鵠沼海岸別荘地開発記念碑 意訳

 湘南海岸一帯はその昔砥上が原と呼ばれ、鵠沼はその東南の隅にあります。海に向かって左側は片瀬、右側は辻堂です。南側は広々と海が拡がっていて、伊豆大島や三浦半島が望めます。西の方向には富士山が高く天にそびえ立ち、箱根・足柄や大山などの山々がその左右に連なっています。明治19(1886)年に埼玉県川越の伊東将行さんという人が、たまたまこの地にやって来て、あちらこちらと歩き回り、辺りを見回して「こここそ郊外生活の好適地だ」と考え、ここに移り住みました。土地(羽鳥)の人である三觜直吉さんと協力して、他から訪れる人々のために鵠沼館という旅館を創設しました。翌20(1887)年、今福元穎さん・三觜八郎右衛門さん・金子小左衛門さん・田中平八さん・齋藤六左衛門(鵠沼の旧名主で大地主)さんなどと相談して「武相倶楽部」をつくりました。将行さんは自らその部員になり、熱心にお客さんをたくさん呼ぶように努力しましたが、なかなかうまくいきませんでした。将行さんはそれにへこたれず、明治22(1889)年中野武営さん・中島行孝さん・伊藤幹一さんと海岸の開発に取り組みました。道路を通し、松の木を植え、家屋と庭を作るのに便利なように工夫しました。このようにして、その昔、広々とした砂地で、風が吹けば顔に砂が当たって痛かったような土地が、今は見渡す限り景色の素晴らしい場所となったため、ここに別荘を設ける上流階級や大金持ちが、年々増えてきました。蜂須賀茂承さん・益田孝さん・藤堂高紹さん・久松定謨さん・馬越恭平さん・高瀬三郎さん・郷誠之助さん・廣岡助五郎さん・山口寅之輔さん・佐藤長四郎さん・吉田嘉助さん・宮ア寛愛さん・千葉恒次郎さん・小田柿捨次郎さん・田中銀之助さんというような人々が、代表的な人々です。将行さんは、ますますがんばって、明治25(1892)年に「東家(東屋とも書く)」というもう一つの旅館を営業しました。初めは小さかったのですが、だんだん増築して拡げていきました。建物はとても良くできていて大きく素晴らしかったのですが、贅沢すぎることはありませんでした。それぞれの建物の周りには松の木を植え、庭には池を掘って水を蓄えましたが、思わず手を入れたくなるほどきれいな水でした。旅館の前には波の打ち寄せる海岸を隔てて江の島が手に取るように望めます。何と贅沢な眺めでしょう。この旅館のように海や山の眺望が素晴らしいところは、他には余りないでしょう。その上客室が清潔で、魚料理がおいしく、もてなしが素晴らしいのです。この地の発展に伴って、この旅館の繁盛はとても評判になりました。寺尾亨さんが時折この地にやってきて、世間にその素晴らしさを言い広めました。いつも話していたのは、「鵠沼がこれまでこのように発展したのは、私が思うには将行さんの長年にわたる働きの結果なのであって、その業績を埋もれさせてはならない」ということです。その通りでしょう。ところが将行さんは今年の7月29日に病気で亡くなられました。亡くなったときの年齢は七十五歳です。孫の将治さんがその家督を継ぎ、仲間の長谷川欽一さんがその仕事を受け継ぎました。施設はみなそのままです。地元の有志は、その立派な仕事を褒めたたえ、みんなで相談して石碑を建て、この地鵠沼の開発を記念し、かねてこのことを後々まで伝えようということで、文章を書くことを私に頼んできました。私もそれに賛同し、そのためにそのあらましを原稿として書き記し、銘を書き残すことにしました。

鵠沼之濱開發維新 鵠沼の海岸は開発で新しく変貌しました。
翠嵐遠望碧波近接 遙かに青々とした連山を望み、近くには青い波が打ち寄せます。
宜冬宜夏可宅可游 冬来ても良く夏も素晴らしい、住みたくなるし遊びに来たくなる。
湘南多勝勝中之勝 湘南には素晴らしいところはたくさんありますが、鵠沼の素晴らしさはどこにも負けません。

    大正9(1920)年庚申(かのえさる=こうしん)12月
  頭山 満さんが題字を書き、牧野随吉さんが文章と文字を書きました。

※最後の漢詩2行目冒頭の「翠嵐」は「翠巒」でなければ意味が通じない。ここでは「翠巒」として意訳してある。
(翠嵐=青々とした木々  翠巒=青々とした山々 両方とも読みはスイラン)