鵠沼地区のモニュメント一覧
会誌『鵠沼』の5~17号に故伊藤 節堂会長の力作「鵠沼碑文集」が肉筆で掲載され、30号に活字の形でまとめられました。
その成果をもとにその後建立された記念碑を追加し、さらに記念像その他のモニュメントを加えて整理してみました。
左の帯の色分けは種類の区分です。凡例:■開発記録 ■歴史記念 ■個人顕彰慰霊 ■文学碑等 ■実物保存
01 | 記念物名称 | 首塚碑 | |
設置場所 | 鵠沼神明3-3-17 | ||
設置時期 | 1879(明治12)年2月 | ||
設置者 | 關根傳左衛門? | ||
制作者 | 撰:星野輝蔵 題字は県令=野村靖(1842-1909) | ||
形態 | 自然型 総高 192cm 根府川石 | ||
碑文等 | [題額] 首塚(右横書き) 野村靖(縦書き) [碑面](縦書き) 許はふるくよりあなる塚にしあれど何の塚てふことをしれ[る人もなく、ただ里人の金掘塚] あるは首塚或は庚申塚などとりどりに呼て定かならぬ[る、今や文明の御代にあい千世の] 古道明らけくなりゆく時にあたりて、かヽることのゆゑよしの[しられぬこそ本意なけれと] 里長關根ぬしを始め里人難けるらむさることな[り、さるほど人々あい] かたらひ塚をあばき見るに、髑髏ふたもヽ脚骨四つ出[でければ、そをひとつかめに納め、懇に] 葬りのわざいとなみてかくなん碑をたてたりけるさ[れどいつの頃身うせたりし武部] たちのかばねなるかしるよしのなきはいとも口惜しかりけ[る、案ふにこのわたりは康正] 永正の頃殊に國のうち乱れて戦かひのちまたになりしかば其の頃のものとも思はるれど証し[に] すへき物のなければ、其姓さへ名さへしるよしのなきにつけても其世のさまのおしはかられ[て] 此わたりにすみけん人の如何に世をうくなげつら無しとをもふにも、我も人も波風た[たぬ] 御世に生れてかくをのがみのやすくたのしき月日をおくるは、抑そも高き御[恵] ならずやといへば人々も実にさることなり以可で其よしをとかいしる[しぬ] 神奈川縣の里の旧き跡のしるし書つくることをうけたまはりてつかうまつる 星野輝[蔵] 劔太刀とがみ野に身を尽しけるむ可志おもへば袖ぞ濡ぬる くちはてし埋れかばねも明らけき御世のひかりにあらはれにけり 明治十二年歳次己卯二月改塹 |
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備考 | 関根伝左衛門が首塚を発掘し、二人分の遺骨を発見。慰霊のため建碑。 ※斜体は変体仮名 現在は一部剥落。[ ]内は判読不能。※剥落以前に読んだ記録による。 『鵠沼』10号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の一五 『鵠沼』88号に松岡 喬(会員)「首塚」の碑と野村靖 |
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02 | 記念物名称 | 帆足可成句碑 | |
設置場所 | 鵠沼藤が谷3-10(賀来神社境内) | ||
設置時期 | 1904(明治37)年3月 | ||
設置者 | 伊東將行 | ||
制作者 | 書:三昧菴主人 | ||
形態 | 自然型 高さ175cm 幅95cm 火成岩(安山岩) | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 可成 古からしの落ち行あとや 水乃月 [碑陰](縦書き) 君姓帆足名信松風庵可成其別號舊長府藩士仕至 陸軍一等軍吏正六位勲五等性風流嗜俳諧甚愛鵠 沼風景遂移寓本土有今日繁榮蓋君力居多焉明治 三十六年三月廿五日病歿歳五十有六頃友人伊東 将行等相謀将鐫其秀句於貞珉乞余揮毫乃書其申 明治三十七年三月 三昧菴主人識 |
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備考 | 帆足可成(本名:信、別号:松風庵。陸軍軍吏で俳人) 『鵠沼』6号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の四 |
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03 | 記念物名称 | 鵠沼海岸別荘地開發記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼藤が谷3-10(賀来神社境内) | ||
設置時期 | 1920(大正 9)年12月 | ||
設置者 | |||
制作者 | 題字:頭山 満、撰書::牧野随吉 | ||
形態 | 尖頭扁平型 総高392.0cm 粘板岩 | ||
碑文等 | [題額] 鵠沼海岸別荘地開發記念碑(2字ずつの縦書き) [碑面](縦書き) 湘南海岸一帶之地往昔稱砥上原鵠沼在其東南隅左爲片瀬右爲辻堂南則積水涵天浩蕩 無涯伊豆大島三浦半島隠見其間西則芙峰髙嶷立于天際箱根足柄雨降之諸山環列其左 右明治十九年武州川越之人伊東將行偶來于此地徘徊移刻俯仰四顧以爲郊外生活之好 適地也遂移住與三觜直吉協力創設鵠沼舘以供士女游渉之便翌二十年今福元穎三觜八 郎右衛門金子小左衛門田中平八齋藤六左衛門等相謀建設武相倶樂部將行亦爲部員專 講游客招致之策而共未到擧其績將行敢不屈二十二年與中野武營中島行孝伊藤幹一從 事于海岸之開發闢道路種松樹以便作屋宇與園庭於是乎往昔汀沙漠々風塵拂面之域今 變爲一望曠觀風光明媚之佳境貴紳富豪之搆別邸設別墅者年々増加其數如蜂須賀茂承 益田孝藤堂髙紹久松定謨馬越恭平髙瀬三郎郷誠之助廣岡助五郎山口寅之輔佐藤長四 郎吉田嘉助宮﨑寛愛千葉恒次郎小田柿捨次郎田中銀之助爲其重者將行益奮勵二十五 年更營一旅舘曰東家既營而築之既築而擴之樓觀精工巨麗不靡環舘皆松造池蓄水淸洒 可掬前面隔渚臨江島呼欲譍其富海山眺望之勝如此舘不多見其比況室淸魚美歓待至切 宜矣伴此地之發展日極其繁盛寺尾亨數來遊于此地頗詳其蒼桑改觀之状毎語人曰鵠沼 之有今日盖亦將行積日累勞之所致其功豈可歿乎信其然矣將行今年七月二十九日病歿 享年七十有五孫將治繼其家族長谷川欽一承其業施設渾如故此地有志嘉尚其功胥諮欲 樹碑記念此地之開發兼傳之不朽索記余余深讃此擧依録其概且係以銘 鵠沼之濱開發維新翠嵐遠望碧波近接宜冬宜夏可宅可游湘南多勝勝中之勝 大正九年庚申十二月 頭山 滿題字 牧野随吉撰又書 |
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備考 | 鵠沼海岸別荘地開発の経緯と伊東将行の功績を顕彰 賛助者を列記した別碑あり 『鵠沼』6号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の五 『鵠沼』90号に 内藤 喜嗣・渡部 瞭 鵠沼海岸別荘地開発記念碑と登場人物 碑陰・別碑および詳細な解説はこちらを参照してください↑ |
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04 | 記念物名称 | 飯尾常吉翁碩徳碑 | |
設置場所 | 鵠沼神明5-6(白旗稲荷境内) | ||
設置時期 | 1921(大正10)年2月 | ||
設置者 | 有志 | ||
制作者 | 撰又書:佐野益司 | ||
形態 | 自然型 高さ202cm 火成岩(安山岩) | ||
碑文等 | [題額] 飯尾翁碩徳碑(右横書き) [碑面](縦書き) 飯尾常吉翁中郡須賀人明治二十 六年來構居於車田町翁性闊達而 有義氣謀人之爲而親切盡力於町 内藤澤分諸般事而有功茲二十有 余年昨年二月溢焉而逝矣享年五 十有九當白旗稲荷社敷地翁以信 仰爲寄附所茲有志相謀頌翁之功 績而建碑以傳後昆爾云焉 大正十年二月篆額撰又書 佐野益司 [下段](縦書き) 有志氏名24名連記(省略) [碑陰](縦書き) 車田町藤澤分 世話人 石井助治郎/牧野亦吉 發起人 中丸寅吉/小林秀吉/竹山音次郎/和田仙太郎/髙﨑新蔵 |
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備考 | 『鵠沼』30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集その16 | ||
05 | 記念物名称 | 新道開通記念 | |
設置場所 | 本鵠沼1-16-18地先 | ||
設置時期 | 1927(昭和 2)年5月 | ||
設置者 | 発起者 | ||
制作者 | |||
形態 | 円頭扁平型 188cm 粘板岩 | ||
