後東北帝国大学教授となり、1945年定年退官。退官後は、体系的な日本文化研究を計画し、1954年「阿部日本文化研究所」を設立したが、1959年脳軟化症のため東大附属病院にて死去した。 | ||||||||
安倍 能成 | 哲学者 | (1883-1966) | 転入 | 1916 | 3 | 和辻哲郎の薦めで、鵠沼中藤ヶ谷7200(藤が谷2-4) 高瀬邸内に居住 | 個性きらめく | |
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あべ よししげ | 転出 | 1918 | 3 | 鵠沼を去る | WEBsite | ||
転入 | 1944 | ? | 鵠沼海岸1-5-12に居住 | 聞き書き | ||||
死去 | 1966 | 死去した時点で鵠沼在住かは不明 | 聞き書き | |||||
教育者・評論家・哲学者。愛媛県松山市生れ。 東京帝国大学(現東京大学)で哲学を学んだ後、慶應義塾大学・法政大学・第一高等学校などの講師を歴任。この頃中藤ヶ谷の瀬邸内に住み、「大正教養主義」の中核となった。その後ヨーロッパへ留学し、帰国後、京城大学教授・同法文学部長・第一高等学校長を歴任。戦時中鵠沼海岸に疎開した。幣原喜重郎内閣で文部大臣に就任し、戦後の文部行政の刷新を図った。その後、帝室博物館長・学習院院長を兼務した。平和主義に徹したリベラリストとして活躍。『カントの実践哲学』、『西洋古代中世哲学史』をはじめ、読売文学賞を受けた『岩波茂雄傳』、そのほか『戦後の自叙傳』など、多くの著書がある。 | ||||||||
天野芳太郎 | 考古学者 | (1898-1982) | 転入 | 1942 | ? | 戦時中捕虜交換船で一時帰国し、現鵠沼橘1-10-15に居住 | 鵠沼断想 | |
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あまの よしたろう | 転出 | 1951 | 2 | 鵠沼を去り、ペルーに密航。 | 鵠沼断想 | ||
秋田県出身。青年時代は造船技師。結婚して鶴見花月園で饅頭屋を開いて蓄財し、パナマに渡った。そこで百貨店経営など事業を拡大したが、日米開戦で捕虜となり、捕虜交換船で帰国、鵠沼橘に数年居住した。戦後、ペルーに密航し、事業の傍らチャンカイ遺跡の発掘に熱中。出土品を展示する「天野博物館」をリマに開設した。 | ||||||||
荒木襄太郎 | 画家 | (1917-2001) | 転入 | 1933 | 湘南中学3年生に編入。鵠沼桜が岡4-6-1在住 | 荒木襄太郎展 | ||
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あらき じょうたろう | 死去 | 2001 | 4 | 14 | 死去 享年:84歳。自宅:鵠沼桜が岡4-6-1 | 荒木襄太郎展 | |
東京都北品川に生まれ、湘南中学(現湘南高校)3年に編入と同時に鵠沼の住民となった。京都帝国大学卒業後、銀行に入行したが健康を害し、退職。叔父にあたる洋画家、岡田謙三のすすめもあり、画業を目指す。自宅の一角を「芙蓉庵(ふようあん)」と名付け、畑仕事をしながら画作に励む。、その作品は藤沢市展、藤沢市美術家協会会員展等、ごく限られた場においてしか発表されていない。 | ||||||||
有賀 密夫 | 地理学者 | (1912-1994) | 転入 | 1940 | 3 | 鵠沼桜が岡4-9-8在住 | 有賀密夫遺稿集 | |
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ありが みつお | 死去 | 1994 | 6 | 29 | 藤沢市民病院で死去。自宅:鵠沼桜が岡4-9-8 | 有賀密夫遺稿集 | |
茨城県出身。立正大学地理学科卒業。湘南中学・藤沢高校で教壇に立つかたわら、地域研究にいそしみ、鵠沼地区の地誌研究の第一人者として、藤沢市郷土誌研究の指導的役割を果たした。伊勢原高校教頭時代には大山の研究を行った。 | ||||||||
安藤 寛 | 歌人 | (1892-1993) | 転入 | 1928 | ? | 鵠沼桜が岡1-2-27に転居 | 鵠沼55号 | |
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あんどう ひろし | 死去 | 1993 | 鵠沼桜が岡1-2-27にて死去。享年102歳 | ||||
佐賀県多久の人。官立長崎高等商業学校卒業の後、実業家となる。1919(大正8)年竹柏会・「心の花」に入会。神奈川県歌人会顧問。新井洸に師事、のち「あけぼの会」を通して千亦に学んだ。昭和3、40年代の「心の花」編集委員だが、雑誌経営の面で大いに功績があった。後半生を鵠沼で暮らし、地域文化にも貢献した。会誌『鵠沼』55号には『私の鵠沼』を寄稿している。鎌倉・浄智寺に歌碑 | ||||||||
飯島 晴子 | 俳人 | (1892-1993) | 転入 | 1947 | ? | 鵠沼55号 | ||
いいじま はるこ | 死去 | 2000 | ||||||
井口小夜子 | 歌手 | (1914-2003) | 転入 | 1951 | 6 | 藤沢市藤沢より鵠沼桜が岡4-4-8に転居 | ||
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いぐち さよこ | 死去 | 2003 | 10 | 6 | 急性呼吸不全のため鎌倉市の病院で死去 | ||
東京出身。本名=田沼とみ子。1935年ごろから歌手として活躍、キングレコード専属の歌手として『みかんの花咲く丘』『月見草の花』など童謡や叙情歌をヒットさせた。戦後は藤沢市に「井口小夜子音楽研究所」を開き、クラシックや歌謡曲まで幅広いジャンルで後進を指導した。子どもたちの音楽教室「さゆり会」で童謡の普及にも尽くした。財団法人 藤沢市芸術文化振興財団 評議委員。墓所:藤沢市営墓地(西富) | ||||||||
井崎 嘉代 | 声楽家 | (1899-2004) | 転入 | ? | 鵠沼松が岡2-14-12在住 | |||
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いざき かよ | 死去 | 2004 | 8 | 20 | 鵠沼松が岡2-14-12の自宅で死去、95歳 | WEBsite | |
本名林嘉代(はやし・かよ)横浜市出身。元武蔵野音大教授。1933年、第2回毎日音楽コンクール(現在の日本音楽コンクール)1位。藤原歌劇団を中心に戦前から声楽家として活躍し、藤原義江氏の相手役も務めた | ||||||||
磯貝 衛 | 実業家 | 転入 | ? | 鵠沼花沢町10-8在住 | ||||
いそがい まもる | 死去 | 2002 | 12 | 23 | 鵠沼花沢町10-8にて死去 | WEBsite | ||
いすゞ自動車取締役 享年=86歳 | ||||||||
磯部 俶 | 作曲家 | (1917-1998) | 転入 | 1952 | ? | 鵠沼松が岡2-5-20に居住 | WEBsite | |
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いそべ とし | 死去 | 1998 | 11 | 25 | 鵠沼松が岡2-5-20にて死去。享年:81歳 | ||
東京に生まれる。早稲田大学文学部芸術学科卒業。 在学中、平尾貴四男氏に作曲を学び、15年間早大グリークラブの専任指揮者を務め、 大学屈指の男声合唱団に育て上げた。同クラブよりボニー・ジャックス、岡村喬生らを輩出している。その他多くの合唱団の指導にも当った。又作曲活動もこの時期盛んに行い、合唱曲『遙かな友に』、童謡『びわ』『おすもうくまちゃん』など名曲が多い。 | ||||||||
伊藤 海彦 | 詩人 | (1925-1995) | 転入 | 1950 | 3 | 11 | これまでに片瀬西浜2932から鵠沼5305・5311いずれか(鵠沼海岸2-11)に転居、居住 | 鵠沼86号 |
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いとう うみひこ | 移動 | 1951 | 1 | 1 | これまでに鵠沼5305・5311いずれか(鵠沼海岸2-11)から鵠沼6629(鵠沼海岸2-6)に転居 | 鵠沼86号 | |
転出 | 1951 | 12 | 17 | これまでに鵠沼海岸6629から鎌倉市台1730松橋方に転居 | 鵠沼86号 | |||
1925(大正14)年1月1日東京に生まれる。日本大学芸術学部に学んだが、信州に疎開 1947年日大を卒業後、新制下諏訪中学の国語教師となるも、 翌春上京し、新月社に入社。傍らNHKのライターとして活躍。1949年以来片瀬→鵠沼海岸→鎌倉と湘南を住処とし、1995年10月20日に鎌倉市雪ノ下で死去した。 |
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今井 達夫 | 小説家 | (1904-1978) | 転入 | 1912 | 秋 | 父親の療養のため、横浜から鵠沼に転居。鵠沼小学校3年に転入 | 鵠沼41号 | |
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いまい たつお | 転出 | 1920 | 4 | 慶應義塾大学予科に入学、鵠沼を出て渋谷常磐松の祖母宅に下宿 | 鵠沼別冊 | ||
転入 | 1942 | 春 | 鵠沼「新風荘」(鵠沼海岸3-10)に居住 | 鵠沼別冊 | ||||
転出 | 1945 | ? | 鵠沼から福島市北町に転居 | 鵠沼別冊 | ||||
転入 | 1947 | ? | 大森から鵠沼海岸3-10加藤産婦人科2階に間借りして居住 | 鵠沼別冊 | ||||
移動 | 1947 | ? | 鵠沼海岸3-8安岡章太郎の父の家の離れに居住 | 鵠沼別冊 | ||||
移動 | 1951 | ? | 鵠沼松が岡3-14-9に新築し、転居 | 鵠沼別冊 | ||||
死去 | 1978 | ? | 鵠沼松が岡3-14-9にて死去。享年:75歳 | 鵠沼別冊 | ||||
神奈川県生。慶応大学在学中に同人誌「橡」に参加。博文館、時事新報社を経て文筆生活に入る。三田文学などにモダンな小説を発表し、「青い鳥を探す方法」で第2回三田文学賞を受賞。小学校3年から鵠沼に住み、藤嶺中学1期生として入学、以後出入りは多かったが、通算して最も鵠沼生活が長い文士といえるだろう。 | ||||||||
上田 臥牛 | 日本画家 | (1920-1999) | 転入 | 1945 | ? | 鵠沼新田(鵠沼橘2-1-13)に居住 | 上田臥牛展 | |
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うえだ がぎゅう | 死去 | 1999 | ? | ? | 鵠沼橘2-1-13の自宅で死去 享年:79歳 | 上田臥牛展 | |
日本画家。1920年8月16日兵庫県の生れ。本名=植田栄一。1941年川端画学校を卒業。小林古径に師事。1950年、藤沢美術家協会創立会員となる。1961年、グループ62層に参加し、日本画の改革に意欲を見せ、海外でも高い評価を得た。 | ||||||||
宇野 弘蔵 | 経済学者 | (1899-1977) | 転入 | 1949 | ? | 鵠沼下岡6643(鵠沼海岸1-8-19)に居住 | WEBsite | |
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うの こうぞう | 死去 | 1977 | 2 | 22 | 肺炎のため鵠沼の自宅で死去 享年:79歳 | WEBsite | |
マルクス経済学者。岡山県倉敷の生れ。1921年東京帝大経済学部を卒業し、大原社会問題研究所に入る。1922‐24年ドイツに留学。帰国後、東北帝大法文学部助教授。1938年いわゆる労農派教授グループ事件(人民戦線事件)に連座。41年辞職して、日本貿易研究所に勤務。44年三菱経済研究所に移る。1947年東京帝大社会科学研究所教授。1958‐68年法政大社会学部教授。 | ||||||||
宇野 哲人 | 歴史学者 | (1875-1974) | 転入 | 1930 | ? | 鵠沼中岡6281(鵠沼松が岡5丁目)に居住 | 鵠沼76号 | |
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うの てつと | 死去 | 1974 | 2 | 19 | 鵠沼中岡6281(鵠沼松が岡5丁目)にて死去 享年:99歳 | 鵠沼76号 | |
日本の中国哲学者。熊本県生れ。東大で島田重礼、井上哲次郎らに学び、漢学科を卒業。ながく東京高師、東大教授を兼ね、定年後も東方文化学院(現、東大東洋文化研究所)長や実践女子大学長などを歴任。子弟の教育と学会の発展に尽くし、長命を保った。 | ||||||||
江口 渙 | 小説家 | (1887-1975) | 転入 | 1921 | 12 | 26 | 下谷区上野桜木町から鵠沼海岸の借家(江戸屋=鵠沼海岸2-5-2)に転居 | 個性きらめく |
