「しおかぜ号」の履歴書
−−−鵠沼のSL−−−
伊藤節堂
(はじめに)
鵠沼海岸6丁目の引地川沿いに鵠沼運動公園がある。ここは小字名を八部(ハッペ)というので八部公園ともいう。ところが、実は八部公園が正式名称で、運動公園の名は後日愛称としてつけられたのである。
さて、鵠沼新道から入ると、まずテニスコートがある、その後方に野球場左手にプールがある。管理係の前を通って、プールの北側に回ると、鉄柵が施された中に、かっての栄光を物語るかのように、1台の蒸気機関車が置いてある。
入口に立てられた案内板によると、C11型245号蒸気機関車で、今では子供たちからもらった愛称「しおかぜ号」なのである。もう1枚の案内板には245号各部の説明と、簡単な経歴が示されている。
ではこれから2つの案内板を手がかりにC11型245号あし跡を訪ねてみよう。
1.しおかぜ号の誕生
昭和18年は大変な年であった。太平洋戦争はいよいよ激しさを加え、2月にはガダルカナル島の日本軍が全軍撤退、4月には連合艦隊司令長官山本五十六大将がソロモン上空で戦死、5月には北方アッツ島の日本守備隊が全滅するなど、戦局はますます激しく、苦しい情勢となっていた。
こうした状況の中で、埼玉県蕨市にある日本車輌株式会社の工場では「戦地の兵隊に負けるな」を合い言葉に、夜を日に次いで機関車の増産に取り組んでいた。
そして昭和5年にC10型を作ったがそれを更に改良したのがC11型であった。この型の第1号機は昭和7年に誕生し、その年には全部で25両つくられた。
また「しおかぜ号」と同じ年の昭和18年生まれは26両で、この年におけるC11の全国総数は264両に達したのである。
2.「しおかぜ号」赤谷線に配置
昭和18年6月7日「しおかぜ号」は新潟鉄道局新津機関区の所属となり「日本車輌」から新津へ回送された。新津機関区では、C11型の機能を十分に発揮できる線区を選び、赤谷線に配置することになった。
赤谷線は羽越本線新発田駅から別れて、加治川の流れに沿ってさかのぼり、飯豊(いいで)連峰の谷深く分け入った鉱山基地、東赤谷駅までの19.8qで、目に触れるものは田園と山と渓谷で、SLが走るにはぴったりの風景である。
この赤谷線は大正14年(1925)11月新発田−赤谷間が開業し、更に昭和16年に赤谷−東赤谷間を延長したものである。
昭和18年当時の駅は新発田、五十公野(いじみの)、米倉、赤谷、東赤谷と5つしかなかったが、その沿線各駅を紹介しよう。
◆ 新発田は慶長3年(1598)以来溝口氏10万石の城下町として栄え、明治17年(1884)には歩兵第16連隊が置かれ、兵隊さんの町であった。昭和22年市政を施行し、現在人口7万4千の商工都市である。
◆ 五十公野は、旧五十公野村の役場所在地で、昭和30年新発田市に合併した、元大関豊山、現在の時津風親方はこの五十公野の出身で赤谷線踏切のすぐ近くに生家がある。
◆ 米倉は、旧米倉村の中心で、名前の通り純農村の米どころである。昭和30年新発田市に合併した。
◆ 赤谷は、旧赤谷村、むかしの会津街道の宿場もある。新発田藩の参勤交代はこの街道を通り、江戸まで93里(372q)9日間の行程であった。昭和30年新発田市に合併した。
◆ 東赤谷は旧赤谷村で飯豊の山ふところにあり、新潟県北部の豪雪地帯である。ここにかなりの鉄鉱資源が埋蔵され、明治のころから採鉱計画がたてられては中止されるという運命にあった。本格的に採鉱が始まったのは昭和15年で昭和16年に延長開通した赤谷線によって輸送された。
3.寒河江機関士との出会い
赤谷線を走ることになった「しおかぜ号」の乗務員は、寒河江福七機関士(当時34才)と土田純司機関助手は(当時17才)が一組、反対組は白井留次機関士とその助手であった。寒河江さんは新発田市五十公野の出身で、大正12年国鉄に就職、努力を重ねて昭和16年にあこがれの機関士を拝命、そして昭和18年に「しおかぜ号」と出会いとなった。寒河江さんはこの出会いを次のように語っている「以前は870型、2120型でしたが、C11245号が配置された時は、振動が少なく、運転室も広くて、みんなで、まるで電車に乗ったようだと喜んだものです。」
「あしかぜ号」は午前5時50分の新発田駅始発から1日数回のいわゆる機織り運転であった。この一番列車を運転するために、寒河江さんは「当時の新発田駐所には、休養室も何にもないので、五十公野の自宅から、朝4時起きで通勤しました」といっている。
4.赤谷線の泣きどころ
赤谷線田園地帯から渓谷に沿って走り、飯豊の山ふところに入るのであるが、山にかかってからが大変である。急勾配、急カーブが連続する新潟県きっての難コースといわれる。また冬は下越地方随一の豪雪地帯でもある。その様子を両人に聞いてみよう。
