福永陽一郎と

【上】

                  会員 渡部 瞭


福永陽一郎(1926-1990)
 
はじめに                  
 藤沢市は〈市民〉という言葉が好きな自治体のようだ。曰く、市民病院、市民図書館(総合・南・大庭(おおば)・辻堂の4館。あわせて市立図書館の呼称も。他に各公民館に付随する市民図書室もある)、市民会館、市民センター、市民ギャラリー、市民の家等々、行政側がつくる施設名に多く用いられている。他市の場合には〈市立〉とか〈市営〉を用いるところを、藤沢市は〈市民〉と名付けているのだ。
 これには一定のコンセプトがありそうだが、いつ頃から誰がという点については、残念ながら判然としない。
 そして、市民の側が形成する組織や催しにも当然ながら〈市民〉という言葉が用いられるが、こちらはさほど際だって多いとはいえない。市民短歌会、市民交響楽団から市民まつりまで。こういった中でも、一際(ひときわ)異彩を放っているのが〈藤沢市民オペラ〉だ。
 今でこそ全国各地に〈市民オペラ〉と名付けられる催しが様々な形態で見られるが、その多くは1980〜90年代にスタートし、それも1〜2回の公演で立ち消えというケースが少なくない(もちろん、20回近い公演を継続しているというものも稀にはある)。そういった中にあって、わが〈藤沢市民オペラ〉は1973年に旗揚げして以来、今秋のオッフェンバック『地獄のオルフェ』(天国と地獄-藤沢特別バージョン)で30周年、18回を数える。そのいずれもがハイレヴェルで、これまで何回となくプロの演奏活動に肩を並べて、各種の表彰を受けている。
 このような活動の継続は、藤沢市民の文化的レヴェルの高さを示すことはいうまでもないが、軌道に乗るには葉山 峻(しゅん)という政治家と福永陽一郎という音楽家のリーダーシップによるところが大きい。葉山は鵠沼(くげぬま)で生まれ育ったが、福永はいわばよそ者だった。音楽愛好家の間では知られているが、知らないという方も多いと思われる。ここではその福永陽一郎について紹介したい。

生い立ち  ハレルヤ=コーラスで泣きやんだ赤ん坊
 福永陽一郎は、1926(大正15)年4月30日、神戸(こうべ)市須磨区で誕生した。父=福永盾雄(たてお)はメソジスト派の牧師として3年ごとに各地の教会に派遣されており、神戸の前は〈真宗王国〉といわれた石川県輪島や福井市、そして現在は朝鮮民主主義人民共和国の開城(ケソン)の教会で牧会していた記録が残っている。
 この時代の神戸は、関東大震災で破壊された横浜に代わり日本一の港湾の地位を獲得していた。主な貿易相手国だった米国は、第一次大戦で疲弊したヨーロッパ諸国を後目(しりめ)に〈 Rolling 20's 〉の好景気時代の最中だった。こうした活況の中での神戸時代は、福永一家にとっても安定した〈佳()き時代〉だったと思われる。
 それに加えて父=福永盾雄にとって神戸は青春の街でもあった。関西(かんせい)学院神学部に学んだ彼は、今年で創立104年を迎える日本最古の男声合唱団《関西学院グリークラブ》草創期のメンバーだった。音楽を愛し、当時はまだまだ珍しかった蓄音機を所有していた。電気式のいわゆる電蓄が開発されたのが1928(昭和3)年のことだから、あるいはそれだったのかも知れない。いずれにせよ、嬰児時の福永陽一郎は、レコードをかけると必ず泣きやむという赤ん坊だったという。それがポリドール盤の《ブルーノ=キッテル合唱団》が歌うヘンデル『ハレルヤ=コーラス』とベートーヴェン『自然に於ける神の栄光』のカップリングSPだったというから、恐れ入る他ない。