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えぐち かん(きよし) | 転出 | 1922 | 9 | 少女小説作家=北川千代との結婚生活が破局、相馬孝と出奔 | WEBsite | ||
東京麹町区生れ。父は烏山(栃木県)藩士であった。小説家・評論家。渙は「きよし」であったが第二次大戦後「かん」と改めた、学生時代の俳号は水郷。1916(大正 5)東京帝国大学英文科中退。夏目漱石の門下で社会運動家でもあった。1915結婚〜1922離別の間、少女小説作家北川千代の夫。その離別直前に鵠沼海岸に住み、東屋の文士たちとも交流したが、アナキストの中浜鉄と古田大二郎に家の処理を押しつけて那須に移る。戦後は共産党に入党、 | ||||||||
江口 朴郎 | 歴史学者 | (1911-1989) | 転入 | 1923 | 8 | 31 | 鵠沼川袋(鵠沼桜が岡1-1-7)に居住 | WEBsite |
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えぐち ぼくろう | 転出 | 1941 | 4 | 姫路高等学校着任のため岡山県姫路市へ転居 | 朴郎文庫目録 | ||
転入 | 1947 | 5 | 姫路市より鵠沼川袋2486(鵠沼橘2-5-12)に戻る | 朴郎文庫目録 | ||||
死去 | 1989 | 3 | 15 | 鵠沼橘2-5-12にて死去。享年:77歳 | 朴郎文庫目録 | |||
少年時代から鵠沼川袋(鵠沼桜が岡1-1-7)に住み、戦時中は姫路高等学校に着任していた。戦後鵠沼の最高地点、新田山(鵠沼橘2-5-12)に帰り、東京大学、津田塾大学の教授、国際関係研究所長を務める一方、多くの著書を著し、歴史学の叢書・全集の編纂を手がけた。湘南高校生時代の江藤淳・石原慎太郎らが出入りしていたというエピソードもある。 | ||||||||
小穴 隆一 | 画家 | (1894-1966) | 転入 | 1926 | 7 | 下 | 東屋「イ-2号」(鵠沼海岸2-7)に居住 | 続個性きらめく |
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おあな りゅういち | 転出 | 1927 | 2 | 東屋「イ−2号」を去り、東京へ転居 | |||
洋画家。号は一遊亭。函館に生まれる。幼稚園時代に母が亡くなり、宗賀の祖父のところで幼少の一時期を過ごした。祖父は宗賀村の初代村長志村巌。二科会、春陽会に出品した。挿絵[さしえ]も多く手懸けている。芥川龍之介の著書の装丁は多く、二人の親交は有名。芥川の死後も家族と交際が続いた。『白いたんぽぽ』『二つの絵』などの随筆集の出版もしている。『蜃気楼』O君のモデル |
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大川 橋蔵 | 俳優 | (1929-1984) | 転入 | 1946 | 6 | 鵠沼7327(鵠沼藤が谷2-10-2)に住む | 鵠沼25号 | |
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おおかわ はしぞう | 転出 | ? | 鵠沼7327(鵠沼藤が谷2-10-2)を去る | ||||
尾上菊五郎の養子となり、歌舞伎の女形から映画界に転身。『若様侍』と『新吾十番勝負』の両シリーズを軸に二枚目として活躍。晩年はテレビの『銭形平次』を長寿番組とした。 | ||||||||
大久保洋海 | 仏文学者 | (1909-2002) | 転入 | 戦後 | 鵠沼松が岡1-4-1に住む | |||
おおくぼ ひろみ | 死去 | 2002 | 3 | 30 | 鵠沼松が岡1-4-1にて死去 享年:93歳 | WEBsite | ||
仏文学者。慶応大学文学部教授。大久保洋のペンネームで仏文学『にんじん』などを翻訳している。 | ||||||||
多 忠麿 | 雅楽奏者 | (?-1995) | 転入 | ? | 鵠沼海岸1-12-6在住 | |||
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おおの ただまろ | 死去 | 1995 | 12 | 19 | 鵠沼海岸1-12-6にて死去 | ||
神奈川県出身。多自然麿(おおのじぜまろ)を楽祖とし、神楽歌・舞を家業とする京都楽人の一家、多家を継ぐ雅楽の第一人者。重要無形文化財・芸術院会員。「雅楽」の保存の中核となって後進の指導にあたっているほか、新しい音楽創造活動にも参加。宮内庁楽部楽長、東邦音楽大客員教授。1990年、日本芸術院賞。 | ||||||||
大類 伸 | 歴史学者 | (1884-1975) | 転入 | 1944 | 3 | 末 | 鵠沼下岡6684(鵠沼松が岡2-16-20)へ疎開。東北帝大→日本女子大学へ転勤 | WEBsite |
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おおるい のぶる | 死去 | 1975 | ? | 鵠沼松が岡2-16-20の自宅で死去。享年:91歳 | WEBsite | ||
東京・日本橋に生まれる。東京帝国大学文科大学史学科→同大学院修了後副手となり、1915年には中世城郭の研究で文学博士の学位を得た。講師・助教授を経て'21―'23年、仏独伊3国に留学。帰朝後1924年、東北帝国大学教授に就任。西洋中世文化史の研究分野を確立。1944年に退官して日本女子大学に移り、歴史科(後 史学科)を創設。主任教授として日本・東洋・西洋にわたる史学教育の基礎と総合的文化史学の充実を図る。1945年、日本学士院会員に選任され、1955年退職し日本女子大学名誉教授。著書は『西洋中世の文化』『ルネッサンス文化の潮流』『西洋史新講』など多数。 | ||||||||
岡田 時彦 | 映画俳優 | (1903-1934) | 転入 | 鵠沼6711(鵠沼松が岡2-7-3)に居住 | 聴取 | |||
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おかだ ときひこ | 死去 | 1934 | 1 | 16 | |||
東京・神田宮本町出身。本名:高橋英一 大正9年、大正活映に入社。映画芸術協会、帝キネ、東亜等から日活、松竹へ。 白塗り二枚目俳優の代表格。娘は女優の岡田茉莉子 |
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織田 観潮 | 日本画家 | (1889-1961) | 転入 | ? | 藤沢人物ファイル | |||
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おだ かんちょう | 死去 | 1961 | ? | 鵠沼にて死去。享年:73歳 | |||
名は定次。明治22年12月東京生まれ。画を尾竹国観。小堀鞆音に学ぶ。新大和絵・文展日展委嘱。人物・花鳥を得意とする。挿絵画家としても知られ、関東大震災による小田原被災の模様を描いた作品を遺す。 | ||||||||
織田 幹雄 | 陸上競技 | (1905-1998) | 転入 | 1993 | 三浦市から鵠沼海岸2-11オ-シャンプロムナ-ド湘南に入居 | 聴取 | ||
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おだ みきお | 死去 | 1998 | 12 | 2 | 湘南鎌倉病院にて死去。享年:93歳 | 市史年表稿 | |
陸上競技三段跳びのオリンピック金メダリスト。 広島一中時代に走り高跳びで日本新を出して注目をあび、1924年(大正13)パリ・オリンピックの三段跳びで日本陸上初の6位入賞。つづく28年(昭和3)のアムステルダム大会では三段跳びで15m21をとび優勝、日本人初のオリンピック金メダリストとなった。31年には15m58の世界記録を達成。晩年を夫妻で油壺に暮らしていたが、妻の死を期にオーシャンプロムナード湘南に入居した。墓所:鎌倉東慶寺 | ||||||||
尾上菊五郎 | 歌舞伎 | (1888-1949) | 転入 | 1946 | 6 | (六代目)辻堂の家が火災に遭い、江の電鵠沼駅の裏、境川の畔(鵠沼藤が谷2-10-2)に居を構える | 鵠沼25号 | |
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おのえ きくごろう | 鵠沼7327(鵠沼藤が谷2-10-2)を去る | ||||||
5代目尾上丑之助(うしのすけ)をつぎ、父が死去した直後の1903年(明治36)3月、9代目団十郎の後ろだてで6代目菊五郎をついだ。写実を重視した細やかな心理描写を団十郎にしこまれ、世話物や、新作でも成果をしめした。舞踊でも天才ぶりを発揮し、名舞台を生んだ。昭和歌舞伎を代表する名優である。30年(昭和5)には日本俳優学校を創設し、みずから校長となって後進の育成につとめた。 | ||||||||
各務 鑛三 | 硝子工芸 | (1896-1985) | 転入 | 鵠沼海岸7-18-21在住 | ||||
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かがみ こうぞう | 死去 | 1985 | 鵠沼海岸7-18-21にて死去 | ||||
茨城県竜ヶ崎市生まれ。ドイツ留学でクリスタルガラスの工芸を学び、1934(昭和9)年、東京蒲田に日本最初のクリスタルガラス専門工場カガミクリスタルを設立した。彼は事業家でもあり高度な技術と独創性を持つ工芸家でもあった。1959年度の日本芸術院賞を受賞している。 | ||||||||
影山 光洋 | 写真家 | (1907-1981) | 転入 | 1945 | 11 | 朝日新聞を退社し、鵠沼2205(鵠沼石上2-4-16)に転居 | WEBsite | |
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かげやま こうよう | 死去 | 1981 | 鵠沼石上2-4-16にて死去 | ||||
朝日新聞社のカメラマンとしての仕事のかたわら、家族を撮り続け、愛情あふれるアルバムを作り上げた「記録の鬼」影山光洋は、定点観測の手法の先駆けの人としても知られている。終戦直後に朝日新聞を退社し、鵠沼に転居したが、食糧難の中で愛児を失い、その記録写真集、「芋っ子ヨッチャンの一生」(新潮社)を発表した。 | ||||||||
加田 哲二 | 社会学者 | (1895-1964) | 転入 | WEBsite | ||||
かだ てつじ | 死去 | 1964 | 4 | 24 | 死去 享年68※鵠沼に居住していたか不明 | |||
鹿地 亘 | 小説家 | (1903-1982) | 転入 | 1946 | 5 | 中国より帰国→鵠沼桜が岡3-9-13に居住 | 藤沢文学地図 | |
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かぢ わたる | 転出 | 1951 | 11 | 25 | 江ノ電鵠沼駅付近で米軍キャノン機関に拉致 | WEBsite | |
小説家・評論家。本名は瀬口貢。大分県生れ。東京帝国大学卒業。1932(昭和 7)日本共産党に入党。1936. 1.(昭和11)中国に脱出、魯迅に私淑。日華事変後は国民政府の軍事委員会顧問として日本軍兵士に対する反戦宣伝に従事。1946. 5.(昭和21)帰国。1.25(昭和26)午後7時ころ藤沢市で米軍キャノン機関に拉致、本郷ハウスに監禁。のち川崎市新丸子のTCハウスを経て琉球(現:沖縄県)米軍基地に移される。約一年後の1952.12. 7(昭和27)明治神宮外苑で解放されて新宿区上落合の自宅に帰り、在日米軍の諜報機関に監禁されていたと発表(「鹿地亘事件」)。 | ||||||||
加藤 仁平 | 教育史家 | (1894-1993) | 転入 | 1937 | 春 | 鵠沼西海岸5572(鵠沼海岸3-8)に居住 | WEBsite | |
かとう にへい | 移動 | 1955 | 春 | 鵠沼海岸7-10-22へ転居 | WEBsite | |||
転出 | 1964 | 春 | 鵠沼海岸7-10-22から前橋市の長女水沢澄子方へ転居 | WEBsite | ||||
加藤 東一 | 画家 | (1916-1996) | 転入 | 1969 | 4 | 鵠沼桜が岡2-5-15に居住 | WEBsite | |
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かとう とういち | 死去 | 1996 | 12 | 31 | 鵠沼桜が岡2-5-15にて死去 | WEBsite | |
岐阜市美殿町で生まれる。東京美術学校日本画科を卒業、一采社に参加。山口蓮春に師事。日展理事。1977年度日本芸術院賞を受ける。日本芸術院会員。日展理事長を歴任。金閣寺大書院障壁画を描き、文化功労者として顕彰を受ける。死の翌年藤沢市名誉市民となる | 記念館 | |||||||
香取 秀真 | 歌人/金工 | (1874-1954) | 転入 | 1947 | 鵠沼在住。 | 藤沢人物ファイル | ||
