長谷川路可 生誕110周年、没後40周年記念特集

長谷川路可伝〔上〕
 
 渡 部 瞭(会員)
 
はじめに  鵠沼ゆかりの画家は多いが、少なくとも大正期以前の画家では、そのほとんどが貸別荘などの滞在者であり、鵠沼に根を下ろした例は稀である。
 長谷川路可は、鵠沼を代表する旅館だった《東屋》の二代目女将=たかの一人息子であり、フランス留学から帰国してから約10年間は東屋の西隣に居を構え、画家としての活動のスタートを切った。また、家庭生活も鵠沼から始まった。さらに、親類縁者、友人知人、大和学園や画塾の教え子など、ゆかりの人々が今でも少なからず鵠沼にお住まいである。
 かつて筆者は、会誌『鵠沼』86号に寄せた「旅先で出会った三人の鵠沼人の仕事 ―天野芳太郎・長谷川路可・杉原千畝―」の中で路可を紹介した。それ以前の『鵠沼』にも路可の名は散見するが、いずれも旅館《東屋》に関する記述の中で名前を紹介する程度であり、人物像や業績を紹介する機会はなかった。
 2003(平成15)年、路可のご遺族から藤沢市に作品22点の寄贈があり、完成したばかりの鵠沼市民センター新館、鵠沼郷土資料展示室で小品展が開かれた。
 翌年春には市民ギャラリーで寄贈された全作品が披露され、それに合わせて鵠沼郷土資料展示室では「鵠沼が生んだ世界的画家・写真と資料による長谷川路可展」を開催した。筆者は100日に及ぶその展示に携わる機会を得、長谷川路可という人物の多面性と魅力的な人柄にすっかり心を奪われ、また、関係する多くの方々と接し、機会があればその時に得た感動をお伝えしたいと思うに至った。
 
生い立ち  長谷川路可(本名=龍三)は今からちょうど110年前の1897(明治30)年7月9日に東京で生まれた(長谷川路可の紹介文には、神奈川県生まれ、鵠沼出身、鵠沼の東屋は路可の生家など、さまざまに書かれているものが散見されるが、いずれも誤り)。
 高三啓輔著『鵠沼・東屋旅館物語』によれば、父=杉村清吉(1855-1916)は東京の芝で糸組み物を商っていた人で、母=たか(1866-1938)は金沢藩士ともいわれる長谷川重守の娘であった。
 ここで鵠沼とのかかわりの深い、たかの実家=長谷川家について触れておこう。たかの両親の長谷川重守・きよ夫妻は、明治時代には東京・牛込に住んでいた。夫妻には男1人、女6人、計7人の子があったが、長女は夭折した。弟妹の面倒を見る実質上長女の役割を果たした二女=たかは、極めてしっかりものであったという数々のエピソードが残っているという。神楽坂箪笥町の名料亭=《吉熊》の女中頭をしていた三女=ゑいが、鵠沼(くげぬま)海岸に伊東将行が設けた旅館《東屋(あづまや)》の初代女将(おかみ)にスカウトされるのは、路可こと杉村龍三が誕生した頃のことであった。
 学齢に達した龍三は、ミッションスクール=《暁星小學校》に入学し、寄宿舎に入る。後に路可はエッセイ『鵠沼』の中で、「私の叔母が経営していた「あづまや」という旅館を、自分の家のようにして少年時代を過ごした。」と書いている。幼少の頃から、時折鵠沼を訪れる機会があったのだろう。
 龍三が小学校3年生のとき両親は離婚し、龍三は母=たかが引き取ることになったため、長谷川姓を名乗り、長谷川龍三となった。これと相前後して長谷川家は東京を引き払い、たかと共に東屋の周辺に移り住んだ模様で、本籍を鵠沼村に移されている。
 ゑいの次に生まれたのが長谷川家唯一の男性である嫡男=繁蔵である。繁蔵とその妻=タケとの間に、一人息子の欽一が生まれたが、龍三とは三つ違いの欽一は、幼少時に父が他界し、母もその前後に長谷川家を去っている。欽一は直ちに家督を相続し、後見人には伊東将行が就いたが、働き者と伝えられている祖母=きよも健在で、長谷川家が結束して欽一を育てることになった。
東屋の池で。左から欽一、光代、龍三(写真提供:風巻家)
 その頃、伊東将行が招聘した埼玉県吹上出身の医師=福田良平を院長に《鵠沼海濱病院》が東屋に隣接して開設される。後に福田良平は長谷川家の四女=蝶と結婚した。二人の間には子が生まれなかったので、姪の光代を養子にする。龍三と欽一、光代の二人のいとこ、時に光代の姉弟をも含めて東屋は格好の遊び場であった。年長の龍三は、彼らの面倒をよく見たので慕われていた。
 蝶の下には、そのと寿々という二人の妹があった。寿々は後藤 栄という後に長谷川欽一の後見人となる人物と結婚する。
   
