鵠 沼 碑 文 集
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
改訂 昭和55年5月
 
鵠沼を語る会 伊藤節堂
 
 

目 次

 
                         頁
 
その1 堀川改修記念碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥……305
 
その2 引地川改修紀功碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥……306
 
その3 中岡耕地整理紀功碑……‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥307
 
その4 帆足可成句碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥308
 
その5 鵠沼海岸別荘地開発記念碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥309
 
その6 石上神社記念碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥311
 
その7 高山昇翁頌徳碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥312
 
その8 聶耳記念碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥……313
 
その9 平和の像…‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥……314
 
その10 名誉市民片山哲先生像‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥315
 
その11 花沢町下水敷設記念碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥316
 
その12 鵠沼土地区画整理記念碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥318
 
その13 皇大神宮鳥居建立記念碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥320
 
その14 皇大神宮鳥居再建記念碑…‥‥‥‥‥‥‥‥‥321
 
その15 首塚の碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥322
 
その16 飯尾常吉翁頌徳碑‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥324
 
 
付録  建碑編年表‥‥‥
 
 
            鵠沼碑文集(その1)
 
1.名称 堀川改修記念碑
2.所在 鵠沼海岸4-21-8地先 引地川堤上
3.建立 文化5年(1809)8月15日創建 (昭和7年8月23日再建)
4.碑文 (原文は漢文) 
 

 相模国高座郡鵠沼邑に川流有リ、堀川と称う、その西南の田を藤原と呼ぶ、天明六年(1786)丙午秋七月十有七日水は堤防を破リて田地悉く荒れる、予の祖父邑人を誘い励まし堤防を新築せり、亨和三年(1803)辛亥夏五月十有九日又水患有リて堤二か処破れる、厳父祖父の志を継ぎ、独り費用を顧みず、隣邑の土にて又堤防百余歩を新築し、以て持久の計を為す、水神の祠を建て永全是を祈る、文化五年(1808)歳在戊辰秋八月望(十五日)、浅場太郎左衛門之を建つ
                      谿南時篤書
 
 
5.碑陰 昭和七年八月二十三日  浅場虎吉再建之
                 石工 伊藤與仍
鵠沼碑文集(その2)
 
2.所在 鵠沼海岸2-17地先 引地川河畔
3.建立 昭和9年2月
4.碑文 (原文は漢文片仮名混り文)
 

 引地川は水路迂餘曲折して流水の疎通良好ならず、一朝豪雨に会へば堤防決壊して濁水氾濫し、年々農作物を害す、又屡々鵠沼別荘地を浸して住民を苦む、乃ち引地川苟の改修は藤沢町多年の宿題なりしも、町財政は之が工費の負担に堪えず、已むを得ず年々数千円を投じて応急修繕を反覆し一時の苟安を図れり、偶々時局匡救土木事業の実施せらるるに当り、町理事者は極力県当局に対し、引地川の改修を懇請し、幸に県当局の納るる所となり、昭和七年度に於て金参万弐千円、翌八年度に於て金参万六千円を配当せられ、昭和九年二月引地川下流延長約壹千間の改修を完了せり、是に於てか多年の水害は除去せられ、且つ下流一帯の風致を美化し、別荘住宅地としての真価を増大せり、由来本工事は、新川敷の収得に、工事の実施に、多大の困難を伴ひしも、遂に所期の目的を貫徹し、最良の成果を収め得たる所以のもとは、県当局の適切なる指導と、町技師の真執なる努力とに頼ると雖も、亦以て鵠沼耕地整理組合員の理解と、工事請負人の誠意とに由るにあらずんば何ぞ能く此の如くならむや、茲に碑を建てて其の功績を記し長へに後昆に伝ふ
  昭和九年二月吉辰 藤沢町長従四位勲三等功五級 一木 興十郎 撰
             県立湘南中学校教授嘱託 佐 野 梅 吉 書
 
鵠沼碑文集(その3)
 
2.所在 鵠沼松が岡4-19-5 小田急踏切り
3.建立 昭和8年10月
4.碑文 (原文は漢文)
 