ドイツの合唱団。Bruno KITTELは指揮者の名。フルトヴェングラー指揮による《ベルリン=フィル》と共演したベートーヴェンの『第九』やモーツァルトの『レクイエム』など、歴史的名盤を数多く録音している。
 教会で育った陽一郎にとって、オルガンやピアノといった鍵盤楽器は、常に身近にあった。彼の言葉によると、「感覚的には、ものごころついた時には指の先に鍵盤があった」という。これは、幼稚園教育の専門家だった母に負うところが大きい。ここで、彼の母=福永津義(つぎ)(ツギ・津義子とも)について紹介しておこう。
 
 晩年の福永津義
 津義は、1890年、徳永規矩(ただのり)・うた子の次女として熊本で生を受けた。父(陽一郎にとって母方の祖父)=規矩は教育者で、キリスト教主義の熊本英学校を興したが、肺結核で17年間も病床にあった。その中で不朽の名作『逆境の恩寵』を著し、1903(明治36)年、津義が少女時代に43歳の若さで天に召された。                   
 『逆境の恩寵』には次のような逸話がのこされている。
 「ある日のこと、明日食べる米が一粒もなくなった時、見知らぬ人から米2俵をもらうことができた。しかし翌朝、その米2俵がそのまま盗まれてしまった。うた子夫人は嘆いた。子どもたちも泣いた。しかし彼は、みんなを枕もとに呼んで感謝しようといった。“まず見知らぬ人から米2俵もいただいたことを感謝するのだ。また、貧しいわが家にも人に盗まれるものがあったことを感謝すべきだ。第3は、米は人に盗まれたが、わが家には誰ひとり人の物を盗む者がいない事を感謝したい。それから第4に、わが家には心の曲がった者がいなくても、世間は曲がっていることを実物教育してくれたんだ!米2俵ぐらいは安いもんだ、感謝しよう。しかし、まだ感謝すべきことがある。第5に、何といっても感謝したいことは、この世の宝は人に盗まれるが、私たちは誰にも盗まれない、キリストにある神の宝、罪の赦しと永遠の生命を持っているということだ!感謝しよう”の言葉をかけたのだった。」このように彼は、結核で17年間も床に伏せ、5人の子どもをかかえ赤貧洗うがごとき生活をしていたが、いかなる事態になっても感謝の心を失わなかった。こうした家庭環境のもとで育った津義に、どのような苦しい事態に陥っても前向きに進む姿勢が培われ、それが陽一郎にも受け継がれていったであろうことは、想像に難くない。
 母(陽一郎にとって母方の祖母)=うた子は12歳にして八代(やつしろ)より新島 襄(ゆずる)の同志社に学び、夫=規矩召天の後、熊本女学校の教師と舎監を勤めながら5人の子どもを養育した。なお、ある資料によれば、「福永津義先生は、数々の名誉ある表彰を受けられましたが、文豪・徳富蘇峰(そほう)、蘆花(ろか)兄弟がご親戚であることも含めて、殆ど語られませんでした。」とある。うた子の旧姓は判らないが、徳富姓は水俣(みなまた)・八代に多い。蘇峰、蘆花兄弟は水俣出だが、若くして同志社に学ぶという共通点から、「ご親戚である」というのはうた子の系列と筆者は睨んでいる。
後の調査で、うた子系列でなく、徳永規矩が徳富兄弟の従兄ということまで判明した。
 津義は、長崎活水(かっすい)女学校の幼稚園師範科を卒業後、母校の教師および付属幼稚園の主任教諭、続いて福井市の栄冠幼稚園の主任となり、ここで福永盾雄牧師と結婚、旧朝鮮の開城ホルストン女学校でも教師を務めた後、神戸で早緑(さみどり)幼稚園を設立、賀川豊彦の知己を得ながらキリスト教保育の実践にあたった。