碑文等 | [題額] 新道開通記念/昭和二年五月竣成(右横書き2段) [碑面](縦書き) 一本松踏切ヨリ南三百二十間六丁目ヨリ右旧道百間擴張工事寄附連名 金貳千圓 藤澤町補助 同 百六十三坪 関根守太 敷地百二十坪 正岡 初 同 百一坪 山口善吉 同 六十坪 齊藤 保 同 六十二坪 山口房次郎 同 百二十一坪 髙橋鐵五郎 同 十四坪 森井良助 同 五十三坪 関根庄太郎 同 四十五坪 普門寺 同 十三坪 森井幸治 同 十四坪 森井政五郎 同 二十坪 高橋熊次郎 同 五坪 上田弥八 同 十八坪 浅場清作 同 六坪 小林鶴吉 同 二十八坪 小森ムラ [碑陰](縦書き) 金貳百圓 發起者一同 |
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備考 | 一本松踏切より南下する「大東道」開通記念。土地提供者名簿 | ||
06 | 記念物名称 | 堀川改修記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼海岸4-21-8地先(引地川堤上) | ||
設置時期 | 1932(昭和 7)年8月23日再建(旧碑は1808(文化 5)年 8月15日) | ||
設置者 | 浅場虎吉 | ||
制作者 | 書:谿南時篤 | ||
形態 | 自然型 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 相模國高座郡鵠沼邑有川流稱堀川其 西南之田呼藤原天明六年丙午秋七月 十有七日水破堤防而田地悉荒矣子祖 父誘勵邑人新築堤防享咊三年辛辰夏 五月十有九日又有水患而破堤二處厳 父継祖父之志獨不顧費用買隣邑之土 而又新築堤防百餘歩以為持久之計建 水神祠永全是祈文化五年歳在戊辰秋 八月望 淺塲太郎左衛門 建之 谿南時篤書 [碑陰](縦書き) 昭和七年八月二十三日建之 淺塲虎吉 |
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備考 | 1786(天明6)年7月17日の洪水に祖父が、1803(享和3)年5月19日の洪水に父が堀川(引地川)の堤防を建設して復旧したことを記念し浅場太郎左衛門が建碑した碑を再建 ※享咊三年は享和三年のことで、辛辰とあるは癸亥の誤り 『鵠沼』30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の一 |
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07 | 記念物名称 | 中岡耕地整理紀功碑 | |
設置場所 | 当初は鵠沼松が岡4-19-5→鵠沼海岸2-10-34(鵠沼市民センター裏庭)に移設 | ||
設置時期 | 1933(昭和 8)年10月小田急線一木通り踏切脇に設置。2007年3月11日移設 | ||
設置者 | 中岡耕地整理組合 | ||
制作者 | 篆額:男爵野崎貞義。書:帝都賜菊園學會長藤野靜輝 | ||
形態 | 円頭扁平型 総高 280cm 粘板岩 | ||
碑文等 | [題額] 紀功碑(右横書き) [碑面](縦書き) 天時不如地利地利不如人和相州中岡之地一丈五尺之本 道通南北數條之支路分東西耕地井然邸地安定昭和七年 七月起工翌年八月竣工耕地整理費金參千六百圓水路工 事費金貳千貳百圓歳餘而面目一新六町餘歩之耕地適蔬 菜栽培免豪雨暴漲耕地整理關係當局之指導方針組合員 之融和協調諸役員之奮勵努力町理事之援助達成非得其 宜則何能如斯乎所謂天時地利人和収得最良成果嗚呼 聖世恩澤年豐人樂良有以也茲陳梗概建紀功碑長傳後昆 昭和八年十月吉辰 中岡耕地整理組合長一木與十郎譔 帝都賜菊園學會長 藤野 靜輝書 [碑陰](縦書き) 中岡耕地整理組合長一木與十郎以下、組合副長2名、評議員5名、役員5名 組合員67名の他、茅ヶ崎耕地整理出張所長、測量設計者3名、工事請負人連記 (省略) |
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備考 | 『鵠沼』5号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の三 | ||
08 | 記念物名称 | 紀功碑(引地川改修) | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-17地先(引地川河畔) | ||
設置時期 | 1934(昭和 9)年2月 | ||
設置者 | 藤澤町 | ||
制作者 | 撰:藤澤町長 一木與十郎 書:県立湘南中学校教授嘱託 佐野梅吉 | ||
形態 | 自然型 高さ 160cm 火成岩(安山岩) | ||
碑文等 | [題額] 紀功碑(右横書き) [碑面](縦書き) 引地川ハ水路紆余曲折シテ、流水ノ疏流良好ナラス、一朝豪雨ニ会ヘハ堤防決壊シテ濁流氾濫シ 年々農作物ヲ害ス又屡々鵠沼別荘地ヲ浸シテ住民ヲ苦ム.。乃チ引地川改良ハ藤沢町多年ノ 宿題ナリシモ町財政ハ之カ工賃ノ負擔ニ堪ヘス、已ムヲ得ス年々数千円ヲ投シテ応急修繕ヲ反覆 シ一時ノ苟安ヲ図レリ。偶々時局巨政土木事業ノ実施セラルヽニ当リ、町理事者ハ極力県当局ニ對シ 引地川ノ改修ヲ懇請シ幸ニ県当局ノ納ルヽ所トナリ、昭和七年度ニ於テ金参萬貳阡圓、翌八年度 ニ於テ参萬六千圓ヲ配当セラレ、昭和九年二月引地川下流延長約壱千間ノ改修ヲ完了セリ、是ニ 於テカ多年ノ水害ハ除去セラレ、且下流一帯ノ風致ヲ美化シ、別荘住宅地トシテノ眞価ヲ増大セリ。由来本工 事ハ新川敷ノ収得ニ、工事ノ実施ニ、多大ノ困難ヲ伴セシモ、遂ニ所期ノ目的ヲ貫徹シ、最良ノ成果ヲ収メ得タル 所以ノモトハ縣当局ノ適切ナル指導ト町技師ノ真執ナル努力トニ頼ルト雖亦以鵠沼耕地整理組合員ノ 理解ト工事請負人ノ誠意トニ由ルニアラスンハ何ソ能ク此ノ如クナラムヤ、 茲ニ碑ヲ建テヽ其ノ功績ヲ記シ長ヘニ後昆ニ伝フ 昭和九年二月吉辰 藤沢町長從四位勲三等功五級 一木與十郎撰 県立湘南中学校教授嘱託 佐野 梅吉書 |
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備考 | 一時期引地川に転落したものを塩澤務が再建 『鵠沼』5号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の二 |
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09 | 記念物名称 | 記念碑(石上神社移転) | |
設置場所 | 鵠沼石上2-3-7(石上会館隣) | ||
設置時期 | 1934(昭和 9)年11月20日。1977(昭和52)年11月移設 | ||
設置者 | 建設委員 | ||
制作者 | |||
形態 | 円頭扁平型 高さ 165cm 粘板岩 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 記念碑 [碑陰](縦書き) 本町守護神石上神社ハ、従来町南端低地ニ 鎮座セラレ、其ノ位置極メテ参詣ニ不便、且ツ 出水ノ都度、社殿碑石共ニ浸水スルノ不敬ヲ 憂慮シ、昭和九年八月七日、部落ノ中央現地ニ遷 座安置奉ル、依テ之ヲ永遠ニ記念スル為メ、 建設委員一同自費ヲ投シ、茲ニ此ノ碑ヲ建設ス 昭和九年十一月二十日建之 建設委員姓名 いろは順 7名連記(省略) |
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備考 | 石上神社はもと石上の渡し場脇にあったが、明治29年、水害に遭うので昭和9年に現在の石上駅南東方に移転。さらに昭和52年に現在の石上会館の脇に移った。 『鵠沼』7号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の六 |
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10 | 記念物名称 | 松岡静雄先生之庵趾碑 | |
設置場所 | 鵠沼海岸7-18-18 | ||
設置時期 | 1937(昭和12)年5月30日 | ||
設置者 | 知友門生有志 | ||
制作者 | 撰:中村孝也(1885-1970) 書:池田宙堂 | ||
形態 | 円頭扁平型 総高 178cm 粘板岩 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 松岡靜雄先生之庵趾 [碑陰](縦書き) 松岡靜雄先生ハ明治十一年五月一日兵庫縣神 崎郡田原村ニ生ル先考ハ操先妣ハたけ先生ハ 其七男ナリ幼ニシテ頴悟神童ノ名アリ長シテ 身ヲ海軍ニ投シ日露日獨ノ兩戰ニ功アリ累進 シテ海軍大佐ニ至ル先生夙ニ國家經綸ノ大策 ヲ懐キ殊ニ南洋ノ開發ニ志シ大正七年豫備役 ニ入リ種々畫策スル所アリシモ不幸病ヲ得テ 相州鵠沼ニ退ク爾來俗塵ヲ避ケテ學術ノ研鑽 ニ務メ等身ノ大著ヲ成シテ學界ヲ驚倒セシム 昭和十一年五月廿三日歿ス年五十九 昭和十二年五月三十日 知友門生有志建之 文學博士 中村孝也撰 池田宙堂書 |
