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渡部 瞭(会員) | |
はじめに 筆者は、地理を教えるという立場上、これまで20回、60か国余りの海外旅行を経験した。旅先では、ツアーガイドをはじめとする旅行関係者ばかりでなく、商社マン、JICA職員や青年海外協力隊員、日本人学校関係者、研究者、新聞記者、外交官など、海外で活躍する多くの日本人に出会った。 そういった出会いの中でも、特に印象に残った三人の仕事の跡について、ここでは紹介してみたい。 副題に掲げた天野芳太郎(よしたろう)・長谷川路可(ろか)・杉原千畝(ちうね)の三人である。 この三人は、それぞれ別の地域、別の領域で活躍し、お互いの接点は全くない。しかし、共通する三つの要素を挙げることができる。一つは海外での活動が国際的に高く評価されていること、一つはキリスト教徒であること、もう一つは期間の長短があるにせよ、鵠沼に住んでいた時期があることだ。標題に「鵠沼人」などと書いてしまったが、鵠沼人といえるのは長谷川路可ぐらいなもので、あとの二人は失意の時代を鵠沼で過ごしたともいえようか。 |
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華の聖母子 |
天野芳太郎 博物館前で |
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カウナス 杉原記念館 |
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天野芳太郎 日本のシュリーマン ペルー、リマ〈天野博物館〉で この三人の中で、筆者が直接お目にかかり、親しくお話しさせて頂いたのは、天野芳太郎氏だけである。 1981年7月、ペルーの首都、リマの高級住宅地の一画に建つ〈天野博物館〉においてだ。氏が召天されたのは1982年10月14日だから、そのわずか1年あまり前ということになる。83歳という高齢だったが、背筋もシャンと伸ばされ、声にも張りがあって、その当時はお元気そうだった。(以下敬称略) 彼の案内で博物館の展示品を親しく拝見した。「ペルーの財産を金を取って見せたくない」との方針で、入場は無料、必ず案内人が解説する、展示品を手にとって触れられるということが守られている点に感心させられた。 展示物は「天野コレクション」と呼ばれるペルー各地の遺跡から出土した主にプレインカ時代の遺物である。どこかの金持ちが金にあかせて収集したというものではなく、天野自身が寒暖の差の激しい乾燥地で、何日間もテント生活をしながら発掘したものだ。 ペルーの歴史ではインカ帝国がよく知られているが、これは時代的には新しく、日本史でいうと鎌倉時代から戦国時代といったところだ。プレインカとは、紀元前1000年(日本では縄文後期)頃からのチャビン文化以降の各地の古代文化を総称していうもので、地上絵で有名なナスカ文化も含まれる。 「天野コレクション」はプレインカ全体にわたり、時代的にも地域的にも広範なものだが、特に中心をなしているのがチャンカイ遺跡の出土品だ。 チャンカイ文化はペルーの海岸部の沙漠地帯に、日本史でいうと平安末期すなわち大庭(おおば)御厨(みくりや)がつくられた頃の文化で、織物・編み物・染色といった繊維類の遺物に大きな特色を持つ。何段もの抽斗(ひきだし)に整理された絞り染めの布や見事なレースを引き出して見せてくださる彼の目には、遺物に対する深い想いが込められていた。 もちろん、土器や木器の展示も豊富で、ガラスケースを開けて取り出し、手に持たせてくださる。それらを見て感じたことは、“チャンカイ人とは何と遊び心を持った人たちだろう”というものだった。