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かとり ほつま | 転出 | 1950 | |||||
鋳金家・歌人。本名は秀治郎。千葉県生れ。1897(明治30)東京美術学校卒業。東京美術学校教授。1934.11.(昭和 9)大正大学梵鐘を鋳造。1953(昭和28)文化勲章、受章。 | ||||||||
金田 松月 | 書家 | (?-1960) | 転入 | 1936 | 本鵠沼2-3-13在住 | 私の鵠沼日記 | ||
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かねだ しょうげつ | 死去 | 1960 | 9 | 3 | 9/2、本鵠沼駅頭で脳溢血に倒れ、翌日死去。享年:69歳 | 私の鵠沼日記 | |
本鵠沼駅西方に住み、書道塾を開くほか、鵠沼中学の教壇にも立った。敗戦前後、林達夫・邦枝完二らの呼びかけによる貸本屋「湘南文庫」に自宅を開放した。子息は言語学者の金田元彦 | ||||||||
川口 芝香 | 書家 | (18??-19??) | 転入 | 1929 | ? | 中岡6703(鵠沼松が岡3-18-6)に居住 | ||
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かわぐち しこう | 死去 | 19?? | 鵠沼松が岡3-18-6にて死去 | ||||
東京の仮名書家の中心として活躍し、多くの弟子を育てた。戦後間もなく1947(昭和22)年11月23日に創設された書道芸術院の発起人の一人。1973(昭和48)年、第27回日書展で《ジェトロニクス国際賞》を受賞。ハーモニカ奏者川口章吾の妻 | ||||||||
川口 章吾 | ハーモニカ奏者 | (1892-1974) | 転入 | 1929 | ? | 中岡6703(鵠沼松が岡3-18-6)に居住 | ||
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かわぐち しょうご | 死去 | 1974 | 鵠沼松が岡3-18-6にて死去 | ||||
ハーモニカ音楽のパイオニア。いち早く自己の奏法を完成してハーモニカ万能時代を作り上げた。横浜訓盲院における45年にわたるハーモニカの無料指導等、児童に対する器楽教育に貢献した。夫人は高名な書家=川口芝香 | ||||||||
川口 浩 | 映画俳優 | (1936-1987) | 転入 | 1960 | この頃、鵠沼松が岡2-19-10に居住 | |||
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かわぐち ひろし | 死去 | 1987 | |||||
川口松太郎 | 小説家 | (1899-1985) | 転入 | 1960 | ? | この頃、田端476より鵠沼松が岡2-19-10に居住 | 藤沢人物ファイル | |
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かわぐち まつたろう | 死去 | 1985 | |||||
東京・浅草出身。昭和2年、田端476番地(岩田専太郎の隣家)に転入。大正4年、久保田万太郎に師事。岩田専太郎と交友をもつ。関東大震災後、大阪に移り直木三十五らと雑誌「苦楽」を編集。劇団主事、映画会社重役。直木賞、菊池寛賞、芳川英治文学賞、文化功労賞などを受賞。 女優=三益愛子は妻。 |
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河田 烈 | 政治家 | (1883-1963) | 転入 | 戦後、松が岡2-7-32に定住したと思われる | WEBsite | |||
かわだ いさか | 死去 | 1963 | WEBsite | |||||
東京帝大法科卒。大蔵官僚から岡田内閣の書記官長を経て、1940年、第2次近衛内閣の大蔵大臣。1952年、 日華平和条約締結時の全権大使を務めた(台湾拓殖会社の社長。当時の首相=吉田茂とは縁戚関係)。書画をよくし、蔵書は都立日比谷図書館に寄贈され、河田文庫として所蔵されている | ||||||||
岸田 劉生 | 画家 | (1891-1929) | 転入 | 1917 | 2 | 22 | 鵠沼の佐藤別荘。鵠沼字下藤ヶ谷7365-20(鵠沼松が岡2-7-10)に移住 | 鵠沼15・26・76号 |
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きしだ りゅうせい | 移動 | 1917 | 6 | 24 | 松本別荘(鵠沼下岡6732-13(鵠沼松が岡3-7-10))へ移る | 鵠沼15・26・78・82号 | |
転出 | 1923 | 9 | 16 | 震災被災→鵠沼を去り名古屋へ出発[絵日記] | 鵠沼15・26・76号 | |||
洋画家。東京銀座に生まれる。1912年(大正元)、後期印象派絵画に影響をうけた青年画家が参集したフュウザン会に参加。同時期に、武者小路実篤ら白樺派の文学者たちとの交遊がはじまり、個性を強くうちだそうとする思想の影響をうけた。13年のフュウザン会解散後は、しだいにデューラーなど北欧ルネサンス絵画の影響をうけ、近代的な傾向から離反して、細密な写実表現による独自の様式をきずいた。鵠沼時代に『鵠沼風景』『麗子像』など多くの作品を制作。 | ||||||||
北村 初雄 | 詩人 | (1897-1922) | 1922 | 東屋に死の直前に滞在 | 鵠沼82号 | |||
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きたむら はつお | 死去 | 1922 | 12 | 2 | 東屋で病没 | ||
『海港』派の詩人。東京生れ。父親は三井物産横浜支店長だった。東京高商卒業。詩集『吾歳と春』『正午の果實』『樹』にみずみずしい詩を発表して評判になったが夭折した。墓所:鶴見 総持寺 | ||||||||
杵屋 五十郎 | 邦楽演奏 | (1916-1998) | 転入 | 1933 | 鵠沼橘通りに稽古場を借りる | |||
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きねや ごじゅうろう | 移動 | 1934 | 鵠沼橘通りに家を建てる | ||||
本名 小島 馨 | 転出 | 1944 | 群馬県伊香保に疎開 | |||||
転入 | 1957 | 鵠沼橘通りに戻る | ||||||
死去 | 1998 | 7 | 17 | |||||
東京都港区芝で、扇問屋の四男に生まれる。18歳から初代杵屋五三郎のもとで直弟子として長唄と三味線の本格的な修行をする。昭和42年から約25年間、藤沢市教育委員会と共催で、日本の伝統芸能の伝承と隠れた日本芸能の発掘と創作活動の場として、日本芸能百撰会を開催した。昭和47年からは藤沢市民会館で開催した。 昭和55年から約15年間、藤沢市の後援で、日本古典芸能の伝承と創作活動の場として、創韻会を藤沢市民会館で開催した。 |
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木原 孝一 | 詩人 | (1922-1979) | 居住 | ? | 鵠沼海岸5丁目在住? | 藤沢文学地図 | ||
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きはら こういち | 死去 | 1979 | 鵠沼海岸5丁目にて死去? | ||||
本名は太田忠。八王子市生れ。府立実科工業卒業。陸軍建築技師として従軍、中国・硫黄島の陣地を構築。 | ||||||||
木村 功 | 俳優 | (1923-1981) | 転入 | 1948 | 12 | 鵠沼桜が岡2-1-29に居住 | ||
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きむら いさお | 転出 | 1954 | 10 | 東京都渋谷区西原へ転居 | |||
戦後上京し、俳優座入団、1950年、俳優座を退団し、青年俳優クラブを結成。後に劇団青俳と改める。1956(昭和31)年、まだ生番組の時代のテレビドラマにも出演し始める。以後、111本の映画の他、数多くの舞台・テレビドラマに出演し、幅広い人気を得ると共に数多くの賞を受賞した。文化学院演劇部で邦枝完二の娘邦枝 梢と共演、見初める。復員後、俳優座時代の1948(昭和23)年4月1日、邦枝 梢と結婚し、数年間梢の実家に住む。 | ||||||||
木村 正中 | 国文学者 | (1926-2002) | 居住 | ? | 鵠沼橘2-5-11に居住 | |||
きむら まさのり | 死去 | 2002 | 2 | 11 | 死去 享年:76歳 | 毎日新聞 | ||
元学習院大教授、元明治大教授 | ||||||||
喜安?太郎 | 言語学者 | (?-1955) | 転入 | 1949 | 2 | 河口湖畔より本鵠沼4-7-6へ転居。 | WEBsite | |
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きやす しんたろう | 死去 | 1955 | 12 | 本鵠沼4-7-6で死去 | WEBsite | ||
1905年より半世紀に及び『英語青年』の編集に携わり、1949年から『鵠沼通信』を連載した。 | ||||||||
葛巻 義敏 | 評論家 | (1918-1985) | 転入 | 1944 | 5 | 東京田端より疎開、鵠沼に転居 | 鵠沼69号 | |
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くずまき よしとし | 転入 | 1968 | ? | 火災で焼け出され、鵠沼の妹=葛巻左登子宅(鵠沼海岸3-11-5)に転居 | 鵠沼69・80号 | ||
死去 | 1985 | 12 | 16 | 鵠沼海岸の妹=葛巻左登子宅で急性心不全にて死去 | 鵠沼69・75・83号 | |||
芥川龍之介の甥。龍之介の晩年には起居を共にし、書生的存在だった。没後は遺された原稿類を管理し、『芥川龍之介全集』などの編纂に関係した。火災でその多くを消失するが、焼け残りを鵠沼に運び、没後、妹=左登子の手で藤沢市文書館に寄贈され、『葛巻文庫』となっている。 | ||||||||
邦枝 完二 | 小説家 | (1892-1956) | 転入 | 1944 | 1 | 20 | 東京麹町より鵠沼上岡6098(鵠沼桜が岡2-1-29)へ転居 | 鵠沼78号 |
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くにえだ かんじ | 死去 | 1956 | 8 | 2 | 自宅(鵠沼桜が岡2-1-29)で死去 享年:64才[年譜] | 鵠沼15号 | |
本名は莞爾(カンジ)、筆名は完二・双竹亭竹水。戸籍上の誕生日は1893. 1. 1(明治26)。東京麹町生れ。祖父は三百石取りの幕臣、父は馬術に長じていた。慶応義塾大学文科中退。大衆時代小説を得意とし、多く映画化された。長女は小説家の木村 梢。戦中・戦後にかけて林達夫の近所に住み、親交があった。地元の文化活動にも積極的に関わった。 | ||||||||
国木田虎雄 | 詩人 | 居住 | ? | 武島町(文京区)から鵠沼本村(原)の農家の離れに転居 | 藤沢人物ファイル | |||
くにきだ とらお | 転出 | 1923 | 9 | 震災を期に馬込へ移る | ||||
転入 | ||||||||
移動 | 鵠沼松が岡3-7-10の岸田劉生旧居に転居 | |||||||
転出 | ||||||||
国木田独歩の長男で福士幸次郎の門下の詩人。繊細な叙情詩人と評されている。鵠沼在住時代は今井達夫と親交があったらしく、達夫の記録にしばしば登場する。 | ||||||||
黒崎 義介 | 童画家 | (1905-1984) | 転入 | 1952 | ? | 鵠沼海岸5-1-11に居住 | WEBsite | |
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くろさき よしすけ | 死去 | 1984 | 8 | 12 | 鵠沼海岸5-1-11にて死去 | WEBsite | |
戦前、戦後を通じて活躍した童画家の第一人者。藤沢市の文化活動にも積極的に関わり、市史の扉絵などを遺している。 | ||||||||
小泉 鉄 | 小説家 | (1886-1954) | 転入 | 1914 | 11 | 2 | 鵠沼納屋に借家 | 鵠沼82号 |
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こいずみ まがね | 転出 | 1916 | 11 | 鵠沼を去る | 鵠沼82号 | ||
小説家・翻訳家。福島県生まれ。旧制会津中学を1905(明治38)年に卒業。上京し、第一高等学校に進学。東京帝国大学哲学科中退。はじめ第二次『新思潮』に参加するが、武者小路実篤に共鳴し、1911(明治44)年、白樺派創立メンバーの一人で、鵠沼納屋に移住して『白樺』編集にあたる大正末 年より台湾原住民の研究を行う。兄は、生物学者(進化論・優生学・蛔虫学 等)の小泉丹(まこと)。 | ||||||||