活水女学校は1879(明治12)年に女性宣教師E.RUSSELLによって創設されたメソジスト監督派系ミッションスクールで、幼稚園師範科は1887(明治20)年に開設された。1999年制作の創立120周年記念映画『わが心に刻まれし乙女たちを』には、在学中の福永津義(当時は徳永ツギ)が登場するそうだ。
 さて、話を神戸時代の福永一家に戻そう。幼児期の陽一郎は、父の購入したレコードを食事も忘れて曲を覚え込むまで熱心にむさぼり聴いた。その姿を見て、父はヴァイオリンを習わせようと考えた。陽一郎4歳の時である。当時子ども用の4分の1ヴァイオリンは国産になく、輸入を待つ間にピアノを習わせることにし、増田 正という、関西で名教師として聞こえた人物のもとに通わせた。増田の門下には声楽家の市来崎義子や相愛大学名誉教授になるピアノの徳末悦子らを輩出している。後に大学で教えたこともあったらしいが、この当時は小学校の音楽専科の教諭だった。この増田 正のもとで、熱心にピアノと取り組み、期待がかけられるほどに上達した。7歳の時には大阪・三木ホールでピアノ演奏の初舞台を踏んでいる。よく父に連れられて関西学院グリーの公演に足を運んだ。

少年時代  父の死、そして福岡へ
 1935(昭和10)年8月9日、父=福永盾雄が天に召された。このことを機会に「将来、音楽を職とする気は全くないから」という理由で、陽一郎少年はピアノ練習をやめてしまう。しかし、音楽嫌いになったわけではないのは、関西学院中学部に進学すると早速グリークラブに加盟すると共に増田 正への師事を再開していることでも判る。
 盾雄の召天後も一家は神戸に居住した。津義は、この年〈頌栄(しょうえい)保育専攻学校〉と改称した頌栄保姆(ほぼ)伝習所(現在の頌栄短期大学保育科)やランバス女学院保育専修部(現在の聖和大学教育学部幼児教育学科)で教鞭をとるようになった。
 1916(大正5)年南部バプテスト派の宣教師=C.K.DOZIER(ドージャー)によって創立された福岡市の西南学院では、1940(昭和15)年に西南保姆学院を開設するにあたり、ふさわしい人材を求めていた。白羽の矢が立てられたのが、神戸での実績が高く評価されていた福永津義である。西南からの熱心な説得に応え、福永一家は1940年4月、住み慣れた神戸を後に福岡に移り住む。陽一郎少年は関西学院中学部から西南学院中学部に転校することになった。
 軍国日本が日中戦争から太平洋戦争へと突き進む中に陽一郎少年の中学生時代はあるわけだが、彼の音楽への情熱はそうした時代背景に抗(あらが)うかのように高まってゆく。ピアノ練習は高橋暁夫という師を得て続けられたし、翌年秋には《西南学院高等部グリークラブ》の定期演奏会にピアノ独奏で賛助出演している。また、1942年には《福岡市男子中学音楽連盟》を結成、演奏会を開催し、1943年にはミュージカル『護王太平記』の台本を自費出版、これに作曲して翌年春に西南学院演劇部により上演されるなど、まさに八面六臂(ろっぴ)の活躍ぶりを見せる。
 多分、周囲の級友は陸士(陸軍士官学校)よ海兵(海軍兵学校)よ、あるいは大学の理工学部よという進路を考えていたであろう時代に、陽一郎少年が望んだ進路は東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)であった。その理由について、本人は「どうやら、いちばんラクに入学できそうなのが音楽学校らしいと見当がついた」と書いているが、よしんばそれが本心だとしても、それを口に出すことすらはばかられる時代だったに違いない。西南学院では米人宣教師はとうの昔に強制送還され、反戦の意志を表したり、宮城(きゅうじょう)遙拝(ようはい)に批判的だったりする気骨のある聖職者や教授は、特高(とっこう)に睨まれたり、獄中生活を余儀なくされた。こういう背景のもとで「ボクは音楽学校に進む」といってのけた陽一郎は天晴(あっぱ)れといわざるを得ない。音楽に対する並々ならぬ情熱と、真の勇気に裏打ちされた行動というべきだろう。