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備考 | 松岡静雄(1879-1936。海軍軍人・民俗学国語学者。柳田國男の弟)旧居跡 『鵠沼』2号に木村 新 神楽舎翁のこと/松岡 磐木 吉野秀雄と松岡静雄/野口喜久子 父のこと母のこと 『鵠沼』23号に伊藤 節堂 神楽舎大人「松岡 静雄」年譜 『鵠沼』23号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集その18 |
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11 | 記念物名称 | 本鵠沼耕地整理記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼桜が岡4-8(桜が岡公園)←鵠沼桜が岡4-11-2地先より移転 | ||
設置時期 | 1938(昭和13)年8月 | ||
設置者 | 本鵠沼耕地整理組合 | ||
制作者 | 石工 藤沢町林藤吉 | ||
形態 | 自然型 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 昭和十二年三月起工十三年八月完成 本鵠沼耕地整理記念碑 耕地整理組合長 高松敏夫 七十五 [碑陰](縦書き) 組合副長 下に4段に分けて「地主」62名連記(省略) 秋藤正夫 淺場元次郎 事務嘱託 山上八造 渋谷友次郎 土屋 馨 工事担當 山口三五郎 |
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備考 | 1937-1938年に行われた本鵠沼駅東側の耕地整理記念碑 | ||
12 | 記念物名称 | (花沢町)下水敷設記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼花沢町12-1より2007年花沢公園に移設 | ||
設置時期 | 1939(昭和14)年8月→2007年に移設 | ||
設置者 | 花沢町町内会 | ||
制作者 | 撰:鬼 俊民(町内会長・海軍大佐) 書:米谷露香 | ||
形態 | 円頭扁平型 高さ154cm 幅60cm 台座24cm 粘板岩 別碑 28×18cm | ||
碑文等 | [題額] 下水敷設/記念碑(右横書き2段) [碑面](縦書き) 花澤町ハ大正十二年關東大震災直後ヨリ漸次 開發セラレ昭和二年始メテ町内會を組織シ同 六年下水敷設ノ計ヲ樹ツ 七年三月十三日發 起人會ヲ開き幾多ノ紆餘曲折ヲ経テ漸く十一 年三月關係者八十餘名賛同ノ下ニ資金積立ヲ 開始シ翌十二年四月三日起工式ヲ擧ゲ同年八 月幹線二百五十間支線四百五十間總工費約五 千圓也ノ大工事ヲ竣成セリ 茲ニ有志相圖リ之ヲ建テ町内會発展ノ經過ヲ 傳ヘ併セテ前後七個年ニ亘ル滅私奉公献身的 ニ努力セラレタル石井君ノ功ヲ頌ス 正五位勲四等 鬼 俊民撰 米谷露香書 [碑陰] 井上四郎以下九二名連記(略) 実行委員 委員長 鬼 俊民 委 員 石井房吉 以下10名連記(省略) 昭和十四年八月建之 藤沢駅前石工林藤吉刻 [別碑](プレート)(横書き) 下水道敷設記念碑 この記念碑は昭和十二年花沢町内に始めて下水 道が敷設された事を記念する記念碑であります。今まで 花沢町十二の一番地に設置されていましたが平成 十九年六月に花沢公園に移設されました。 平成十九年六月吉日 記念碑移設委員会 花 沢 町 内 会 施工・林石材産業㈱ |
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備考 | 1936年より資金積立を開始、翌年完成した花沢町の下水道完成記念 『鵠沼』10号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の一一 |
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13 | 記念物名称 | (機雷と砲弾) | |
設置場所 | 鵠沼神明2-11(皇大神宮神殿右側) | ||
設置時期 | 1941(昭和16)年頃? | ||
設置者 | |||
制作者 | |||
形態 | 石垣を組んだ壇上に中央に機雷、左右に砲弾。壇裏に「海軍省下附」と刻む。 | ||
碑文等 | 標題消去。壇裏に「海軍省下附」と刻む | ||
備考 | 現在立ち入り禁止 | ||
14 | 記念物名称 | 赤木愛太郎先生像 | |
設置場所 | 鵠沼神明5-6(湘南高校玄関脇「赤木苑」) | ||
設置時期 | 1954(昭和29)2月 | ||
設置者 | 湘友会 | ||
制作者 | 制作 東京藝術大学教授・堀 進二(1890~1978) | ||
形態 | ブロンズ胸像 70cm 台 158cm 別碑 高さ 37cm 幅 56cm 台 15cm | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 赤木愛太郎先生 赤木愛太郎先生は明治六年九月岡山縣 阿哲郡本郷村に生まれ身を育英に捧ぐ 大正十年三月神奈川縣立湘南中學校の 創立を見るや迎えられて初代校長とな り其の任に在ること二十七年辛苦經營 克く天下の優秀校たらしめて昭和三十 三年一月勇退せらる我が湘南高等學校 の基礎は實に此の間に成れり先生既に 八十の榮壽を得て尚矍鑠たりその徳を 慕ひ恩愛を謝する我等茲に相寄り此の 像を建つ 昭和二十九年二月 湘 友 會 [別碑] 昭和29年2月14日寿像建設 製作者 堀 進二先生 昭和36年6月6日この位置に移転赤木苑と名づく 昭和54年12月20日60周年記念事業として整備 施工者 国方 隆君(34回生) 湘友会 |
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備考 | 湘南中学から湘南高校にかけての初代校長赤木愛太郎傘寿記念の胸像 | ||
15 | 記念物名称 | 聶耳(ニェ・アール)記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-18(県立湘南海岸公園内聶耳記念広場) | ||
設置時期 | 1954(昭和29)年10月 | ||
設置者 | 藤沢市 | ||
制作者 | 作:山口文象(1902-1978) | ||
形態 | 「耳」の字をかたどった逆台形の花崗岩碑 | ||
碑文等 | |||
備考 | 1958年9月27日、台風22号(狩野川台風)のため破損→1965年再建→1986年広場整備、移転 | ||
16 | 記念物名称 | 高山昇翁頌徳碑 | |
設置場所 | 鵠沼海岸5-11(鵠沼伏見稲荷境内左手) | ||
設置時期 | 1955(昭和30)年5月20日 | ||
設置者 | |||
制作者 | 撰:国學院大學長 石川岩吉(1875-1960) 書:桑原通雄(1906-1988) | ||
形態 | 自然型 総高264.0cm 火成岩(花崗岩) | ||
碑文等 | [銘] 房子 一筋に神の みいつをひろむ へく はけみしまこと とはに輝く [碑面](縦書き) 高 山 昇 翁 頌 徳 碑 神宮祭主 北 白 川 房 子 題 額 従四位高山昇翁は上野国吾妻郡大宮巌鼓神社の紀職薩摩守茂樹の長男として元治元年正月 生まる翁資性頴悟孝心厚く父祖の意を継いて皇典講究所師範科に國学を修め明治十九年業 を了へ郷里に於て教育事業に與り又編輯出版に閑與し世通人心の帰趨を憂へては斯道会を 起して教育に関する勅語の普及貫徹を回る寺随所に才能を発揮し二十八年一転して神社界 に入り官弊大社浅間神社宮司志波彦神社宮司初代神部署長に歴任し漸く斯界に重きを成せり 三十五年国学院の校舎烏有に帰するや皇典講究所幹事国学院主事に聘せられ悉く善後の處 理を完遂し更に今井清彦氏を共に大学昇格の事に力を致し其の目的を達して講究所國学院 の聲價を高からしめ在職十年再ム神社界に入り大正二年官幣中社厳島神社宮司を拝命十三 年官幣大社稲荷神社に栄転し昭和四年神社制度調査会委員後神社局参與を兼ね又講究所専 務理事其の他全國神職團體の後員顧問として経営指導に協力し途を後追に譲りたる後も崇 敬措かざる東京乃木神社の宮司は欣んで受任し稲荷大神の神徳を仰ぎては都郊外東伏見及 び藤澤市鵠沼に稲荷神社を創建する等終世斯道の為め盡瘁し其の功労は萬人の景仰する所 なり翁體軀雄偉態度重厚識見高く國士の風格あり居常酒を嗜み晩年病床に在りても日々酒 盃を手にし訪客あれば談笑して無上の快と為せり昭和二十五年十月安らかに長逝す壽八十 七ー生の経歴波瀾少からざれど翁自ら榮とせりは浅間厳島両神社の昇格に力を致し志こと 神部署長神社制度調査会委員に選任せられしことにありしが如し歿後茲に五年故奮翁を追 恭する者相謀りて終焉の地鵠沼稲荷神社境内の一隅に此の碑を建て永く其の功績を顯彰す 翁會心の詠に曰く 稲荷やまあけの烏居乃あけくれに祈る御代のさかえなりけ里 昭和三十年五月二十日 国學院大學長 石 川 岩 吉 撰 桑 原 通 雄 書 |