          中岡耕地整理紀功碑
                     男爵野崎貞義篆額

 天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず、相州中岡の地、一丈五尺の本道南北に通じ、数条の支路東西に分つ、耕地は井然として、邸宅は安定す、昭和七年七月起工し翌年八月竣工せり、耕地整理費金参千六百円、水路工事費金弐千弐百円、歳余にして面目一新す、六町余歩の耕地は蔬菜の栽培に適し、豪雨の暴漲を免る、耕地整理関係当局の指導方針、組合員の融和協調、諸役員の奮励努力、町理事の援助達成、その宜しきを得るに非ざれば則ち何ぞ能く斯くの如くならんや、所謂天の時、地の利、人の和が最良の成果を収得せり、嗚呼、聖世の恩沢年々豊なれば、人楽良に故有るなり、茲に梗概を陳べ、紀功碑を建て、長えに後昆に伝う

   昭和八年十月吉辰
             中岡耕地整理組合長 一木興十郎 撰
              帝都賜菊園学会長 藤 野 静 輝 書

 
 
鵠沼碑文集(その4)
 
1.名称 帆足可成句碑
 
2.所在 鵠沼藤が谷3-10 賀来神社境内
 
3.建立 明治37年3月
 
4.碑文 (碑陰の頌徳文は漢文)
 

    こがらしの 落行くあとや 水の月
                         可成

 君姓は帆足、名は信、松岡庵可成は其の別号なり、旧長府藩士、仕えて陸軍一等軍更正六位勲五等に至る、性風流にして俳諧を嗜む、甚だ鵠沼の風景を愛し、遂に寓を本土に移す、今日の繁栄有るは蓋し君が力居多ければなり、明治三十六年三月二十五日病歿す、歯五十有六、この頃友人伊東将行等相謀リ、将に其の秀句を貞a(=碑) に?らんとして余に揮毫を乞う、乃ち其の由を書す

   明治三十七年三月           三昧菴主人識 
 
鵠沼碑文集(その5)
 
2.所在 鵠沼藤が谷3-10 賀来神社境内
3.建立 大正9年12月
4.碑文 (原文は漢文)
 

         鵠沼海岸別荘地開発記念碑

 鵠沼海岸一帯の地は往昔砥上ヶ原と称え、鵠沼は其の東南隅に在り、左は片瀬をなし右は辻堂をなす、南すれば則ち積水天を涵し浩蕩涯なく、伊豆大島三浦半島其の間に隠見す、西すれば則ち芙峰高く天際に嶷立し、箱根足柄雨降の諸山其の左右に環列す、明治十九年武州川越の人伊東将行偶此の地に来り、徘徊移刻、俯仰四顧しておもえらく、郊外生活の好適地なりと、遂に住を移す、三觜直吉と協力して鵠沼館を創設し、以て士女遊渉の便に供せり、翌二十年今福元頴・三觜八郎右衛門・金子小左衛門・田中平八・斉藤六左衛門等相謀り、武相倶楽部を建設せり、将行また部員となり、専ら遊客招致の策を講じて、共に未だ其の績を挙ぐるに到らず、将行敢て屈せず二十二年中野武営・中島行孝、伊藤幹−と海岸の開発に従事せり、道路を間き松樹を種え以て屋宇と園庭を作るに便す、是に於てか往昔、汀沙漠々として風塵面を払うの域、今更りて一望曠観、風光明媚の佳境となり、貴紳富豪の別邸を構え、別墅を設くる者、年々其の数を増加せり、蜂須賀茂承・益田孝・藤堂高紹・久松定謨・馬越恭平・高瀬三郎・郷誠之助・広岡助五郎・山口寅之輔、佐藤長四郎・吉田嘉助・宮崎寛愛・千葉恒次郎・小田柿捨次郎・田中銀之助を其の重なる者となす如し、将行益々奮励し、二十五年更に一旅館を営み東家という、営みてこれを築き、築きてこれを拡ぐ、楼観は精工巨麗にして靡らず、館皆松を還らし、池を造り水を蓄え、清洒掬すべし、前面渚を隔てて江の島に臨む、呼びて其の富を磨かんと欲す、海山眺望の勝此の館の如きは多く其の比を見ず、況んや室清く、魚美く、歓待切に宜し、此の地の発展に伴い其の繁盛日に極まる、寺尾亨数此の地に来遊して、頗る其の蒼桑改観の状を詳かにす毎に人に語リて曰く、鵠沼の今日あるは蓋し亦、将行の積日累労の致すところ、其の功豈歿すべけんやと、信に其のいうや然り、将行今年七月二十九日病歿せり、享年七十有五、孫将治其の家を継ぎ、族長谷川欽一其の業を承ぐ、施設渾て故の如し、此の地の有志、其の功を嘉尚し、胥に諮リて碑を樹て、此の地の開発を記念し、兼て此を不朽に伝えんと欲す、記を余に索む、余深<此の挙を讃む、依って其の概を録し、且つ係わるに銘を以てす
   鵠沼の浜の開発は維新なり、
    翠嵐遠望し、碧波近接す、
    冬宜しく夏宜し、宅遊可なり、
    湘南に勝多けれど勝中の勝なり
    大正九年庚申十二月
       頭山 満 題字       牧野隨吉 撰又書
 