 
中学時代  1910(明治43)年、龍三は暁星中學校に進学した。寄宿舎生活は当然続けられたが、帰省したときなど、東屋の滞在客とも交流が生まれた。「谷崎先生が長い間あづまやの離れ座敷に滞在して小説を書いていた。わんぱく盛りの私は、よくのぞきにいってお菓子を貰った。」とか「岸田劉生先生が来ておられるころ、写生に出かける時、ついていって叱られたことがあった。それでも強情に仕事ぶりを見ていた。帰りには絵の具箱を持たされて得々としたものである。」などの思い出を記している。(『随筆サンケイ』昭和39年3月号)
 龍三は明治時代の中学生としてはかなり進歩的で行動的であった。例えばこんな思い出も記されている。「恐らく、日本で最初にグライダー滑空をやってのけたのが、何とこの僕ですから、うそみたいなお話であります。いや、まったく信じられないようなお話であります。どなたか図書館に行って、明治四十五年の七月の国民新聞を、根気よく探して御覧なさい。この僕が滑空している写真入りで、デカデカと掲載されているのだから驚きですよ。」(文化女子大学『あけぼの』7号1965.3)
 また、5年生の秋には級友と霧積温泉に旅行。道に迷い、野宿したりする。
 それより先、1914(大正3)年の夏に長谷川龍三少年は病後の静養の目的で北海道の《トラピスト修道院》にひと夏を過ごした。
 「同宿していた詩人、三木露風さんと親しくなったのはこのころであります。」と路可は記している。「また三木露風さんからは芸術の尊厳について説かれていました。」とある(『中日新聞』昭和38年12月15日)。さらに「長谷川君は画家になりたまえ。芸術家になってこそ生きがいのある人生が送れるのだ」と言われ、「そして信仰をもつことだね。フラアンゼリコのような素晴らしい宗教画を描きたまえ。長く世にのこるような傑作を修道院の教会堂に描いて、お参りにくる人びとを感動させるんだな。人生は朝露のごとく芸術こそ千秋不滅であることを知らねばならない」と諭された(『PHP』昭和41年10月号)。
 実は、三木露風が夫人と共に洗礼を受けてクリスチャンになったのは、路可の受洗より遅く、1922(大正11)年4月16日、復活祭の日であった。
 ともあれ、この三木露風との出会いは、その後の長谷川龍三の生涯に大きな影響を与えたことは確かのようだ。
 北海道から戻って、その年の暮れ、長谷川路可は暁星のハンベルクロード神父より洗礼を受け、クリスチャンになった(会誌『鵠沼』86号に片瀬教会でとしたのは誤り)。洗礼名はLucas(ルカ。当時の訳では路加(ロカ)=聖ルカは医師と画家の守護聖人)。「路可」の雅号はこれに由来することはいうまでもない。
 後に龍三は三木露風に『聖ドミニコ像』と題する水墨画を軸装して贈った。この軸はしばらく三木家の床の間に飾られていたようで、結婚後の夏に妻の母が庭の花を床掛けに挿したのを見て、「茶の花にダリヤを添えし柱かけドミニコの絵の風にうごける」との一首が詠まれている。
 現在この軸は露風の遺族により三鷹市に寄贈され、《三鷹市山本有三記念館》で公開された。恐らく現存最古の長谷川路可の宗教絵画である。
 さて、年号が明治から大正へ替わると、日本画壇に大きな転機が訪れた。
 1898(明治31)年、東京美術學校第2代校長だった岡倉天心が排斥されて辞職した際に、自主的に天心と共に辞職した美術家たちは《日本美術院》を結成した。その展覧会が《日本美術院展覧会(院展)》である。日本美術院は天心を排斥した側、《狩野派》《土佐派》など伝統的な家元制度を重視する旧派の《日本美術協会》と対立構造が明確化していた。これを調停する目的から文部省が各派を統合する形で国家主導の大規模な公募展、すなわち官展として1907(明治40)年に開始したのが《文部省美術展覧会(文展)》である(これを《初期文展》とも呼ぶ)。一方日本美術院は、1910(明治43)年、岡倉がボストン美術館中国・日本美術部長として渡米したことにより、事実上の解散状態となり、日本美術院のメンバーも文展に出品するようになる。
 1914(大正3)年、文展の審査員を外された横山大観らは、前年に岡倉が没したことを契機にその遺志を引き継ぐ動きを見せ、日本美術院を再興する。そしてこの年の10月、再興第1回《日本美術院展覧会(院展)》が開かれ、その記念すべき展覧会に中学5年生の長谷川龍三は出品し、初入選するのである。出品作は鵠沼海岸で漁網を干す漁師の姿を描いた『浜辺にて』と題する水彩画であった(5n)。翌年の再興第2回院展にも『工場の裏』[水彩]が入選している。
 
『浜辺にて』[水彩]:1913 再興第1回《院展》入選作   
           
 
『妙子女史像』[油彩]:1925(写真提供:井上震太郎氏)  『少女像』[油彩]:1915 (写真提供:石山家)
  この段階で龍三がどのような手段で美術を学んでいたか、あるいは誰に師事していたのかは残念ながら詳らかではない。既に紹介した水墨画、水彩画の他に油彩画も遺っている。『少女像』と題された作品(5n)は、従妹の福田光代を描いたもので、1915年とあるから、中学卒業後、あるいは、少女の服装から見て、卒業直前の冬の作かもしれない。‘LUC'と判読できるサインが見られる。受洗の翌年にすでに洗礼名のLucasを雅号に考えていたとすれば注目に値しよう。
 暁星中學を卒業した龍三は、東京美術學校(東京藝術大学の前身)を受験したが、1回ではパスしなかった。何しろ今も昔も数十倍の倍率を誇る全国最難関の受験である。現役合格は奇跡に近い。再チャレンジで合格した龍三は天晴れというべきであろう。
 この1年間に、長谷川家では大きな事件があった。
 1916(大正5)年1月、叔母の東屋の初代女将=長谷川 ゑいが入院先の鎌倉の病院で死去したのである。
 このことにより、龍三の母=たかが女将を受け継ぐこととなった。才色兼備のゑいの手で「文士宿」としての名声を博していた東屋は、しっかり者のたかの手により湘南随一の名旅館に発展していく。
 この、大正期前半は、わが国初の別荘分譲地《鵠沼海岸別荘地》がほぼ完成段階を迎え、華族や財閥の大別荘に加えて、小規模な貸別荘も多く建設された。これら貸別荘の住民には若い文士(《白樺派》の武者小路実篤、小泉鐵など)や画家(《草土社》の岸田劉生、椿 貞雄、横堀角次郎など)がおり、彼らを訪問する芸術家や出版人、ジャーナリストなどが東屋に宿泊したり、交流の場に利用することも多く、東屋は芸術家のサロンといった観があったという。
 美校に進んだ路可も、帰省した折などにこうした雰囲気に触れる機会も多かったであろう。
 このころ、東屋にほど近い硲(はざま)家の別荘に、龍三より2歳年上の洋画家=硲 伊之助(1895-1977)が滞在するようになった。伊之助は17歳にして《ヒュウザン会》(→フュウザン会)第1回展(1912年)に名を連ねたという早熟な画家である。年代も住居も近い二人は、しばしば交流を持ったようである(『鵠沼』83号参照)。
 