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備考 | 『鵠沼』7号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の七 『鵠沼』94号に田村 進 鵠沼伏見稲荷神社の創建について |
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17 | 記念物名称 | 皇太子殿下御成婚記念植樹 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-18(県立湘南海岸公園) | ||
設置時期 | 1959(昭和34)年4月10日 | ||
設置者 | 神奈川県 | ||
制作者 | 書:内山岩太郎(1890-1971)神奈川県知事 | ||
形態 | 太陽をかたどった円いモザイク | ||
碑文等 | 皇太子殿下御成婚記念植樹 昭和34年4月10日 神奈川県知事内山岩太郎書 |
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備考 | |||
18 | 記念物名称 | 湘南高校校歌碑 | |
設置場所 | 鵠沼神明5-6(湘南高校正面玄関右側) | ||
設置時期 | 1959(昭和34)年11月5日 | ||
設置者 | 湘友会 | ||
制作者 | 書:天野武一 | ||
形態 | 総高 126cm 碑面 高さ 70cm 幅 213cm | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 校 歌 北原白秋 作歌
昭和三十四年十一月五日 |
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備考 | |||
19 | 記念物名称 | 鵠沼土地区画整理記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼神明2-11(皇大神宮裏側道路わき) | ||
設置時期 | 1960(昭和35)年4月1日 | ||
設置者 | 鵠沼土地区画整理組合 | ||
制作者 | 書:藤沢市長金子小一郎(1895-1983) | ||
形態 | 円頭扁平型 高さ 306cm 幅 101cm 台 41cm 粘板岩 | ||
碑文等 | [題額] 区画整理記念碑(横書き) [碑面](縦書き) 碑建立のことば 鵠沼土地区画整理は、この組合の初代組合長であった斉藤正夫氏外二名発起人 となって神奈川県知事に組合設立認可の申請をし、昭和十八年十二月四日 認可をうけて着手、以来組合解散に至るまで十七年三箇月の長期を経たので あります。その間戰争終末の世相混乱期に遭遇し事業は停とん状態を余儀な くされていたのでありますが、たまたま事業促進について関係当局の勧告と 組合員から急速なる完成の要望があったので、山上組合副長は昭和三十三年 八月二十日総会を招集し再発足についての承認と、同時に役員の改選を行ない 組合長宮崎忠太郎氏以下それぞれの役員を選出したのであります。かくて新 役員は事業財源につき藤沢市及び日本精工株式会社にその援助を求め、更に 技術的援助を藤沢市長に要請するなどの処置を講じ、仮換地再設計、換地図 縦覧、換地指定、設計変更、公園敷地一千八百五十一坪九合五勺の確保など 幾多の困難な問題を処理し、昭和三十五年三月十一日神奈川県知事から換地 処分の認可を得て、同年三月三十一日の総会において組合を解散したのであり ます。 ここに鵠沼土地区画整理は完成を遂げたのでありますが、この困難な事業に 対し役員は協力一致完遂に務め、組合員もまた理解を以って完成に支援され た、その成果によって完成を遂げたので、これを記念し碑を建立したので あります。 昭和三十五年四月一日 藤沢市長 金子小一郎 書 [碑陰](縦書き) 地区面積 八万五千六十一坪一合一勺 組合長 宮崎忠太郎 副組合長 渡辺清作 日本精工株式会社 小島賢一 組合役員 浅場太郎吉 以下17名 組 合 員 青木万吉 以下91名連記(省略) |
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備考 | 『鵠沼』10号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の一二 参考サイト 鵠沼土地区画整理事業:藤沢市 |
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20 | 記念物名称 | 記念碑(皇大神宮鳥居再建) | |
設置場所 | 鵠沼神明2-11(皇大神宮一の鳥居左側) | ||
設置時期 | 1961(昭和36)年1月17日 | ||
設置者 | 氏子中 | ||
制作者 | 撰:関根善之助 | ||
形態 | 尖頭扁平型 総高 236.cm 粘板岩 | ||
碑文等 | [題額] 記念碑(横書き) [碑面](縦書き) それ 當社寶前の旧鳥居は昭和十年鵠 沼出身にして横須賀在住の篤志家関根 治郎吉氏をはじめ幾多有志の絶大なる 努力によりて奉献せらりしところなり 爾来星霜を閲して風雪の削磨に朽ちあ るひは 神徳を害せむことを畏るすな はち總代山上八造氏を中心に多数氏子 の熱望を凝らし再建の機運ここに熟して 昭和三十五年十月起工の式を擧げ同 三十六年春正月吉朝威容湘南の空を壓 して竣成せり慶喜何かこれに過ぎむ 希くは 神霊嘉納してとこしへに平和 繁榮の惠澤を垂れ給はむことを、いさ さか蕪辞をつらね來由を記すと云爾 昭和三十六年一月十七日 関根善之助撰 |
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備考 | 『鵠沼』10号・30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の一四 | ||
21 | 記念物名称 | 湘南高校校歌楽譜 | |
設置場所 | 鵠沼神明5-6(湘南高校正面玄関左側) | ||
設置時期 | 1964(昭和39)年6月1日 | ||
設置者 | 湘友会 | ||
制作者 | |||
形態 | 黒御影石上に銅板レリーフ | ||
碑文等 | 寄贈 楽譜銅版 湘友會 臺石 西島桂吉 一九六四年六月一日 |
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備考 | |||
22 | 別碑 |
記念物名称 | 平和の像 |
設置場所 | 鵠沼海岸2-18(県立湘南海岸公園サーフビレッジ南東方) | ||
設置時期 | 1965(昭和40)年3月31日 | ||
設置者 | 藤沢市/藤沢市遺族会 | ||
制作者 | 彫刻:難波孫次郎(1914- ) 碑文:金子小一郎(1895-1983) | ||
形態 | 鳩を掲げた男性裸像(銅像)および解説碑 | ||
碑文等 | 平和の像 [碑陰](横書き) 明治以来殉国英霊の遺族が 会を創立して満15周年を 記念し その不幸と悲痛を再び繰り返えさないようにと 平和像建設を企図し 市民の浄財を仰いで これを市 に寄付された 市は更に市費を加えてここにその建立を 完成したのである 今台上を仰いで 未来を象徴する若人の高く掲げた右 手の拳に 天翔り降った平和の具象たる鳩を受け止め る勇姿を見るとき 希望と平和の融合した人類の理想の 園を思わずにいられない まことに平和こそ人類創生以来 群落国家社会を形成 しつつもなお絶え間ない戦乱に惨禍を被る国民大衆にと り 永遠の悲願としての希求である 願くはこの像の鳩とともに 永遠に平和の去るなから んことを切に祈るのみ なお終りにこの台座の中には英霊の尊名が安置されて いることを書きそえる 昭和40年3月 藤沢市長 金子小一郎 撰文並書 像製作者 日展会員 難波孫次郎 [別碑](縦書き) 未来を象徴する筋骨たくましい若人が 高 く掲げた右手の拳に平和の鳩を受け止め 希 望の空を見つめています。 この台上に仰ぎ見る平和の像は 日中戦争 から太平洋戦争へと 長い戦争経験をした藤 沢市民と藤沢市によって 昭和四十年三月に 建てられました。 明治以来国の礎になった英霊を顕彰し 戦 争の悲惨と不幸を 再び繰り返してはならな いという悲願がこめられています。 しかし年を経た今日 地球上にはなお戦争 の不安が絶えていません。 藤沢市遺族会は 創立五十周年に当たり 改めて行く末の平和を強く念願しつつこの碑 を建てました。 この台座の中には 英霊のお名前が納めら れていることを書き添えます。 |