チャンカイ文化の双注口壺には、一つの口から液体(チチャというトウモロコシを醸造した酒らしい)を注ぐと、反対の口から空気が入る時、笛が鳴る仕組みになっていたり、ジャガイモを掘り起こす細長いシャベルの柄にガラガラが仕掛けられていて、掘るたびに音が出る仕組みになっていたりするのだ。一つひとつに感心する見学者を見て、案内する彼は得意気だった。 天野芳太郎のことを「日本のシュリーマン(1822-1890 トロイ遺跡をはじめ多くの考古学上の業績を上げたドイツ人実業家)」と呼ぶ人もいる。前半生を事業で蓄財し、後半生の遺跡発掘にそれをつぎ込むという生き方からだ。事実、天野自身がシュリーマンに傾倒していたと語っている。 天野は1898(明治31)年7月2日、秋田県男鹿半島の寒村で生まれ、秋田工業学校を卒業後、19歳で横浜の造船所技師になった。 唐突な話題になるが、今年4月で宝塚ファミリーランドが閉園になるそうだ。宝塚遊園地は阪急電鉄が1911(明治44)年に開設し、私鉄経営のモデルケースとして注目された。すなわち、ターミナルデパート、田園都市、郊外遊園地をセットで開発する方式である。関東でこの方式を早速採りいれたのが1914(大正3)年開業の花月園だ。もっともこれは電鉄会社が直接経営を目論んだのではなく、新橋の料亭『花月』の経営者平岡広高により、児童の体位向上をうたい文句に開かれた。少女歌劇もちゃんとあった。 天野の商才が最初に発揮されたのは、震災後の復興期、花月園においてである。園内の売店では、名物のタイ飯や子育て饅頭(まんじゅう)が飛ぶように売れた。この〈子育て饅頭天野屋〉を開いたのが、新婚早々の天野芳太郎夫妻だ。 しかし、彼の夢は一介の饅頭屋では収まらなかった。約4年で貯めた2万円を懐に、1928(昭和3)年4月27日、渡航に反対する妻子と別れ、単身で横浜から大阪商船・博多丸に乗り込んだ。行き着いた先はパナマ。ここで彼は雑貨店〈カサ・ハポネサ〉を開いた。折からの世界恐慌にもめげず、事業は順風満帆、人種差別をしない彼の人柄に惹かれて、地元の人々の人望を集めることになった。 1930年代になると、〈カサ・ハポネサ〉はパナマ一の百貨店に発展し、南チリのアンダリエン農場、コスタリカの東太平洋漁業会社と、次々に事業を拡大した。生活にゆとりができた彼は、発見者=ビンガムの著書に惹かれてマチュピチュ遺跡(ペルー北部の切り立った尾根上に形成されたインカの都市遺跡)を訪れ、すっかり考古学の虜になった。 1940年代に入る頃、パナマ運河が一望できるパナマ市のクレスタの丘に、彼は邸宅を建てた。これがいけなかった。日米関係は一触即発の状態に来ていた。パナマ運河を眺める日本人がいることが米紙に報じられ、スパイの嫌疑がかけられたのだ。1941年12月7日、まさに日米開戦当日に天野は自ら進んで警察に出頭し、バルボア収容所で厳しい強制労働を科せられた。 1942年8月19日、横浜港に入港した捕虜交換船で、天野は日本に帰国することができた。 天野芳太郎が鵠沼に住んでいた時期があることを知ったのは、ごく最近のことである。高瀬笑子著『鵠沼断想』にそれは書かれていた。引用しよう。 「中南米に手広い事業をしていた天野芳太郎氏が、手頃な家を見つけて鵠沼に越してきたのは昭和17年か18年かと思う。高瀬通りから橘通りへ曲がって2軒目の瀟洒な邸である。彼は戦争で何もかも失って、菜ッ葉服に頭陀袋一つで、交換船カリブスホルム号(※グリップスホルム号が正しい)で帰って来た。初めの夫人は横浜小町と言われた美人で娘が二人あったが別れ、次の夫人は、スペイン系の人で、ペルーで結婚、子供と共に戦争の始まる前に日本に帰してあったのだが、天野氏が帰国して間もなく(※1944年8月11日)死亡、この苦しい時期を克服して再起するために、鵠沼で待機していたのである。