小坂 一也 | C&W歌手 | (1935-1997) | 転入 | 戦後 | 鵠沼松が岡2-5-25に居住 | 鵠沼90号 | ||
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こさか かずや | 転出 | 鵠沼を去る | |||||
名古屋市生まれ。成城学園高校在学中に進駐軍回りのバンドにり、1954年ワゴンマスターズを結成。リードボーカルで活躍し、カントリーアンドウエスタン、ロカビリーの歌手としてアイドル的な人気を集め、「和製プレスリー」の異名もとった。ヒット曲には「青春サイクリング」などがある。 57年に映画俳優の青春スターとしてデビュー。その後演技力を認められて木下恵介監督の作品や舞台、テレビドラマなどに数多く出演した。最近も渋い中年役として「マルサの女」(87年)、「キャンプで会いましょう」(95年)などに出演していた。墓所:多磨霊園 | ||||||||
五島雄一郎 | 医学博士 | (1923-2003) | 居住 | ? | 鵠沼松が岡1-2-14に居住 | |||
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ごとう ゆういちろう | 死去 | 2003 | 5 | 28 | 大腸癌により死去 享年:80歳 | 毎日新聞 | |
慶応義塾大学医学部卒業後、東邦医科大学・慶応義塾大学・東海大学で教鞭を執り、老年病学を中心に国際的に活躍した。かたわら音楽に造詣が深く、音楽と病理学を関連づけた著作もある。東海大学には小田急の一番電車で通ったという。東海大名誉教授、老年病学 | ||||||||
小森 和子 | 映画評論家 | (1909-2005) | 居住 | 1942 | 鵠沼下岡6703に居住 | WEBsite | ||
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こもり かずこ | 移動 | 鵠沼桜が岡4-15-15に転居 | |||||
転出 | 東京・麻布台に転居 | |||||||
東京都出身。貿易商の二女に生まれ、高校卒業後、中央公論社の見習記者、外国商社勤務を経て、40歳の時に当時「映画の友」編集長だった故淀川長治の勧めで映画批評を書き始めた。ジェームズ・ディーンを敬愛し、シャーリー・マクレーンら多くのハリウッドスターと交流した。 戦時中から鵠沼に住み、戦後、テレビのバラエティー番組などにも出演し、人気が出てからも鵠沼に在住していたが、1992年、映画界に3000万円を寄付し、現役を引退、晩年は東京・麻布台に住んでいた。2005年1月8日没。享年95歳 |
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齋藤 緑雨 | 小説家 | (1867-1904) | 滞在 | 1900 | 10 | 23 | 結核療養のため東屋に長期滞在 | 鵠沼82号 |
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さいとう りょくう | 転出 | 1901 | 4 | 12 | 東屋仲居金澤タケを伴い、鵠沼を後に小田原に発つ[日記] | 鵠沼82号 | |
小説家・評論家・随筆家。本名は賢(マサル)、号は正直正太夫・江東(コウトウ)みどり・緑雨醒客・可笑亭真猿・登仙坊。伊勢国神戸(カンベ)生れ。1877(明治10)父に従い上京。土屋小学校・東洋小学校・東京府立第二中学校を経て、法律家を志し明治義塾・明治法律学校に入学するが中退。肺患により死去。 | ||||||||
相良 守次 | 心理学者 | (1903-1986) | 転入 | 1951 | ? | 鵠沼西海岸5213(鵠沼海岸5-13-6)に居住 | WEBsite | |
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さがら もりじ | 死去 | 1986 | ? | 鵠沼海岸5-13-6にて死去 | WEBsite | ||
山形県出身。荘内中学校(現 鶴岡南高)から水戸高校、東大へと進み、心理学科を選択する。「日本詩歌のリズム」という心理学では異色のテーマで卒業論文を書いた。 その後、名著『記憶となにか』など、高級啓蒙書を刊行して後進のよい指導書といわれた。東京大学文学部心理学教室教授(1943-1964)。独文学の相良守峯は兄。 | ||||||||
佐多 芳郎 | 画家 | (1922-1997) | 転入 | 鵠沼藤が谷2-11-32在住 | ||||
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さた よしろう | 死去 | 1997 | 12 | 16 | |||
東京都出身の日本画家。大佛次郎作品を中心に時代物の挿絵画家として知られ、映画の時代考証なども手がけた。著書に『風霜の中で 私の絵筆日記』がある。住居跡は現在「鵠沼藤が谷市民の家」が建っている。 | ||||||||
颯田 本眞 | 尼僧 | (1845-1928) | 転入 | 1903 | 9 | 下鰯5250(鵠沼海岸3-13)の細川家別邸内に浄土宗説教所慈教庵(本眞寺の前身)建立 | 鵠沼15・44号 | |
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さった ほんしん | 移動 | 1924 | 1 | ? | 慈教庵、関東大震災の津波で流失し、柳原5843(鵠沼海岸7-1-7)に移す(後に本眞寺と改称) | 鵠沼15・44号 | |
死去 | 1928 | 8 | 8 | 入寂 享年:84歳 本眞寺墓地に埋葬 | 鵠沼15・44号 | |||
浄土宗の尼僧。弘化2(1845)年11月28日愛知県幡豆那吉田町の場田清左衛門の長女として生まれ、幼名「リツ」といった。安政3(1856)年9月1日得度。日清戦争戦死病没者のため相模国高座郡鵠沼村に浄土宗説教所を建立し慈教庵と号した。大変高潔で徳の高い宗教家として、大きな影響力を持った。 | ||||||||
佐分利 信 | 映画俳優 | (1909-1982) | 転入 | 1936 | ? | この頃、鵠沼松が岡3-6-25に居住 | 聴取 | |
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さぶり しん | 移動 | 1939 | ? | ? | この頃、松が岡から石上に転居 | 聴取 | |
死去 | 1982 | 9 | 22 | 肝臓癌のため日大病院で死去 | WEBsite | |||
1931年、日活(太秦)で映画俳優としてデビューし、後に松竹に移った。松竹が蒲田から大船に移った1936年頃から鵠沼に住み、最初は松が岡に借家し、後に石上に自宅を構えた。 生涯188本の映画に出演したほか、1950年代には14作品の監督もしている。 1941年には鵠沼を舞台にした小津作品『戸田家の兄妹』で二男昌二郎役を好演している。 |
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沢木四方吉 | 美術史家 | (1886-1930) | 転入 | 1923 | 春 | 鵠沼に居住。岸田劉生と交流[鵠沼物語] | WEBsite | |
さわき よもきち | 転出 | 1923 | 9 | 1 | 被災して鵠沼を去る | 続個性きらめく | ||
美術史家。専門:日本美術史。著書として『美術の都』(岩波書店)がある。「三田文学」主幹 | ||||||||
柴田 政雄 | 転入 | 鵠沼松が岡4-11-5在住 | ||||||
しばた まさお | 死去 | 鵠沼松が岡4-11-5にて死去 | WEBsite | |||||
TKC監査役・弁護士 | ||||||||
渋谷 実 | 映画監督 | (1917-1980) | 転入 | ? | 鵠沼松が岡2-9-10に居住 | WEBsite | ||
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しぶや みのる | 死去 | 1980 | 12 | 20 | 鵠沼松が岡2-9-10にて死去 享年:73歳 | WEBsite | |
※松竹大船を代表する監督の一人。『本日休診』『自由学校』など軽いタッチの作品を得意とした。 | ||||||||
志摩夕起夫 | 評論家 | (1923-1999) | 転入 | 鵠沼松が岡3-8-13在住 |
WEBsite | |||
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しま ゆきお | 転出 | 1990 | ? | 鎌倉市稲村ガ崎1-17-23に転居 | |||
本名:小島幸雄 音楽番組の司会者やディスクジョッキーとして軽妙な話術で人気があった。音楽評論家としても健筆を振るった | ||||||||
子母沢 寛 | 小説家 | (1892-1968) | 転入 | 1945 | 6 | 東京から鵠沼5594(鵠沼海岸 7-15-4)堀川の別荘に移る | 鵠沼15号 | |
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しもざわ かん | 移動 | 1946 | 8 | 10 | 堀川から鵠沼6350(鵠沼松が岡5-1-16)熊倉通りに移る | 鵠沼15号 | |
死去 | 1968 | 7 | 19 | 死去 享年:76歳(慧光院文宗寛居士) 鎌倉霊園に埋葬 | 鵠沼15号 | |||
小説家。本名は梅谷松太郎。北海道石狩郡厚田生れ。函館商業・小樽商業・札幌の北海中学校を経て明治大学法学部卒業。祖父は網元で、彰義隊の残党。 | ||||||||
鯱ノ里一郎 | 力士 | (1914-1981) | 転入 | 鵠沼桜が岡2丁目在住 | ||||
しゃちのさと いちろう | 転出 | |||||||
1937-1947高砂部屋の関取。最高位=前頭3枚目。名古屋出身。色浅黒く目元の涼しい美男で女性に大変な人気があった。腰が重く投げもあって期待されたが、暢気な性格で少し勝負意欲が不足して大成できなかった。野球が好きで、高砂チームの一塁手を務めた。後に理事を務めた。 | ||||||||
Theodor Sternberg | 教育者 | 転入 | 1918 | ? | 現鵠沼松が岡4-7松本別荘に移住。 | 鵠沼80号 | ||
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テオドア・シュテルンベルク | 移動 | 鵠沼松が岡3-8に移住 | 鵠沼80号 | ||||
転出 | 辻堂へ転居 | 鵠沼80号 | ||||||
ユダヤ系ドイツ人。帝国大学でドイツ語とドイツ法を教え、自由法運動の先駆者と評価される。慶応義塾、中央、法政、日本、明治各大学で非常勤講師としてドイツ民法・刑法、法哲学・法理論、法社会学などを教えた。松本別荘時代は岸田劉生とも交流している。鵠沼ではステルンさんと呼ばれて親しまれた。 | ||||||||
城 夏子 | 小説家 | (1902-1995) | 転入 | 1942 | 3 | 鵠沼海岸2-2-1の夫の知人の別荘に転入 | 鵠沼90号 | |
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じょう なつこ | 転出 | 1944 | 2 | 夫の故郷である秩父へ転居 | 鵠沼90号 | ||
戦後活躍した女流作家。翻訳家としても知られる。夫の療養のため、戦時中の2年足らずを鵠沼海岸近くの夫の知人の別荘で暮らす。鵠沼では長谷川巳之吉・林達夫らと交流[辱知十年]。栄養物が入手困難なため夫の故郷である秩父へ転居したが、間もなく夫は帰らぬ人となった。 その後、作家生活に専念し、晩年を千葉県流山の老人ホームに過ごした。 |
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白井 喬二 | 小説家 | (1889-1980) | 転入 | 1958 | ? | 杉沢家より「東屋の離れ」を借り受け、3年間静養生活 | 鵠沼75号 | |
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しらい きょうじ | 転出 | 1961 | 茨城竜ヶ崎市の次女寿子の婚家横田宅へ転居 | ||||
小説家。本名は井上義道、号は星蔭。因幡藩士族井上孝道の長男として横浜市公舎に生れる。1913(大正2)年、日本大学を卒業、本格的な文学活動にはいるのは大正9年の『怪建築十二段返し』から。作品は、16巻の全集に余るほどで、大衆文学の父と呼ばれる。代表作:『富士に立つ影』。妻は枢密参議官中島男爵の孫娘の鶴子。杉沢家より「東屋の離れ」を借り受け、3年間静養生活。 | ||||||||
菅沼 五郎 | 彫刻家 | (1906-1999) | 転入 | 1952 | 鵠沼松が岡1-22-2に居住 | WEBsite | ||
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すがぬま ごろう | 死去 | 1999 | 3 | ? | 藤沢市民病院で死去。享年:93歳 | WEBsite | |