美校時代  1916(大正5)年の4月、龍三は東京美術學校日本畫科に晴れて入学し、雑司ヶ谷(ぞうしがや)に住むことになった。
 美校で路可は、松岡映丘(えいきゅう)(1881-1938)に師事した。
 映丘は、1881(明治14)年現在の兵庫県神崎郡福崎町に生まれた。本名は輝夫。漢学者松岡 操の子で、医師の松岡 鼎、眼科医で歌人の井上通泰(みちやす)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で言語学者の松岡静雄の弟、世にいう「松岡五兄弟」の5番目である。
 映丘は、狩野派の橋本雅邦(がほう)(1835-1908)に学んだが、大和絵の研究を志して住吉派の山名貫義(つらよし)(1836-1902)の門下に入った。1899(明治32)年東京美術學校日本畫科に入学。1904(明治37)年、同校を首席で卒業する。美校卒業後も大和絵に傾倒、その真髄を作品に生かすことに注ぎ、色調、構図の上に典雅な情趣をそえた。1908年から1935年に至るまで同校で教鞭をとり、現代日本画壇を代表する作家を次々と世に送り出した。代表的な弟子としては、生年順に列記すれば、小村雪岱(せったい)、穴山勝堂(しょうどう)、高木保之助、山口蓬春、柳澤真一、岩田正巳、畠山錦成(きんせい)、吉村忠夫、中村爽歩(そうほ)、山本丘人(きゅうじん)、杉山 寧(やすし)、橋本明治、高山辰雄らがいる。
 美校1年の夏、路可は級友と朝鮮から中国東北部を旅行、その印象を『朝鮮風景石山』[水彩、大震災で焼失]として制作し、秋の再興第3回《院展》に出品し、見事入選を果たした。
 路可の美校入学前に起こった第一次世界大戦は、ヨーロッパの主要都市を焦土と化し、世界情勢の主導権は米国に移る傾向を見せた。資本主義の成熟は美術界にも大きな影響を与え、伝統的な芸術の追求から、商業美術や建築、服飾など、より大衆的な美術へと新しい展開が見られる時代を迎えたのである。
 日本の美術界では、1919(大正8)年には《帝國美術院》の発足にともなって、《初期文展》は《帝國美術院展覧會(帝展)》と改称する。
 その第2回帝展(1920年)に路可は『エロニモ次郎祐信』[日本画]を出品し、入選した。カトリック日本画家=長谷川路可のデビュー作といってよかろう。
 長谷川路可のデッサン力は、人一倍優れ、映丘以外の教授たちからも着目されていたらしい。このことは、後に滞仏中の路可がルーヴル美術館でドラクロワの『タンジールの舞女』を模写をしていたところに美校教授の結城素明(ゆうき そめい)が通りかかり、路可に西域壁画の模写を打診し、ちょうど来仏した沢村専太郎助教授を紹介した(後述)というエピソードからも窺い知ることができる。
 長谷川路可は松岡映丘から国画の手法をしっかりと学び取り、その結果を卒業制作に結晶させた。卒業制作は題を『流さるる教徒』という119.8×180.0cmの紙本着色(しほんちゃくしょく)、巻子装(かんすそう)の作品で、現在も東京藝術大学大学美術館に所蔵されており、同美術館のホームページ(http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=2581)で見ることができる。
 一方路可は、学生時代に《聖ヴィンセンシオ会》というカトリックの恵まれない人々への奉仕団体に所属し、活動したらしい。

滞仏時代  1921(大正10)年、東京美術學校を卒業した路可は、5月には日本郵船《加茂丸》の三等船客として単身フランスへ向かう。
 退屈な船旅を路可はデッキに出てスケッチをすることで紛らしていたに違いない。それを覗き込む特等船客がいた。尾張徳川家の当主=徳川義親(よしちか)侯爵(1886-1976)である。侯爵の知人のお話によれば、狩猟が趣味の徳川侯爵は、この時、ジョホール(マレー半島南部)の藩王(スルタン)に招かれて虎(ハリマオ)狩りに向かうところだった。侯爵は若い画家の才能を認め、援助を申し出てくれた。侯爵とはシンガポールで別れたが、二人の関係は生涯続くことになる。
 今年の春、東京藝術大学大学美術館で《パリへ 洋画家たち百年の夢》と題する東京藝術大学創立120周年記念展が開かれ、夏にかけては新潟県立近代美術館でも開催された。路可が向かった1920年代は、その120年の流れの中でも最も多士済々な日本人画家が渡仏した時代といえる。第一次大戦で途切れた《ベル=エポック》の個性を追求する芸術の復興と《アール=デコ》を機に勃興する商業美術の新展開の時代と位置づける美術史家もいる。画家にとって極めて刺激に富む時代を迎えていた。
 路可の場合、こうした西洋美術の伝統を学び、新傾向に触れ、カトリック美術の伝統的な技法を身につけようという理由の他に、美術学校から与えられた役割があったことを臺信(だいのぶ)祐爾氏(前東京国立美術館、現九州国立美術館学芸員)は指摘しておられる。「仏蘭西国及英吉利国滞在中東洋古画ノ調査ヲ委嘱」という辞令を受けていたというのである。
 1か月余りの船旅を終え、加茂丸はマルセイユ港に碇を降ろした。そこからは汽車でパリに向かう。
 路可は最初に黒田清輝以来日本人にゆかりの深いCharles(シャルル) GUERIN(ゲラン) (1875-1939)に師事、油彩を中心とする洋画技法を修得した。西洋絵画の主流は油彩だからであろう。めきめきと腕を上げた路可は、翌年の《Independent(アンデパンダン)》に出品し、翌々年には《Salon(サロン) d'Automne(ドートンヌ)》に入選、作品『Une Famille』[油彩]はリール美術館買い上げ作品に選ばれる。
 路可が渡仏して2か月後、硲 伊之助もパリに到着、留学生活を始める。二人のパリでの交友関係については明確な記録が見つからないが、パリの日本人画学留学生は頻繁に交流していた模様なので、かなり交友関係は濃密だったと想像できる(『鵠沼』83号参照)。また、1922年のアンデパンダンでは、路可と伊之助の作品が並んで展示されていたと読み取れる記録もある。
 さらに1922年、外語学校を修えた従弟の長谷川欽一も、路可の後を追うように加茂丸で渡仏した。船は同じだが船室は一等だった。これは長谷川家の戸主である欽一を重視するたかの配慮だったといわれる。
 欽一は音楽評論家を夢見ており、《ソルボンヌ大学》への入学を目指していた。東京での時代と同様、路可と欽一の共同生活が始まり、欽一は大学受験の準備と語学研修にいそしんだ。
 ところが1923年9月1日の関東大震災で東屋は全壊。オーナーの立場だった欽一は、東屋復興のため、志半ばで急遽日本へ呼び戻される。
 一方、路可はフランスに残り留学生活を続けるが、それは単に絵画技術習得のみならず、多岐にわたるものだった。
 