 
鵠沼碑文集(その6)
1.名称 石上神社記念碑
2.所在 鵠沼 2232 石上会館隣
3.建立 昭和9年11月20日
4.碑文
 

            記念碑
 本町の守護神石上神社は、従来町最南端低地に鎮座せられ其の位置極めて参詣に不便、且つ出水の都度社殿碑石共に浸水するの不敬を憂慮し、昭和九年八月七日部落の中央現地に遷座安置し奉る、依て之を永遠に記念する為め、建設委員一同自費を投じ、茲に此の碑を建設す
     昭和九年十一月二十日 建之
 
 
鵠沼碑文集(その7)
 
 
1.名称 高山昇翁頌徳碑
2.所在 鵠沼海岸 5-11 鵠沼伏見稲荷神社
3.建立 昭和30年5月20日
4.題額
                    房子
      一筋に神のみいつをひろむへく
           はけみしまこととはに輝く
5.碑文 (原文に句読点はない)
 

        高山昇翁頌徳碑
                 神宮祭主 北白川房子題額
 従四位高山昇翁は、上野国吾妻郡大宮巌鼓神社の祀職薩摩守茂樹の長男として、元治元年(1864)正月生まる。翁資性頴悟孝心厚く、父祖の志を継いで皇典講究所師範科に国学を修め、明治十九年業を了へ、郷里に於て教育事業に与リ、又編輯出版に関与し、世道人心の帰趨を憂えては、斯道会を起こして教育に関する勅語の普及貫徹を図る等、隨所に才能を発揮し、二十八年一転して神社界に入り、官幣大社浅間神社宮司、志波彦塩釜神社宮司、初代神部署長に歴任し、漸く斯界に重きを成せり。三十五年国学院の校舎烏有に帰するや、皇典講究所幹事、国学院主事に聘せられ、能く善後の処理を完遂し、更に今井清彦氏と共に大学昇格の事に力を致し、其の目的を達して講究所国学院の声価を高からしめ、在職十年再び神社界に入り、大正二年官幣中社厳島神社宮司を拝命、十三年官幣大社稲荷神社に栄転し、昭和四年神社制度調査会委員、後神社局参与を兼ね、又講究所専務理事、其の他全国神職団体の役員顧問として経営指導に協力し、途を後進に譲りたる後も、崇敬措かざる東京乃木神社の宮司を欣んで受任し、稲荷大神の神徳を仰ぎては、都郊外東伏見及び藤沢市鵠沼に稲荷神社を創建する等、終生斯道の為尽瘁し、其の功労は万人の景仰する所なり。翁体躯雄偉、態度重厚、識見高く国士の風格あり。居常酒を嗜み、晩年病床に在リても日日酒盃を手にし、訪客あれば談笑して無上の快となせり。昭和二十五年十月安らかに長逝す。寿八十七。ー生の経歴波瀾少なからざれど、翁自ら栄とせしは、浅間・厳島両神社の昇格に力を致ししこと、神部署長、神社制度調査会委員に選任せられしことにありしが如し。歿後茲に五年、故旧翁を追慕する者相謀りて、終焉の地鵠沼稲荷神社境内の一隅に此の碑を建て、永く其の功績を顕彰す
  翁会心の詠に曰く
  稲荷やまあけの鳥居のあけくれに祈るは御代のさかえなりけリ
   昭和三十年五月二十日   国学院大学長 石川岩吉撰
                       桑原通雄書
 
 
鵠沼碑文集(その8)
1.名称 聶耳記念碑
2.所在 鵠沼海岸 2-18 地先引地川河畔
3.建立 昭和29年10月
4.碑文
 

           聶耳を記念する
 ここは、中華人民共和国の作曲家聶耳の終焉の地である
 彼は一九三五年七月十七日暑さをこの地に避け、水泳中突然波間に姿を没し、不帰の客となった。聶耳は一九一二年中国雲南に生まれ、欧陽予倩先生に師事し、二十数年の短い生涯の間に、中国民衆の労働を歌った大路歌、碼頭工人歌等の大作を残した。現在中華人民共和国々歌となっている義勇軍行進曲もまた彼の作曲になるものである。耳を傾ければわれわれは今日なお、聶耳のアジア開放の声を聴くことができるであろう
  ここは聶耳の終焉の地である
  一九五四年十月             秋田雨雀 撰
                      豊道春海 書
 