寒河江さんは「一番泣かされたのは赤谷駅を出てすぐ東赤谷寄りにある千分の33の急勾配でした。雪が降ればもちろんのこと、引っ張る列車が重い時は、ちょっとした雨でもスリップして上れなくなる。そのたびに赤谷駅までバックして、蒸気を全開にして、はずみをつけて上るのです。それでもまだ上れないことが何度もありました。そんな時は仕方がないので貨車を赤谷駅で切り離し、客車だけを引いて上りました。」
当時の機関助手土田さん「一番の難敵は雪でした。新潟機関区からラッセル車が来て除雪してくれるのですが、ラッセルが引き上げてから一番列車が出るまでに、またドカッと降られてしまうのです。機関車の前部に雪よけのスキーがついていますが、機関車が軽量級だから抵抗が大きくて、なかなか進めません。そのうち小さなタンクの水が尽きて立ち往生でした。地元の消防団に頼んで、手押しポンプで給水してもらったこともあります」(朝日新聞社「越後の停車場」)と苦労話を語る。
5.赤谷線最後のSL
大正14年11月開業以来、赤谷線の列車は客貨混合列車であった。開業当初の機関車は870型と呼ばれた動輪が2軸の小型機関車で、外国製であった。昭和に入ってから間もなく「勾配に強い」といわれた名機2120型が配置され、つづいてC11型の登場となるのである。寒河江さんは「C11型は先輪後輪とも自在装置で、冬季以外は変更なく運転でき、重宝がられていました。」と語る。
「しおかぜ号」が赤谷線を走ってから17年の歳月が流れた昭和35年3月15日、国鉄は経営合理化計画の実施で、赤谷線の列車を旅客と貨物に分離し、客車は気動車に切り替え、貨物列車はジーゼル機関車(DL)が引くことになった。こうして赤谷線のSLは「しおかぜ号」を最後として、35年の幕を閉じたのである。
懐かしの赤谷線よ、加治川のせせらぎよ、苦しかった千分の33の勾配、お世話になった寒河江機関士、そして土田機関助士、どうぞいつまでもお元気で。
寒河江機関士はこのときを最後に、再び「しおかぜ号」にめぐり逢うことはなかった。
6.「しおかぜ号」羽越線を走る
赤谷線を17年間走った「しおかぜ号」は、人間に例えるなら40年代半ばというところではないだろうか。働き盛りには違いないが、体力的に無理のきかない老齢期にさしかかっていた。
赤谷線から本区の新潟機関区に配置された「しおかぜ号」は羽越本線を走ることになった。新津を起点として北蒲原平野の真ん中を走るのだから急勾配はどこにもない、その点中年の「しおかぜ号」にとって何よりの幸せであった。
新津機関区にはC11型がもう1両配置されていた。それは昭和19年に生まれた「269号」で、いうなれば「しおかぜ号」の弟になるわけだ。
赤谷線の「しおかぜ号」が1か月に1回洗缶検査で、新潟の本区に回送される時、あるいは2年に1回、一般検査や修理のため長野工場に入るときには、必ず弟の「269号」が助人赤谷線を走ってくれたのである。
ところで羽越線当時の「しおかぜ号」の消息を知る機関士がみつからず、その健闘ぶりを詳しく記録できないのは残念だが、わずかに、新津新町の瀬古龍雄氏が撮影した4枚の写真によって、「しおかぜ号」の活躍ぶりがまざまざと甦ってくるのである。
その1 昭和39年2月29日 羽越本線阿賀川鉄橋で客車を引く姿
その2 昭和39年11月22日 新津駅で客車を引き出発信号を待つ姿
その3 昭和39年11月 同線阿賀川鉄橋で客車を引く姿
その4 昭和41年2月3日 同線新津一京が瀬間で貨車を引く姿
7.「しおかぜ号」石巻線へ
赤谷線からSLの姿が消えてから、12年たった昭和47年2月14日、米坂線(米沢−坂町)に「キュウロク」(9600号SL)の「さよなら列車」が走った。夥しい数のSLフアンが米坂線におしかけた。それから6か月後に、羽越本線の電化が完成、この羽越線を最後として新潟県内からSLはまったく姿を消したのである。
昭和48年4月3日「しおかぜ号」は仙台鉄道管理局小牛田運転区へ配置替えとなり、石巻線を走ることになった。石巻線は東北本線小牛田駅から女川(おながわ)駅に至る44.9キロで駅の名は15。大正元年10月仙北鉄道会社によって小牛田−石巻間が開通したが、大正8年4月政府に買収された。その後国鉄によって建設が進められ、昭和14年10月7日石巻−女川間が開通した。本場「ささにしき」の穀倉地帯と、太平洋マグロ・捕鯨の基地を結ぶ産業路線でもある。
さて、月日のたつのは速いもので、「しおかぜ号」赤谷線を始めて走ってから、すでに30年過ぎた。人間ならさしずめ定年というところである。そういえば機能的のも衰えが見え始めた。