ボンサマリタン  『長谷川路可画文集』の年譜には大正10年の記述に「戸塚文郷の勧めによりボンサマリタンに加わってロンドンに行く」とある。
 《Bon Samaritan》とは、新約聖書にある「善きサマリア人」のフランス語読みであろうことは判断できるが、それ以上のことは判らない。あれこれ悩んでいたところ、ある方が小坂井 澄著『人間の分際―神父岩下壮一』という書物をお貸しくださった。それによると、こういうことらしい。
 1920年秋、ロンドン郊外のチェルシーに寝たきりの生活を送るヴァイオレット=ススマンという元修道女を訪ねた岩下壮一は、彼女の信仰生活の深さに触れて感銘を受けた。そこで岩下は、当時ヨーロッパで学んでいた暁星の後輩、戸塚文郷、小倉信太郎、長谷川路可をロンドンに呼び寄せて、4人でカトリックの青年伝道団を組織することを目論んだ。これが《ボンサマリタン》である。これはそれ以上には発展しなかったが、それぞれ宣教の意志を固めたようである。
 中でも最も若い路可は、修道女からカトリック美術の道を勧められ、結局その道に進むことになった。小倉信太郎は召命を感じ、ウルバノ大学(ヴァチカンに隣り合う宣教師養成のための教皇庁立大学)に学ぶことになるが、中途退学をして日本に帰国する。結局、岩下壮一、戸塚文郷の2名が神父として日本カトリック史に名を遺すことになるのである。
 岩下壮一(いわしたそういち)(1889-1940)は信州松代藩の士族出身の実業家(三井物産を経て電力、紡績、製紙、銀行などの経営に携わる)=岩下清周(きよちか)の長男。暁星で路可の先輩に当たる。暁星中學校2年の時に受洗、カトリックの信徒となる。この時の教父は先輩の山本三郎で、後に壮一の妹=雅子と結婚し、壮一の義弟となる。なお山本三郎は、カトリック片瀬教会ゆかりの山本庄太郎の三男で山本信次郎の弟である。
 壮一は暁星卒業後一高から帝大哲學科で和辻哲郎、九鬼周造らと同期。ケーベルに私淑し、ギリシャ語、ラテン語といったヨーロッパ古典を学ぶ。帝大卒業後、七高(鹿児島)の教壇に立ったが、1919(大正8)年、文部大臣命により私費で英仏に留学。ロンドンのセント=エドモンズ大神学校で神学を修めた後、ヴェネツィア教区の推薦により教皇庁立ウルバノ大学に学んで司教となり、ヴェネツィア教区から派遣された宣教師として帰国する。
 帰国後の彼は、東京を拠点にカトリック学生の指導をする傍ら、知識人神父として健筆を振るう。東京司教区に移った彼の後半生は、1931(昭和6)年に就いた富士山麓のハンセン病施設《復生病院》の院長という仕事に捧げられた。
 戸塚文郷(とつか ふみさと)(1892-1939)は海軍軍医総監=戸塚文海の子。暁星で路可の先輩に当たる。一高から帝大医學部に進む。一高時代に受洗、カトリックの信徒となる。この時の教父役を務めたのが岩下壮一であった。
 1921(大正10)年、路可と同じ年に医学留学生として渡仏し、ストラスブールのルイ=パストゥール大学に学び、帰国後は医師資格を持つ神父として、結核に苦しむ人びとのために病院を造るなどの活動をした。訳書、著書も多い。
 
壁画模写  20世紀初頭、ヨーロッパ各国の探検隊が競って西域を中心とするアジア各地で遺跡を発掘し、多くの遺物をヨーロッパに持ち帰った。中には壁画をそっくりはぎ取って持ち去る例もあった。
 これに心を傷めた東京帝國大學の松本亦太郎(またたろう)教授、京都帝國大學の沢村専太郎助教授らは、せめてこれを模写することはできないだろうかと模索していた。
 模写には確かな技術を持った人物が必要である。そこで白羽の矢を立てられたのがフランス留学中の長谷川路可だった。
 松本教授と路可との接点は、1924年ブラッセルで開かれた国際学術会議で渡欧した際、大使館から依頼されて路可が通訳を務めたことにより、松本から信頼されたと語っている。松本からの模写依頼を初めは固辞したが、西域の壁画こそ日本美術の源流という指摘が路可を決断させた。
 路可を沢村専太郎助教授に引き合わせたのは東京美術學校の結城素明教授である。その経緯は先述した。沢村は、路可の模写期間中、作業に付き添って交渉その他のマネージメントを引き受けた。
 在仏日本大使館に出入りしていた Serge(セルジュ) Elisseeff(エリセーエフ) (ロシア革命前にサンクトペテルブルグにあったエリセーエフ商会の御曹司で、ロシア読みの名はセルゲイ。ベルリン大学に留学中、新村 出(しんむらいづる)に出会ったのを機に日本留学を志す。東京帝國大學国文科を明治45年に優秀な成績で卒業(外国人として初の卒業生)、夏目漱石の門下でもあった。ロシア革命後フランスに亡命、帰化。この頃はパリ大学高等研究院教授だった)を仲介者として交渉が進められた。
 先ずはパリのルーヴル美術館、ギメ博物館に収蔵されている Paul(ポール) Pelliot(ペリオ)  (1878-1945 タリム盆地を中心にシルクロードをを探検したフランス人の言語学者。中国語など数か国語に対応することでも名高い)のコレクション、路可はそれらのうち40点近くを模写することができた。
 続いてベルリンのフェルケルクンデ博物館およびインド美術館に納められていた Albert(アルベルト) von(フォン) Le Coq(ルコック) (1860-1930 中央アジアで考古学的発掘をしたドイツ人の探検家。著書『中央アジア秘宝発掘記』は中公文庫にもなっている)のコレクションの多くを路可は模写することができた。しかし、第二次大戦の際連合国軍によるベルリン攻撃で現物の多くが失われたため、路可の模写しか残っていないものがほとんどで、考古学的、美術史的に貴重な財産といえる。
 さらに大英博物館が所蔵している Aurel(オーレル) Stein(スタイン) 卿 (1862-1943 中央アジアの学術調査に大いに貢献したハンガリー系英国人の考古学者、探検家。中央アジアではタリム盆地を中心に1906-1908年、1913-1916年、1930年と、3回の遠征を行ったほか、1910年以降インドの考古学調査も手がけ、1912年にナイト爵に叙された)のコレクション、路可はそのうち30点以上を模写している。
 これらを路可は足かけ3年の歳月をかけて集中的に模写した。
 一般の画家が練習用に模写するのと違い、考古学的な資料として模写するのであるから、「重ね描き」といって直に作品に和紙を重ね、ときにめくって確かめながら写し取るという方法で正確に模写が行われた。
 路可の模写作品は現在東京国立博物館、東京大学、京都大学、東京藝術大学に収蔵されている。その数は路可の記録によれば125点に及ぶ。
 この間の事情はp信祐爾氏の研究『東京国立博物館保管中央亜細亜画模写と長谷川路可』(東京国立博物館研究誌『MUSEUM』第572号)に詳しい。
 東京国立博物館の東洋館3階展示室では、この路可の模写を現在も定期的に交換しながら展示している。
 この壁画模写という経験は、日本のフレスコ壁画のパイオニアとして、その後の長谷川路可のライフワークにも大きく役立ったに違いない。