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備考 | 『鵠沼』30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の九 | ||
23 | 記念物名称 | 聶耳(ニェ・アール)記念碑解説文 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-18(県立湘南海岸公園内聶耳記念広場) | ||
設置時期 | 秋田雨雀自筆碑を1954年10月制作→盗難→1965年再建 | ||
設置者 | 藤沢市 | ||
制作者 | 撰:秋田雨雀(1883-1962)、書:豐道春海(1878-1970) | ||
形態 | 方型 高さ 43cm 火成岩(斑糲岩) | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 聶耳を記念する こヽは中華人民共和国の作曲家 聶耳の終焉の地である 彼は一九三五年七月十七日暑をこの地に 避け水泳中突然波間に姿を没し不帰の 客となつた聶耳は一九一二年中国雲南に 生れ歐陽予倩先生に師事し二十数年の 短い生涯の間に中国民衆の勞働を歌つた 大路歌碼頭二人歌等の大作を残した 現在中華人民共和国々歌となつている 義勇軍行進曲もまた彼の作曲になるもので ある耳を傾ければわれわれは今日なお 聶耳のアジア解放の聲を聴くことが できるであろう こヽは聶耳の終焉の地である 一九五四年十月 秋田雨雀撰 豊道春海書 |
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備考 | 『鵠沼』30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の八 | ||
24 | 記念物名称 | 「聶耳終焉之地」記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-18(県立湘南海岸公園内聶耳記念広場) | ||
設置時期 | 1965(昭和40)年9月18日→1986年広場整備、移転 | ||
設置者 | 藤沢市 | ||
制作者 | 揮毫:郭沫若(1892-1978 中日友好協会名誉会長) | ||
形態 | 方型 高さ 49cm | ||
碑文等 | [碑面](横書き) 聶耳終焉之地 郭沫若題 一九六五年九月一八日 |
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備考 | 『鵠沼』30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集 | ||
25 | ←この猫はいつもここに | 記念物名称 | 鵠沼内田土地区画整理組合落成記念碑 |
設置場所 | 鵠沼神明5-11(第一中学西南隅) | ||
設置時期 | 1968(昭和43)年5月31日 | ||
設置者 | 鵠沼内田土地区画整理組合 | ||
制作者 | |||
形態 | 円頭扁平型 高さ 227cm 幅(下部) 88cm 台 45cm 粘板岩 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 鵠沼内田土地区画整理組合落成記念碑 [碑陰](縦書き) 記念碑建造にあたり 本地区は一部学校用地及び住宅地を除 いては標高8―10メートルの水田地帯 であったしかし周辺一帯は近年著るし く住宅の建設が行なわれ水田としての 耕作が不可能になってきましたそこで 地区の権利者の総意を得て土地区画整 理組合を結成し理想的な宅地の造成を 計った訳けですこの結果当初の目的を 上廻る程りっぱな宅地の造成が出来た 訳であります事業当初における地元権 利者全員の協力とこの事業に対し最初 から最後まで御苦労下された市当局に 対し心から感謝の意を表すると共に今 后この地区がより以上の発展をとげる 為権利者の総意によりここに記念碑を 建造します 昭和四十三年五月三十一日 [下段] 役員氏名として理事長 宮崎忠太郎他13名連記(省略) |
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備考 | 権利者の「権」は木偏に又の略字を用いてあるが正字とした 『鵠沼』30号に 伊藤 節堂 鵠沼碑文集その17 参考サイト 鵠沼内田土地区画整理事業:藤沢市 |
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26 | 記念物名称 | 名誉市民 片山哲先生像 | |
設置場所 | 鵠沼東8(市民会館前) | ||
設置時期 | 1972(昭和47)年5月 | ||
設置者 | 藤沢市 | ||
制作者 | 彫刻:菅沼五郎(1905-1999) 撰書:林 大作 | ||
形態 | 胸像(銅像) | ||
碑文等 | [碑面](横書き) 名誉市民 片山哲先生 [碑陰](縦書き) 片山哲氏、明治二十年紀南に生る。こ よなく湘南を愛し、居を構えてより五 十有余年、清節道を守つて湘南の人と なる。市民諸君より推されて衆議院 議員に当選する事十一回、昭和二十二 年五月には内閣総理大臣に就任し、戦 後の難局処理に当る。その后外遊数 回、世界の人物と風光に接し、益々わが 湘南の風物、世界に秀でたるを信ず。 この真白き冨士の嶺緑の江の島の中 心地たる藤沢市の第一号名誉市民に 選ばれたる事を、生涯の光栄として 喜び居れり。 一九七二年五月 林 大作 識 |
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備考 | 『鵠沼』30号に伊藤 節堂 鵠沼碑文集其の十 | ||
27 | 記念物名称 | 蒸気機関車C11「しおかぜ号」 | |
設置場所 | 鵠沼海岸6-12-1(八部公園) | ||
設置時期 | 1976(昭和51)年10月1日 | ||
設置者 | 藤沢市 | ||
制作者 | 日本車輌製造株式会社 | ||
形態 | 実物静態保存 | ||
碑文等 | [解説板] C11型 蒸気機関車(タンク式)愛称“しおかぜ” ぼくは昭和18年5月に日本車輌製造株式会社で誕生しました。 C11 245号機です。 長い間、都市周辺の快速ケン引車として、それからは客貨兼用・ 貨物入換用として、いろいろな分野で活躍し、全国各地の人達にかわ いがられてきました。 特にぼくの仲間達は昭和41年まで国鉄藤沢駅で貨物の入換用とし て働いておりましたので藤沢市民に最も親しまれた蒸気機関車です。 このたび藤沢市民の熱意と国鉄関係者のご理解により盛岡機関区 より藤沢市に永住することになりました。 みなさんの手でぼくを大切にしてください。 現在、ぼくの同僚が静岡県にあります。大井川鉄道の金谷~ 千頭間を毎日(元日は除く)元気に走って汽笛を響かせております。 一度見てください。 |
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備考 | 『鵠沼』14号に伊藤 節堂 「しおかぜ号」の履歴書-鵠沼のSL- | ||
28 | 記念物名称 | 石上会館建設記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼石上2-3-7(石上会館隣) | ||
設置時期 | 1977(昭和52)年11月 | ||
設置者 | 石上町内会 | ||
制作者 | |||
形態 | 方型 | ||
碑文等 | [題額] 石上会館建設記念碑(横書き) [碑面](縦書き) 此の会館は、藤沢市南部土地区劃整 理事業を機に、石上町内会員並に有志 の寄附金により、石上神社及び鳥居と 神輿の新造に併せて当地に建設した。 |
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備考 | 参考サイト 藤沢駅前南部地区土地区会整理事業:藤沢市 | ||
29 | 記念物名称 | 記念碑(皇大神宮参道石玉垣竣工) | |
設置場所 | 鵠沼神明2-11(皇大神宮境内右手) | ||
設置時期 | 1979(昭和54)年9月9日 | ||