鵠沼碑文集(その9)
1.名称 平和の像
2.所在 鵠沼海岸2、湘南海岸公園憩いの広場
3.建立 昭和40年3月
4.碑文 (原文は左横書 句読点はない)
 

  明治以来殉国英霊の遺族が、会を創立して満15周年を記念し、その不幸と悲痛を再び繰り返えさないようにと、平和像建設を企図し、市民の浄財を仰いで、これを市に寄付された。市は更に市費を加えて、ここにその建立を完成したのである
  今台上を仰いで、未来を象徴する若人の高く挙げた右手の拳に、天翔けリ降った平和の具象たる鳩を受け止める雄姿を見るとき、希望と平和の融合した人類の理想の園を思わずにおられない
 まことに平和こそ人類創生以来、群落国家社会を形成しつつもなお絶え間ない戦乱に惨禍を被る国民大衆にとり、永遠の悲願としての希求である
  願わくはこの像の鳩とともに、永遠の平和の去るなからんことを切に祈るのみ
  なお終りにこの台座の中には英霊の尊名が安置されていることを書きそえる
   昭和40年3月    藤沢市長 金子小一郎 撰文並書
              像製作者
                   難波孫次郎
              日展会員
 
            鵠沼碑文集(その10)
 
2.所在 鵠沼海岸 2121 藤沢市中央図書館前
3.建立 昭和47年5月
4.碑文
 

 片山哲氏明治二十年紀南に生る。こよなく湘南を愛し、居を構えてより五十有余年、清節道を守って湘南の人となる。市民諸君より推されて衆議院議員に当選する事十一回、昭和二十二年五月には内閣総理大臣に就任し、戦後の難局処理に当る。その後外遊数回、世界の人物と風光に接し、益々わが湘南の風物、世界に秀でたるを信ず。この真白き富士の嶺緑の江の島の中心地たる藤沢市の第一号名誉市民に選ばれたる事を、生涯の光栄として喜び居れり。
  一九七二年五月              林 大作 識
  建設  片山哲先生を顕彰する会
                    彫刻  菅沼五郎
                    石工  秋元大太郎
 
鵠沼碑文集(その11)
2.所在 鵠沼 1799
3.建立 昭和14年8月
4.碑面 篆額は「下水施設記念碑」と陽刻
 (碑文)
 

 花沢町は大正十二年関東大震災直後より漸次開発せられ昭和二年始めて町内会を組織し同六年下水施設の計を樹つ七年三月十三日発起人会を開き幾多の迂余曲折を経て漸く十一年三月関係者八十余名賛同の下に資金積立を開始し翌十二年四月三日起工式を挙げ同八月幹線二百五十間支線四百五十間総工費約五千円也の大工事を竣成せり茲に有志相図り之を建て町内会発展の経過を伝へ併せて前後七個年に亘り滅私奉公献身的に努力せられたる石井君の功を頌す
              正五位勲四等 鬼 俊民 撰
                     米谷露香 書
 
 
5.碑陰 井上四郎以下九十二名連記
     実行委員  委員長 鬼 俊民
           委 員 石井房吉 以下十名
     昭和十四年八月建之
               藤沢駅前石工 林 藤吉 刻
6.備考 高さ 154cm 幅 60cm 台座 15cm
 
鵠沼碑文集(その12)
2.所在 鵠沼神明 2-11(神社裏側道路わき)
3.建立 昭和35年4月1日
4.碑面 題額に「区画整理記念碑」と行書の陽刻あリ
 (碑文)
 