国際交流  先に「大使館から依頼されて路可が通訳を務めた」と書いたように、在仏日本大使館では、パリに滞在している日本人留学生を通訳として雇うことがしばしばあったらしい。
 しかし路可の場合、通訳に加えて日本画家としての特技が生かされた。
 1921年摂政宮(後の昭和天皇)訪欧の返礼として、当時パリに在住していた朝香宮鳩彦王(やすひこおう)(1887-1981)夫妻は、ベルギー王室を訪問の際、ブラッセルの日本大使館で晩餐会を催した。この時長谷川路可、三浦 環(たまき)(1884-1946)が同席し、三浦 環はアリアを歌い、路可は席画(即席で絵を描く見世物的技法)を披露した。マリー=アンリエット王妃から「藤の花を」と注文を受けた路可は、たちまち幾房かの藤の花に飛び去る燕を添えて描き上げた。
 この人選は、恐らくパリの日本大使館が行ったものと思われる。三浦 環は押しも押されもせぬ日本を代表するオペラ界のプリマドンナであったが、路可の方は美校を出て間もない若輩者である。数多(あまた)いたパリ在住の日本人画家の中でも新参者に過ぎなかっただろう。この路可に、失敗したら国辱ものの大役を担わせたのは、よほどの敏腕という触れ込みがあったに違いない。路可自身、「ひや汗ものの思い出」と記しているが、大げさにいえば大日本帝国美術界の代表選手と見込まれたわけである。
 1925年《ベルリン日本美術展》が開かれた。代表として小室翠雲(すいうん)(1874-1945 本名貞次郎。南画壇の重鎮)が渡独。路可はこの展覧会に作品を出品していたかどうか不明だが、ベルリンのフェルケルクンデ博物館で西域壁画の模写をしていたために、開会式に呼ばれたらしい。開会式にヒンデンブルク大統領(1847-1934)が臨席した。日本画家として紹介され、握手をした路可は非常に感激したと記している。路可27歳の時である。
 なお、《ベルリン日本美術展》は1930(昭和5)年夏にも開催されており、こちらの方が規模も大きく、よく知られている。
 第一次世界大戦終結に伴う1926年《パリ国際航空委員会議(路可は万国航空会議と記述)》が駐仏日本大使館で開催されたとき、フランス代表としてフォッシュ元帥(1851-1929)が出席した(日本代表は田中舘(たなかだて)愛橘(あいきつ)博士)。最終日のパーティーに席画を披露するために招かれた路可は、元帥のために雲海に昇る旭日と富士を描いて献上した。
 路可は留学中に第一次大戦の両雄に接する機会を得たわけである。
 
フレスコ・モザイク  1926(大正15)年、留学生活も後半に入り、路可は拠点をパリ南郊のフォンテーヌブロウに移し、《フォンテーヌブロウ研究所》にてPaul(ポール) Albert(アルベール) BOWDOIN(ボウドワン)(1844-1931)にフレスコ画、モザイク画技法を学ぶ。
 本来イタリア語の fresco とは〈新鮮な、できたての〉を意味する形容詞(英語の fresh にあたる)で、名詞として、漆喰(しっくい)を塗ってまもなくそれがまだ乾き切らないうちに描く画法、およびそのようにして描かれた絵画に限定して用いられ、普通、フレスコとはこの意味で使われる。
 建築物の装飾法として、古代、中世、ルネサンスの長期にわたりモザイクと並んで重要で、モザイク以上に普及を見たフレスコは、しだいに油彩画に、そしてタブロー画に地位を譲り、18世紀を最後にほとんど衰退する。しかし、20世紀になって、壁面に直接に装飾する適切な画法として再びフレスコへの関心が高まり、strappo(ストラッポ)(伊。英語の strip )という、膠(にかわ)などを用いたはぎ取り技法の開発により、多くの作品が修復、制作されるようになった。
 この技法を日本人として初めて本格的に学び、各地に少なからぬ作品を遺し、また多くの後継者を育成した第一人者が長谷川路可である。
 モザイク画とは大理石、陶片、色ガラス、その他の硬質な素材を絵の具をキャンバスに置くようなイメージで配置し、すきまなく敷き並べて、壁画や床を装飾する芸術の技法でである。フレスコが西方キリスト教美術の伝統的な技法であるならば、モザイクは古代東方キリスト教(ビザンティン)美術で多用された技法といえよう。これが中世には西洋美術やイスラム美術にも影響を与えた。
 日本では、明治期から単発的にモザイク芸術が見られるようになるが、散見されるようになったのは戦後の東京オリンピックが開かれたころからで、路可が育てた《F.M壁画集団》(後述)の果たした役割は大きいといわれる。
 