設置者 | 皇大神宮参道整備委員会 | ||
制作者 | |||
形態 | 方型 | ||
碑文等 | [題額] 記念碑(横書き) [碑面](縦書き) 当皇大神宮参道両側に 延々と献備された石玉垣は すべて氏子特志者の浄財寄進 による敬神の現れであります 参道石玉垣竣工に当り 皇大神宮参道整備委員会は あまねき御神徳をたゝえあわせて 氏子崇敬者の平安を祈念しつゝ この事業を結了いたします 昭和五十四年八月吉日 |
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備考 | |||
30 | 記念物名称 | 東久邇宮第二王子師正王御遭難記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-11-34(湘南オーシャンプロムナード構内) | ||
設置時期 | 1981(昭和56)年8月31日 | ||
設置者 | 吉村鉄之助 | ||
制作者 | |||
形態 | 方型扁平型 | ||
碑文等 | [題額] 御遭難記念(右横書き) [碑面](縦書き) 大正六年十一月三日御生誕 東久邇宮 第二王子師正王碑 稔 彦 王 大正十二年七月十九日ヨリ當邸ニ御避暑中 大正十二年九月一日正午大震災ノタメ薨去遊ハサル [碑陰](縦書き) 記念碑建設者 吉村鉄之助 |
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備考 | 塩澤 努、行方不明だったものを港区白金4-2-3本妙寺(吉村家檀那寺)で発見、移設。当初の建碑時期・場所は不明 『鵠沼』50号に関東大地震遭難記念碑(東久邇宮・第二王子師正王) |
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31 | 記念物名称 | 造営記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼神明2-11(皇大神宮境内右手) | ||
設置時期 | 1985(昭和60)年11月吉日 | ||
設置者 | 皇大神宮 | ||
制作者 | 撰:宮司 関根正典 | ||
形態 | 方型扁平型 | ||
碑文等 | [題額] 造営記念碑(横書き) [碑面](縦書き) 相模國土甘総社皇大神宮は、また、大庭御厨総鎮守とも仰がれ悠久千古 の歴史に状える古社で、天長九年(八三二)の遷宮以来、天喜三年(一〇 五五)元亨二年(一三二二)天正十三年(一五八五)と再建を重ねられ、 この天正年間の造営以来三百九十数年の星霜を閲し風雪に耐えた本殿は、 再三の補修にも拘らず近年頓に腐朽の度の進み行くさまを拜し氏子崇敬者 一同真に恐懼憂慮の念覆いがたく、役員総代も亦造営再建に向けて慎重協 議を重ねつゝあったが、昭和五十七年三月末に到って氏子崇敬者の熱意の 発するところ、総代会を中心とする皇大神宮造営委員会が結成されたので ある。 翌昭和五十八年一月には早くも新殿地造成の工を起し、同年三月には新 殿地鎮祭並び釿始の儀を、秋九月には上棟の儀を、同五十九年五月末には 神社浄閣の裡に新宮遷座の重儀を滞りなく執り納めることができたのであ る。続いて七月旧殿舎を解体、古殿地の整地工事を終了、同年末に至って 大前整備事業の工を起し、先ず諸施設を移転し、次いで同六十年一月末境 内神社の新殿地へ遷座の儀を斎行、同年七月末には玉垣、石段、石垣等の 整備を終り、続いて同年九月社務所新築工事と外玉垣新設工事並に一の鳥 居、二の鳥居の営繕工事を完了したのである。 かくの如き一連の遷営事業の完結に際し、ここにあらためて関係各機関 の御指導と、設計監理、施工従事者各位の尽力とに対し深甚なる謝意を表 すると共に、大前に造営記念碑を献備して、天正年間の造営から数えて四 百年目にあたり、更には時恰も、天皇陛下御在位六十年という慶祝の佳年 であるこの昭和六十年(一九八五)の造営事業の大要を録し、あわせて誠 心誠意、篤志をもって多額の浄財を献進された氏子崇敬者各位の赤誠と、 一意専心、孜々として日夜大業造成に尽粋された造営委員各位の熱誠とを 顕彰し、これを千歳に伝えようとするものである。 昭 和 六 十 年 十 一 月 吉 日 相模國土甘総社 皇大神宮 宮司 関 根 正 典 撰 |
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備考 | 別碑:皇大神宮御社殿造営奉賛者 『鵠沼』34号に関根 正典 相模国土甘郷総社皇大神宮御由緒 |
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32 | 記念物名称 | 記念碑(鵠沼墓地移転) | |
設置場所 | 鵠沼神明3-4(万福寺裏手鵠沼墓地入口) | ||
設置時期 | 1986(昭和61)年11月21日 | ||
設置者 | 鵠沼墓地管理委員会 | ||
制作者 | |||
形態 | 方型扁平型 | ||
碑文等 | [題額] 記念碑(横書き) [碑面](縦書き) 当墓地は大東亜戦争の為 日 本精工藤沢工場敷地拡張と工 場建設に伴ない下記名前の方 々と日本精工株式会社のご協力 により 昭和十八年二月二十七日付 神奈川県知事より当地に新 設の許可が有りました 鵠沼の台地に眠る我々の先 祖が今後共永遠に安眠でき る様御祈りすると共に 子孫の繁栄を祈り続けて 下さい 昭和六十一年十一月二十一日建之 鵠沼墓地管理委員会 [下段] 53名の氏名地区別に列記(省略) |
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備考 | |||
33 | 記念物名称 | 記念碑(鵠沼耕地整理) | |
設置場所 | 鵠沼海岸4-8地先(引地川堤防上) | ||
設置時期 | 1986(昭和61)年11月吉日 | ||
設置者 | 高座郡藤沢町鵠沼耕地整理組合 | ||
制作者 | 題字:藤沢市長葉山峻 | ||
形態 | 自然型 高さ 282cm | ||
碑文等 | [題額] 記念碑/藤沢市長葉山峻(横書き2段) [碑面](縦書き) この鵠沼耕地整理事業は旧引地川以東 の鵠沼地域を中心とした水田の用水を 確保し米の生産性の向上と安定的な生 産をはかるため昭和六年四月組合を設 立し直ちに事業に着手しました またこれを機会に県町の強い要請によ りたびたび氾濫を繰返していた引地川 の抜本的な改修を伴う区画整理を併せ 実施しました しかしながら戦中戦後等はげしい時代 の変遷と種々の事情により換地処分が 未処理のまま半世紀が過ぎました これをこのまま放置することは権利者 はもとより行政上にも重大な支障があ るので昭和五十五年新役員を選出し県 市の強力なご指導と役員を始め組合員 一同が渾然一体となって問題解決のた め最善を尽し本事業も五十五年有余の 歳月を経て総面積七十三ヘクタールの 耕地整理事業が完了したのでこれを記 念してここに碑を建立しました 昭和六十一年十一月吉日 高座郡藤沢町鵠沼耕地整理組合 [下段] 高座郡藤沢町鵠沼耕地整理組合 清算人 林誠八 以下組合員40名列記(省略) |
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備考 | |||
34 | 記念物名称 | 聶耳自署とレリーフ | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-18(県立湘南海岸公園内聶耳記念広場) | ||
設置時期 | 1986(昭和61)年3月吉日 | ||
設置者 | 聶耳記念碑保存会 | ||
制作者 | 彫刻:菅沼五郎(1905-1999) | ||
形態 | 方型扁平型 高さ 267.5cm 火成岩(花崗岩)の石垣に円形銅板レリーフと方形銅板に自署 | ||
碑文等 | 聶耳記念広場の背景をなす石垣状建造物。左上にレリーフ、右下に自署「聶耳」 [碑陰レリーフ](縦書き) 聶耳没後五十周年記念レリーフ 一九八六年三月吉日 聶耳記念碑保存会 レリーフ製作 菅沼五郎 |
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備考 | |||
35 | 記念物名称 | 聶耳記念碑の由来 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-18(県立湘南海岸公園内聶耳記念広場) | ||
設置時期 | 1986(昭和61)年 | ||
設置者 | 藤沢市 | ||
制作者 | 碑文:藤沢市長葉山峻 | ||
形態 | 方型 高さ 71cm 火成岩(斑糲岩) | ||