彫刻家。愛知県出身、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業、創作活動を続けた。二紀会副理事長。戦後間もなく藤沢に住むようになりひもじかった戦災孤児施設の援助活動を興し、先の戦争を悔やみ戦災孤児や中国残留日本人孤児を育てた年老いた養父母に心を注いで、夫妻で手弁当のチャリティー美術展を開いてきた。市内に残る作品には『片山哲先生像』(市民会館前)『聶耳像』(聶耳広場)がある。 | ||||||||
杉 敏介 | 国文学者 | (1872-1960) | 転入 | 1925 | ? | 鵠沼桜が岡1-1-19に居住 | 鵠沼断想 | |
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すぎ としすけ(びんすけ) | 転出 | 1930 | ? | 鵠沼桜が岡1-1-19を去り、鎌倉に転居 | 鵠沼断想 | ||
教育者(第一高等学校校長)。歌人。号は烏山。『吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。一高の名物校長の時代に昔の教え子、瀬弥一宅の筋向かいに住み、弥一と交流した。 | ||||||||
杉浦 非水 | 図案家 | (1876-1965) | 転入 | 本鵠沼2-9-6に居住 | WEBsite | |||
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すぎうら ひすい | 死去 | 1965 | 8 | 18 | 本鵠沼2-9-6の自宅で死去 | ||
商業美術家・図案画家。本名は朝武(ツトム)、旧姓は白石。松山重信町生れ。杉浦翠子(スイコ)の夫。東京美術学校で川端玉章・黒田清輝らに学び、1901(明治34)日本画選科卒業。雑誌・本の装丁などを手がけ、三越図案部主任となりポスターなどを担当。多摩帝国美術学校(現:多摩美術大学)を創始し校長。図案家団体の七人社を結成。 | ||||||||
杉原善之介 | 小説家 | (1898-1944) | 転入 | 1915 | 頃 | 武者小路実篤を慕って鵠沼松が岡3に借家(川元別荘?) | 個性きらめく | |
すぎはら ぜんのすけ | 転出 | ? | 片瀬に移る | 個性きらめく | ||||
小説家。本名は善之助。東京大空襲で死亡したと伝えられる。 | ||||||||
杉原 千畝 | 元外交官 | (1900-1986) | 転入 | 1946 | 鵠沼松が岡3-5-3に居住 | 鵠沼86号 | ||
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すぎはら ちうね | 移動 | 鵠沼松が岡1-2-3に移住 | 鵠沼86号 | ||||
転出 | 西鎌倉に移住 | 鵠沼86号 | ||||||
記念館 | ||||||||
反町 茂雄 | 書誌学者 | (1901-1991) | 転入 | 1945 | ? | 鵠沼海岸5-13付近に300坪の土地を購入 | WEBsite | |
そりまち しげお | 定住はしなかった模様 | |||||||
1901(明治34)年8月28日、新潟県長岡町神田3、反町茂平の五男として出生。東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京神田一誠堂書店住み込み店員となり、1932(昭和7)年、古書肆弘文荘開業。『一古書肆の思い出』全5巻を刊行。1991(平成3)年 東京都文化賞受賞。同年9月4日、死去 | ||||||||
高木和男 | 栄養学者 | (1909-2004) | 転入 | 1920 | 秋 | 鵠沼海岸1-15-1の別荘に定住 | 鵠沼89号 | |
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たかぎ かずお | 死去 | 2004 | 5 | 26 | 鎌倉の聖テレジア病院で死去。享年:95歳 | 鵠沼89号 | |
幼少より鵠沼海岸に住み、湘南中学に1期生として入学し、横浜工専に進んだ。その1年の時、鵠沼海岸で蜃気楼を撮影、評判となり、芥川龍之介晩年の名作『蜃気楼』のヒントとなった。専門の栄養学研究のかたわら郷土史にも関心を寄せ、『鵠沼海岸百年の歴史』を著すとともに「鵠沼を語る会」の会長も務めた。 | ||||||||
瀬 弥一 | 実業家 | (1887-1954) | 転入 | 1912 | 7 | 12 | 横浜より現鵠沼藤が谷2-2に移住 | 鵠沼断想 |
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たかせ やいち | 移動 | 1919 | 9 | 10 | 川袋(鵠沼桜が岡1-5)に新居を建て、転居 | 鵠沼断想 | |
移動 | 1940 | 川袋の邸宅を手放し、花沢町に転居 | 鵠沼89号 | |||||
墓所:遊行寺 | 転出 | 片瀬(西方)に借家し、転居 | 鵠沼断想 | |||||
東大国文科に学び、和辻哲郎・林達夫らと幅広く交友関係を持つ。藤沢中学に短期間勤務後、実業界に転じ、鵠沼中央部の高級住宅地開発、自動車道路建設、江之島水道敷設などを手がけたが、事業には失敗した。藤沢町会議員を2期務めた。 | ||||||||
高橋 元吉 | 詩人 | (1893-1965) | 転入 | 1963 | ? | 鎌倉市材木座から鵠沼松が岡2-9-15倉田健次方に居を移す | 鵠沼82号 | |
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たかはし もときち | 死去 | 1965 | 1 | 28 | 鵠沼松が岡2-9-15倉田健次方にて死去 | 鵠沼82号 | |
萩原朔太郎らとともに群馬を代表する詩人。最晩年の1年4か月を縁続きの倉田健次方で過ごした。近隣は大きな松の木の多い緑豊かな閑静な住宅地で、2階の椅子に座って、松林を眺め、多くの詩を残している。没後、郷里の前橋市の利根河畔に詩碑が建立された。 | ||||||||
立原 正秋 | 小説家 | (1926-1980) | 転入 | 1969 | ? | 短期間鵠沼海岸3-8-10に居住 | 藤沢人物ファイル | |
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たちはら まさあき | 転出 | 1971 | 鵠沼海岸を去る | 藤沢文人展 | |||
小説家。本姓は米本(ヨネモト)(妻の姓)。朝鮮大邱生れ。専門学校・法律学科に入学、小説家を志し、国文科聴講生となる。世阿弥に打ち込み、この世で信じられるものは美だけという意識のもと、創作と読書三昧の日々を送る。1966年、『白い罌粟』で第五十五回直木賞受賞。第七次「早稲田文学」の編集長として、1年間新人の養成につとめた。 | ||||||||
田中 二郎 | 法曹人 | (1906-1982) | 転入 | 鵠沼松が岡3-7-6に居住 | 藤沢文学地図 | |||
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たなか じろう | 死去 | 1982 | 1 | 16 | 鵠沼松が岡3-7-6にて胆嚢癌で死去。享年:75 | ||
1929年に東京大学法学部を卒業後、 同助手として採用され、 1931年助教授に、 1941年教授に昇任した。行政法学に専念し、戦後、田中耕太郎文相のとき、その意を受け、参与として教育基本法を立案した。池田内閣時代には最高裁判事となり、堂々と行政批判をしたことでも知られる。東京大学名誉教授、元最高裁判所判事 | ||||||||
田中 澄江 | 劇作家 | (1908-2000) | 転入 | 1934 | ? | 鵠沼2439(鵠沼桜が岡4-15-20)に借家 | WEBsite | |
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たなか すみえ | 転出 | 1944 | ? | 鳥取に疎開 | WEBsite | ||
東京女高師(現お茶の水大学)国文学科在学中から劇作を始めた。卒業後は聖心女子学院の教師となる。1934(昭和9)年に劇作家の田中千禾夫と結婚し退職。映画『めし』やNHK朝の連続テレビ小説『うず潮』など脚本を手掛け、小説『カキツバタ群落』で芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど、シナリオ、小説、エッセーなど作家として幅広く活動。1981(昭和56)年に『花の百名山』で読売文学賞を受賞した。 | ||||||||
田中千禾夫 | 劇作家 | (1905-1995) | 転入 | 1934 | ? | 鵠沼2439(鵠沼桜が岡4-15-20)に借家 | WEBsite | |
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たなか ちかお | 転出 | 1944 | ? | 鳥取に疎開 | WEBsite | ||
長崎県立中学をへて1930年3月、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。第1次「劇作」創刊同人となり、翌年、戯曲の第1作「おふくろ」を発表、築地座が上演した。1934、辻村澄江(作家)と結婚。戦後になって旺盛に執筆し、「雪の涯」などを発表。翌年、文学座が初演(岩田豊雄演出)し、サルトル、カミュのブームとあいまって実存主義戯曲として評判になった。1954年、「教育」を俳優座で初演し、読売文学賞。 | ||||||||
田中 隆尚 | 言語学者 | (1918-2002) | 転入 | 1936 | 春 | 鵠沼2442(鵠沼桜が岡4-15-7)の砂丘上に住む[桃園譜] | 鵠沼87号 | |
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たなか たかひさ | 移動 | 1943 | ? | 鵠沼桜が岡3-17-23に転居。平日は群馬大学付近へ仮寓[桃園譜] | 鵠沼87号 | ||
死去 | 2002 | 10 | 21 | 鵠沼桜が岡3-17-23にて死去 | 鵠沼87号 | |||
山口県長府に生まれる。中学校卒業後に鵠沼に住む。当時の様子は短編『桃園譜』に書かれている。浪人後一高→東大独文に進む。この間、斎藤茂吉に師事し、和歌を学ぶ。戦後は定年まで群馬大学で教壇に立つ一方、歌集・随筆集等を刊行、1957年には同人誌『ももんが』を創刊し、國語問題協議會理事を務めた。また、ギリシャを中心に各地に赴き、日本文化の紹介に務めた、 | ||||||||
圭室 諦成 | 歴史学者 | (1902-1966) | 転入 | 1934 | 2 | 鵠沼海岸に居住[藤沢文人録] | 藤沢文人録 | |
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たまむろ たいじょう | 転出 | 1935 | ? | 鵠沼海岸を去る[藤沢文人録] | 藤沢文人録 | ||
転入 | 1939 | ? | 鵠沼海岸3-12-28に居住[藤沢文人録] | 藤沢文人録 | ||||
転出 | 1945 | 4 | 鵠沼海岸3-12-28を去る[藤沢文人録] | 藤沢文人録 | ||||
転入 | 1960 | 9 | 鵠沼松が岡3-7-15に居住[藤沢文人録] | 藤沢文人録 | ||||
死去 | 1966 | 5 | 15 | 鵠沼松が岡3-7-15にて死去[藤沢文人録] | 藤沢文人録 | |||
戦前:駒澤大學教授。戦後:熊本女子大学教授・明治大学教授を歴任。革新的な史論で問題を提起し、特に葬式仏教化による仏教の堕落退廃を痛烈に指摘した。 | ||||||||
近松 秋江 | 小説家 | (1876-1944) | 居住 | ? | 鵠沼在住 | 人物ファイル | ||
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ちかまつ しゅうこう | |||||||
小説家・評論家。本名は徳田浩司、初期筆名は徳田秋江であったが、徳田秋声とまぎらわしいので1911(明治44)ころ改名。岡山生れ。1898(明治31)東京専門学校(現:早稲田大学)文学部史学科に入学、一年後に英語政治科に転じ、間もなく英文科に移り、1901(明治34)卒業。 | ||||||||
秩父宮雍仁 | 皇族 | (1902-1953) | 転入 | 1952 | ? | 病気療養のため鵠沼桜が岡1-1-22に別邸を建て、最晩年を過ごす | 鵠沼58号 | |
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ちちぶのみや やすひと | 死去 | 1953 | 1 | 4 | 鵠沼桜が岡1-1-22の別邸にて死去 | 鵠沼15・58号 | |
大正天皇の二男。昭和天皇の弟。様々なスポーツを愛好し、「スポーツの宮様」と呼ばれた。戦時下より一貫して戦争拡大政策に批判的で、戦後は療養生活を送りながら執筆活動にいそしんだ。別邸跡は現在天理教が所有しているが、東方、高瀬通りを直進した突き当たり付近に「秩父宮記念体育館」、別邸西方には「秩父公園」が藤沢市の手で建造された。 | ||||||||