アール=デコ  1925年4〜5月、《Exposition Internationale des Arts(アール) Deco(デコ)-ratifs et Industriels modernes(現代産業装飾芸術国際博覧会)》がパリで開催された。世にいう《アール=デコ》である。その《日本美術館》建設には、パリ在住の日本人画家がこぞって協力した。勿論、路可もその一人である。
 当時のパリに留学していた美術家の主だった顔触れは次の通りである。
 金山平三(1883) 正宗得三郎(1883) 霜鳥之彦(ゆきひこ)(1884) 田中 保(1886) 土田麦僊(1887) 黒田重太郎(1887) 梅原龍三郎(1888) 野永瀬晩花(1889) 小野竹橋[喬](1889) 萩谷 巌(1891) 小島善太郎(1892) 中山 巍(たかし)(1893) 川端彌之助(1893) 青山義雄(1894) 伊原宇三郎(1894) 木下孝則(1894) 里見勝蔵(1895) 硲 伊之助(1895) 林 倭衛(しずえ) 前田寛治(1896) 小山敬三(1897) 長谷川路可(1897) 佐伯祐三(1898) 岡 鹿之助(1898) 海老原喜之助(1904) ※( )内は生年
 そして彼らの上に君臨していたのが、既に20世紀初頭からエコール・ド・パリの風雲児だった藤田嗣治(つぐはる)(→レオナール=フジタ)(1886-1968)である。
 上は1923年4月2日、梅原龍三郎を中心に在仏日本人画家仲間で撮った写真。後列中央が路可、左から2番目が藤田、路可の前が梅原である。この写真は帰国する知人に託して母=たかのもとに届けられた。裏面には筆書きで「母上様 在巴里 龍三 後列左方ヨリ二番目の方藤田嗣治氏に御世話になって居ます」とある。
 《アール=デコ》の開かれた1925年、ベルギーのブラッセルでも《 ブラッセル文化美術博覧会》が開催され、路可はその日本美術館建設と陳列に参与し、〈レオポルド二世シュバリエ勲章〉を受章している。
 この時描かれた『妙子女史像』(5n)は当時ベルギーに赴任していた三菱商事の井上鳳吉夫人がモデル。井上妙子氏は女優長岡輝子氏の長姉で、『長岡輝子の四姉妹』に紹介されている。井上夫妻は後に鵠沼松が岡に居を構え、妙子夫人は《長谷川路可展》開催中の2004年6月16日、鵠沼で他界された。享年101。
留学後半  路可の滞仏は1921年から1927年の6年間ほどだが、これまで触れなかった幾つかの出来事を記しておこう。
  1925(大正14)年にはヴァチカン=システィナ美術館に『Introduccion del Cristianismo en Japon』[日本画]を寄贈した。この作品は現在でも同美術館のホームページ(http://mv.vatican.va/4_ES/pages/x-Schede/METs/METs_Sala05_01_01_031.html)で見ることができる。
 翌1926年、《Salon d'Automne》に『Une femme de Cagnes』[油彩]を出品し、入選すると共に〈Silver(シルヴァー) Star(スター)〉賞を受賞してサロンの会員に推挙された。
 また、この年、《Ecole du Louvre(エコール ドゥ ルーヴル)》の西洋服装史専科を修了した。この事実は帰国後の路可に文化服装学院を初め、幾つかの女子大学などで服飾史を講じるという仕事を保証することになる。
 1927年早々、《Salon de Paris》に『Nue』[油彩] を出品して入選を果たしたのを最後に、長谷川路可はフランスを離れる。
 
鵠沼時代  1927(昭和2)年早春、年号が大正から昭和に替わって間もない日本に路可は帰国する。
 なつかしの東屋は、たかと欽一の手で見違えるように復興されていた。ハイカラ好みの欽一の意見によるものか、池を狭めて本格的なテニスコートが2面設置されていたし、本館は更に拡張され、ダンスホールまで設けられていた。かくして湘南随一のリゾート旅館として、藤沢町を代表する地位を得ていたのである。
 欽一は帰国する路可のために、東屋の隣りに瀟洒なアトリエを用意してくれていた。それがどのようなものであったかは、岡田哲明会員が別稿で専門的な立場から解説しておられるので、そちらに譲りたい。
 今日では海外留学経験者はそれこそ掃いて捨てるほどいるが、昭和初期の日本では、まだまだ希少価値があった。
 ここに昭和2年4月3日の横濱貿易新報の「畫伯歡迎會」と題する記事があるので引用しよう。
藤澤町(ふじさはまち)が誇(ほこ)りとする世界的(せかいてき)大畫伯(だいぐわはく)長谷川(はせがは)路可氏(ろかし)の歡迎會(くわんげいくわい)は金子町長(かねこちゃうちゃう)以下卅六有志(いうし)の發起(ほっき)の下(もと)に一日(じつ)午後(ごご)六時(じ)より鵠沼海岸(くげぬまかいがん)東家(あづまや)に於(おい)て開催(かいさい)された主賓(しゅひん)(くわん)を盡(つく)し路可氏(ろかし)より色紙(しきし)一枚(まい)(づゝ)を贈(おく)られた
 なにしろ「藤沢町が誇りとする世界的大画伯」として帰郷したのである。
 路可が滞仏中の1921(大正10)年、恩師= 松岡映丘は、穴山勝堂、岩田正巳、狩野光雅、遠藤教三らと《新興大和絵会》を結成していた。
 帰国したばかりの路可は、第7回《新興大和絵会展》に『アンレブマン・ヨーロッパ(ギリシャ神話)』[フレスコ]、『怒』[日本画]、『黙』[日本画]を出品した。ことに『アンレブマン・ヨーロッパ』は、フレスコという技法を用い、ギリシャ神話をモチーフにした意欲的な作品の例であろう。
 翌年の第8回《新興大和絵会展》には『松本博士像』[日本画]、『聖母の光栄に捧ぐる三部作』[フレスコ]、『預言者サロメ』[フレスコ] 、『キリスト降誕』[フレスコ]、『二人の天使』[フレスコ]を出品。会員に推挙された。
 以後、1931(昭和6)年に《新興大和絵会》が解散するまで、会員として積極的に活動する。
 翌1928(昭和3)年1月15日、路可こと長谷川龍三は知人の紹介で知り合った菊池登茂と結婚、世帯を構えた。
 路可の美校時代にあたる1919(大正8)年以来、片瀬の山本庄太郎家の一部屋に仮聖堂が設けられ、ミサが捧げられていた。この集いに路可が出席していたか、また、帰国後の路可の教籍はどの教会に属していたかは今のところ未調査である。
 東京司教区から分離独立して横浜教区が新設された際、山本家の仮聖堂をよりどころに、《片瀬教会》が建設される(後述)が、それは路可が鵠沼を離れた直後である。
 