小学生と中学生位の坊ちゃんとお嬢さんは行儀のいいきれいな子供たちであった。 天野さんは、事業家というだけでなく学者であり文化人であり著述家であって、博覧強記、話していると、シェークスピアが出てくる、聖書の詩篇が出てくる、「子曰く……」になったり、長恨歌(ちょうごんか)になる。又、蘇軾(そしょく)の「赤壁(せきへき)ノ賦(ふ)」を諳(そら)んじるという調子で、話はつきない。(後略)」[(※)の注とふりがなは筆者] 天野がいつまで鵠沼に住んでいたのか『鵠沼断想』には書かれていないが、高瀬笑子とは彼女が渡米してからも文通や著書の贈呈が続いた。 天野の南米への再出発は、きわめて劇的である。1951年2月14日、横浜からスウェーデンの貨物船=クリスタサーレン号に旅券を持たずに乗り込んだ。密出国である。ところが猛吹雪をついて出航した船は犬吠埼沖で遭難。13時間漂流した末、米国船に助けられ横浜へ。その1ヵ月後に、清水港から再び密出国。到着したペルーでスウェーデン大使館に駆けこみ「遭難で旅券を無くした」と嘘をついて得た保護旅券で入国を果たした。敗戦国日本の国民にまだ海外渡航の自由などない時代の話である。 ペルーで再開した天野の事業に、アンチョベータ(カタクチイワシ)の魚肥製造がある。フンボルト海流という寒流がぶつかってくるペルーの沖合は、世界一の漁獲高を誇る漁場に発展した。ペルー経済に貢献した天野の業績は多大なものがあるが、このことは余り注目されていない。 再び財をなした天野は、本格的にプレインカ文化の発掘・研究に熱中する。ユニークな視点からの提言は、考古学の常識をいくつも覆し、注目された。一方、泉 靖一博士ら日本の研究者への援助も惜しまず、アンデス文化の研究に果たした役割は大きい。 それらの成果をまとめたのが〈天野博物館〉なのである。 長谷川路可 国際的宗教画家 イスラエル、ナザレ〈受胎告知教会〉で 三人のうち、他の二人の仕事を見ることは初めから旅行目標に入っていたが、長谷川路可の仕事には偶然出会った。場所はイスラエル北部、ガリラヤのナザレ。〈受胎告知教会〉の聖堂の中だ。 イエス=キリストは「ナザレ人(びと)」とも呼ばれる。彼はこの世の生活の大部分を、このナザレで過ごした。彼の父親(厳密にいえば母=マリアの夫=ヨセフ)がこの町で建築業を営んでいたからだ。よく大工といわれるが、あちらの家は多く日干し煉瓦あるいは石で造られているので、木工部分は少ない。ヨセフの先祖は1000年近く前には王様だった。それも、ダヴィデ王というユダヤ人の最盛期を作り上げた歴史上最大の王様だった。その子孫が、なぜガリラヤというド田舎のナザレというちっぽけな町で建築業を営むようになったかという経緯(いきさつ)はつまびらかではない。ただ、ダヴィデからイエスまでの28代の父系の名は、新約聖書の冒頭に書かれている。 マリアがヨセフと婚約した段階で、天使=ガブリエルが彼女の前に現れ、胎内に神の子を宿していることを告げ知らせる。この時マリアが何歳だったかは判らないが、当時のこの地方の常識に従えば、10代前半だったのではなかろうか。驚きと恐れに打ち震えたに違いない。しかし、彼女は気丈にもこれを信じ、受け入れた。このことを記念して、326年コンスタンチヌス大帝の母ヘレナの頼みにより、マリアの家の跡とされる場所に築かれた教会が中東最大のキリスト教会とされる〈受胎告知教会〉である。 現在の聖堂は、カトリック=フランシスコ会によって14年かけて建造され、1969年に完成した。前庭にナツメヤシが涼しげな陰を落とし、白っぽい壁にベージュのストライプが施された石造の近代的な建物だ。