 とはいえ、東京音楽学校は「行きたい」と思ったから入れるというような生やさしい学校ではない。全国から腕に覚えの俊英が集まってくることは、今も当時も変わりはない。自分に東京音楽学校に入れる実力があるか、陽一郎は中学部長のはからいと伝手(つて)によって井口基成(もとなり)教授の門を叩いた。1944(昭和19)年4月、東京音楽学校本科ピアノ科へ一度の受験で合格する。

音校時代  シュトルム & ドランク
 入学してみると、ピアノ科の同級生は18名だった。うち、園田高弘(→日本を代表する名ピアニスト)・高木幸三(→横浜国大名誉教授)・三浦 浩(故人、→桐朋音大教授)と陽一郎の4名が軍国教育のただ中で音楽学校を選んだ男子である。
 よく、演奏会のプログラムや音楽雑誌の演奏者紹介に「誰それに師事し」という記述が、あたかもそれが礼儀ででもあるかのように必ず記載されているのを目にする。陽一郎にとってそれは、強いていえば豊増 昇教授ということになる。しかし、そのレッスンは衝撃的なものであった。夏休みの課題にシューマンの『パピヨン』作品2を与えられ、充分に練習を重ね、最初のレッスンで全曲を自信を持って弾いた。教授の評言はたったひとこと。「君、そんなの音楽じゃないね。もう一度、やってらっしゃい。」
 陽一郎は記す。「そのほか、ああもこうも無い。それでレッスンは終わりだった。どの部分がどう悪いから音楽ではない、とか、どこをどうすべきだ、とかの、いっさいの指示が無い。悪い部分の指摘も、修正の手段や方法も、目標をどこに置いたら良いかも全部、自分で発見するしかなかった。それまでの〈勉強のしかた〉が、どうやら全然あやまりであるらしいことは判った。」
 しかし、このひとことは彼に起死回生の転機をもたらしたと陽一郎は述懐する。この辺が彼のただ者ではないところだ。
 1945(昭和20)年3月10日。東京大空襲の日だ。下宿は丸焼けになり、陽一郎は福岡に帰還する。それを待っていたかのように召集令状が届いた。彼の生年である1926(大正15=昭和元)年遅生(おそう)まれ、これが日本人として召集令状を受け取った最後の年齢だ。応召を前に自らのために『告別演奏会』を開催し、5月15日、佐賀の陸軍西部第194部隊に入隊して通信第2聯隊(れんたい)に配属された。訓練兵の段階で内地にとどまり、前線に出ることはなかった。もっともこの時期は沖縄戦の最中で、内地そのものが前線になろうとしていたのだが。
 小論は、福永陽一郎自身が、雑誌『あんさんぶる』に1979年8月から1980年10月まで、15回にわたって連載した自伝『演奏ひとすじの道』を太い縦糸に、その他の資料を横糸にして書きつづっている。その『演奏ひとすじの道』の冒頭は、1945年8月15日の記憶から始まっている。玉音放送を聴きながら、「またピアノが弾ける」と思ったというのだ。
 そして、その機会は思いがけずすぐにやってきた。敗戦後も部隊は解散まで存続したが、疎開してあった器材を本隊に輸送するという残務整理しか仕事はなかった。輸送路の途中に国民学校があり、体育館兼講堂で兵隊たちはたっぷり時間をかけて休憩をとった。そこにはピアノがあった。福永二等兵が鍵盤に向かったのはいうまでもない。夢中で弾きまくる彼の演奏に、一人の熱心な聴衆がいた。クラシック音楽に飢えていた見習士官が、わざわざ陽一郎の演奏を聴くために同行するようになったのだ。彼の眼に光るものを認め、陽一郎は演奏とは聴衆あってこそのものだという信念をここで自覚する。