これまで26年間、定期検査以外は1日も休まず働き通したが最近は気動車やDLなど若手連中が引っ張りだこで、老SLには、一向に呼び出しがかからない。昭和44年度は休車日数が62日、45年度は238日、46年度は235日、そして47年度は365日を休業してしまった。
小牛田運転区に配属されて間もなく、4月20日から15日間、郡山工場で中間検査を受け、整備は完了した。そして5月3日さあやるぞ、まだまだ若い者に負けないよと石巻線を走る「しおかぜ号」の頼もしい姿は、SLを愛し、SLを懐かしむ人々の注目を集めた。
8.「しおかぜ号」引退
始発駅小牛田駅を発車した「しおかぜ号」は途中、前谷地、石巻などを1時間10分で終着駅女川に着く。女川港は風光明媚な牡鹿半島の東岸で代表的なリアス式海岸女川湾に深く入り込んだ天然の良好である。水深は世界でも屈指の港といわれ、1万5千トン級の船も自由に出入できる遠洋漁業の基地である。
また女川港から15.8キロの湾外東方に、戸数150戸、人口1000人余の漁業の島女川町江ノ島があることに注意を願いたい。3年後「しおかぜ号」が江の島の見える藤沢市鵠沼に居を移すことになるのも、まことに不思議な因縁というほかはない。
石巻線を走り続けた昭和48年度は、走行キロ数29.065q、休車日数19日であった。
ところが、「しおかぜ号」にとって、これが文字通りの、最後のご奉公となってしまった。というのは、昭和49年4月1日には第2種休車指定(仙運機第3785号)を受け、つづいて5月28日には「用途廃止」(工車第 133号)の決定がなされたのである。
しかし、精一ばい働いてきた「しおかぜ号」にとって、なにも悔いることはなかった。赤谷線では若いエネルギーを遺憾なく発揮しその走行キロ数は17年間に681,938q、年平均40,114qを走った。羽越線では、熟年の経験を十分に生かしてその走行キロ数は13年間に206,846q、実働年間平均 17.237q また石巻線もこの1年間に 29,065q の実績で有終の美を飾った。走行キロの総合計は 917,851qで、このキロ数はなんと、地球を22回半回るキロ数に相当するのである、
戦中戦後を通じて31年間、ほんとうにご苦労さん。「しおかぜ号万歳」と万感を込めて拍手を送りたい。
一方、寒河江機関士は昭和40年国鉄を退職、新発田市内の工場のボイラーマンとして12年間を勤め上げ、現在は国鉄のOB会の役員などをやりながら、74才の豊かな老後を送っている。また、土田機関助士は新発田駅勤務を経て昭和57年退職、現在、新発田市体育部のスキー教室指導員で張り切っている。
9.「しおかぜ号」と少年
さて、話はかわって昭和50年9月、当時、藤沢市立俣野小学校の6年生椛島剛岩から、藤沢市長にあてた手紙がきっかけとなって、藤沢市にSLが誘致されることになった。そして1年後の51年10月1日、藤沢市政記念日に、SLを迎える記念式が鵠沼運動公園で行われた。午後1時東京南鉄道管理局長から藤沢市長に「C11245号」のナンバープレートが手渡された。
これで子供たちの夢はかなえられ、喜びに沸き立つ子供たちは、先をあらそってSLに手を触れ、デッキに乗った。この日を機会に「藤沢SL少年団」会員80名が結成され、「C11245号」は「しおかぜ号」と命名された。
以来、SL少年団は、毎月第2日曜に集まって、「しおかぜ号」を磨き上げるのだ。それは恰も、孫たちが集まって、おじいちゃんの肩をたたき、腰をもむような、ほほえましい光景を私たちは見ることができるのである。
−−−−完−−−−
C11245号経歴
昭和
18・05・29 蕨市日本車輌株式会社で製造される。
〃 06・07 新潟鉄道局新津機関区の所属となり赤谷線に配置される。
35・03・15 羽越本線に配置替えとなる。
48・04・05 仙台鉄道管理局小牛田運転区へ所属替となり石巻線に配置される。
49・04・01 仙運機第3785号により「第2種休車指定」を受ける。
49・05・28 工車第133号により「用途廃止」と決定、盛岡機関区に移される。
50・10・01 国鉄から藤沢市ヘナンバープレートの授受が行われ、鵠沼運動公園に保存される。
( あとがき )
明治5年新橋−横浜間を走って以来およそ百年間、日本全国どこでも走っていた蒸気機関車が、いまでは特定の場所でしかみることができません。「汽笛一斉新橋を」の鉄道唱歌とともに、蒸気機関車はなつかしい心のふる里であります。
この度、鵠沼運動公園に保存されているしおかぜ号の履歴書を書くに当たって新潟市在住の元新潟鉄道管理局総務部長川上一氏並びに新発田市在住の元国鉄機関紙寒河江福七氏から懇篤なご指導をいただきました。ここに記して厚くお礼申し上げます。
(昭和58・3・21記)