壁面には聖母子、天使=ガブリエル、四福音書作者のレリーフが見られる。 内部に入ると、マリアのシンボルとされるユリの花をかたどったキューポラ下部の窓から差し込む光が斜めに落ちている。両側の壁面には各国の画家が描いたそれぞれの風俗を表す聖母子像の壁画が並んでいる。 それらの中でも一際(ひときわ)異彩を放っているのが、和服姿の純日本風聖母子モザイク像『華の聖母子』だ。家紋を散らした青い着物を纏った長い黒髪のマリアが、赤いちゃんちゃんこに袴をはいたおかっぱ頭の幼子イエスを抱き、ボタンの花園に立つ像である。この姿は、細川ガラシャ夫人を念頭に描かれたとも伝えられる。これを描いたのが、長谷川路可だ。作品の素晴らしさよりも“へぇ、こんなところにも路可の絵が”という驚きが大きかった。 この作品に接した段階(1985年8月)での筆者の長谷川路可に関する認識は、藤沢に住んでいたこと、カトリックの信者で、路可は洗礼名から採ったこと、フレスコ画とモザイクの技法をヨーロッパで学び、カトリックに関する作品を各地に残していること、そんなところだった。 彼が旅館〈東屋〉の二代目女将(おかみ)=長谷川多嘉(たか)の一人息子だということを知ったのは、恥ずかしながら、鵠沼を語る会に入会してからである。 路可に関する各種資料を当たってみると、「神奈川県出身」「東京生まれ」「鵠沼に生まれる」など、諸説がある。旧東屋のすぐ脇に住んでいた美術評論家の土方(ひじかた)定一でさえ、「昔の東屋は、数年前、ローマで客死した長谷川路可の生家にあたっている。」(『岸田劉生』日動出版)と書いている。 高木和男元会長の『鵠沼海岸百年の歴史―追補補正版―』によれば、長谷川多嘉は杉村清吉と結婚、1897(明治30)年に長男=龍三を産んでいる。後の長谷川路可だ。ちょうどこの頃、叔母の長谷川 榮(ゑい)が伊東将行の招きで東屋経営に参画しているから、清吉と多嘉は東京に住んでいたと思われる。 1907(明治40)年早々、清吉・多嘉夫妻は協議離婚し、旧姓=長谷川に戻った多嘉は、妹=榮や弟=欽一の住む鵠沼に来て、本籍を鵠沼村7365に独立させた。一子=杉村龍三は、多嘉が引き取ることになり、長谷川龍三となったが、暁星小学校の寄宿舎に残り、そのまま中学校へ進んだ。中学時代に院展に初入選したというから、天才少年である。 暁星は、1888年(明治21)年、カトリック=マリア会が創設したミッションスクールの名門校で、多感な少年時代をその寄宿舎で過ごした龍三少年に、カトリックの信仰がしみこんでいったことは当然の成り行きだった。 龍三少年が〈カトリック片瀬教会〉で洗礼を受けたのは、1914(大正3)年というから、美術学校を目指して修行中の16歳の頃だ。洗礼名はルカ。当時の聖書ではロカと訳されていた。蛇足ながら、鵠沼の名を世に紹介した徳冨蘆花(ろか)も、築地の〈聖路加(せいろか)病院〉もここから来ている。ルカは新約聖書のルカ福音書と使徒行伝を書いた人物で、医師だったとされる。従って医師の守護聖人であるのは当然だが、画家の守護聖人でもあった。 東京美術学校で日本画を学び、1921年卒業後、すぐにフランスに留学している。フランスで日本画を学ぶわけがない。キリスト教美術の伝統的技法であるフレスコ画とモザイクを学んだのだ。路可という画号といい、彼のキリスト教画家としての意気込みが並々ならぬものであったことが窺われる。 1927(昭和2)年、フランスから帰国して東屋敷地内にアトリエを構え、翌年、〈カトリック喜多見教会〉で日本で最初のフレスコ壁画を制作している。 先頃、早稲田大学社会科学部研究室棟の壁の中から、縦横 1180×1180 mmの月桂冠を被った女性の上半身を描いたフレスコ画が発見された。