 その痩身(そうしん)が幸いし、軍医から病弱であると認められ、他よりも早く9月4日には復員することができた。その知恵を授けてくれたのは、かの見習士官だった。
 福岡に帰ると、実家は6月19日の福岡空襲からかろうじて免れ、残っていた。母と姉(高橋さやか。母の跡を継ぎ、西南学院や西南女学院で教鞭を執り、九州幼児教育界の第一人者として活躍する)や妹はあいにく留守だった。彼は一人自室に入り、レコード盤に針をおろした。ラロの『スペイン交響曲』だった。身体の震えが止まらず、思わず泣き出してしまったという。
 中学時代の音楽仲間は、この段階では誰一人帰郷していなかった。親友の安田保正と松丸二郎は戦死していた。福永陽一郎の作詞者としてのペンネームは、安田二郎である。
 この安田保正の追悼コンサートを、保正の姉=安田ヤス(ソプラノ。→福岡教育大教授)とジョイントで9月30日に福岡で開催したのを皮切りに、10月と11月には熊本で、年を越して1946(昭和21)年1月8日に長崎で、それぞれその都市で戦後初の音楽会となるリサイタルを開いた。長崎の会場は山陰(やまかげ)で原爆の直撃を免れた県立高等女学校の講堂だったが、ガラス窓は粉みじんに破れたままだったという。さらに、1月から2月にかけて、尾籠(おごもり)晴夫(ハイ=バリトン。→東京放送合唱団で活躍)とのジョイント=コンサートを尾籠の出身地である甘木(あまぎ)市をはじめ、福岡・熊本・八代で開催している。すなわち、復員後半年足らずの間に、九州北部各都市で陽一郎の弾くピアノの音色は、敗戦にうち沈み、混乱の中にあった人々にひとときの安らぎと復興の望みを与えたのである。この時彼は、まだティーン=エイジャーだった。聴衆の前で演奏する緊張感は、「そのための準備が、東京の学校にもどれない私にとっての〈勉強〉になった」と本人は記している。
 正月に帰省した福岡市出身で東京音楽学校同期入学の平井哲三郎(→指揮者・作曲家として活躍。早生まれのため兵役を免れた)から得た音楽学校の情報によれば、お茶の水の分校にあった畳敷きの邦楽練習場が学生宿舎として提供され、2月中に出頭して復学を申し出れば元来の学年に編入できるとのことだった。そういうわけで、早速上京、2月24日に東京音楽学校ピアノ科2年生に復学し、お茶の水の邦楽練習場に住めることとなった。
 復学してはみたものの、それまでの価値観は180度転換し、加えて食糧難、未曾有のインフレという時代である。とても落ち着いてピアノのレッスンに明け暮れるなどということが許されるはずもない。まずは食うこと、これは音校生とて例外ではあり得なかった。唯一の例外といえば、音楽という稼ぐ術(すべ)を持っていたことである。最も豊かな食事にありつけたのは、占領軍の隊内での演奏活動だった。その多くはジャズやタンゴ、ハワイアンといった軽音楽である。陽一郎にもジャズ=ピアニストとしてキャバレーやダンス=ホールを転々とする日々が続いた。そういった生活の中でも生まれて初めて本物のオペラ『カルメン』を鑑賞し、夏には福岡、秋には水沢でリサイタルを開いたりしている。また、ひょんなきっかけで《法政大学音楽部管弦楽団》の指揮者を引き受けることになった。
 半年余りの陽一郎自身思い出したくもないという放浪生活の後、1947(昭和22)年3月21日、オーディションに合格し、近衛秀麿率いる《東宝交響楽団》(東京交響楽団の前身)のピアニストという職を得る。同交響楽団は、《藤原歌劇団》《東京バレエ団》と共に《東宝音楽協会》に包括されていた。

青年時代  近衛秀麿・藤原義江、両巨星のもとで