碑文等 | [碑面](横書き) 聶耳記念碑の由来 1935年7月17日、この地に来遊され、この海に不帰の客と なった聶耳(ニエ・アル)氏の、その夢みるような在りし日の姿が、ここ に甦えりました。聶耳氏は1912年春、中国雲南省昆明湖畔に 呱々の声をあげました。清澄、雄大な自然に抱かれて成長した 氏は、やがて、その豊かな天賦の才を花ひらかせ、中国国歌「義勇軍行 進曲」の作曲をはじめ、現代中国音楽の先駆者として大きな足跡を 遺しました。氏が、故国を離れて日本を訪れたのは若いこころを 抱いての旅でしたが、その旅情を慰め魅了したのがここ藤沢の地 であり鵠沼の渚でした。わたくしたちは、そのゆかりをしみじみ 思い、そのえにしを深く感じ1954年この地に記念碑を建設し 保存会を発足させましたがさらに、氏の没後50周年を記念し思 いも新たにこの胸像を建立しました。永遠に時を刻みつづける 波のひびきの中、平和を奏でる在りし日の聶耳氏の像はいつまで もここに微笑を湛え、日中友好の礎となることと確信します。 1986年3月 聶耳記念碑保存会会長 藤 沢 市 長 葉山 峻 |
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備考 | |||
36 | 記念物名称 | 記念碑(日本電気硝子公害) | |
設置場所 | 鵠沼神明3-4(万福寺裏口横) | ||
設置時期 | 1988(昭和63)年5月21日 | ||
設置者 | 藤沢市鵠沼神明公害対策委員会 | ||
制作者 | 撰:荒木良正(会員・万福寺住職) | ||
形態 | 尖頭扁平型 | ||
碑文等 | [題額] 記念碑(横書き) [碑面](縦書き) 虐けの跡は毒よりはけしけり 馬にくわする民草もなく この歌は、田中正造翁が、公害の恐ろしさ を警告したものである。 昭和三十四年四月、日本電気硝子が、藤沢 市に誘致されて引地川畔に進出し、創業する や、騒音・悪臭・粉塵等の公害を排出し、人 体・家屋・農作物に甚大な被害を与えた。又 、煙に含まれる亜硫酸ガスのため、樹木の枯 死するもの多く、緑の絶滅寸前の状態であつ た。藤沢市長は公害の防止を怠り、放置した が、県の勧告により煙突の傘上げ、捨塵装置 が設けられ、高い壁も造られて、公害は少し く緩和された。 昭和四十六年三月、工場の内外に鉛中毒患 者が多く発生し、住民に一大恐怖を与えた。 住民は公害対策委員会を強化し、公害追放 運動を展開し、会社側と交渉すること十年に 及んだ。 一方、新藤沢市長葉山峻は、深くこの問題 を愁い、吏員を督励し早期解決を図らしめ、 斡旋に務めた。かくて、炉の移転・規模の縮 小・酸化鉛の不使用となり、又、鉛中毒患者 の治療も進んだ。遂に昭和五十七年三月、被 害を受けた社寺・町内会に補償金を支払い、 公害問題の局を結んだ。 これより、再び大気は浄化され、青空が仰 がれ、樹木は生い茂り、花は咲き、鳥はさえ ずる平和な郷土に蘇った。 昭和六十三年五月 鵠沼山主 識 |
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備考 | 『鵠沼』90号に渡部 瞭 民草の闘い ―日本電気硝子公害と万福寺― | ||
37 | 記念物名称 | サーフ'90開催記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-18(県立湘南海岸公園中央入口脇) | ||
設置時期 | 1990(平成2)年 | ||
設置者 | 社団法人 相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990協会 | ||
制作者 | 書:長洲一二(1919-1999)神奈川県知事 | ||
形態 | 自然型 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) サーフ'90開催記念碑 [碑陰](横書き) 「人と海との共生」を目指すサーフ’90は 、1990年4月29日から10月10 日まで、相模湾一帯で行われました。 当地では、「美しい渚」をテーマに将来に 向けたさまざまな提案や、試みが行なわ れました。 社団法人 相模湾アーバンリゾート・ フェスティバル1990協会 神奈川県知事 長洲一二書 |
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備考 | |||
38 | 記念物名称 | 佐川英三詩碑 | |
設置場所 | 鵠沼橘(大田邸内) | ||
設置時期 | 1992(平成 4)年9月4日 | ||
設置者 | |||
制作者 | |||
形態 | 自然型 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) [上部] 鈍重に しずかに しかも激しく くろがねの独楽がまわっている にぶく光り かすかに唸りながら 永遠にまわりつづけようとする 孤独な生よ 佐 川 英 三 [下部] 佐川英三(さがわ えいぞう) 一九一三年九月四日 奈良県吉野郡国栖に生 れる 本名大田行雄 一九四五年池田克巳、 上田猷夫、高見順らと 詩雑誌「花」、一九四 六年同じく「日本未来 派」を創刊今日に及ぶ 長くその発行責任者 詩集に「戦場歌」「佐 川英三詩集など多数 編著「高村光太郎詩 がたみ」。 一九九〇年日本現代 詩人会より「先達詩人」 の顕彰を受ける 同会々員、日本文芸 家協会々員 一九九二年九月四日建之 |
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備考 | |||
39 | 記念物名称 | 旧鵠沼橋の親柱 | |
設置場所 | 鵠沼海岸1-17 (鵠沼橋橋詰広場) | ||
設置時期 | 1992(平成4)年3月? | ||
設置者 | 神奈川県? | ||
制作者 | |||
形態 | 現物保存 | ||
碑文等 | [碑面](横書き) 旧鵠沼橋の親柱 この石柱は、平成2年に台風による集中豪雨のため倒壊した旧 鵠沼橋の親柱です。 旧親柱は、昭和7年にこの引地川に架けられて以来人々に親 しまれ、鵠沼地域の発展を見守ってきた橋でした。そのかつての 面影を残す唯一の親柱が今はこの橋詰広場のシンボルとして生ま れ変わり、現在もなおこの地に生き続けています。 |
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備考 | 1932(昭和7)年に架橋された引地川鵠沼橋が1990(平成2)年9月30日、台風20号の増水で落橋した。掛け替え工事完成時に旧親柱を橋詰広場に設置した。 | ||
40 | 記念物名称 | 蕉窓句碑 | |
設置場所 | 鵠沼神明3-4(万福寺鐘楼前) | ||
設置時期 | 1994(平成6)年10月17日 | ||
設置者 | 荒木良正(万福寺住職) | ||
制作者 | 『俳諧画像集』が原画 | ||
形態 | 自然型扁平型 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 雛持て 飛なの 噂や [荒木蕉窓肖像] 市もと里 蕉窗 平成六年十月十七日 [碑陰](縦書き) 蕉窓 荒木氏 名は良空 万福寺 第二十三世住職 明治二十八年一月三十日寂 普行院と称す 肖像並びに句は俳諧 画像集に依る 平成六年十月十七日百回忌に当たり 第二十五世 釋 良正 建之 |
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備考 | 万福寺先々代住職荒木蕉窓の肖像と句 | ||
41 | 記念物名称 | 文人が逗留した 東屋の跡 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-8-26(永井邸角) | ||
設置時期 | 2001(平成13)年3月22日 | ||
設置者 | 藤沢市教育委員会 | ||
制作者 | 佐江衆一筆。解説板は「鵠沼を語る会」 | ||
形態 | 自然型扁平型 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 文人が逗留した 東屋の跡 |
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備考 | 『鵠沼』82号 『東屋記念碑』設置記念特集号 | ||
42 | 記念物名称 | 昭和四年丸政料理店発祥の地 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-4-9(マリンロード鵠沼海岸駅前角) | ||