この作品は1931(昭和6)年に理工学部建築科の今(こん) 和次郎教授と親交が深かった長谷川路可が、フレスコ画技法の実験的な習作として制作したもので、1960年代に建物改修の都合で上塗りされ、その存在が見失われていた。この作品は、現在〈早稲田大学會津八一(あいづやいち)記念博物館〉に収蔵・展示されている。 1937(昭和12)年、路可は鵠沼を離れ、東京目白に転居した。従って、彼が鵠沼に「住んだ」といえる期間は、わずか10年程度に過ぎない。 1938(昭和13)年9月7日、彼の母=長谷川多嘉が亡くなった。墓所の本眞寺の板壁には、長谷川路可の筆になる『歩む釈迦像』が遺されている。国際的なカトリック画家といってよい彼が描いた珍しい仏教画である。 一方彼は、二観音菩薩立像(りゅうぞう)(原本=敦煌(とんこう)莫高窟(ばっこうくつ)蔵経洞=唐時代・9世紀=大英博物館)、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像(原本=敦煌莫高窟蔵経洞=五代時代・顕徳3年(956) =ギメ国立東洋美術館)という仏教画の模写を〈東京国立博物館〉に遺している。これはフランス留学時代にヨーロッパ各地の美術館・博物館を遍歴して模写したものの一部で、全部で100点を超えるという。 路可が洗礼を受けた〈カトリック片瀬教会〉の今の聖堂は、1939(昭和14)年に献堂された。建築様式は教会としては珍しい純日本風で、この内部の装飾を長谷川路可が担当した。聖壇正面の2カ所の床の間を飾る2幅の掛け軸『聖家族』・『エジプト紀行』と両側の壁に飾られている『十字架の道行き』は彼の作品である。純日本風建築に合わせて、日本画を描いたのだろう。 長谷川路可の創作活動は戦後に活発化するが、その最大の仕事は、イタリア、チヴィタヴェッキアの〈日本聖殉教者教会〉のモザイク壁画の制作だろう。ドーム内面に美しい青い背景に浮かぶ桃山時代の衣装に身を包んだ聖母マリアと朱色の袴を着けておかっぱ頭の幼子キリストの聖母子像、壁面には日本二十六聖人殉教大壁画が描かれている。これにより、チヴィタヴェッキア市名誉市民に列せられ、1960年、第8回菊池寛賞を受賞している。 国内では、鹿児島=〈カテドラル・ザビエル記念聖堂〉の『ザビエル日本布教図』、長崎=〈日本二十六聖人記念館〉の『長崎への道』(フレスコ画)、東彼杵町=日本二十六聖人乗船場跡記念碑陶板などの宗教画の他、〈日生劇場〉ロビーの大理石床モザイク(1963)、東京五輪(1964)を記念した〈国立競技場〉の『野見宿禰(のみのすくね)』『勝利の女神像』なども手がけている。 1967年、ヴァチカンに招かれて収蔵品の修復・模写を仕上げ、教皇=パウロY世に拝謁した直後の7月3日朝、脳溢血によりローマにて天に凱旋した。 ※この稿を発表後、この〈受胎告知教会〉の『華の聖母子』は、路可の没後、弟子の原田恭子さんらが路可の下絵により、ヴェネツィアの工房で制作されたものであることを知り、『長谷川路可伝』を書くきっかけとなった。また、路可が受洗した教会もカトリック片瀬教会ではなく、暁星学校だということである。 杉原千畝 命のビザ発給 リトアニア、カウナス〈杉原記念館〉で 杉原千畝という一外交官の勇気ある決断と行動が世に知られるところとなり、称賛を浴びることとなったのは、その行為からかなりの年月が過ぎてからだった。1980年代以来、テレビドラマやドキュメンタリー番組、多くの新聞記事や雑誌の特集などが取り上げ、筆者も知ることとなった。リラホールで開かれた講演会で、幸子(ゆきこ)夫人から直接にお話を伺い、「機会があったら、カウナスを訪れたい」と願うようになった。 その機会は2001年夏にやってきた。