茅野 雅子 | 歌人 | (1880-1946) | 転入 | 1922 | ? | 長女の病気療養のため子ども2人と鵠沼に借家して暮らす(1923.8長女死去) | 個性きらめく | |
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ちの まさこ | 転出 | 1923 | 8 | 鵠沼を去る | 個性きらめく | ||
歌人。本名は「まさ」、旧姓は増田、号はしら梅。大阪道修町生れ。1904(明治37)上京。日本女子大学国文科卒業。1907(明治40)茅野蕭々(ショウショウ)と結婚。 | ||||||||
塚本 茂 | 洋画家 | () | 転入 | 1943 | ? | ] | WEBsite | |
つかもと しげる | 死去 | 1979 | ? | WEBsite | ||||
塚本 智子 | 声楽家 | () | 転入 | 1943 | ? | ] | WEBsite | |
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つかもと ちえこ | 死去 | 1979 | ? | WEBsite | |||
辻 直四郎 | 言語学者 | (1899-1979) | 転入 | 1943 | ? | 鵠沼下岡6708(鵠沼松が岡3-8-13)に居住[学士会名簿] | WEBsite | |
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つじ なおしろう | 死去 | 1979 | ? | 鵠沼松が岡3-8-13にて死去[学士会名簿]墓所:鎌倉東慶寺 | WEBsite | ||
サンスクリット学者。東京大学教授。著書は『ヴェーダ学論集』・『サンスクリット文学史』・『サンスクリット文法』など。 | ||||||||
椿 貞雄 | 画家 | (1896-1957) | 転入 | 1916 | ? | 鵠沼松が岡2-6-16(八軒別荘)に居住。※1920年とも | WEBsite | |
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つばき さだお | 移動 | 1923 | 春 | 鵠沼海岸林別荘に居住。震災まで岸田劉生と親交を結ぶ | WEBsite | ||
転出 | 1923 | 9 | ? | 千葉県船橋市に転居 | WEBsite | |||
画家。山形県米沢の出身。岸田劉生に師事、草土社創立同人。後に千葉県美術会も結成。慶應幼稚舎や船橋小学校の図画教師を務める。アトリエは船橋駅の北口にあった1920(大正 9)長与善郎(ナガヨ・ヨシロウ)の妹と結婚。鵠沼時代は鵠沼の風景を好んで描いた。 | ||||||||
寺田 寅彦 | 物理学者 | (1878-1935) | 転入 | 鵠沼松が岡3-5-1在住 | ||||
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てらだ とらひこ | 転出 | ||||||
明治?昭和期の物理学者・随筆家。東京都出身、高知県で育つ。東大卒。五高(熊本)在学中に夏目漱石と知己を得る。「尺八の音響学的研究」で理学博士。1913(大正2)年結晶によるX線回折の実験で世界的に知られる。16年東京帝国大学教授。その後地震研究所で地震予防と防災の研究を進めるかたわら、ガラスの割れ目、墨流し、金米糖の生成などユニークな研究活動を続けた。「天災は忘れたころにやってくる」の有名な警句を残し、優れた随筆家としても知られる。 | 記念館 | |||||||
藤間 嘉雄 | 教育者 | 転入 | 鵠沼海岸6-2-5在住 | |||||
死去 | 鵠沼海岸6-2-5にて死去 墓所:鎌倉東慶寺 | WEBsite | ||||||
1960-1966法政二高校長 ※葉山峻衆院議員の義父 | ||||||||
徳山 l | 歌手 | (1903-1942) | 転入 | 1935 | 鵠沼橘1-5-1に居住 | |||
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とくやま たまき | 死去 | 1942 | 2 | 2 | 享年:39歳・墓所:常光寺(藤沢) | ||
藤沢の開業医の家に生まれた。開校したばかりの逗子開成中学を経て、大正12(1923)年に上野の東京音楽学校本科声楽科に入学。卒業後は武蔵野音楽学校の教壇に立った。オペラ歌手と流行歌の歌手と両面で活躍していたが、昭和10年代に入ると、古川緑波に請われて「ロッパ一座」の舞台に立ち、また、映画に出演するなど、幅広い活動をするようになった。 | ||||||||
内藤千代子 | 小説家 | (1893-1925) | 転入 | 1896 | ? | 一家で東京下谷から鵠沼の知人の別荘に転居 | 鵠沼78号 | |
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ないとう ちよこ | 移動 | 1897 | ? | 鵠沼の知人の別荘から鵠沼海岸7-21-10 山口文蔵宅の離れに転居 | 鵠沼78号 | ||
移動 | 1901 | ? | 鵠沼海岸7-21-10から鵠沼松が岡3-20-12の新居に転居 | 鵠沼78号 | ||||
死去 | 1925 | 3 | 23 | 肺及び咽頭結核で死去。享年31。鵠沼神明の万福寺に埋葬 | 鵠沼39・78号 | |||
明治末〜大正にかけて活躍した婦人雑誌界の流行作家。1893(明治26)年12月9日、東京下谷西町(現、台頭区東上野)に生まれる。幼少時に鵠沼に移住し、知人の別荘、本村の農家に間借りしたが、鵠沼松が岡3丁目に自宅を建てた。父親の家庭教育を受けただけで、学校には入らなかった。15歳の時「田舎住ひの處女日記」で『女學世界』の懸賞日記文に応募、三等入選したのをきっかけにたびたび投稿、ほとんど毎号に作品掲載、寵児となる。18歳で初の単行本『スヰートホーム』を刊行。河岡潮風と対面、以後潮風の指導を受ける。以後7冊を刊行する。 | ||||||||
中村錦之助 | 俳優 | (1932-1997) | 転入 | 1965 | ? | この頃、鵠沼桜が岡3-17-24に居住 | WEBsite | |
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なかむら きんのすけ | 死去 | 1997 | 3 | 10 | |||
1932(昭和7)年11月20日 三世中村時蔵の四男として誕生。本名=小川錦一。1936年歌舞伎座11月公演にて初舞台。芸名中村錦之助。1954年『ひよどり草紙』で映画デビュー。以後、数々の映画に主演、活躍。受賞多数。1972年11月、芸名を萬屋錦之介に改名。翌年TVドラマ『子連れ狼』主演。以後、多くの作品が大ヒット、終生大スターの名を恣にした | ||||||||
中村武羅夫 | 小説家 | (1886-1949) | 転入 | 1919 | 9 | 14 | 鵠沼に居住 | 個性きらめく |
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なかむら むらお | 転出 | 1929 | ? | 鵠沼から辻堂に移住 | 個性きらめく | ||
編集者・小説家・評論家。筆名は王春嶺・藤沢草人。北海道岩見沢生れ。1907年上京、小栗風葉に師事。 1908(明治41)「新潮」の記者、のち編集長となり、長篇小説「人生」をはじめ「渦潮」「女王」「郡盲」「地霊」など多くの作品を発表。「中央公論」の滝田樗陰とともに大正期の名編集長として知られ、プロレタリア文学に対抗して〈芸術派〉の結集をはかった。 1928年の評論「誰だ? 花園を荒す者は!」は有名。 | ||||||||
鳴山 草平 | 小説家 | (1902-1972) | 転入 | 1939 | 3 | 鵠沼海岸7-4-26に居住 | 藤沢人物ファイル | |
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なるやま そうへい | 死去 | 1972 | 3 | 7 | 東京医科歯科大学付属病院にて胃癌のため死去 | 藤沢人物ファイル | |
山梨県南都留郡宝村中津森(現、都留市中津森)生まれ。本名は前田好照。早稲田大学卒。郷里山梨での教職生活の後、鵠沼に移り、神奈川県立平塚高等女学校→横浜第一中学校(希望ヶ丘高校)で国語を教え、戦後は高等学校教職員組合長に選出される。教員時代に書いた『きんぴら先生青春記』が評判になり、1951年1月に退職して作家活動に専念した | WEBsite | |||||||
南條 範夫 | 小説家 | (1908- | 転入 | 1944 | 鵠沼松が岡5 | |||
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なんじょう のりお | 転出 | 1958 | |||||
南部圭之助 | 映画評論家 | 転入 | 鵠沼桜が岡2丁目在住 | |||||
なんぶ けいのすけ | 転出 | |||||||
1996年より映画雑誌『世界映画』を主宰。映画評論家として一世を風靡した。著作も多数。東京オリンピックの記録映画(監督:市川 昆)のプロデュースも手がけた | ||||||||
新関 良三 | 独文学者 | (1889-1979) | 転入 | 1955 | ? | 鵠沼松が岡5-1-4に居住[学士会名簿] | WEBsite | |
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にいぜき りょうぞう | 死去 | ||||||
演劇学者、ドイツ文学者。 ドイツ・オーストリア・スイスに留学。ドイツ文学者としてドイツの劇作家シラーの研究にはじまり、ギリシャ・ローマの古代にさかのぼって、文学面のみならず舞台美術、仮面、演出の方面にもわたり、演劇とその文化史的・生活史的背景との関係を跡付けた。 |
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野呂栄太郎 | 思想家 | (1900-1934) | 転入 | 1927 | 春 | 東仲通(鵠沼松が岡3-6-12)島田いし宅に居住? | 鵠沼18号 | |
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のろ えいたろう | 転出 | 1933 | 春 | 東仲通(鵠沼松が岡3-6-12)島田いし宅を去る? | 鵠沼18号 | ||
昭和初期の経済学者・革命運動家。北海道生れ。慶応義塾大学理財科に在学中、野坂参三(サンゾウ)の産業労働調査所に入る。1927(昭和 2)卒論は『日本資本主義発達史』。1929. 4.16(昭和 4)四・一六事件で検挙され、約1ヶ月豊多摩刑務所に留置。1930. 1.(昭和 5)日本共産党に入党。1932(昭和 7)『日本資本主義発達史講座』の編集にあたり、講座派の中心となるが、同年10月に共産党が大検挙を受け、地下活動に入る。共産党の中央部再建に奔走中、1933.11.28(昭和 8)特高に逮捕され、たらい回しされ、品川警察署で拷問を受け、品川病院で絶命。著書は1927. 1.(昭和 2)『日本資本主義前史』など。 | ||||||||
硲 伊之助 | 画家 | (1895-1977) | 転入 | 1916 | ? | 鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)に居住。1921.4.5、岸田劉生を訪問 | 鵠沼83・83・84号 | |
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はざま いのすけ | 転出 | 1921 | 7 | フランス留学のため鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)を離れる | 鵠沼84号 | ||
転入 | 1929 | 11 | フランスから帰国、再び鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)に居住 | 鵠沼83・84号 | ||||
転出 | 1933 | ? | 再渡仏、版画家、長谷川潔とともに「日本の近代版画とその起源展」開催に尽力 | 鵠沼83号 | ||||
転入 | 1935 | ? | 帰国して「鵠沼の思い出」「砂丘」「小憩」などを制作 | 鵠沼83号 | ||||
転出 | 1940 | ? | 鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)を去る | 鵠沼84号 | ||||
大正・昭和期の洋画家・挿絵画家。号は三彩亭。東京生れ。1911(明治44)木下藤次郎の日本水彩画研究所に入る。翌年、最年少でフュウザン会の結成に参加。1921〜1929(大正10〜昭和 4)滞仏。1933〜1935(昭和 8〜昭和10)渡欧。1937(昭和12)一水会の結成に参加、創立会員。 | ||||||||
長谷川一夫 | 俳優 | (1908-1984) | 転入 | 1955 | 頃 | 鵠沼松が岡1-19-18に別荘を構え、しばしば滞在 | ||