        碑建立のことば (句読点あリ)
 鵠沼土地区画整理は、この組合の初代組合長であった斉藤正夫氏外二名発起人となって神奈川県知事に組合設立認可の申請をし、昭和十八年十二月四日認可をうけて着手、以来組合解散に至るまで十七年三個月の長期を経たのであります、その間戦争終末の世相混乱期に遭遇し事業は停とん状態を余儀なくされていたのでありますが、たまたま事業促進について関係当局の勧告と組合員から急速なる完成の要望があったので、山上組合副長は昭和三十三年八月二十日総会を招集し再発足についての承認と、同時に役員の改選を行ない組合長宮崎忠太郎氏以下それぞれの役員を選出したのであります、かくて新役員は事業財源につき藤沢市及び日本精工株式会社にその援助を求め、更に技術的援助を藤沢市長に要請するなどの処置を講じ、仮換地再設計、換地図縦覧、換地指定、設計変更公園敷地一千八百五十一坪九合二勺の確保など幾多の困難な問題を処理し、昭和三十五年三月十一日神奈川県知事から換地処分の認可を得て、同年三月三十一日の総会において組合を解散したのであります
 ここに鵠沼土地区画整理は完成を遂げたのでありますが、この困難な事業に対し役員は協カー致完遂に努め、組合員もまた理解を以って完成に支援された、その成果によって完成を遂げたので、これを記念し碑を建立したのであります
   昭和三十五年四月一日
               藤沢市長 金子小一郎 書
 
 
5.碑陰 地区面積  八万五千六十一坪一合一勺
     組 合 長  宮崎忠太郎
     副組合長  渡辺清作
          日本精工株式会社
           小島賢一
     組合役員  浅場太郎吉以下十七名
     組 合 員  青木万吉以下九十一名
 
鵠沼碑文集(その13)
1.名称 皇大神宮鳥居建立記念碑
2.所在 鵠沼神明 2-11 (神殿右側)
3.建立 昭和10年8月
4.碑面 上方題額は「記念碑」と陽刻
 (碑文)
 

 此大鳥居は鵠沼出身横須賀市居住諸氏の奉納せられたる者にして其基因は氏子の鳥居建設の挙あるを聞き進んで奉納の申出あリ氏子は喜んで受納せる次第なり抑も諸氏の挙は全く産土神社を敬慕する敬神の篤志に依る宜なる哉諸氏は独立独歩の成功者真に敬意を表せざるを得ず茲に鳥居建立の由来を記録し此の美挙を表せんとす時に昭和十年八月也
            皇太神宮氏子総代 高松良夫 撰並書
 
 
5.碑陰
   発起人  元 町 渡辺源次郎以下十二人    
   世話人  安浦町魚長 加藤キク以下十人
   賛成人  中里町 上田良助以下二十一人
        藤沢町 大工 加藤徳太郎
            石工 林 藤 吉
            鳶工 小菅三之助
 
鵠沼碑文集(その14)
2.所在 鵠沼神明 2-11(一の鳥居左側)
3.建立 昭和36年1月
4.碑面 題額に「記念碑」とあリ
 (碑文)
 

 それ当社宝前の旧鳥居は昭和十年鵠沼出身にして横須賀在住の篤志家関根治郎吉氏をはじめ幾多有志の絶大なる努力によりて奉献せられしところなり爾来星霜を閲して風雪の削磨に朽ちあるひは神徳を害せむを畏るすなわち総代山上八造氏を中心に多数氏子の熱望を凝らし再建の機運ここに熟して昭和三十五年十月起工の式を挙げ同三十六年春正月吉朝威容湘南の空を圧して竣成せリ慶喜何かこれに過ぎむ希くば神霊嘉納してとこしへに平和繁栄の恵沢を垂れ給はむことをいささか蕪辞をつらね来由を記すと云尓
   昭和三十六年一月十七日   関根善之助 撰
   建設委員芳名   委員長  山上八造以下五十二名連記
                 工事請負人 関根長五郎
                 本鵠沼駅前 大和工務店刻
 
鵠沼碑文集(その15)
1.名称 首塚の碑
2.所在 鵠沼神明 3-3-17 宮ノ前公民館前
3.建立 明治12年2月
4.題額 「首塚」と隷書の陽刻あり              
5.碑文 (註)「 」内は欠落。欠落部分は藤沢市史資料によった。
 