教職員の団体が企画した〈バルト三国ツアー〉の中に、旧リトアニア日本領事館〈杉原記念館〉見学が組まれていたのだ。既に教職を離れる段階だったが、ツアー参加を申し込んだ。 リトアニアのカウナス。この国、この都市を地図上ですぐに指摘できる人はそう多くはないであろう。かつて十字軍遠征から帰還したドイツ騎士団が、バルト民族を教化し、リトアニア公国を建国した。14世紀には東欧で最強といわれたこともあったが、以後はロシアとポーランドをはじめとする周辺諸国に蹂躙され続けた。ロシア革命後、束の間の独立を得た。その時の首都がカウナスだ。ナチスとの密約でリトアニアがソ連に併合される直前に、日本領事館が設置され、杉原千畝は領事代理として着任した。 中心市街は河港を中心とする川沿いにあるが、日本領事館は山の手の高級住宅地におかれた。夏緑林(かりょくりん)の中を曲がりくねって登る坂道の途中にそれはある。周辺の住宅と比べても、格段に立派でもなければ、貧相でもない。ごくごく平凡な地味な2階家だ。 こんなわかりにくい建物を、数千人のユダヤ人たちはどうやって尋ね当てたのだろうか? 大都会ならば連絡も簡単かも知れないが、ポーランド各地を中心に数カ国からカウナスを目指してきた人々なのだ。彼らの持つ組織力と口コミ情報網には舌を巻かざるを得ない。 この年の春以来〈杉原記念館〉として公開されている旧領事館の内部に入る。さして広くない領事執務室が展示室になっている。この場所で「命のビザ」は不眠不休で書き続けられたのだ。一人のユダヤ人青年が、ささやかな展示物の解説を熱心にしてくださる。 真新しい「希望の門」の銅板が掲げられた門前に立って、狭い坂道を埋め尽くした当時のユダヤ人たちの「必死」のまなざし、カーテンの隙間からそれを見つめる杉原千畝とそのご家族の心中を想像してみた。 目を閉じると、木々が風にさやぎ、時折鳥の囀りが聞こえるだけだった。 杉原千畝は1900年に岐阜県八百津町で生まれたが、公務員だった父の転勤で数回の転居を繰り返している。19歳で外務省留学生試験に合格し、ハルビンでロシア語を学んだ。その成果はロシア人も舌を巻き、恐れるほどだったという。また、ここでロシア正教とも出会った。このハルビンでの経験が彼の一生に深く影響することになる。さらに、この時代に外務省で出会った広田弘毅、森島守人という二人の鵠沼人との出会いも奇遇とばかりはいえない。 杉原 千畝のカウナスでの仕事は彼の一存で一月(ひとつき)ほどの間になされた。それも、ある意味で非合法、命令違反の仕事だ。大変な労苦の末、帰国してすぐに、そのカウナスでの仕事により、彼は外交官という職を追われ、地道な後半生を余儀なくされた。ちょうどその期間を鵠沼で過ごしたわけだ。 初めは湘南学園近くの、森島守人も住んだことのある場所に何年かいて、後に江ノ電鵠沼駅からほど近い松が岡1丁目に移っている。 実は、今回紹介した三人の中で最も長期間鵠沼に住んだのは杉原千畝だ。彼自身の生涯の中でも鵠沼時代が一番長いのではなかろうか。しかし、仕事の方は、この世代の日本人としては珍しく、転職回数がきわめて多い。その大部分がロシア語と関わりを持つ。その最後の65歳から75歳までの10年間、国際交易(株)モスクワ支店代表として勤務している時代に、カウナスで発給したビザによって救われたユダヤ人にようやく探し当てられた。 1986年、杉原千畝は86歳で主に召された(この時は鵠沼から西鎌倉に転居されていた)。彼のカウナスでの仕事が広く一般に認識されるのは、その没後である。1992年になってようやく国会は彼の決断功績を評価し、外務省は過ちを認めた。後の祭りといわざるを得ない。 ユダヤ人社会における杉原の評価は極めて高い。