日本初のフレスコ壁画  路可の帰国した1927年は、小田急(小田原線)の開通した年である。小田急電鉄創設者=利光鶴松(1863-1945)が、とくにルルドの聖母に捧げる聖堂を建てることを希望された長女の静江氏(1893-1971)の意を受けて北多摩郡狛江町岩戸1196に私的聖堂を建設した。その壁画制作を路可が依頼されたのである。
 会堂は1928(昭和3)年7月に竣工し、長谷川路可による日本最初のフレスコ壁画が壁面を飾った。その後、路可は『喜多見教会縁起絵巻』という長尺の絵巻物も制作し(この辺、いかにも大和絵(やまとえ)画家だ)、1929年の第9回《新興大和絵会展》に出品後、同教会に納められたが、現在は東京大司教館に保管されている。
 静江氏の私的聖堂は、1931年東京大司教区に献納され、東京教区《カトリック喜多見教会》となった。小田急沿線では最も旧いカトリック教会である。
 日本初のフレスコ壁画は、1978年、教会閉鎖の際に路可の弟子の宮内淳吉氏によりストラッポされて保存されていたが、喜多見駅前の現在地に移転後は正面壁の聖母子像だけが小聖堂に復元され、左右壁面部分は惜しくも復元されていない。
 1928(昭和3)年、 現代風俗絵巻『楽堂』(日比谷野外音楽堂における軍楽隊の演奏を描いたもの)を制作し、宮内省蔵という記録がある。この現代風俗絵巻は、松岡映丘を中心とする《新興大和絵会》の中核的な日本画家12名による連作で、現在宮内庁三の丸尚蔵館に収められている。
 そして11月3日、明治節に長女=百世さんが誕生し、路可は父親となった。
 明くる1929(昭和4)年、1月30日から12月20日までの毎日、國民新聞に連載の大佛(おさらぎ)次郎(1897-1973)の時代小説『からす組』の挿絵を担当した。故高木和男氏によれば、「この画は毎日、路可さんのお母さんが新聞社まで届けるのだと私の祖母が話していた」とのことである(『鵠沼海岸百年の歴史』)。
 連載終了後、改造社から前後篇に分けて刊行された単行本『からす組』の装幀、口絵も当然路可が担当した。
 現在これらは横浜の《大佛次郎記念館》で見ることができる。
 4月1日には小田原急行鉄道江ノ島線が開通し、鵠沼海岸駅が開設された。大震災の復興期以来、鵠沼南部はかつての別荘地から定住住宅地に変貌しつつあったが、小田急開通はその傾向に拍車を掛ける結果となった。
 路可の滞仏中に、松岡映丘の直ぐ上の兄=松岡静雄が海軍を退役し、鵠沼での学究生活に入っていた。映丘は、小田急線開通後は時折鵠沼の兄=静雄邸を訪れ、その都度長谷川路可邸にも顔を出したようである。
 この年11月、路可は初めての個展を《高座郡役所》(藤沢駅北方、現在の《藤沢商工会議所》付近にあった)で開いた。出品作は『旭に波岩』[日本画]、『雪中寿光』[日本画]、『松竹梅』[日本画]など、日本画が中心である。
 
世界一周  1930(昭和5)年の早春、30代の長谷川路可は、《羅馬(ローマ)開催日本美術展覧會》の日本側代表である60代の横山大観(1868-1958)、50代の平福(ひらふく)百穂(ひゃくすい)(1877-1933)、40代の松岡映丘(1881-1938)各氏の随員としてイタリアに渡航した。この他にも大智勝観(おおちしょうかん)(1882-1958)、速水御舟(はやみぎょしゅう)(1894-1935)が渡伊している。
 《羅馬開催日本美術展覧會》は、1930年の4月26日から6月1日まで《Palazzo delle Esposizioni(ローマ市立展示館)》を会場として行なわれたもので、院展官展を問わず、当時画壇で活躍する第一線の日本画家たちが新作や近作を発表した大規模な展覧会であった。プロデュースは大倉財閥の総帥=大倉喜七郎(1882-1963)、運営には横山大観があたっている。時の首相ムッソリーニ(1883-1945)を総裁にかかげて行われたいわくつきのもの。この時の代表は、〈Cavaliere Corona de Itaria(イタリア共和国功労勲章)〉をイタリア政府から受けている。
 路可はこの機会にヴァチカンを訪れ、第260代教皇=ピウス11世(Pope Pius XI)(在位:1922-1939)に拝謁。その折『切支丹曼陀羅』[日本画]を献呈している。
 システィナ美術館に『Introduccion del Cristianismo en Japon』[日本画]が1925年に寄贈されているから、その際も拝謁の可能性があるが、いずれにせよ路可が拝謁した最初の教皇である。
 大倉喜七郎は、1か月余りにわたるこの展覧会の慰労のために、帰途は欧米を経由する世界一周旅行を一行にプレゼントし、年末には銀座資生堂ギャラリーにて《世界一周スケッチ展》が開催された。
 帰国した路可は、浜松の洋画家=佐々木松次郎(1897-1973)らと《カトリック美術協会》を結成した。翌々年の第1回《カトリック美術協会展》より、渡伊前年の第10回《カトリック美術協会展》までほぼ連続して(第7回だけ記録が見あたらない)出品し、中心的な役割を果たした。
 翌1931(昭和6)年6月に、早稲田大学建築学科で路可が講演をした際、標本室でフレスコの実演をして見せた。その後、この絵の上から塗料が塗られ、長期間所在が不明のままであった。
 それが1996年になって発見され、6層の塗料を丁寧に剥がして、路可の弟子、原田恭子、友山智香子両氏の手で修復がなされた。1998年、この建物が取り壊されることになり、建物の外壁そのものを切断し、その年に開設された《會津(あいづ)八一(やいち)記念博物館》に収納、展示(http://www.waseda.jp/aizu/col3e.html)されることになった。その経緯は、同館の『研究紀要』第1号に有田 巧氏が報告している。
 《新興大和絵会》はこの年に解散し、路可は『湖畔のまどひ』[日本画]を第12回《帝展》に出品した。以後、《帝展》には《新文展》に替わる1934(昭和9)年まで毎年出品する。
 鵠沼時代の後半になって、路可は自宅アトリエなどで児童と青年たちのための画塾を開いた。青年には石膏デッサンや油彩といった洋画の技法を教えたらしい。教え子には現在も鵠沼に御健在の方が多数おられる。
  1932(昭和)7年、路可は当時オランダ領インドシナ(蘭印)だった現在のインドネシアのジャワ島、バリ島などを歴訪し、その印象を『熱国の夜』[日本画]として制作、 第13回《帝展》に出品する。
 この外遊期間中、8月1日に二女=百合子さんが誕生した。