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はせがわ かずお | 転出 | ||||||
デビューから引退まで代表的な二枚目俳優。松竹および東宝の『雪之丞変化』『藤十郎の恋』『銭形平次』『近松物語』など、主演映画実に301本を数える。当地には昭和30年代より別荘としてしばしば滞在しておる。 | ||||||||
長谷川巳之吉 | 評論家 | (1893-1973) | 転入 | 1939 | 5 | 6 | 富士見坂(鵠沼松が岡1-17-20)に居住 | WEBsite |
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はせがわ みのきち | 移動 | 1943 | ? | 鵠沼松が岡3-24-35に転居 | |||
移動 | ? | 鵠沼松が岡4-15-19に転居 | ||||||
死去 | 1973 | 10 | 11 | 鵠沼にて死去 享年:79歳 | WEBsite | |||
演劇評論家・詩人・出版人。新潟県出雲崎町に生まれる。1923(大正12)年第一書房を創業、営利を目的とせず採算を度外視し、不遇の小説家・学者などの出版を行う。出版一代論をとなえ全盛中に戦時出版統制下の1944(昭和19)年敢然廃業、一切の権利を講談社に譲る。 | ||||||||
長谷川路可 | 画家 | (1897-1967) | 転籍 | 1907 | ? | 両親、離婚。路可は母=多嘉が引き取る。暁星寄宿舎に住む | 鵠沼86号 | |
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はせがわ ろか | 転入 | 1915 | 3 | 暁星中学を卒業、1年浪人。劉生・潤一郎らと交流 | 鵠沼86号 | ||
本名=杉村龍三→長谷川龍三 | 転出 | 1916 | 4 | 東京美術学校日本画科に入学。雑司ヶ谷に従弟の長谷川欽一と住む | 鵠沼86号 | |||
転入 | 1927 | ? | フランス留学より帰国し、鵠沼海岸2-9にアトリエを構える | 鵠沼86号 | ||||
転出 | 1937 | ? | 鵠沼より東京目白へ転出 | 鵠沼86号 | ||||
「東屋」二代目女将=長谷川多嘉の一人息子。本名は龍三。雅号は洗礼名ルカによる。東京生まれ。東京美術学校日本画科卒業後、フランスにてフレスコ画・モザイクの技法を学ぶ。帰国後の10年ほど鵠沼に住む。わが国における宗教(カトリック)絵画の第一人者。イタリア、チヴィタヴェッキアの日本殉教者教会の壁画制作により、チヴィタヴェッキア市名誉市民・菊池寛賞を受賞。ローマで客死。2003年、遺族より遺作22点が藤沢市に寄贈された。墓所:府中カトリック墓地 | ||||||||
服部 静夫 | 植物学者 | (1896-1984) | 転入 | 1932 | ? | 病気静養のため、鵠沼下鰯(鵠沼海岸3-9)に居住 | 鵠沼88号 | |
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はっとり しずお | 移動 | 1935 | ? | ? | 鵠沼下鰯から鵠沼下岡(鵠沼松が岡3-5)に転居 | 鵠沼88号 | |
転出 | 1938 | 3 | ? | 鵠沼下岡(鵠沼松が岡3-5)から東京に転居。大学に戻る | 鵠沼88号 | |||
専門は植物生化学。病気療養のため6年間鵠沼に滞在し、散歩の途中で新種のランを発見、植物分類学者=前川文夫博士に標本を届けた。前川博士の研究の結果、新種のランと同定され、クゲヌマラン(学名:Cephalanathera shizioi F.MAEKAWA)と命名されて学会に報告された。 | ||||||||
林 達夫 | 評論家 | (1896-1984) | 転入 | 1922 | 5 | 21 | 高瀬 芳と結婚(5/27)し、鵠沼松が岡3-8四軒別荘の北から3軒目に居住 | 個性きらめく |
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はやし たつお | 移動 | 1923 | 9 | 1 | 震災で自宅全壊→三輪博士宅に身を寄せ、鵠沼桜が岡1-6の高瀬邸へ避難 | WEBsite | |
移動 | 1925 | ? | 鵠沼桜が岡1-6の高瀬邸に滞在[個性きらめく] | 個性きらめく | ||||
移動 | 1938 | ? | 鵠沼桜が岡2-1-26に自宅を新築? | 鵠沼83号 | ||||
死去 | 1984 | 4 | 25 | 鵠沼桜が岡2-1-26の自宅で死去[個性きらめく] | 鵠沼83号 | |||
昭和期の思想評論家・翻訳家。東京生れ。京都大学卒業。東洋大学教授・法政大学予科講師などを経て、1927(昭和 2)雑誌「思想」の編集長。1932(昭和 7)唯物論研究会の結成とともに幹事。1945.10.(昭和20)中央公論社出版局長。1946(昭和21)鎌倉アカデミア講師。1951(昭和26)平凡社に入社し、『世界大百科事典』の編集長。1956(昭和31)明治大学文学部教授。著書は『歴史の暮方』・『思想の運命』・『共産主義的人間』など。 | ||||||||
土方 定一 | 評論家 | (1904-1980) | 転入 | 1966 | 4 | 鵠沼海岸2-7の新東家近くに転居 | WEBsite | |
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ひじかた ていいち | 移動 | 1966 | 11 | 鵠沼藤が谷3-1-18に新居を建てる | WEBsite | ||
転出 | 1976 | 8 | 鵠沼藤が谷3-1-18から鎌倉市笛田に転居 | WEBsite | ||||
美術史家・評論家(文芸・美術)。岐阜県大垣市生れ。東京帝国大学卒業。明治大学講師・千葉工業大学教授を経て、自身で設立に尽力した神奈川県立近代美術館の館長となる。著書は『近代日本洋画史』・『ブリューゲル』など。 | ||||||||
日夏耿之介 | 歌人 | (1890-1971) | 転入 | 1932 | 10 | 療養のため鵠沼松が岡4-13-11に居住 | 個性きらめく | |
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ひなつ こうのすけ | 転出 | 1933 | 12 | 鵠沼を去る | 個性きらめく | ||
詩人・英文学者・評論家。 本名は樋口圀登(ヒグチ・クニト)(戸籍は国登)。長野県伊那郡(イナグン)飯田町生れ。樋口龍峡(リュウキョウ)の甥。京北中学校を経て、1914(大正 3)早稲田大学英文科卒業。 1917(大正6)年西条八十らと同人雑誌『詩人』を創刊。自らゴシック・ローマン詩体と称する独自な詩のスタイルを完成した。 |
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日吉 早苗 | 小説家 | (1900-1953) | ||||||
ひよし さなえ | 死去 | 1953 | 1 | 鵠沼で死去 | 藤沢人物ファイル | |||
山形生まれ。早稲田大学英文科卒。1950年『悲しき神々』で直木賞候補にあげられたが受章は果たせなかった。少年少女向け小説の翻訳も手がけ、その方面で有名。鵠沼中学校校歌の作詞家でもある。 | ||||||||
広田 弘毅 | 元首相 | (1878-1948) | 鵠沼松が岡1-23-28在住 | |||||
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ひろた こうき | |||||||
大正・昭和期の外交官・政治家。福岡県出身。幼名は丈太郎(ジョウタロウ)。太平洋戦争後、A級戦犯として東京巣鴨で絞首刑。極東軍事裁判で1937(昭和12)南京大虐殺の外交責任をとらされ、A級戦犯として絞首刑を言い渡された唯一の文官。 | ||||||||
広津 桃子 | 小説家 | (1918-1988) | 居住 | 鵠沼桜が岡3-6-10に居住 | ||||
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ひろつ ももこ | 死去 | 1988 | 11 | 24 | 鵠沼桜が岡3-6-10にて死去 享年:70歳 | WEBsite | |
小説家=広津柳浪の孫、広津和郎の娘。父の死に際して発表された『波の音』を皮切りに本格的文学活動を始め、1981年、小説家=網野菊を描いた『石蕗の花』で女流文学賞を受賞。遺言で鵠洋小学校に隣接する土地を藤沢市に寄贈。 | ||||||||
福永 武彦 | 小説家 | (1918-1979) | 居住 | 1943 | 石上?に居住 | 藤沢文学地図 | ||
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ふくなが たけひこ | 転出 | 1945 | 7 | 北海道帯広に疎開 | |||
小説家・詩人。筆名は加田伶太郎(探偵小説)。福岡県筑紫郡二日市町生れ。第一高等学校を経て、1941(昭和16)東京大学仏文科卒業。著書は小説『風土』・『草の花』・『廃市』・『海市』・『死の島』、評論『ゴーギャンの世界』など。鵠沼生活は戦時中日本放送協会国際局に勤務した時代の短期間だが、この間に山下澄(詩人=原條あき子)と結婚している | 参考site | |||||||
福永陽一郎 | 指揮者 | (1926-1990) | 転入 | 1962 | 10 | 片瀬山より本鵠沼3-3-5に転居 | 鵠沼88号 | |
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ふくなが よういちろう | 移動 | 1972 | 10 | 本鵠沼より鵠沼藤が谷3-2-33に転居 | 鵠沼88号 | ||
転出 | 1982 | 8 | 鵠沼藤が谷から藤沢市立石に転居 | 鵠沼88号 | ||||
兵庫県神戸市生まれ。東京音楽学校本科ピアノ科を卒業直前に中退。在学時より東宝管弦楽団に所属。指揮者となり、藤原歌劇団の常任指揮者として活躍した。東京コラリアーズや多くの大学合唱団の指導をする一方、藤沢市民交響楽団・藤沢男声合唱団を創設し、「藤沢市民オペラ」を軌道に乗せた。編曲者・音楽評論家としても多くの業績を残している。 | ||||||||
藤田昌次郎 | 実業家 | (1926-2002) | 転入 | 鵠沼桜が岡2の3の10在住 | ||||
死去 | 鵠沼桜が岡2の3の10にて死去 | WEBsite | ||||||
鬼怒川ゴム工業社長。各種自動車及びその部品の研究開発を通じて、永年に亘り、技術の向上発展に貢献した業績により1988年自動車技術会賞技術貢献賞を受賞 | ||||||||
逸見 重雄 | 経済学者 | 転入 | 1951 | ? | 鵠沼松が岡4-3-1松本陽松園一番左奥の家に居住 | 鵠沼77号 | ||
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へんみ しげお | 死去 | 1977 | 鵠沼松が岡4-3-1にて死去 | ||||
野呂榮太郎の活動を助け、自身も共産党に入党し、治安維持法違反等で2度服役した。戦後法政大学教授、社会学部長。 | ||||||||
松岡 静雄 | 民族学者 | (1877-1936) | 転入 | 1923 | 夏 | 鵠沼の山口紋蔵の別棟に滞在。震災時に活躍→後に定住。著作多数を執筆 | 鵠沼2号 | |
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まつおか しずお | 移動 | 鵠沼海岸7-18-14に居住 | 藤沢文学地図 | ||||
死去 | 1936 | 5 | 23 | 午後0時55分 妻子門弟にかこまれて死去 享年59歳 | 鵠沼23号 | |||
兵庫県神崎郡福崎町辻川区生まれ。言語学者・民族学者。井上通泰・柳田国男の実弟、松岡映丘の兄。第1次大戦中、1914.10. 7(大正 3)巡洋戦艦筑波の副長として、ドイツ領南洋ミクロネシアのポナペ島占領し初代守備隊長。退官後、ミクロネシアの言語・文化について研究を行う。台湾総督府から資金援助などを受け、柳田国男と日蘭印通交査会を作る。 | 記念館 | |||||||
松嶋 善作 | 政治家 | 転入 | 鵠沼藤が谷3-10-11在住 | |||||
まつしま ぜんさく | 死去 | 鵠沼藤が谷3-10-11にて死去 | ||||||
民自党参議院議員。戦後第2代の参院副議長 | ||||||||
真鍋 武雄 | 実業家 | (1934-2000) | 転入 | 鵠沼橘2-5-19在住 | ||||
まなべ たけお | 死去 | 2000 | 9 | 14 | 鵠沼橘2-5-19にて死去 | WEBsite | ||
エヌエスケー・トリントン(株) 社長 神奈川県出身 1958年慶大工学部機械学科卒業→日本精工に入社。藤沢工場計画部長、大津工場長、多摩川工場長、取締役・生産本部副本部長を経て1994年6月エヌエスケー・トリントン社長に就任 | ||||||||
馬渕 聖 | 画家 | (1920-1994) | 転入 | 1957 | 横浜市から鵠沼海岸に転居 | WEBsite | ||