 「近衛秀麿は、山田耕筰、藤原義江とともに日本の音楽がグローヴァ(ママ)ルなものに進展する歴史の中の、第一世代の三大巨星だと思う。」と陽一郎は記す。
 この3人のうち、2人までが日常的に身近に存在する環境
近衛秀麿(1898-1973)
が与えられたのだ。それは戦後の混乱期のまっただ中であるにもかかわらず、否、そうであるだけに濃密な関係が得られたに違いない。
 この当時、陽一郎は、自らのピアノ演奏の技能向上に、限界を感じ始めていたふしがある。周囲には、同期の園田高弘や、1級下の松浦豊明など、難曲をものの見事に弾いてのける俊英がいた。陽一郎の理想はあくまでも高かった。毎日仕事としてピアノに向かっていたが、音楽への情熱の強さに追いつかない自らの指の動きにいらだっていたのだろう。ある日、近衛に「指揮法をおならいしたい」と申し出て、にべもなく断られた。
 豊増 昇教授のひとことが起死回生の転機をもたらしたと述懐し、自身を紹介するのに「私は、ついぞ今まで一度も、門下生というものを持ったことがない」と繰り返し書き、やはり同様に一度も教職につかず、個人レッスンの生徒を一人も持たなかった近衛秀麿や藤原義江の態度を高く評価していることから、次のような陽一郎の姿勢が読みとれるのではなかろうか。音楽家とは、否、真の芸術家とは、「誰それに師事し」とはいってはならない。それは、誰それの名声を利用して自らを高く見せようという姿勢だし、誰それの傾向を受け継ぎ、誰それの技量を超えられないことを表明するものだ。
 指揮法指導の申し出を断った近衛秀麿は、1週間後に「指揮法は教えないが、助手にしてやるから、オーケストラの指揮に必要なことは、自分のそばにいて仕事をしながらおぼえなさい」と声をかけてくれた。職人の世界でいう「親方の仕事は見て盗め」である。これは陽一郎にとって願ってもないことだった。彼は心躍らせてピアニストと指揮助手の二足のわらじを履いた。
 学校の方はどうだったか。戦後の体制の中で、校長をはじめスタッフの総入れ替え状態があり、それは彼の眼に不条理に映った。新教授陣と対立したあげく、1948(昭和23)年1月、卒業試験の直前に退学願をたたきつけてしまう。
 近衛秀麿の次のひとことが、彼を勇気づけた。
 「君ね、日本の音楽学校の免状なんか世界で何の役に立つと思うのかね」
 こうして、東京音楽学校を卒業直前で退学してしまった陽一郎だが、仕事の方には100%時間が割けるようになった。2月にはヴァイオリニストの鳩山 寛と『ベートーヴェン三大ヴァイオリン=ソナタの夕べ』を中国・四国地方の6都市で開催しているし、春からは藤原歌劇団の各歌手、ことにプリマドンナ=大谷洌子(きよこ)(→昭和音楽芸術学院校長)の独唱会の伴奏を数多く手がけた。東宝交響楽団の仕事としては、ピアノ=パートの他にハープ=パートの代役というのもあり、戦争で欧米と絶交していた期間の新作の本邦初演を手がけるのも刺激的だった。また、「私は最初の〈自分の〉合唱団を設立した。」とある。年譜によれば、《東京ヌーヴェトアール合唱団》、のちの《エオリアン=コール》のことらしい。

福岡時代  インテルメッツォ
 このように、充実した日々が続いていたが、1949(昭和24)年の夏、陽一郎は突然東宝交響楽団を退団し、福岡へ戻ってしまう。表向きの理由は、西南学院に勤めるという条件で、米国留学ができるという話に乗ったということになっている。
 福岡へ帰るやいなや、8月に2回の『サマー=イヴニング=コンサート』を開き、石丸 寛指揮の《福岡フィルハーモニック=ソサイェティ》に共演する。秋になると《福岡・筑紫野合唱団》の常任指揮者に迎えられ、やがてこれを《ユーフォニック合唱団》に改組し、さらに《西南カレジエイト=コラール=ソサイェティ》に吸収、発展させる。12月に『メサイア』を公演するためであった。