大和學園  カトリックの敬虔な信者で教育者、伊東静江(路可が日本最初のフレスコ壁画を描いた喜多見教会を建てた)によって 1929(昭和4)年小田急江ノ島線開通に合わせて高座郡大和村(現大和市南林間)に設立された《大和學園女學校》は、当時一般的であった良妻賢母型の女子教育の概念を大きく覆し、土に親しみ自然に触れる中で神の摂理を識ることを教育理念に掲げた革新的な学校として始まり、江口隆哉(舞踏)、久保田万太郎(演劇)、四家文子(音楽)といったその道における著名な教員が招かれた。長谷川路可もその一人ということになる。
 翌1930年には《大和學園高等女學校》と改名。1932年には《大和學園小學校》、1935年には《大和學園幼稚園》を開設。伊東静江の教育目標である「カトリック精神による豊かな人間形成」は、初等教育から中等教育(戦後は短大も開設)にわたる一貫した教育制度によって形作られることとなった。路可は当時自宅のある鵠沼から最も近いカトリック系ミッションスクールであった同校の美術教師として、1929年から、恐らく目白に転居する1937年まで教壇に立った。
 また路可は、学齢期になった長女=百世さんを小学校に入学させた。
 なお、《大和學園高等女學校》は戦後の新学制で《大和学園女子高等学校》になり、さらに1979年《聖セシリア女子高等学校》と改めて今日に至っている。鵠沼には《大和學園高等女學校》での路可の教え子という方も何人かおられる。
 
徳川邸壁画  1933(昭和8)年、あのフランスに向かう「加茂丸」の船上で知己を得た尾張徳川家の当主=徳川義親侯爵が、東京目白にあった明治期からの戸田(紀州徳川家の姻戚)邸跡へイギリスのテューダー様式を模した自邸(設計:渡辺 仁(じん))を建てることになったとき、路可は階段室、食堂の上部に『狩猟図』、『静物画』というフレスコ画を描き、インテリアもデザインした。これがきっかけで徳川侯爵との交流が深まることになる。この目白の徳川義親邸は、東京大空襲の戦火からも免れ、女子學習院の仮校舎に用いられたり、戦後は日本社会党結党の舞台になったりという話題があるが、1968(昭和43)年に解体され、長野県野辺山高原に移築された。解体の時、路可のフレスコ画は路可の弟子=宮内淳吉氏の手で丁寧にストラッポされたが、未だに移築先に復元されていない。
 移築された建物は、当初ホテルとして活用された。現在は《八ヶ岳高原ヒュッテ》と名を変え、レストランとティーラウンジとして、夏休み、ゴールデンウイークのみ営業している。山田太一原作のTBSドラマ『高原へいらっしゃい』の舞台となり、人気が出た。近くには《藤沢市八ヶ岳野外体験教室》がある。
 続けて1935(昭和10)年、徳川邸の敷地内に建てられた《財団法人徳川黎明会徳川生物研究所》の建築装飾に従事し、天井画を描いた。これは現存する。
 この年の春から夏にかけて、台湾を巡り、旅行中の4月16日に三女=清子さんが誕生した。この旅行では旅先の台北教育会館で個展を開いたりしている。
 1935(昭和10)年帝展の改組で画壇が大きく揺れ、松岡映丘は長年勤めた母校東京美術學校を辞し、同年9月に門下を合わせ《国画院》を結成した。
 小村雪岱、吉田秋光、服部有恒、穴山勝堂、高木保之助、岩田正巳、山口蓬春、狩野光雅、吉村忠夫らと共に長谷川路可も結成メンバーの一員となった。
 国画の創造を目指し、大和絵を中心としながら展覧会は洋画、彫刻にも門戸を開いたが、1937(昭和12)年第一回展を開催したのみで、翌年の映丘の死去により展覧会活動を休止、研究団体として存続し、1943(昭和18)年解散した。
 1936(昭和11)年、《フォンテーヌブロウ研究所》におけるフレスコ画、モザイク画の師=Carlo(カルロ) ZANON(ザノン)が来日し、路可を訪ねて鵠沼にも滞在した。東屋には和室しかないため、1933年伊東将行の末娘=政子夫妻が建てた洋式の《鵠沼ホテル》に宿泊したという。
 
文化服装学院  並木伊三郎が、遠藤政次郎とともに1919(大正8)年、当時の東京赤坂区青山南町に開設した《並木婦人子供服裁縫教授所》は、1935(昭和10)年2月5日財団法人《並木學園》に組織変更を行い、学校としての基礎が固められ、1936(昭和11)年10月校名を《文化服装學院》に改め、時代の変化を先取りした教育内容の拡充を行った。この段階で徳川義親の紹介(松本亦太郎の紹介という説もある。恐らく双方であろう)で《Ecole du Louvre》で西洋服飾史を修めた画家=長谷川路可の存在を知った並木は、1937(昭和12)年2月、遠藤を鵠沼の路可宅に派遣し、説得に当たらせた。遠藤政次郎は雛人形を手みやげに路可宅を訪れ、説得した。路可は一旦断るが熱心な説得に折れ、4月から教壇に立つことを承諾した。以後、終生文化服装学院との関係は続くこととなる。
 東京目白の徳川侯爵邸周辺に造成された分譲地を優先的に購入できた路可は、先ずアトリエを建て、次いで母屋を建築して1937(昭和12)年に一家は転居する。
 かくして長谷川路可の10年にわたる鵠沼時代は終わりを告げるのである。
 
つづく〕(物故者は敬称略)
(わたなべ りょう)