 許はふるくよりあなる塚にしあれど、何の塚てふことを知れる人も「なく、ただ里人の金堀塚」あるは首塚或は庚申塚などとりどりに呼て定かならぬを、今や「文明の御代にあい千世の」古道明らけくなりゆく時にあたりて、かゝることのゆえよしのしら「れぬこそ本意なけれと」里長関根主を始め里人のなげけるなんさることなりけ「る、さるほど人々あい」かたらい塚をあばきみるに、髑髏ふたもゝ脚骨四つ出「でければ、そをひとつかめに納め、懇に」葬りのわざいとなみてかくなん碑をたてたりける、され「どいつの頃身うせたリ」し武部たちのかばねなるかしるよしのなきはいとも口をしかりける、「案ふにこのわ」たりは康正(1455)永正(1504)の頃、殊に国の内乱れて戦かひのちまたになりしかば、其の頃の「ものと」も思はるれど証しにすべきものしなければ、其姓さへ名さへ知るよしのなきにつけても其世のさまのおしはかられて、此のわたりにすみけん人の如何に世をう(憂)くなげきつらんとおもふにも、我も人もなみ風たたぬ御代に生れて、かくをのがみ(身)のやすくたのしき月日をおくるは、□そもたかき御恵ならずやといへば、人々も実にさることなりいかで其よしをと、こへるまゝにかい(書き)しるしぬ、神奈川県の里の旧き跡のしるしかきつくることをうけたまはりてつかうまつる
                       星野輝「蔵」
     剱太刀 とがみ野に 身を尽くしける
       むかしおみへば 袖ぞ濡ぬる
     くちはてし 埋れかばねも 明らけき
       御世のひかりに あらはれにけリ

   明治十二年歳次巳卯二月改?
 
鵠沼碑文集(その16)
2.所在 鵠沼神明 5-6 白旗稲荷境内
3.建立 大正10年2月
4.碑文 (原文は漢文)
 

           飯尾翁頌徳碑
 飯尾常吉翁は中郡須賀の人なり、明治二十六年来りて居を車田町に構える、翁は性闊達にして義気有リ、人の為を謀リて親切、町内藤沢分諸般の事に尽力して功有リ、茲に二十有八年、昨年二月溘にして逝く、享年五十有九、当白旗稲荷敷地は、翁が信仰を以て寄附せる所なり、茲に有志相謨リ、翁の功績を頌えて碑を建て、以て後昆に伝うと云う
   大正十年二月         篆額撰文書  佐野萱司
鵠沼碑文集(その17)
2.所在 鵠沼神明 5-11 第一中学西南隅
3.建立 昭和43年5月31日
4.碑文
 

          記念碑建造にあたり
 本地区は一部学校用地及び住宅地を除いては標高8〜10メートルの水田地帯であった、しかし周辺ー帯は近年著るしく住宅の建設が行なわれ水田としての耕作が不可能になってきました、そこで地区の権利者の総意を得て、土地区画整理組合を結成し、理想的な宅地の造成を計った訳です、この結果当初の目的を上廻る程リっぱな宅地の造成が出来た訳であります、事業当初における地元権利者全員の協力と、この事業に対し最初から最後まで御苦労下された市当局に対し心から感謝の意を表すると共に、今後この地区がより以上の発展をとげる為権利者の総意によりここに記念碑を建造します
   昭和四十三年五月三十一日
 
付録 建碑編年表
 西暦 建立年 名 称 所 在

 1808 文化5年

 1879 明治12年

 1904 〃 37年

 1920 大正9年

 1921 〃 10年

 1933 昭和8年

 1934 〃 9年

 1934 〃 9年

 1935 〃 10年

 1939 〃 14年

 1954 〃 29年

 1955 〃 30年

 1960 〃 35年

 1961 〃 36年

 1965 〃 40年

 1968 〃 43年


 1972 〃 47年
 

堀川改修記念碑

首塚の碑

帆足可成句碑

鵠沼海岸別荘地開発記念碑

飯尾常吉翁頌徳碑

中岡耕地整理紀功碑

引地川改修紀功碑

石上神社記念碑

皇太神宮鳥居建立記念碑

花沢町下水敷設記念碑

聶耳記念碑

高山昇翁頌徳碑

鵠沼土地区画整理記念碑

皇大神宮鳥居再建記念碑

平和の像

鵠沼内田土地区画整理組合
 落成記念碑

名誉市民片山哲先生像
 

鵠沼海岸 4-21-8

鵠沼神明 3-3-17

鵠沼藤が谷 3-10

鵠沼藤が谷 3-10

鵠沼神明 5-6

鵠沼松が岡 4-19-5

鵠沼海岸 2-17

鵠沼 2232

鵠沼神明 2-11

鵠沼 1799

鵠沼海岸 2-18

鵠沼海岸 5-11

鵠沼神明 2-11

鵠沼神明 2-11

鵠沼海岸 2-18

鵠沼海岸 5-11


鵠沼 2121