まぶち とおる | 転出 | 1975 | ? | 茅ヶ崎市芹沢に転居 | WEBsite | |||
木口木版画家=録太郎の子として東京に生まれる。東京美術学校工芸科図案部繰上げ卒業。 穏健にして重厚な作風の木版画を目指した。戦後、横浜市に移転、父の経営する太郎吉図案所に勤める傍ら光風会展、日展、日本版画協会展に出品。1960年、日本版画会の創立に参加(のち会長に就任)、66年神奈川光風会が発足、同会代表となった。鎌倉美術家協会理事長、神奈川県展審査員、女子美術短期大学講師 |
WEBsite | |||||||
真船 豊 | 劇作家 | (1902-1977) | 転入 | 1938 | 夏 | 妻の病気療養のため大森から鵠沼藤が谷2-10-15に転居 | 個性きらめく | |
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まふね ゆたか | 転出 | 1940 | ? | 東京に転居 | |||
劇作家・小説家。福島県会津生れ。父禎吾・母いとの次男。早稲田大学英文科中退。 言葉の独特のリズムで鋭く人間を風刺した喜劇作家の第一人者。妻の転地療養のために境橋のたもとに転居したが、妻が死亡し、境川の氾濫による水害に遭い、2年ほどで東京に引き上げた。 |
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水木かおる | 作詞家 | (1927-1998) | 転入 | ? | 鵠沼桜が岡1-4-10に居住。 | WEBsite | ||
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みずき かおる | 死去 | 1998 | 7 | 4 | 心不全のため、藤沢市民病院で死去。享年:71歳。 | ||
本名・奥村聖二=おくむら・せいじ)。大阪府出身。 代表作は「アカシヤの雨がやむとき」「くちなしの花」「みちづれ」など。 |
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三益 愛子 | 映画女優 | (1910-1982) | 転入 | 1960 | この頃、鵠沼松が岡2-19-10に居住 | |||
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みます あいこ | 死去 | 1982 | 1 | 18 | 東京女子医大病院にて死去。享年72歳 | ||
本名・川口愛子。明治43年(1910)11月2日、大阪市南区南炭屋町で誕生。旧姓乾。大阪府立阿倍野高等女学校を中途退学、千日前楽天地に於いて旗上げした新潮劇の研究生となる。芸名:水町清子。1929年上京。曽我廼家五九郎一座、エノケンの劇団ピエル・ブリアントを経てロッパ中心の浅草松竹「笑いの王国」の結成に招かれ、三益愛子を名乗る。1934年映画初出演。翌年第1回直木賞作家、川口松太郎と結ばれる。母もの映画などに多く出演し、戦後、川口と共に鵠沼に住む。1976年紫綬褒章を受賞。三男一女(浩・恒・晶・厚)の母 | ||||||||
宮内 寒彌 | 小説家 | (1912-1983) | 転入 | 1942 | 4 | 上 | 鵠沼松が岡2-11-17山中方に居住 | 藤沢人物ファイル |
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みやうち かんや | 転出 | 1965 | ? | 鵠沼を去る | |||
小説家。本名は池上子郎(シロウ)。神奈川県生れ。父は中学校教師で、その任地樺太(現:サハリン)で少年時代を過ごし、大泊中学校卒業。1935(昭和10)早稲田大学英文科卒業。『真白き富士の嶺』で知られる逗子開成中ボート遭難事件を扱った『七里が浜』で1978年平林たい子賞を受賞。 | ||||||||
武者小路実篤 | 小説家 | (1885-1976) | 転入 | 1915 | 1 | 東屋から妻房子、養女喜久子ととも佐藤別荘に移る | 鵠沼15・20・82号 | |
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むしゃのこうじ さねあつ | 移動 | 1915 | 4 | 18 | これ以前に旧鵠沼下岡6708の川元別荘に転居 | 鵠沼15・20号 | |
転出 | 1915 | 9 | 鵠沼から東京千駄ヶ谷へ転居※1916.2とも | 鵠沼20号 | ||||
小説家・劇作家・随想家・詩人・画家。号は無車・不倒翁。東京麹町区元園町に、子爵武者小路実世の第8子として生れる。学習院を経て、1906(明治39)東京大学社会学科入学、翌年中退。太平洋戦争終戦直後、勅選議員に任命されて戦犯として公職追放にあう。 | 記念館 | |||||||
村川 堅固 | 歴史学者 | (1875-1946) | 転入 | 1929 | 夏 | 鵠沼中岡6282(鵠沼松が岡5-8-30)に別荘建設 | 鵠沼76号 | |
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むらかわ けんご | |||||||
西洋史の大家で晩年は東京大学名誉教授 | ||||||||
村川堅太郎 | 歴史学者 | (1907-1991) | 転入 | 1937 | ? | 鵠沼中岡6282(鵠沼松が岡5-8-30)に居住 | 鵠沼76号 | |
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むらかわ けんたろう | 転出 | 1952 | ? | 鵠沼中岡6282(鵠沼松が岡5-8-30)より転居 | 鵠沼76号 | ||
転入 | ? | ? | ? | 鵠沼中岡6282(鵠沼松が岡5-8-30)に戻る | 鵠沼76号 | |||
死去 | 1991 | 12 | 23 | 鵠沼松が岡にて死去 | 鵠沼76号 | |||
村川堅固の長男。古典古代史の領域で、市民共同体としてのポリス社会の諸問題に関する高度に実証的な研究の道をきりひらき、多くのすぐれた研究者を育てた。遺言により屋敷を公園とすることを申し出、「鵠沼松が岡公園」が生まれた。 | ||||||||
村永 幸男 | 実業家 | 転入 | 鵠沼桜が岡2-8-31在住 | |||||
死去 | 鵠沼桜が岡2-8-31にて死去 | WEBsite | ||||||
アルテック会長 | ||||||||
室伏 高信 | 評論家 | (1892-1970) | 転入 | 1926 | 10 | 鵠沼2217(現鵠沼橘1-5-4)に転居する | WEBsite | |
むろぶせ こうしん | ||||||||
評論家。1939. 2.22(昭和14)杉森孝次郎・清沢洌・三木清らと評論家協会設立を設立。訳書は1940(昭和15)『我が闘争』(ヒトラー著)、1945(昭和20)『新生の書』など。 | ||||||||
望月 和夫 | 実業家 | (1924-2002) | 転入 | 鵠沼松が岡1-20-3在住 | ||||
死去 | 藤沢市の病院にて死去 | WEBsite | ||||||
日本コロムビア社長。1946年日本コロムビア入社。専務を経て85年から93年まで社長。88年から90年まで日本レコード協会会長を務めた。 | ||||||||
森 銑三 | 書誌学者 | (1895-1985) | 転入 | 1947 | ? | 鵠沼海岸5-13付近(古書の弘文荘の反町茂雄所有地)に東京板橋から転居 | 鵠沼79号 | |
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もり せんぞう | 移動 | 1976 | ? | 鵠沼海岸5-13から鵠沼海岸2-17に転居? | 鵠沼79号 | ||
死去 | 1985 | 3 | 7 | 死去。鵠沼神明の万福寺に埋葬(分骨) | 鵠沼79号 | |||
近世学芸史研究家・随筆家。筆名は刈谷新三郎・閑々子。愛知県生れ。文部省図書館講習所卒業。作品は1943(昭和18)刊『月夜車』など。 | ||||||||
森島 守人 | 政治家 | (1898-1975) | 転入 | 1958 | 鵠沼松が岡3-5-3在住 | |||
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もりしま もりと | 死去 | 1975 | |||||
外交官として日中開戦時には北京で参事官、日米開戦時にはニューヨーク総領事だった経験を戦後、岩波新書『陰謀・暗殺・軍刀-一外交官の回想-』『真珠湾・リスボン・東京 -続一外交官の回想- 』に著した。1954年日本社会党に入党、神奈川三区から出馬して衆議院議員になり、外務委員となる | ||||||||
安岡章太郎 | 小説家 | (1920-1998) | 転入 | 1945 | ? | 鵠沼に居住 | 藤沢人物ファイル | |
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やすおか しょうたろう | 転出 | 1952 | ? | ||||
戦後、鵠沼に在住した芥川賞作家。 | ||||||||
矢田 修 | 画家 | (1920-1998) | 転入 | 1942 | ? | 鵠沼に居住 | 藤沢人物ファイル | |
やだ おさむ | 死去 | 1980 | ? | |||||
戦後、鵠沼に在住した芥川賞作家。 | ||||||||
横堀角次郎 | 画家 | (1897-1978) | 転入 | 1921 | 9 | 品川区上大崎より鵠沼に転居。岸田劉生と親交 | 鵠沼78号 | |
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よこほり かくじろう | 転出 | 1923 | 9 | 震災後群馬県に帰郷。後に東京に居住 | WEBsite | ||
群馬県勢多郡生。椿貞雄と知る。正則中学校卒。岸田劉生に師事。1915年巽画会展で三等賞。草土社同人。23・24年春陽会賞。24年三岸好太郎らと麗人社を結成。30年春陽会会員。41年群馬美術協会の創立に参加。68年中川紀元らと墨彩会を結成。 | ||||||||
横山 重 | 書誌学者 | (1896-1980) | 転入 | 1917 | ? | 本郷富坂町から鵠沼へ転居 | WEBsite | |
よこやま しげり | 転出 | 1974 | ? | 鵠沼より(?)伊豆高原(伊東市浮山町)へ転居 | WEBsite | |||
長野県東筑摩郡片丘村(塩尻市片丘)に生まれる。松本中学(現深志高校)卒業後、島木赤彦を追って上京、雑誌「アララギ」の編集を手伝う。鵠沼へ転居後、慶応義塾大学部文学科ヘ入学。大正から昭和にかけて多くの古典文学に関する書籍を世に送り出した編集者・書誌学者 | ||||||||
渡辺 水巴 | 俳人 | (1882-1946) | 転入 | 1944 | 4 | 鵠沼7,328(鵠沼藤が谷2-10-19)に疎開? | 鵠沼9号 | |
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わたなべ すいは | 死去 | 1945 | 8 | 13 | 鵠沼藤が谷2-10-19の寓居で死去。享年65歳 | 鵠沼9号 | |
本名は義(ヨシ)、別号は静美・流觴居(リュウショウキョ)。東京生れ。渡辺省亭(セイテイ)の長男。内藤鳴雪・高浜虚子に師事し、「ホトトギス」同人として活躍。「曲水吟社」を創立し、俳誌「曲水」を創刊主宰。 強制疎開で東京から鵠沼に転居し、翌年に病没した。 |
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綿貫 勇彦 | 地理学者 | (1892-1943) | 転入 | 1942 | ? | 本鵠沼に疎開? | 実地調査 | |
わたぬき いさひこ | 死去 | 1943 | ? | 鵠沼にて死去 | 実地調査 | |||
愛媛県出身。東京帝国大学地理学科卒。松山高等商業学校教授→駒澤大學教授。集落地理学の第一人者。主著:『聚落地理學』は1949年に復刻され、人気を呼んだ。 疎開で東京から鵠沼原の農家に間借りし、翌年に病没した。 |
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和辻 哲郎 | 哲学者 | (1889-1960) | 転入 | 1915 | 9 | 1912/6に高瀬 照と結婚→鵠沼藤が谷2-4の高瀬邸内に移住 | 鵠沼89号 | |
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わつじ てつろう | 転出 | 1925 | ? | 京都帝大に職を得て鵠沼を離れる | 鵠沼89号 | ||
哲学者・倫理学者・文化史家・評論家。兵庫県姫路近在の仁豊野(ニブノ)生れ。1912(明治45)東京大学哲学科卒業。卒業論文執筆のため藤ヶ谷高瀬邸の離れに滞在し、長女=照子を見初めて結婚した。◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。 |
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