一例を挙げると、杉原からビザを発給されたユダヤ人2139人のデータベースがある。ほんの出来心で、「KUGENUMA」という苗字の人物がいるか検索してみた。なんと2組4名もいるのである。「KUGENUMA」というヘブライ語が存在するとは先ず考えられないから、命の恩人=杉原の住所にあやかって改名したに違いない。 杉原千畝の仕事は、彼の決断と努力にによって成し遂げられたことには違いないが、幸子夫人の力によるところもきわめて大きいと考えられる。 夫人は市内獺郷(おそごう)にお住まいで、90歳のいまも執筆に講演に忙しい毎日を過ごしておられる。また、〈藤沢市民短歌会〉の会長として、鵠沼公民館にも定期的に足を運ばれている。先般、その機会を捉えて、鈴木編集長・有田会員と共に親しくお話を伺うことができた。その折に、この『鵠沼』にも寄稿して頂くことを依頼したので、楽しみに待つことにしたい。 ※その後、2008年10月8日、心筋梗塞で逝去された。享年94 おわりに 小稿は、筆者自身の体験を主に、短期間で書き上げた。手持ちの参考文献以外に、インターネットで得られる情報を大幅に活用した。 この三人に関するWEBサイトを検索エンジンで調べてみると、国内はともかく、外国のサイトがそれぞれおびただしく引っかかってくるのに驚かされる。長谷川路可の場合、HASEGAWA@Roka よりもLucas@HASEGAWA で引く方が多く出てくる。杉原千畝の場合、Senpo@SUGIHARA でもかなり出てくる。 冒頭の数行を除き、敬称は略させて頂いた。お許し願いたい。 【参考資料】 ■天野芳太郎関係 産経新聞 天野芳太郎氏の生涯 2001年1月21〜30日 高瀬笑子 鵠沼断想 武蔵野書房 1998 天野芳太郎/義井 豊 ペルーの天野博物館 岩波書店 1983 WEBsite 天野博物館[http://www.y-asakawa.com/andesugoe/amano.htm] 鶴見歴史の会[http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/history/03kai.html] ■長谷川路可関係 土方定一 岸田劉生 日動出版部 1971 高木和男 鵠沼海岸百年の歴史―追補補正版― 1981 WEBsite カトリック片瀬教会[http://www.cityfujisawa.ne.jp/~katasech/index.htm] 早稲田大学/長崎市/鹿児島市/東彼杵町/日生劇場/国立競技場 ■杉原千畝関係 杉原幸子 六千人の命のビザ 大正出版 1993 WEBsite 杉原千畝生誕100周年記念事業[http://www.chiunesugihara100.com/j-top.htm] 八百津町[http://www.town.yaotsu.gifu.jp/spot/sugihara/sugihara.html] 【連絡先】 天野博物館 MUSEO AMANO ※土日休(電話予約必要) CALLE RETIRO 160 MIRAFLORES,LIMA,PERU/TEL:441-29-09 受胎告知教会 Basilica of the Annunciation Casa Nova Street,Nazareth,ISRAEL (P.O.B. 23) Tel: 06-6572501, Fax: 06-6460203 杉原記念館 Sugihara “Diplomats for Life” Foundation Vaizganto 30, LT-3000 Kaunas,Lithuania tel. (+370-37) 33 28 81/fax (+370-37) 42 32 77/sugihara@takas.lt |