設置時期 | 2003(平成15)年11月 | ||
設置者 | 田邊芳子・田邊政行 | ||
制作者 | |||
形態 | |||
碑文等 | [碑面](縦書き) 昭和四年 丸政料理店発祥の地 [碑陰](縦書き) 平成十五年十一月吉日 田邊 芳子 建立 田邊 政行 |
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備考 | |||
43 | 記念物名称 | 原の辻石碑整備賛助者 | |
設置場所 | 本鵠沼4-13 | ||
設置時期 | 2005(平成17)年1月19日 | ||
設置者 | 地元有志 | ||
制作者 | |||
形態 | 方型扁平型 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 出羽三山供養塔 光明真言供養塔 修復寄進 御芳名 庚 申 塔 以下45名を列記(省略) |
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備考 | 出羽三山供養塔、庚申塔などが並ぶ辻を整備した記念 徳冨蘆花『思出の記』にも描かれている場所 |
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44 | 記念物名称 | 東屋旅館海浜口門柱跡パネルと門柱 | |
設置場所 | 鵠沼海岸2-14 | ||
設置時期 | 2005(平成17)年11月 | ||
設置者 | 藤沢市教育委員会 | ||
制作者 | |||
形態 | 方型地面埋め込みパネル 黒色花崗岩 | ||
碑文等 | [碑面](横書き) 文人が逗留した旅館 「東屋」海浜口門柱跡 藤沢市教育委員会 設置 2005年11月 |
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備考 | かつての名旅館「東屋」の海浜口門柱が宅地造成により撤去されそうになった時、「鵠沼を語る会」などの要望により移設とパネル設置がすすめられた。 門柱、鵠沼公民館裏庭に移設 |
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45 | 記念物名称 | 日本ビーチバレー発祥の地記念碑 | |
設置場所 | 鵠沼海岸1-17-3 (県立湘南海岸公園サーフビレッジ南側前庭) | ||
設置時期 | 2006(平成18)年8月18日 | ||
設置者 | 日本ビーチバレー発祥の地・記念碑建立推進委員会 | ||
制作者 | 作:日比野克彦(1958-) | ||
形態 | B・E・A・C・Hを象った5個の石組みで中央のネットと4人の選手を表現している | ||
碑文等 | [碑面](横書き) 日本 ビーチバレー 発祥の地 神奈川県 藤沢市 鵠沼海岸 ビーチバレージャパン第20回大会開催記念 2006年8月建立 The Birthplace of Japan Beach Volley Kugenuma Beach, Fujisawa city Kanagawa Prefecture In commemoration of 20th Beach Volley Japan August, 2006 |
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備考 | |||
46 | 記念物名称 | 朝鮮人帰国記念植樹 | |
設置場所 | 奥田公園 | ||
設置時期 | 1960(昭和35)年10月20日 | ||
設置者 | 在日朝鮮人総聠合会藤沢支部 | ||
制作者 | |||
形態 | 花崗岩四角柱 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 藤沢市 朝鮮人帰国記念植樹 [碑陰] (縦書き) 一九六〇年十月二十日 在日朝鮮人総聯合会藤沢支部※聯は略字だが本字とした |
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備考 | |||
47 | 記念物名称 | 湘南櫻並木 | |
設置場所 | 鵠沼東境川右岸 | ||
設置時期 | 1985(昭和60)年3月27日 | ||
設置者 | 藤沢湘南ライオンズクラブ | ||
制作者 | |||
形態 | 黒色系 | ||
碑文等 | [碑面](横書き) 湘南櫻並木 贈 藤沢湘南ライオンズクラブ 昭和60年3月27日 |
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備考 | |||
48 | 記念物名称 | 平和の像 | |
設置場所 | 奥田公園多目的広場 | ||
設置時期 | 1995(平成7)年8月15日 | ||
設置者 | 藤沢市 | ||
制作者 | 彫刻:熊坂兌子(なおこ) | ||
形態 | 白色大理石 | ||
碑文等 | [標題]横書き PEACE in NAOCO KUMASAKA [碑面](横書き) 戦後五十年 その平和の日々を 私たちは讃える 緑と太陽と潮風のこのまちを 私たちは愛する このまちを この国を そしてこの地球を 平和の潮で永遠にみたし つづけることを 私たちは誓う 一九九五年八月十五日 平和が始まってから五十年目の日に 藤沢市長 葉山 峻 |
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備考 | |||
49 | 記念物名称 | 旧近藤邸 | |
設置場所 | 鵠沼東 藤沢市民会館前 | ||
設置時期 | 1981(昭和56)年3月 | ||
設置者 | 藤沢市 | ||
制作者 | 設計:遠藤 新 | ||
形態 | 木造二階建て | ||
碑文等 | [解説板](縦書き) 設 計 遠藤 新 (一八八九年生/一九五一年没) 旧近藤邸 建築主 近藤賢二 (一八七四年生/一九四八年没) この建物は一九二五年(大正一四年) 関東大震災の直後に藤沢市辻堂の松林 の中に近藤賢二氏の別荘として建てら れました。生活の近代化が叫ばれはじ めた当時にあって、いち早く日本の風 土と生活に即した新しい建築をつくり 出した建築家 遠藤新の三十六歳の時 の作品です。 一九八〇年(昭和五五年)老朽化の ため取り壊しが決定されましたが地元 市民の保存の声に守られて一九八一年 (昭和五六年)三月藤沢市によってこ の地に移築されました。 一九八九年(平成 元年)かながわの建築物一〇〇選 二〇〇二年(平成一四年)国の登録文化財 藤 沢 市 藤沢市教育委員会 |
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備考 | |||
50 | 記念物名称 | 大平橋の由来 | |
設置場所 | 辻堂太平台大平橋西詰 | ||
設置時期 | 1984(昭和59)年3月吉日 | ||
設置者 | 藤沢市 | ||
制作者 | 書:藤沢市長葉山峻 | ||
形態 | ピンク系花崗岩 | ||
碑文等 | [碑面](縦書き) 大 平 橋 の 由 来 昭和のはじめ頃まで引地川は曲りくねっていて大雨のつど氾らんし附近の住民は家屋 の浸水や農作物の大きな被害に悩まされていました このため藤沢町は昭和七年から 九年にかけて当時昭和の大不況打開策として推進されていた時局匡救農村振興 土木事業によって抜本的河川改修工事を行ないその際鵠沼耕地整理組合から河川 敷を提供していただき現在の位置に川を移しました この改修に合わせ昭和十年四月 藤沢町により総工費五千六百八十二円をかけ たもとに洋風の照明のついた大変立派なコンクリート の橋ができました この頃平沼覚治郎さんはこの附近一帯の宅地開発を進めていま したが川をはさんだ東西の交通のためにとこの橋の新設に当って多額の寄附をされ ました こうしたことから町長の大野守衛さんと平沼覚治郎さんの苗字の頭文字 を取り「大平橋」とし この附近を「大平台」という地名にしました その後四十有 余年 大平橋は鵠沼と辻堂をむすぶかけ橋としての役割を果して来ましたが 河川改修事業に合わせ総工費二億四千万円をかけて架替えられました ここはアヒルの見える橋として訪れる人達の憩いの場ともなっているので新しい橋の 設計にあたっては旧橋の趣きを残し 川べり遊歩道と調和したデザインを配慮しました 大平橋の完成にあたり その由来を記し これを後世に伝えるものです 昭和五十九年三月吉日 藤沢市長 葉 山 峻 |
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備考 | 設置場所は辻堂地区だが、鵠沼と結ぶ橋なので掲載した |