 かたわら、生まれ故郷の神戸でコンサートを開催したのを皮切りに、指揮・独奏会・他団体への賛助出演・ジョイント=コンサートなどで休む間もなくステージに昇っている。その間に《福岡歌劇研究会》を設立し、12月早々には『セヴィリヤの理髪師』を公演した。そして先述の『メサイア』である。
 年明けて、相変わらず月1度は演奏会やオペラを公演し、4月からは西南学院大学神学部に編入したが、演奏活動は続けられた。
 このように、23〜24歳の1年半にわたる福岡時代は、きわめて多忙で充実した日々だった。かつての東宝交響楽団の1団員ではなく、彼自身〈独裁者〉と呼ぶ、やりたいことがやりたいだけやれる環境だった。
 また、暁子(ぎょうこ)夫人ともこの時代に巡り会った。《ユーフォニック合唱団》のアルトだったのである。
 しかし、陽一郎は記す。「私は実は退屈しきっていた。やることのパターンの先が見えてきたのである。こんなことをしていて何になる、という気持ちがつのるばかりであった。」

藤原時代  本格的オペラ指揮者へ
 折りもおり、藤原歌劇団の福岡公演があった。演目は『椿姫』。Manfred(マンフレート) GURLITT(グルリット)指揮の《東京フィルハーモニー》による本格的な公演だった。
 旧知の藤原義江と宿舎や楽屋で話すうち、ついつい心情を吐露すると、彼は「そんなら出てこいよ。お前ならすぐ使ってやるよ。」といってくれた。
 すでに予定されていた熊本でのコンサートを1月30日に済ますと、1951(昭和26)年2月5日に上京し、即座に《藤原歌劇団》に入団する。
藤原義江(1898-1976)
 その月末には『カルメン』の公演があり、以来、時に座付きピアニスト、時に合唱指揮者、時に副指揮者という立場で主に裏方の仕事をこなしていった。陽一郎が福岡にいる間に《東宝音楽協会》は解散し、《藤原歌劇団》の経営は厳しい立場に置かれていた。
 1951(昭和26)年11月5日、福岡の鳥飼
(とりかい)バプテスト教会で暁子夫人と結婚、東京にて新生活をスタートさせた。
 翌年、『アイーダ』の公演をきっかけに、畑中良輔(はたなかりょうすけ)と共に《東京コラリアーズ》という日本初のプロの自立合唱団を組織する。《慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団》の出身者が中心メンバーだった。これをきっかけに、陽一郎の大学合唱団体との関係が次第に深まってゆく。このメンバーで鵠沼在住の遠山 一(バス、本名:金井政幸→ダーク=ダックスのぞうさん)の自宅に遊び、この地がすっかり気に入った陽一郎は、10月、身重の暁子夫人と共に片瀬山の中腹に借家して新居を構える。暮れには一粒種の朋子(ともこ)が誕生した。以来、数回転居したが、陽一郎の後半生は、ずっと藤沢市民だった。
 これ以後、《藤原歌劇団》での活動は、当初青年グループの指揮を任され、数多くの日本初演を手がけている。グランドオペラの初指揮は1954(昭和29)年5月の『マノン』だった。そして1956(昭和31)年には30歳の若さで常任指揮者となり、その夏から4か月にわたる渡米公演をこなしている。また、NHK『イタリアオペラ公演』に日本側指揮者を4回任された。1964(昭和39)年に《藤原歌劇団》を退団するまで、27演目のオペラを指揮した。            [つづく]
※文中敬称略
(わたなべ りょう)
 
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